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好きな映画だけ見ていたい

劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

DVD寸評◆ラーメンガール

2009-06-22 16:52:33 | <ラ行>
  

  「ラーメンガール」 (2008年・アメリカ)
   THE RAMEN GIRL

細かく見ればいろいろ難点はありそうだが、軽めのハリウッド・コメディと割り切ればそこそこの娯楽作。恋人を追ってはるばる日本にやってきたアメリカ娘のアビー(ブリタニー・マーフィ)は、来日早々あっさり振られて途方に暮れる。ある夜、誘われるように入ったラーメン店で一杯のラーメンに救われた気持ちになり、ラーメンの持つ魅力にはまり込む。やがて頑固な店主マエズミ(西田敏行)に無理やり弟子入りを志願して、言葉も通じないまま必死にラーメン修行に励むという筋書き。主演二人のあいだで交わされる言葉はそれぞれ英語と日本語。あえて通訳に当たる役どころを置かなかったのは、双方が母国語でまくしたてることで生まれる迫力と、隔靴掻痒のコミュニケーションが醸し出す笑いを狙ったためだろうか。中途半端な“相互理解”や愛想笑いは、子弟間の切磋琢磨には不要と切り捨てたかったのかもしれない。

しかし、西田が次々と繰り出す嫌がらせやしごきには行き過ぎの感があり、アビーのセリフにもあるように“虐待”といわれても反論のしようがない。ハラスメントや虐待に敏感なアメリカ人観客には、顔が引きつるシーンの連続だろう。もしこれが日本映画だったら、もう少し親方の温情を感じさせる修行シーンになったはず。この点については、日本人の人情に疎かった監督が責めを負うべきだと思う。傷心のアビーが心を許す相手を日本男児にしなかった点や、西田がウイスキーを手放せないシーンも気になった。海外にいる息子と軋轢があることは流れからわかるとしても、言葉のわからない弟子にストレスをぶつけるほどの問題を抱えているようには見えなかった。これがハリウッド・デビュー作になるとしたら、西田にとってこの憎まれ役はよかったのかどうか。打たれ強いアメリカ人のアビーを演じたマーフィがいちばん得をしているのは、ハリウッド映画だから仕方ないか・・・・・・。


満足度:★★★★★★☆☆☆☆


<作品情報>
   監督:ロバート・アラン・アッカーマン
   製作:ロバート・アラン・アッカーマン/ブリタニー・マーフィ/スチュワート・ホール/奈良橋陽子
   製作総指揮:小田原雅文/マイケル・イライアスバーグ
   脚本:ベッカ・トポル
   撮影:阪本善尚
   出演:ブリタニー・マーフィ/西田敏行/余貴美子/パク・ソヒ
       タミー・ブランチャード/ガブリエル・マン/石橋蓮司/山努

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ラーメンガール」
   ■関連商品  「ラーメンガール」 (DVD/ワーナー・ホーム・ビデオ)
  
       

レボリューショナリーロード/燃え尽きるまで◆郊外型夫婦の破滅の物語

2009-01-29 16:58:51 | <ラ行>
   画像:「レボリューショナリー・ロード」 (ヴィレッジブックス刊)


  「レボリューショナリーロード/燃え尽きるまで」 (2008年・アメリカ/イギリス)
   REVOLUTIONARY ROAD
「タイタニック」の主演コンビによるラブロマンスかと思いきや、これがみごとに予想を裏切る秀作だった。第二次大戦後から1950年代にかけてアメリカで急速に拡大した“郊外”を舞台に、家庭という容れものの中でもがく若い夫婦の姿には、国や時代を超えた結婚生活の普遍のテーマが投影されていて、ほろ苦い薬を飲まされたような気分になった。原作はリチャード・イェーツが1961年に発表した「Revolutionary Road」。人生への希望に満ちた男女が出会い、結ばれ、やがて郊外に住宅を手に入れて理想の家庭を築こうと夢見る。二人のあいだには子どもが誕生し、夫はニューヨークの事務機器会社に安定した職を得る。かつて女優を目指していた妻は、主婦業の合間に地元のアマチュア劇団の公演でヒロイン役を務めたが、舞台はさんざんな結果に終わってしまう。彼女はそのいらだちを夫にぶつけるが、そこから二人のあいだに深い亀裂が生じ始める・・・・・・。

