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劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

プロメテウス◆「エイリアン」サーガの原点を描くSF大作

2012-08-30 16:05:36 | <ハ行>


  「プロメテウス」 (2012年・アメリカ)
   PROMETHEUS

カメラは荒涼とした渓谷から灰色の瀑布をとらえる。上空に浮かぶ巨大な宇宙船。人型の異星人が滝の上に現れ、衣を脱ぎ捨てると小さな容器を開けてうごめく黒い物体をあおる。そして苦痛に身をよじりながら滝の底へ身を投じた。損壊するその肉体からDNAが水中へほとばしる――。なんという劇的なオープニング。これがヒトという種の起源を暗示するシーンなのか・・・・・・。謎を抱えながら、物語は一気に時を超え西暦2093年の宇宙へ飛ぶ。

当初はあのSF娯楽映画の傑作「エイリアン」の前日譚として企画されたというこの作品、紆余曲折の末、「エイリアン」の世界観を踏襲しつつも、リドリー・スコット監督の新たなSF大作となったのはまちがいない、と個人的には思っている。「エイリアン」へとつながる舞台装置とプロットが随所に織り込まれ、エイリアン・ファンには楽しめる映像のオンパレードなのだが、あまり思い入れのない方々の目にどう映るかはまた別の話。人類の起源を探る壮大な旅、などという前宣伝をそのまま受け取られた方には、もしかすると見当違いの2時間4分だったかもしれない。

人類は知的存在へと驚くほど短期間に進化したとか、類人猿から人類への進化の過程にはミッシングリンクが存在しているとか、古代文明の壁画には宇宙人らしき巨人が描かれているといった通説は、私たちの好奇心を否応なくかき立てる。それは人類に知性を授けた何者かが介在しているのではないかというSF的ロマンへと私たちを誘う。自分たちは何者で、どこから来たのか――この問いに憑かれた科学者一行は、創造主〈エンジニア〉との対面を切望していたウェイランド社総帥の思いを乗せた宇宙船プロメテウス号に乗船し、古代壁画に描かれていた惑星を目指す。けれどもストーリーが進むにつれて、観客は創造主とのロマンチックな出会いはないことを思い知らされる。惑星LV-223で彼らが遭遇する創造主は、まさしく「主は与え、主は奪う」といったたぐいの神だったのだ。

映画「エイリアン」でH.R.ギーガーがデザインを手がけた異星人(いま思えばエンジニア)の宇宙船とミイラ化したその遺体(ゾウのような頭部はヘルメットだった)や、遺跡内に無数に並ぶ壺状のアンプル(エイリアン・エッグに似て不気味)、そしてウェイランド社(本作の時点ではユタニとの合併前)の密命を帯びたアンドロイドの登場など、あの衝撃作を髣髴させる大道具、小道具の数々がワクワク感を煽る。極めつきは終盤で登場する巨大な幼体と、エンジニアの体を破って出てくる寄生生物の姿。私にはそれがエイリアン・クイーンに見えたのだが、どうなのだろう。

一方、物語の骨格を支えるキャストの存在感もなかなかのもの。主演の考古学者エリザベス・ショウを演じたノオミ・ラパスは、ミレニアム・シリーズのリスベット・サランデルに負けず劣らずの熱演ぶり。ハリウッド女優のような華がないと見る向きもあるだろうが、役に入れ込む根性だけは評価したい。「モンスター」で女優魂を見せつけたシャーリーズ・セロンは、今回は人かアンドロイドかと見紛うばかりの美しくも冷徹な監督官を好演している。存在感といえば、アンドロイド役を演じたマイケル・ファスベンダーも忘れられない。その中性的な美しさは、エイリアンシリーズの中では最も魅力的なアンドロイドと言っていいと思う。

映像面でも見所が多く、謎を謎として楽しみながら鑑賞すればSF娯楽作としてはほぼ満点。疑問の数々は、ショウがエンジニアの惑星へ旅立った次回作へと持ち越されるのかもしれない。ただ人類の起源を探る旅はそのまま、エイリアンの起源を探る旅でもあることを、もう少しPRしてもよかったのではないだろうか。



