好きな映画だけ見ていたい

劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

森達也「オカルト」◆曖昧さをめぐる瞠目の冒険

2012-10-20 13:47:44 | 書評


  「オカルト」 (平成24年・角川書店)
   森 達也

ちょっと大げさなタイトルを付けてしまったかもしれない。けれども本書は冒頭から引き込まれるエピソード満載の一冊なのだ。今から10年、いや15年以上前になるのか、私は清田益章氏の公開実験の場に足を運んだことがあった。たしか渋谷の公共施設の一室だったと思う。数十人ほどが集まった会場の演壇近くに座り、ほんの数メートルの距離から清田氏の講演に耳を傾け、続いてスプーン曲げとポラロイドカメラによる念写実験を目の当たりにした。スプーン曲げはもちろん、未開封フィルムを使った念写実験でも、エッフェル塔のイメージをありありと映しだした様子に私は文字どおり目を見張った。あれから長い時間が流れ、その時の驚きと興奮はいつの間にか薄れていったが、この本の冒頭を飾る著者と清田氏のエピソードは、あの時の体験を記憶の澱から浮かび上がらせた。私は好奇心から清田氏の実験を見に行き、そこで起きたことが現実なのかと自問もし、同時にすごく興奮もしていた。けれども実験を見る前と後で、私の超能力に対する見方が変わったということはなかった。力を加えずに金属が曲がったり、頭の中にあるイメージがフィルムに焼き付くといった、非物理的な現象を鵜呑みにしたり、逆に頭から否定するということが私にはできなかった。どちらか一方を肯定し、他方を否定するだけの知識や体験が自分にはないことが何よりの理由だったと思う。だから、清田氏の行った不思議な実験に驚きはしたけれども、その真偽を判断する材料がない以上、肯定も否定もできないことは分かっていたし、今もそれは変わっていない。

不思議だと感じる現象を人はどう解釈するのか。一般的に超常現象の解釈は次のように分類できると思う。一つは、一見不思議に見えるけれど実は何らかの科学的な説明が付くというケース。二つ目は、演者が巧妙なトリックを使っているケース。三つ目は、現段階では科学的な説明もつかず、トリックを使っている確証も得られないケース。前の二つのケースは言うまでもなく超常現象とは呼ばない。問題は、残る第三のケースだ。著者の森氏はこれを〈オカルト〉として括り、スプーン曲げからUFO、イタコ、心霊、ダウジング、臨死体験といった不可思議な現象を真っ向から取材している。その姿勢はどこまでもフェアで、予断を入れる隙がなく、こういった分野の話を毛嫌いされている読者の目にも十分耐えうる内容であろう点に共感をおぼえた。森氏自身、肯定と否定の狭間に立って取材をしているのは確かだが、それでも、この宇宙に計り知れない何ものかがあるという畏怖、あるいは予感のようなものを抱えながら人生を歩んでおられるのではないだろうか。そうでなければ、オカルトに対するこのような情熱を長年燃やし続けることはできないのではないかと個人的には感じた。

白日に晒されることを嫌う。見つめようとすると隠れる。オカルトという現象にはそういった側面があると森氏は言う。あぁ、そういうことなのかと思った。去年、京都へ行ったとき、四富会館という元倉庫だった飲み屋街の一軒へ入った。そこの店主は霊が見えるという話を聞いていたので、恐るおそる訊ねてみた。彼は通路の奥に亡くなった水子が見え、店に悪しきもの(霊など)が入ってくると追い払ってくれると言った。私たちは店を出た後で通路の奥へ行き、薄暗い壁際をデジカメで撮影した。フラッシュは焚かなかった。結果は、ただ薄ぼんやりとした暗い壁が写っているだけだった。追い求める者には姿を晒さない。けれども、日常のふとした狭間に、あたかも視界の隅をかすめるように、それは一瞬姿を現すのかもしれない。その瞬間がいつか来ることを、私は恐れてもいるし、求めてもいるのかもしれない。この本を読んで、その思いを強くした。

コメント