タイトルの「レボリューショナリー・ロード」とは、主人公のフランク・ウィーラー(レオナルド・ディカプリオ)と妻エイプリル(ケイト・ウィンスレット)が住む新興住宅街の名前だ。美しい街並み、手入れされた前庭、若い夫婦にぴったりの小ぎれいな住宅――。平穏で安全な郊外の暮らしは、二人に理想の人生を保障してくれるはずだった。しかし彼らの心にはよき妻、よき夫として家庭を維持するためにこなさねばならない退屈な日常が、重石のようにのしかかる。家庭生活は二人にとって、生の実感を奪い取り、夢の実現を阻む檻として意識されるようになり、小さな諍いから始まった綻びは、しだいに奈落のような深淵を露呈しはじめる。フランクは日々の空虚感を埋めるように職場の部下と浮気をするが、エイプリルの打開策はもっとラディカルだった。夫を労働の義務から解放し、いま一度生きる希望を探してもらうという口実のもとに、一家のパリへの移住計画を持ち出すのだ。それは退屈な日常を“ケ”から“ハレ”へと転換することで、彼女自身の虚しさを解消しようという悪あがきに見える。

戸惑いながらもいったんはパリ行きを決めたフランクは、社内での昇進と妻の思わぬ妊娠を口実に決意を翻す。このフランクの行動によってエイプリルの精神がじわじわと追い詰められていくくだりは実にスリリングで、ウィンスレットの熱演ぶりから目が離せない。極めつきは終盤の喧嘩のシーンと、翌朝フランクを笑顔で送り出すエイプリルの、愛と憎しみ、諦めと悲哀が複雑に交差するその面ざしだ。二人に起きた悲劇は、限られた人種や階層に属する人々が、いわば居住するためだけに集まる、郊外という場の空々しさに根ざしているのではないだろうか。ウィーラー夫妻を取り巻く隣人たちも、一種の“郊外病質”とでもいうべき不安感を抱えていて、彼らのそうした一面をきめ細かに描写しているのはとても興味深かった。隣人のなかでただ一人まともな意見を吐いていたのが、不動産屋ヘレン(キャシー・ベイツ)の息子で、精神病を病んでいるジョン(マイケル・シャノン)。パリ行きを決めて高揚するウィーラー夫婦と散歩中に会話を交わすシーンには、ジョンの精神の明晰ぶりが現われていて、なんとも皮肉が効いていた。

登場人物たちが一様にいだく空虚感は、アメリカ映画の格好のテーマとして、これまでさまざまに形を変えて語り継がれてきた。同じサム・メンデス監督の「アメリカン・ビューティ」や、郊外を舞台にした多くのホラーやSF映画(「ボディ・スナッチャー」、「ポルターガイスト」、「ハロウィン」、「メイフィールドの怪人たち」、「IT」など)も、郊外が人々に与える隣人への不安や空虚感を作品化したものだろう。家庭生活の中で虚しさにとらわれた二人が、郊外という環境の中でますます孤立化し、歯車を狂わせていく描写は痛々しく、すさまじい。それは繁栄に向かってアメリカ社会が突き進んでいた50年代の陰画であり、同時に家庭という危うい容器の中で、人生の冒険と暮らしの安定を天秤にかけながら日々を生きている世の夫婦への、ささやかな警鐘でもあるだろう。既婚者には特にお勧めしたい一作。


満足度:★★★★★★★★★☆


<作品情報>
   監督:サム・メンデス
   製作:ボビー・コーエン/ジョン・N・ハート/サム・メンデス/スコット・ルーディン
   原作:リチャード・イェーツ(「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」)
   脚本:ジャスティン・ヘイス
   撮影:ロジャー・ディーキンス
   出演:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/キャシー・ベイツ
       マイケル・シャノン/キャスリン・ハーン/デビッド・ハーバー

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト  「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」
   ■関連商品 「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」(リチャード・イェーツ著/ヴィレッジブックス刊)

   

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レッドクリフ PartⅠ◆よみがえる「三国志」の世界

2008-11-03 17:27:53 | <ラ行>
  

  「レッドクリフ PartⅠ」 (2008年・アメリカ/中国/日本/台湾/韓国)

中国、後漢末期から100年にわたる群雄割拠の時代を記録した歴史書「三国志」。覇権を争う魏、呉、蜀、三国の興亡を描いた全65巻に及ぶこの史書は後年、説話や講談を取り込みながら歴史通俗小説「三国志演義」として生まれ変わり、今日までアジア各国で根強い人気を誇っている。少年時代から「三国志」の世界に慣れ親しんできたというジョン・ウー監督が、十数年来温めてきた映画化構想のテーマに選んだのが、本作で描かれる「赤壁の戦い」。天下統一の野望に燃える曹操の大軍に、知力と勇気で立ち向かう孫権・劉備の同盟軍の戦いを前編、後編に分けて描く歴史アクション大作だ。