満足度:★★★★★★★★★☆


<作品情報>
   監督:リドリー・スコット
   脚本:デイモン・リンデロフ/ジョン・スパイツ
   製作:リドリー・スコット/トニー・スコットほか
   製作総指揮:マーク・ファハムほか
   音楽:マルク・ストライテンフェルト
   撮影:ダリウス・ウォルスキー
   出演:ノオミ・ラパス/シャーリーズ・セロン/マイケル・ファスベンダー/ガイ・ピアース
         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「プロメテウス」

  

DVD寸評◆ファニーゲーム

2009-08-19 17:18:05 | <ハ行>
  
 
  「ファニーゲーム」 (1997年・オーストリア)
   FUNNY GAMES

最後までなんとか観られた初めてのハネケ作品。製作は1997年(日本での初公開は同監督の「ピアニスト」がカンヌ映画祭でグランプリを受賞した2001年)。本作は2007年にナオミ・ワッツを主演に据え、監督自身の手によって「ファニーゲームU.S.A.」としてリメイクされている。噂に違わず、最後まで極度の緊張を強いられる作品だった。中盤、張りつめた空気がゆるむかにみえた数分間も、不気味な凪のような不安感にとらわれる。そして当然のように繰り返される悪夢の時間――。物語は、別荘へ向かう一台の車の空撮から始まる。湖畔のバカンスを楽しみに車を走らせるゲオルグ(ウルリッヒ・ミューエ)と妻アナ(スザンヌ・ロタール)、息子のショルシ。クラシックの楽曲が流れる車内で談笑する一家と、窓外の美しい避暑地の風景。しかし画面には突然、激しいパンク・ミュージックとともに、赤字のタイトルがかぶさってくる。陰惨な暴力を予感させるオープニングだ。

ここ十数年来、理不尽な犯罪に巻き込まれる恐怖はもはや虚構ではなくなった。私たちは報道を通じてゆえなき暴力犯罪を見聞きするたび、安穏な日常がいつ崩れ去るかもしれない不安に身震いする。90年代に撮られたこの映画は、善意から別荘に招き入れたふたりの青年が一家を恐怖で支配し、命を弄ぶ“ゲーム”に興じるさまをスクリーンに描き出す。こちらが感じる緊張感と不快感は、その場に居合わせたように生々しくリアルだ。それを煽るかのように、ハネケ監督は不敵にも終盤でふたりの青年にこう言わせている――「虚構は現実なんだろ?」「虚構は今みてる映画」「虚構は現実と同じくらい現実なんだぜ」――なるほど。たしかに虚実の壁が溶解したような錯覚をおぼえる映像体験だった。そうなると、あのリモコンによる巻き戻しや観客へのウインクは、「これは虚構だ」という単なる気休めのサインだったのか。露骨な暴力描写はほとんどないといっていいが、心理的サディズムに嫌悪感をおぼえる向きにはあまりお勧めしない。こちらも当分のあいだは、リメイク版をみる気は正直起きそうもない。

満足度:★★★★★★☆☆☆☆


<作品情報>
   監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
   製作:ファイト・ハイドュシュカ
   撮影:ユルゲン・ユルゲス
   出演:スザンヌ・ロタール/ウルリッヒ・ミューエ/アルノ・フリッシュ/フランク・ギーリング
         

<参考URL>
   ■関連商品  「ファニーゲーム」(DVD)
            「ファニーゲームU.S.A.」(DVD)
 

DVD寸評◆ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

2009-07-11 13:45:15 | <ハ行>
  

  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」 (2001年・アメリカ)
   HEDWIG AND THE ANGRY INCH

先月コメントを寄せてくださった、かななさんご推薦の一本。存在は知っていたけれど、DVDパッケージのヘドウィグの顔に気おされて、なかなか借りる気になれなかった作品。ところが、これがなかなかの秀作だった。原作はヘドウィグを演じたジョン・キャメロン・ミッチェルが舞台劇として書いたロックミュージカル(もともとはニューヨークのナイトクラブの出し物だったらしい)。90年代にオフブロードウェイでヒットを飛ばし、熱狂的なファンを生んだこのミュージカルは2001年に映画化され、サンダンスはじめ国内外の映画祭で注目を浴びた。出だしから圧倒されるライブ映像と、アニメーションを交えて語られる波乱万丈の物語は、東ドイツ生まれの性転換者にして報われない愛の求道者、ヘドウィグの裸形をスクリーンにさらけ出す。時に激しく辛辣に、時に哀切を帯びて歌われる数々のロックナンバーとそのライブパフォーマンスは、どれも刺激的で心に突き刺さる。

