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劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

DVD寸評◆ロスト・イン・トランスレーション

2007-01-15 21:58:42 | <ラ行>
  

 「ロスト・イン・トランスレーション」 (2003年・アメリカ)
  監督・製作・脚本:ソフィア・コッポラ
  製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ
  出演:ビル・マーレイ/スカーレット・ヨハンソン/ジョバンニ・リビシ

公開当時に劇場で見て、すごく楽しめた映画だった。東京を舞台に、孤独な二つの魂のふれあいが繊細かつユーモラスに描かれていて、不思議な後味が残った。東京へコマーシャルの撮影でやって来たハリウッド・スターのボブ(ビル・マーレイ)は、滞在先のホテルでカメラマンの妻シャーロット(スカーレット・ヨハンソン)に出会う。異国での孤立感から寂しさを抱えていた二人は、やがて立場や年齢を超えてしだいに心を通わせていく。二人の大人は、車の外の異国の街並みが視界を流れていくように、それが留まれない感情であることを知っている。だから同じベッドに横たわっても、静かに会話を交わすだけだ。この抑制の効いた二人の関係が、ラストシーンで静から動へと一気に動いた時、彼らの心の触れ合いがどれほど深いものだったかが明らかになる。ボブが最後にシャーロットの耳元で囁いた言葉は観客には聞こえない。シャーロットの目を伝う涙で、ボブの言葉が彼女の心の琴線に触れたことがわかるだけだ。なんて粋なラストだろう。タクシーの窓から見える新宿のネオン街は、まるで絵のように美しい。二人が遭遇するどこか漫画的な日本人は、コッポラ監督のユーモアの一端と考えて、深く追求することはやめにしたい。異国で孤独を感じている外国人の目に、きっと私たちは奇異に映っているかもしれないのだから。


満足度:★★★★★★★★☆☆


<参考URL>
 ■映画公式サイト「ロスト・イン・トランスレーション」


ローズ・イン・タイドランド◆子どもの元気は悲劇をも超える

2006-07-09 16:03:21 | <ラ行>
            

 「ローズ・イン・タイドランド」 (2005年・イギリス/カナダ)
  監督:テリー・ギリアム
  原作:ミッチ・カリン(「タイドランド」)
  出演:ジョデル・フェルランド/ジェフ・ブリッジズ/ブレンダン・フレッチャー/ジャネット・マクティア

まずは、この映画の上映館が都内でも2館のみ、しかもその一つ、新宿武蔵野館は客席が100席足らずの小劇場であることに驚きと不満を感じざるを得なかった。たしかに内容がいささか猥雑であることは認めるにしても、自由奔放な少女のイマジネーションをここまで映像化した点は賞賛に値すると思うからだ。もっとも子どもの首に携帯電話をぶら下げて、夜の塾通いに送り出すママたちが見たら、きっと悲鳴を上げるだろうことを思えば、ミニシアター系の劇場でひっそりと上映するのがふさわしい作品なのかもしれない。

少女の名前はジェライザ・ローズ(ジョデル・フェルランド)。麻薬を常用する母親が死んだので、ロック・ミュージシャンの父親(ジェフ・ブリッジズ)に連れられて草原の只中にある祖母の家へ行く。しかし祖母はすでに亡くなっていて、荒れ放題の空き家があるばかり。しかも父親はそこでも麻薬を打って「バケーション」に出かけてしまい、ローズはただひとり見知らぬ土地に取り残されてしまう。ここから、少女の奔放な冒険がはじまる。ローズはバービー人形(の頭)とともに空き家の中を探検したり、金色の草原で変わった隣人たちと出会う・・・・・・。

大人の目から見れば決定的に絶望的な状況に置かれているはずの少女は、持ち前のたくましい想像力で、荒れ果てた土地をまさしくワンダーランドに変えてしまう。そこではリスが口をきき、草原は突然深い海の底に変わってしまうのだ。ローズが知り合う隣人のデル(ジャネット・マクティア)と知的障害者の弟ディキンズ(ブレンダン・フレッチャー)は秘密めいた変わり者の一家で、ある意味で『悪魔のいけにえ』のソーヤー家を思わせる不気味な一面を持っている。しかしローズは、無垢な魂を持つディキンズに心を引かれ、二人の親密さは日を追うごとに深まっていく。知的障害者に対して何のバイアスも持たない少女が、好奇心や孤立感から互いの距離を縮めていく様子は説得力をもって描かれている。それでも二人の「愛」を見守る観客は、いくばくかの不安を覚えずにはいられないだろう。(知的障害者と少女の愛を描いた作品といえば、ケビン・ベーコン主演の『ウィズ・ユー』を思い出す。家族の中で孤立感を深めた少女が、30歳の知的障害の男と心を通わせる物語だが、ここでも二人の気持ちの純粋さに反して、大人たちの見方は汚れた偏見に満ちていた。)

ローズを取り巻く世界は、猥雑さと恐怖に満ちている。けれども彼女は少しも臆することなく、そうした世界へ自ら足を踏み入れていく。その勇気には思わず拍手を送りたい。本来子どもとは純粋な好奇心の塊であり、失敗を恐れぬチャレンジ精神が彼らの元気の元であることを改めて思い起こさせる映画だった。母親たちが矮小化させてしまった日常の中で、子どもたちは子ども本来の元気を失っていはしまいか、それが同時に気になった。