舞台は西暦208年。若き皇帝をないがしろにして権力を振るっていた曹操(チャン・フォンイー)は、中原を制して南下し、荊州(けいしゅう)を攻略。そのまま孫権(チャン・チェン)の治める呉へ攻め入ろうとする。一方、曹操に敗退した劉備(ユウ・ヨン)は「天下三分の計」を説く天才軍師、諸葛亮孔明(金城武)の案を受けて孫権との同盟を承諾し、孔明を使者として孫権のもとへ遣わせる。曹操との戦いに躊躇していた若き孫権は、劉備軍との同盟を説く重臣や知将、周瑜(トニー・レオン)の提言で曹操との対決を決意。いよいよ両軍は長江の赤壁で、曹操率いる数十万の大軍を迎え撃つことになる。本編はその「赤壁の戦い」に至るまでの、劉備、孫権両軍の主要キャラクターにまつわるエピソードを、2時間半にわたってつづっている。

「男たちの挽歌」(1986年)で“香港ノワール”と呼ばれる新感覚の犯罪映画の流れを作ったジョン・ウー監督は、その後ハリウッドに進出。独特の映像美と華麗なアクションはアメリカの映画界でも多くのクリエーターを魅了してきた。その彼が長年の夢だった「三国志」の映画化を実現できた背景には、北京オリンピックと時期を合わせて国力を世界に示したいという中国政府の思い入れがあったようだ。100億円という莫大な制作費(ジョン・ウー自身も10億円の私財を投じている)は中国はじめ日本、台湾、韓国のフィルム会社が出資。さらに中国政府は合戦シーンの撮影のために、現役人民軍兵士1000人をエキストラとして投入したというから、異例ともいうべき熱の入れようだ。

そうしたバックアップを背景に、ハリウッドのCG技術(「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズを手がけたアメリカ・オーファネージ社が担当)を駆使して、1800年前の大規模な戦闘がスクリーンに再現される。その迫力は臨場感に満ちており、血しぶきと砂埃と軍馬の息遣いを身近に感じさせる演出はさすが。大軍がぶつかり合う戦闘の中で、趙雲(フー・ジュン)、張飛、関羽といった三国志の英雄たちの活躍シーンも、それぞれ際立つように配置されている。しかし何よりも圧巻なのは、孔明が亀甲模様から着想を得たという兵法「九官八卦の陣」の再現シーンだ。曹操軍をおびき寄せ、形を徐々に変えながら内陣に閉じ込めていく変幻自在の陣模様は、稀代の戦略家、孔明の軍才を余すところなく伝えていて、まさに本作の白眉。

「赤壁の戦い」を後編にもってくるためか、前編での人物描写はやや冗長に感じるほど丁寧。年若い孫権の決戦を前にした迷いを、虎狩のシーンで象徴的に描いたり、音楽や芸術を愛する周瑜と妻、小喬(リン・チーリン)との愛のエピソード、また周瑜が孔明と琴合わせをして互いの心を通わせる場面など、個々のキャラクターを掘り下げようとする演出が目立つ。いずれにしても、孫権・劉備の側を善玉に、曹操を悪玉として描くことで、数万が数十万の大軍を撃破する戦いの感動へつなげようというのだろう。その演出意図が後半でどう感動に結びつくか、お手並み拝見といったところ。ラストで孔明が白いハトを対面の敵陣へと放つ。ハトは長江を渡り、対岸深くへと飛びながら、曹操軍の陣地を俯瞰する。そのシーンのすばらしさ。ハトは実は、ジョン・ウー作品のシンボルだ。こうした小道具の使い方にも、“バイオレンスの詩人”の異名にふさわしい、ウー監督ならではの凝った演出ぶりが表れている。「レッドクリフ PartⅡ」は、2009年4月の公開予定。


満足度:★★★★★★★☆☆☆



<作品情報>
   監督:ジョン・ウー
   製作:テレンス・チャン/ジョン・ウー
   脚本:ジョン・ウー/カン・チャン/コー・ジェン/シン・ハーユ
   アクション監督:コリー・ユン
   美術・衣装:ティム・イップ
   音楽:岩代太郎
   出演:トニー・レオン/金城武/チャン・フォンイー/チャン・チェン
       ビッキー・チャオ/フー・ジュン/中村獅童/リン・チーリン