ドラッグクイーン特有の毒々しい印象は、彼女(彼?)の夢と挫折、愛と裏切り、ロック(動)と思索(静)の物語を通して解毒化され希釈され、一同性愛者の数奇な半生は徐々に性や国籍を超えた普遍の人間ドラマへと変貌を遂げる。それは不完全な個という意識が生み出した楽曲、「オリジン・オブ・ラブ」(愛の起源)を主旋律に片割れを求め続けたヘドウィグが、旅路の果てに見出した完全さへ到る物語でもある。愛は求め合い補完し合うこと、という意識からついに解放されたヘドウィグが、衣服もまとわず夜の通りへ歩き出す姿は、そのまま彼の魂の解放を象徴する美しいラストだった。ヘドウィグを裏切ったロックスター、トミー・ノーシスを演じたマイケル・ピットは、その後カート・コバーンを描いたガス・ヴァン・サント監督作品「ラストデイズ」に主演している。(劇中のバンド「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」の楽曲は、サウンドトラック「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ オリジン・オブ・ラブ 」(amazon.co.jp)で視聴できます)。


満足度:★★★★★★★☆☆☆


<作品情報>
   監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
   製作:パメラ・コフラー/ケイティ・ルーメル/クリスティーン・ヴァション
   製作総指揮:マイケル・デ・ルカ/エイミー・ヘンケルズ/マーク・タスク
   原作・戯曲:ジョン・キャメロン・ミッチェル/スティーブン・トラスク
   脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
   音楽:スティーブン・トラスク
   出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル/マイケル・ピット/ミリアム・ショア
       スティーブン・トラスク/セオドア・リスチンスキー

         

<参考URL>
   ■関連商品  「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」(DVD)
            「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ オリジン・オブ・ラブ」(サウンドトラック)
 

バーン・アフター・リーディング◆豪華キャストが競い合う笑いの沸点

2009-04-26 17:55:37 | <ハ行>
   画像:Burn After Reading: DVD (Amazon.co.uk)

  「バーン・アフター・リーディング」 (2008年・アメリカ)
   BURN AFTER READING
世間ではエリートといわれる“いい大人”たちが、エゴイスティックに立ち回るみっともない姿を、傍からのぞき見るのはおもしろい。そこへ、彼らのヘマに付け入ろうとするおバカたちが絶妙の横槍を入れるものだから、苦笑、爆笑、忍び笑いの連続。そうこうするうちに事態はますますこんがらがって、予想もしない方向へ走り出す。ちょっぴりシリアスだけど、やっぱりコメディ。それも緻密に計算されたレシピに、豪華な食材をふんだんに盛り込んで作られた、大人のための贅沢な一品。「ノーカントリー」のシリアスさは払拭され、滑稽さは「ファーゴ」に近いけれど、話の転がり方にはますます拍車がかかって、コーエン兄弟ならではの諧謔度にさらなる磨きがかかっている。

まずは盛り込まれた豪華食材に目を見張る。飲酒癖でCIAをくびになり、当てつけがましく回顧録を執筆すると息巻く元局員オズボーンに、「マルコヴィッチの穴」でシュールな役どころを演じたジョン・マルコヴィッチ。その妻で不倫中の女医ケイティに、「ナルニア国物語/ライオンと魔女」のティルダ・スウィントン。ケイティと不倫しながら、出会い系サイトの常連でもある財務省連邦保安官ハリーに、ジョージ・クルーニー。その彼と出会い系で知り合う整形願望の中年女リンダに、コーエン作品の看板女優で「ファーゴ」でアカデミー賞主演女優賞に輝いたフランシス・マクドーマンド。リンダの同僚でフィットネスクラブの従業員チャドに、ブラッド・ピット。そして二人のおバカな計画に歯止めをかけようとするジムの支配人テッドに、リチャード・ジェンキンス。驚くのは、この目を見張るようなキャスティングだけではない。彼らが演じる役まわりが、それぞれバカ丸出しの滑稽きわまるキャラクターなのだ。なかでも強面なのに妻の不倫に気づかない(それとも気づいてた?)間抜けな変人ぶりを発揮したマルコヴィッチと、筋肉バカの三枚目を生き生きと演じたブラピは見もの中の見もの。二枚目のブラピ以外は認めないというブラピ・ファンには、タブー的内容になっているのがおもしろかった。