主演のジョデル・フェルランドは10歳にしてすでに7年を超えるキャリアを持つというカナダの「女優」。あどけなさとしたたかさの入り混じる豊かな表情と、あくまでも自然体に見せる演技は見もの。映画の中の「ジェライザ・ローズ」ともども、あっぱれな子どもである。現在公開中の『サイレントヒル』にも出演しているそうだ。



満足度:★★★★★★★★☆☆



隣人13号◆虐げられた者の苦しみは怪物を産む

2006-02-11 12:49:25 | <ラ行>
  

 「隣人13号」 (2005年・日本)
  監督:井上靖雄
  原作:井上三太(「隣人13号」幻冬舎コミック)
  出演:中村獅童/小栗旬/新井浩文/吉村由美

荒涼とした天と地のあいだに一軒の小屋。手前から半裸の男が小屋へ向かって歩いていく。小屋の中では、顔左半分に火傷を負った若い男が苦痛に顔をゆがめている。ドアが開き、半裸の男が入ってくる。男は若い男を叩いて、ドアの外へと追い出す。

冒頭のシーンは、小学校時代に陰惨ないじめにあった村崎十三の心に、もう一つの人格「13号」が侵入したことを物語っている。十三の心の内は小屋の赤い色の内装さながらに痛々しく、無残だ。一方、小屋の外の十三を取り巻く風景は、どこまでも青く冷たく荒涼としていて、彼の壮絶な孤独を表しているように見える。

十三の無力さに較べると、13号はどこまでも凶悪で容赦ない。優しい言葉をかけてくれた職場の友人や子どもさえ、その手にかけてしまう姿はまさに怪物。しかし、回想シーンで描かれるいじめがあまりにも過激であるために、別人格の13号を生み出した十三に対しては不思議と嫌悪感を抱かない。むしろ十三は、ゆえなきいじめの被害者であり、加害者こそ彼の苦しみを思い知るべきだという共感さえ生まれてくる。13号の暴走ぶりには、もちろん眉をひそめながらも・・・。

こうした主人公への思い入れに戸惑う観客を考えてか、救いとも取れるラストが用意されていたのは、はたしてよかったのかどうか。暴力の連鎖を訴え、因果応報を説く復讐譚としてのこの物語全体が、小学生時代の十三の決意ひとつで「起こり得なかったかもしれない物語」として締めくくられている点は、どうも腑に落ちなかった。13号は最後に宿敵赤井に向けた銃の引き金を引いたのか? 解釈の分かれるところだと思う。

小学生の十三がいじめっ子の赤井を打ち負かして校庭へ出ていき、卒業アルバム用の集合写真に堂々と納まることによって、十三の運命は決定的に変わったというラストシーンは、「いじめは被害者側の勇気によって終息する」というメッセージなのだろうか。

いずれにしても、いじめとその被害者の苦しみに深く思いを致す映画だった。
暴力シーンのすさまじさを考えると、鑑賞には少なくとも高校生以上が望ましいだろう。



満足度:★★★★★★★☆☆☆



ランド・オブ・ザ・デッド◆ゾンビが人間化してどうする?

2006-02-08 14:32:26 | <ラ行>
  

  「ランド・オブ・ザ・デッド」 (2005年・アメリカ)
   監督・脚本:ジョージ・A・ロメロ
   出演:サイモン・ベイカー/デニス・ホッパー/アーシア・アルジェント
   
ホラー映画の中ではヴァンパイアと同じく人気の高いゾンビだが、本作はゾンビ映画の始祖ともいうべきジョージ・A・ロメロの第4作目。

そもそもホラーに登場するモンスターには、それぞれ習性があり弱点もあるが、なかでもこのゾンビの習性はユーモラスで、あどけない。その理由はおもに、彼らがゆっくりとぎこちなく歩行し、肉を欲しがる以外はいたって無欲な点に由来する。この特性はしかし、2004年公開の「ドーン・オブ・ザ・デッド」(ザック・スナイダー監督)あたりから変化をきたし、俊敏な身のこなしやすばやい動きといった、人間を襲う捕食者としての特性が加味されていった。ロメロの新作は、こうした進化の延長線上にあると思われる。

ここに登場するゾンビたちは、打ち上げ花火に見とれる「あどけなさ」を残しながらも、明敏なリーダー率いる群れの一員として、集団的攻撃を人間に仕掛けるまでに成長している。もはやゾンビは「モンスター」ではなく、立てこもる人間の一団に対立する、一つの思想的集団、あるいは異教徒の群れのようにも感じられる。ゾンビの恐ろしさが、あくまでも無力化された生(人間を襲ってもやっぱり彼らは無力なのだ)のありように起因しているとしたら、この映画からはそうした恐怖は感じられない。思考し、進化する屍となったゾンビたちは、むしろ人間への進化の道を急いでいるようにすら思われる。

ラスト近くで、主人公の双眼鏡がゾンビの首領をとらえるが、彼は狙撃を命じない。ゾンビたちも行き場所を探しているから、という彼のせりふは、この超自然の怪物たちが、もはや怪物ではなくなったことを暗示している。市民権を得た彼らの居留地が、あの大国のどこかに誕生する日もそう遠くないかもしれない。そのとき彼らは、ロメロの先の三部作を見て、いったい何を思うのだろう・・・。

諧謔に満ちたホラー映画としては、さすがロメロといいたいところだが、ゾンビ映画本来の恐怖を期待する向きには、人間に限りなく近づいたゾンビたちに、やや不満を感じるのではないだろうか。



満足度:★★★★★★☆☆☆☆