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「レッドクリフ PartⅠ」
   ■関連商品/CD 「レッドクリフ PartⅠ オリジナル・サウンドトラック」
   ■goo映画 「レッドクリフ PartⅠ/トニー・レオン インタビュー」
           「中村獅童 単独インタビュー」
  
   

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落下の王国◆ターセムが描く「物語」の原点

2008-09-09 15:02:57 | <ラ行>
    

  「落下の王国」 (2006年・インド/イギリス/アメリカ)

企業コマーシャルの世界から、異色の犯罪映画「ザ・セル」で鮮烈なデビューを飾ったターセム監督の最新作。4年にわたって世界20カ国以上でロケ撮影をしたという映像は、さながら世界遺産の旅と言っていいほど贅沢な景観美に満ちている。同時にそれらの風景は、目の前で今まさに生まれ出る物語の“子宮”として、単なる景観を超えた神話性を宿しているように映る。それは前作「ザ・セル」の、不安をあおる猟奇的なイメージとは異質の、原初的躍動感にみなぎる映像美だ。

舞台は映画産業が黎明期を迎えた20世紀初頭のカリフォルニア。スタントマンのロイ・ウォーカー(リー・ペイス)は鉄橋から落下するスタントに失敗し、足に大けがを負って病院のベッドの上にいた。復帰への不安にさいなまれるばかりか、恋人まで主演俳優に奪われて鬱々とした日々を過ごすロイ。そんな彼のもとに、オレンジ農園で樹から落ち、腕を骨折して入院中の移民の少女、アレクサンドリアが現れる。話す英語もたどたどしい5歳の少女に、ロイは頭に浮かんだ物語を話して聞かせる。それはひとりの悪者に復讐を誓う、5人の勇者の冒険譚だ。少女はしだいにロイの物語に心を奪われ、もっと先をとせがむようになる。やがて彼の頭の中に一つの計画が浮かび上がる。少女を使って薬剤室からモルヒネを手に入れ、自分のみじめな人生を終わらせようと・・・・・・。

ターセム監督はこの映画の構想を二十数年前から温めていたというが、直接のきっかけとなったのは、1981年に公開されたブルガリア映画「YO HO HO」(ザコ・ヘスキジャ監督)だった。この作品では、背骨を骨折して再起不能となった舞台役者が、入院先の病院で10歳の少年と知り合う。将来を悲観する役者は、自殺を図るために少年を使って毒薬を手に入れようと計画し、少年の心を虜にする物語を話しはじめる。しかし二人はしだいに物語を通じて互いに心を通わせるようになり、男は人生を生き直す勇気を取り戻す――。この作品に着想を得て、ターセム監督は舞台役者をスタントマン、10歳の少年を5歳の少女へと設定を変え、大人と子どもが一つの壮大な幻想を共有するストーリーテリングの醍醐味を、新たに映像化することを試みた。その結果生まれたのが、めくるめくイマジネーションの洪水だ。即興で紡がれる物語は、語り手であるロイの心情を映すように時に気まぐれに暴走し、あるいは重々しく停滞する。しかし5歳のアレクサンドリアは、物語の不完全さなどいっさい気にかけない。彼女が知りたいのは物語の転がる先であり、5人の勇者たちの運命なのだ。

スクリーンに映し出される劇中劇は厳密にいえば、語り手ロイの言葉が刺激となって、聞き手のアレクサンドリアの頭の中に展開される光景であり、観客は彼女の心が創り上げた映像を目撃するという形になる。ここで注目すべきは、少女が5歳という年齢の移民の子(アレクサンドリアを演じるカティンカ・アンタルーもルーマニア人で撮影時は5歳児)である点だ。物語に親しんだ経験が浅く、英語をまだ完全には理解できない少女が、それでも話の筋を追うために懸命に耳を傾けることで創出される世界、それは語り手の不安定な心情と相まって、観客の目には奇異な幻想と映るかもしれない。しかし一方でそれは、少女が持つ手つかずの想像力(彼女はまだ“映画”が何かすら知らないのだ)が生み出す躍動感と純粋さに満ちていなければならず、ターセムは今回もそうした作品の意図をみごとに映像化していると思った。