人が何かを必死で手に入れようと切羽詰まっている姿が、こんなにも滑稽とは!コーエン兄弟の人間観察の鋭さと、綿密に作り込まれた本づくりには改めて脱帽。複雑怪奇に絡み合った事態を収拾しようと躍起になるCIAのお家芸も、問題のディスクをロシア大使館に持ち込もうとするおとぼけ加減も笑えた。「バーン・アフター・リーディング」(読了後に焼却=極秘文書の意味)というつまらない邦題を除けば、エンドクレジットまで存分に楽しめた一作だった。


満足度:★★★★★★★★☆☆


<作品情報>
   監督・脚本・製作:イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン
   製作:ティム・ビーヴァン/エリック・フェルナー
   撮影:エマニュエル・ルベツキ
   音楽:カーター・バーウェル
   出演:ジョージ・クルーニー/フランシス・マクドーマンド/ブラッド・ピット
       ジョン・マルコビッチ/ティルダ・スウィントン/リチャード・ジェンキンス

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「バーン・アフター・リーディング」
   ■関連商品 「Burn After Reading」(DVD)
    

ブラインドネス◆「盲目」を通してえがく極限の寓話

2008-11-23 23:32:50 | <ハ行>
  

  「ブラインドネス」 (2008年・日本/ブラジル/カナダ)

視界を覆う白い闇。都会の真ん中で突如はじまる視覚の異変にとまどう人々。眼球にも視神経にも異常は見られず、失明の原因は不明。ほんの数分間の接触でも感染するこの謎の奇病は、次々と人々の視力を奪い、やがて彼らの品位も良心も尊厳も軽々と奪い去っていく。「見えない」世界をさまよう人々を襲う戸惑いと、混乱と、生存を賭けた戦いを、映画は発端、蔓延、収束の三つのフェイズを通して描く。

原作はポルトガルの国民的作家、ジョゼ・サラマーゴが1995年に発表した小説「白の闇」。国内外でベストセラーとなり、ノーベル賞受賞の直接のきっかけとなったこの作品は、視力を失った人々が直面する状況を、強烈な寓意を込めて描き出す。原題は「見えないことについての考察」(Ensaio sobre a Cegueira)。原作を読むと、小説の体裁がとても変わっていることに気づく。会話はカッコで括られることなく地の文と混じり合い、改行の少ない文章が区切りなく続く。登場人物には全員、名前がない。失明した男、車泥棒、医者、医者の妻、サングラスの娘、斜視の少年、警察官、首領、眼帯の老人・・・・・・。主要人物にさえ固有名詞を与えず、物語の舞台を明確に設定しないことで、作品はいっそう寓話的な意味合いを帯びていく。

映画化への道は容易ではなかったようだ。脚本を手がけたカナダ人監督で俳優のドン・マッケラー(本作では「泥棒」役を演じている)は、映画化のオファーを断り続けるサラマーゴを根気よく説得し、「作品を間違った人の手に渡したくない」という原作者の気持ちを変えさせることに成功した。マッケラーは、原作のエッセンスである寓意性と「見えないこと」への洞察を存分に盛り込みながら、緊迫感に満ちた脚本を完成させ、かねてから「白の闇」の映画化を夢見ていたフェルナンド・メイレレスに託した。「シティ・オブ・ゴッド」「ナイロビの蜂」で、社会性のあるテーマを重層的な人間描写で鮮烈に描いてみせたメイレレス監督に、「白の闇」は願ってもない素材だったろう。

スクリーンには原作にほぼ沿ったストーリーが展開するが、キャスティングには映画特有の工夫が凝らされている。名前のない主要人物たちは白人、ラテン系、黒人、アジア系と多様な人種グループから成り、のちに疑似家族をつくる一団の多国籍ぶりを際立たせている。感染の発端となる“最初に失明した男”には伊勢谷友介、その妻に木村佳乃という配役はやや意外だったが、二人の話す英語は他のキャストと比べて遜色がなく、結果的に無国籍(あるいは多国籍)の都市を舞台に展開する本作には、違和感のない配役だったと思う。物語は失明した男が訪れる眼科医(マーク・ラファロ)を介して感染が徐々に広がっていく冒頭部分から、発病者が隔離収容される施設へと移っていく。医者とともに施設に同行した妻(ジュリアン・ムーア)は、日々増え続ける失明者の中でただひとり、正常な視力を保ち続ける。中盤からは政府に見放された施設内で起きる混乱の中で、「見える者」としての務めを果たそうとする彼女の苦悩を軸に、暴力を振りかざし、不当な要求を突き付けてくる第三病棟の“王”(ガエル・ガルシア・ベルナル)との緊迫した抗争を描く。やがて放火によって焼失した施設から、隔離を解かれた一団が外の世界へさまよい出る。そこで観客ははじめて、文明が崩壊した世界をさまよう盲人の群れを目にすることになる・・・・・・。