とはいえ、この映画の見どころは、実は幻想場面の映像美にあるのではない。言葉を媒介として二つの心に共有される物語は、語り手と聞き手双方の意志によって自在に変化する。アレクサンドリアが思い描く物語の中では、身近な人々が登場人物に姿を変え、彼らが危機に陥ると、聞き手である彼女自身が救い主として登場し、物語の流れを変えてしまう。聞き手が及ぼす影響は、物語の中のみにとどまらない。アレクサンドリアと一つの幻想世界を共有することによって、語り手ロイの心も変化を受け入れる。生命力と純真さにあふれた少女の一途な思いは、ロイの心の苗床を命の雨で湿らせる――真の物語の種は、そこにこそ根づいているのだ。華麗な映像の向こうに、ストーリーテリングの醍醐味を堪能した一作だった。


満足度:★★★★★★★★☆☆



<作品情報>
   監督・脚本:ターセム
   プロデューサー・脚本:ニコ・ソウルタナキス
   共同脚本:ダン・ギルロイ
   コスチュームデザイン:石岡瑛子
   音楽:クリシュナ・レヴィ
   撮影:コリン・ワトキンソン
   出演:リー・ペイス/カティンカ・アンタルー/ジャスティン・ワデル
       ダニエル・カルタジローン/エミール・ホスティナ/ロビン・スミス
         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「落下の王国」 
   ■関連作品DVD amazon.co.jp 「ザ・セル」
   ■関連作品レビュー 「ザ・セル◆息をのむ耽美的映像世界」


   

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ランボー 最後の戦場◆ミャンマー軍事政権に放つスタローンの一矢

2008-05-27 20:29:52 | <ラ行>
  

  「ランボー 最後の戦場」 (2008年・アメリカ)

還暦を過ぎてなお意気盛んなシルベスター・スタローン。シリーズ4作目にして監督・脚本・主演の3役をこなした彼の情熱が、90分という短くも潔い尺の全編にみなぎっている。あっけないくらいシンプルなストーリーと限界まで削り取られたせりふ、そしてその寡黙さを補うように投じられた過激なアクションシーンは、(R指定の凄惨な描写と相まって)野蛮な暴力映画の要素を多分に含んでいるようにみえる。けれども私はこの映画を、勧善懲悪のアクション映画や暴力礼賛の娯楽作品として一蹴する気にはなれない。それは「ランボー」という人物像が発散するストイシズムのせいなのか、戦闘シーンに時おり挟まれる暗示的メッセージのせいなのかわからないが、少なくとも本作の描写の凄惨さのみを挙げて否定的な意見を吐くことはあえて避けたいと思っている。

パンフレットの中で、かつてミャンマー・カレン民族解放軍で戦った元傭兵の高部正樹氏は、この作品の戦闘シーンについて次のように語っている――「これが映画にもかかわらず、私はジャングルに漂っていたミャンマーの戦場独特の空気に包まれてしまった。そして確かに、あの日、あの時、あの戦場を支配していた『臭い』が、スクリーンから漂ってきたのをはっきりと感じたのだ」。現地を知る高部氏が本物の「臭い」を感じとったように、ミャンマー軍によるカレン族襲撃のシーンは、戦場を知らない多くの観客にも恐ろしいリアリティをもって迫ってくる。それは映画の冒頭に挿入された村人虐殺のニュース映像そのものだ。この作品が追求している映像的リアリズムは、軍事政権下のミャンマーの現実を活写している点に私たちは思いを馳せる必要があると思う。作品の舞台は、ノーベル平和賞受賞者で民主化運動の指導者アウンサン・スーチー氏が12年近く軟禁されている国であり、カレン族をはじめとする少数民族がミャンマー政府の弾圧を受け、いまも内戦ともいうべき状況が続いている国なのである。また昨年9月、反政府デモを取材中の日本人ジャーナリスト長井健司さんが、治安部隊の銃弾を受けて命を落としたことも、ミャンマーの国情を知る上でひとつの手がかりとなるはずだ。こうした背景を念頭に置けば、スタローン監督がこだわった「戦場のリアリズム」に対して多少とも理解が及ぶのではないだろうか。