「見えること」を前提に築かれた私たちの日常が、突然の視力の喪失によってどのような変貌を遂げるかは、目を閉じてほんの数分間、家の中を歩いてみればわかる。悲しいくらい、まったくの無力。もし社会全体に失明者があふれたら、そこには間違いなく地獄が出現する。政府機関は機能を失い、ライフラインは遮断され、流通はストップ。都市では事故が多発し、感染の恐怖から人々のあいだにパニックが広がる。理性を失った群盲が繰り広げる浅ましい争奪戦のはてに、人としての尊厳をかなぐり捨てた混乱の世界が露呈するだろう。人間の獣性がむき出しになった荒廃した世界の中で、互いをいたわりながら生存への希望をつなぐ人々は、ささやかな勇気を奮い起し、危機を乗り越えようと手を取り合う。世界が“盲目”になるという設定は単なる比喩にすぎないと原作者は言い、見えているのに見ないことの愚を、映画は白い画面へのフェードイン(あるいは白い画面からのフェードアウト)に託して繰り返し観客に問いかける。しかし“家族”となった一団がたどる道は、思いのほか明るい。失明の衝撃をそれぞれが乗り越えて、反転した視野の奥に内なる平穏を見出したとき、希望は突然姿を現す。この救いのあるラストが、たまらなく好きだ。


新設コーナー!
【トリビアル・メモランダム】
原因不明の感染病が蔓延して社会がひっくり返るという展開は
「ハプニング」に似ていますね。
波が引くように終息するところも同じだし・・・。
どちらもただのパニック映画ではなくて、描かれる現象の裏に
どこか啓示的な色合いを感じ取れるのがミソ。
終盤の混乱した都市の風景は、てっきりアメリカ東部の都市かと思いきや
ブラジルのサンパウロで撮影されたとのこと。
さまざまな人種を受け入れながら変貌する国際都市だそうで
世界のどの都市にも見えるところが映画の舞台にぴったり。
ところで原作「白の闇」には続編があります。
人々を失明させた病の終息から4年後、政治的混乱に陥った首都を
描いた作品で、医者の妻たちが脇役として再登場するらしい。
タイトルは「見えることについての考察」――またもや意味深・・・
なお邦訳はまだ出ていないそうです。


満足度:★★★★★★★★☆☆


<作品情報>
   監督:フェルナンド・メイレレス
   原作:ジョゼ・サラマーゴ
   脚本:ドン・マッケラー
   製作:ニヴ・フィッチマン/アンドレア・バラタ・リベイロ/酒井園子
   出演:ジュリアン・ムーア/マーク・ラファロ/アリス・ブラガ/伊勢谷友介
      木村佳乃/ダニー・グローバー/ガエル・ガルシア・ベルナル

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ブラインドネス」
   ■Wikipedia ジョゼ・サラマーゴ
   ■原作 「白の闇」(ジョゼ・サラマーゴ著/NHK出版)
  
   

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ブーリン家の姉妹◆歴史を変えた女たち、その光と影

2008-10-30 13:48:13 | <ハ行>
  

  「ブーリン家の姉妹」 (2008年・イギリス/アメリカ)

16世紀、6人の女性との結婚・離婚を繰り返したイングランド国王ヘンリー8世の宮廷を舞台に、2人目の妃でエリザベス1世の生みの母となったアン・ブーリンと、その妹メアリーの運命を描いた歴史ドラマ。新興貴族ブーリン家の期待を背負って権謀術数の渦巻く宮廷に送り込まれ、国王の寵愛を得て世継ぎを生むことに命をかけた姉アンと、姉よりも先に国王の心を射止めてしまった妹メアリー。容姿も性格も対照的なふたりの姉妹がたどった道は、やがて大きく隔たっていく・・・・・・。