戦闘マシンの悲哀

ジョン・ランボーはシリーズ1作目からもどかしいくらい寡黙だが、この寡黙な男の言葉は戦場シーンでこそいっそうの重みを帯びるように感じられる。宣伝で何度も耳にする例のコピー「Live for nothing, or die for something.」は、アメリカの支援団体のメンバーを救出に向かった傭兵のひとりが、ミャンマー軍の蛮行を前に撤退を提案したときにランボーが放つ言葉だ。「こんな場所にいたいやつがいるものか。だが、おれたちのような男の仕事はここにある。無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」。元グリーンベレーの精鋭でベトナム戦争の英雄でありながら、帰還兵としての苦渋を味わい尽くした男は、20年に及ぶ魂の放浪の末に自身の本質に目覚めるのだ。それはトラウトマン大佐が予見していた「戦うマシン」としての本質であり、この瞬間を境に吹っ切れたように突き進むランボーの姿に、私たちは痛々しい戦士の悲哀を重ねざるをえない。

民主化運動を進める上であくまでも非暴力を貫こうとするスーチー氏のような指導者がいる一方、限定的にではあっても暴力を肯定せざるを得ない現実があることを映画は物語る。支援団体を乗せた船が海賊に襲われたとき、賊を皆殺しにしたランボーを非難したキリスト者であるメンバーは、終盤のすさまじい戦闘シーンで敵兵を石で殴り殺す。非暴力では生き延びることすらむずかしい状況の中で、人はどこまで理想を貫くことができるのだろう。けっして答えにはなり得ないが、カレン族の村に医療物資を届けたいと訴え続けた支援団体のメンバー、サラ(ジュリー・ベイツ)の中に、不屈の善意ともいうべき美点を見出すことができるかもしれない。もちろん、理想を貫いた彼女に突きつけられた代価は、善意であがなえる度をはるかに越えていたけれども・・・・・・。  

         (記事中の国名「ミャンマー」の表記は、日本の報道機関のそれに従いました)


満足度:★★★★★★★★☆☆




<作品情報>
   監督・脚本:シルベスター・スタローン
   出演:シルベスター・スタローン/ジュリー・ベンツ/ポール・シュルツ
       マシュー・マーズデン/グレアム・マクダビッシュ/ケン・ハワード

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ランボー 最後の戦場」    




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ホラー特集/悪夢◆ -less [レス]

2007-07-17 12:25:36 | <ラ行>
  

  「-less [レス]」 (2003年・アメリカ/フランス)
   監督・脚本:ジャン=バティスト・アンドレア/ファブリス・カネパ
   出演:レイ・ワイズ/リン・シェイ/アレクサンドラ・ホールデン/ミック・ケイン

オリジナル・タイトルは「Dead End」(行き止まり)。邦題の「-less[レス]」は、hopeless、endless、helpless といった危機的な状況を意味しているそうだが、接尾辞をタイトルにするのはいかにも据わりが悪い。宣伝コピーや日本版ポスターを見ると、同時期にリリースされた「SAW ソウ」を意識しているのがわかる。しかし作風からいえばまったくの別もの。こちらはクリスマス・イブに妻の実家へ出かけた家族が、森を抜ける裏道を走るうちに不可解なできごとに巻き込まれていくというサスペンス・ホラー。

全編、暗い夢のような映像だ。恒例のパーティに向かう途中、ハンドルを握る父親フランク(レイ・ワイズ)は眠気に襲われ、危うく対向車と衝突しそうになる。すんでのところで回避してひと気のない夜の道を進んでいくと、赤ん坊を抱いた白いドレスの女が道端に佇んでいるのを見かける。一家は親切心から彼女を車に乗せるのだが、それから思いもよらない恐怖が彼らを襲いはじめる・・・・・・。

どこまでも続く夜の道。車を止めるたびに一人、一人と消えていく家族。走っても走っても抜け出せない夜の闇――単調さを免れない映像を救っているのは、ブラック・コメディばりの家族の絡みだ。恋人を失くした娘のマリオン(アレクサンドラ・ホールデン)の妊娠や、長男リチャード(ミック・ケイン)の出生の秘密までが発覚し、外と内との混乱に戸惑う一家の姿がユーモラスに描かれる。とくに錯乱する母親ローラ(リン・シェイ)の演技は見もの。

結末はこの手の映画によくあるパターンなのだが、ラストに登場する「父親のメモ」は、作品の解釈に謎めいた余韻を残す。延々と続く暗い映像は、黒いクラシックカーや乳母車といった小道具と相まって、悪夢を見ているような不安感、閉塞感をあおる。ふたりの若手監督による、地味ながら楽しめる佳作ホラー。



ひんやり度:★★★☆☆



<参考URL>
■作品の詳細 CINEMA TOPICS ONLINE 「-less[レス」]





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リーピング◆斬新さに欠ける聖書的謎解き

2007-05-31 12:22:01 | <ラ行>
  

「リーピング」 (2006年・アメリカ)
 監督:スティーブン・ホプキンス
 出演:ヒラリー・スワンク/デビッド・モリッシー/イドリス・エルバ

暇つぶしに入った平日の映画館は閑散としていて、わたしを含めてほんの数人の観客しかいなかった。いくら上映館が駅から遠いとはいっても、週末の公開から3日目にして劇場が閑散としているのはおかしい。なにか来てはいけない場所に身を置いているような気がしてきて落ち着かない。もし後ろのドアから、ポケットに刃物を忍ばせたお客が入ってきたら・・・・・・と、めずらしくおかしな妄想に悩まされた。

落ち着かない気分は映画が始まっても続いた。上映前の妄想を差し引いたとしても、この映画の何かがわたしに居心地の悪さを感じさせている。それは血に染まった川でもなければ、少女を取り巻くイナゴの大群でもない。冒頭で感じた失望感がそのまま持続しているにもかかわらず、シートに座り続けていることから来る居心地の悪さ、とでもいうのだろうか・・・・・・。

ヒラリー・スワンクは、ある種の重力を感じさせる女優だ。この映画でも彼女の存在感はひときわ光輝を放っている。神に離反した元牧師で、なおかつ超常現象にメスを入れる科学者としての「確かさ」の裏には、家族を襲ったすさまじい悲劇があり、そこに悲壮な決意が宿っていることが見てとれる。しかし物語の展開は、科学者としての彼女のスタンスを真っ向から否定する方向へと進んでいく。ヒロインの進む方向を物語自体が否定していくという展開は、この映画の場合、いかにもあざとく感じられて好感がもてなかった。

さらに、次々と描かれるオカルト現象が旧約聖書の十の災厄というのも、ありきたりで興味を削がれる。少なくとも日本の観客には、原理主義者の信じる奇跡や天使の降臨や悪魔崇拝の狂信集団というのはピンと来ないのではないだろうか。リアリティのある恐怖とそうでない恐怖があるとすれば、ここで描かれている現象には現実感をともなう怖さが少しも感じられない。恐怖は見えないことから発するのであって、一連の謎がこうも説明的に描かれてしまうと、ほんとうに見も蓋もない作品になってしまう。

悪魔と噂される少女の不気味さが、ラストであっけなく一転してしまうのはいかがなものか。それまでの布石がすべて観客を騙すための演出だったとわかったときの気分は、あまりいいとはいえない。安っぽい手品を見せられたようで、少しムッとした。来てはいけない場所に身を置いたような気分になったのには、やはり理由があったようだ。



満足度:★★★★☆☆☆☆☆☆ 


<参考URL>
■映画公式サイト「リーピング」

DVD寸評◆ローズ家の戦争

2007-02-16 00:37:16 | <ラ行>
    
 
 「ローズ家の戦争」 (1989年・アメリカ)
  監督:ダニー・デビート
  脚本:マイケル・リーソン
  出演:マイケル・ダグラス/キャスリーン・ターナー/ダニー・デビート

痛烈なブラックユーモアで夫婦間の亀裂をあぶり出した、俳優ダニー・デビートの初監督作品。ロマンスで結ばれた男女が力を合わせて裕福な家庭を築き上げるが、子どもの自立をきっかけに妻がビジネスを立ち上げてから、夫婦の間に諍いが絶えなくなる。溝は埋まるどころか深まるばかり。とうとう互いに弁護士を立てて離婚協議にまで発展するが、夫も妻も家の所有権をめぐって一歩も譲らない。妻は家を見つけて美しく内装したのは自分だと言い張り、夫は金を出したのは自分のほうだと主張する。やがて二人の争いはエスカレートしていき、争点の家を舞台に泥沼の「戦争」がはじまる。その陰惨で過激な攻防は、夫婦喧嘩の枠を超えて互いの生命すら脅かしはじめる。

夫婦関係の崩壊を活劇風に描いて、苦い笑いを誘う怪作。妻の、夫に対する嫌悪感は歩み寄る余地がないほど激しい。にもかかわらず、まだ愛を信じている夫の、なんという鈍感さ、いじましさ。一方、夫を敵とみなして邪魔者扱いする妻の恐るべき狭量さ、残酷さ。「顔を見るだけでもいや」と感じる妻に対して、夫はいまだに「理由なき離婚」にとまどう。このよくある夫婦間の認識(感受性)のズレが、ここでは際立った対立構造として描かれる。夫婦は一度「たが」が外れてしまうと遠慮がない分、他人同士より憎悪がむき出しになる。そのおぞましさ、滑稽さがこの映画の格好の主題だ。繰り返されるエピソードは過激で壮絶だが、犬も食わないテーマだけに、身につまされながらも最後まで笑わせる。とくに既婚の方には、おすすめの一作。


満足度:★★★★★★★☆☆☆



DVD寸評◆LOFT ロフト

2007-02-10 16:54:34 | <ラ行>
   

 「LOFT ロフト」 (2006年・日本)
  監督・脚本:黒沢清
  出演:中谷美紀/豊川悦司/西島秀俊/安達祐実

『回路』で得体の知れない恐怖を描いた黒沢監督の新作DVD。前半は謎めいた展開に期待が持てたものの、中盤からもたつき、後半は物語に破綻が生じているのではないかと疑った。千年前の女性のミイラと、主人公の女性作家(中谷美紀)との関係がそもそもはっきりしない。冒頭で咳き込んで泥を吐き出したのは、てっきり彼女が沼から見つかった女のミイラの生まれ変わりかと思ったが、どうもそうではないらしい。引越し先の住まいに以前住んでいたという作家の卵(安達祐実)の幽霊とミイラというおぞましさのモチーフが、恐怖譚としての展開を相殺してしまったように感じた。考古学者の吉岡(豊川悦司)や編集者(西島秀俊)の人物像にも首を傾げる点が多い。

女性作家と考古学者が永遠の美を求めた女のミイラという不可知の存在に感化され、惹かれあうところまではわかるのだが、物語の展開はこちらが期待している映画的文脈とは別のところにあるように思える。ことによると、女性作家が隣りの建物にミイラを運び込む考古学者を目撃した以降、すべては彼女の描く奇妙な小説の中のできごとだったのかもしれないが、虚構だと確信できるものは何もない。舞台になる郊外の古びた洋館と研究棟、そして周囲を取り巻く自然の幻想美はすばらしい。日常の中に忍び寄る幽霊を、まるで錯視が引き起こす視覚の異常のように描いていたのもよかった。近々公開される最新作『叫』に期待したい。


満足度:★★★★★☆☆☆☆☆



DVD寸評◆ラストデイズ

2007-01-16 13:25:09 | <ラ行>
 
 
 「ラストデイズ」 (2005年・アメリカ)
  監督・脚本:ガス・ヴァン・サント
  出演:マイケル・ピット/ルーカス・ハース/アーシア・アルジェント

ニルヴァーナを聴き込んだわけでもなく、カート・コバーンのファンでもないので、残念ながらとても退屈に感じてしまった。1994年に自殺したニルヴァーナのリーダー、カート・コバーンの死に衝撃を受けたガス・ヴァン・サント監督が、一人の人気ミュージシャンを主人公に据えて、死に至るまでの二日間を淡々と描いている。主人公のブレイク(マイケル・ピット)は、麻薬の更生施設を抜け出して森の中の別荘へたどり着く。そこには彼の取り巻きの音楽仲間が住んでいるが、ブレイクはこれといった接点を持つことなく、孤独な死へと突き進んでいく。キッチンで一人軽食を作ったり、ギターを弾いたり、森を歩き回ったりしながら、彼の中で死が少しずつ醸成されていく過程を見るのは、つらい。主演のマイケル・ピットは「パゴタ」というグループを率いるミュージシャンだそうで、映画の中で「Death to Birth」という自作の曲を熱唱している。この曲の歌詞が、死へと赴くブレイクの心を率直に語っているように感じられた。残念ながら歌詞そのものは覚えていないので、映画で流れるもう一つの曲、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「毛皮のヴィーナス」を引用してみる。なぜ、この曲が使われたのかはわからないが、歌詞の一部にブレイクの死の予感を読み取ることができる。

「I am tired, I am weary/I could sleep for thousand years/A thousand dreams that would awake me/Different colors made of tears.」
(ぼくは疲れてうんざりだ/千年だって眠れるくらい/ぼくの眠りを覚ますのは千の夢/涙はいろんな色でできている)」。

生を倦む孤独なミュージシャンは、きっと眠ってしまいたかったのかもしれない。映画の中でブレイクが動くと、時々水音がする。死にゆく者だけが立てることのできる音だったのだろうか・・・・・・。


満足度:★★★★★☆☆☆☆☆