イングランドがローマと袖を分かち、英国国教会を成立させるきっかけとなった、ヘンリー8世とアン・ブーリンのスキャンダラスな結婚。政治戦略と世継ぎ問題の陰で繰り広げられる泥沼の愛憎劇は、野心に引きずられて破滅を招くひとりの女の悲劇を浮き彫りにする。映画では、一家の期待を一身に集める聡明な長女アンにナタリー・ポートマン、姉の影で人知れず咲く花のような妹メアリーにスカーレット・ヨハンソンを配して、イングランドの王朝とゆかりのあったブーリン姉妹のキャラクターを際立たせる。しかし、物語には史実とちがう点もあり、たおやかな魅力にあふれたメアリーは姉で、才気はあるが小柄で色黒のアンは妹、というのが歴史家の定説のようだ。ブーリン家は歴代の貴族の家柄ではなく、アンの曽祖父が織物商として財を成し、貴族の跡取り娘と結婚したのが始まりという、いわば新興貴族。しかしアンの母親は名門ノーフォーク公爵家の出であり、アン自身は十代のころからフランスの宮廷で教育を受けた貴婦人であったらしい。作中ではアンの父と母方の叔父トマス・ハワードが、アンを国王に差し出すため画策したように描かれているが、もともとアンはヘンリー8世の最初の妃キャサリンの侍女として宮廷に上がっており、そこで国王に一目ぼれされたのが事実だといわれている。

史実はともかく、映画の原題「The Other Boleyn Girl」(もうひとりのブーリンの娘)からもわかるように、物語はアンと並んで妹メアリーのたどる運命にも光を当て、ひとりの男をめぐって激しく揺れ動く姉妹の心の襞をつづっていく。当時の宮廷にはびこる貴族や女官たちの醜い確執のなかで、国王の愛よりも王妃という立場にこだわり続けたアンの悲壮な思いは、見ていて居たたまれない気分になる。生まれながらの素朴さで、癒しを求める国王の愛を難なく得たメアリーとくらべると、才気が勝るがゆえに、ますます王の愛を取り逃がす羽目になるアンの姿は痛々しい。王冠を得た後は世継ぎを産むという強迫観念に取り付かれ、ボロボロになっていくくだりには、同性として深い哀れみをおぼえずにはいられない。やんごとなき家柄の跡継ぎ問題というのは、古今東西の別を問わず、女性にとっては命がけの仕事なのだなあと改めて感じた。

ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は、一国の宗教を変えさせてしまうほどの歴史的事件であったわけで、アンの一生に軸足を置けば(刑死というドラマチックな結末からみても)、さらに見ごたえのある歴史劇になったのではないだろうか。アンがなぜ策を弄してまで王冠と男子出産にこだわったのか、その切羽詰った思いを生んだ背景にいま一歩踏み込んで、アンの苦悩と葛藤をもう少し見てみたかった気がする。実際そう思わせるだけの魅力が、ポートマンの演じるアン像にはあった。そこをあえて踏みとどまり、姉妹を並列に描くことでふたりの分かちがたい絆に焦点を当てた本作には、やはり歴史大作とは趣のちがう手作りの魅力がある。エリック・バナ演じる国王ヘンリー8世にも、時の権力者であり好色家としての脂ぎった面より、むしろ本能に引きずられる男の弱さ、浅はかさが一貫してにじみ出ていた。存在感のある男性キャラクターに、観客が怒りより哀れみを感じるような演出は、ラストの悲劇を中和させる監督の巧みな計算なのかもしれない。


満足度:★★★★★★★☆☆☆



<作品情報>
   監督:ジャスティン・チャドウィック
   製作:アリソン・オーウェン
   製作総指揮:スコット・ルーディン
   原作:フィリッパ・グレゴリー
   脚本:ピーター・モーガン
   衣装:サンディ・パウエル
   出演:ナタリー・ポートマン/スカーレット・ヨハンソン/エリック・バナ
       デビッド・モリッシー/クリスティン・スコット・トーマス/ジム・スタージェス

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ブーリン家の姉妹」
   ■フィリッパ・グレゴリー原作 「ブーリン家の姉妹」(上下巻・集英社文庫)
  
   

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ボーダータウン 報道されない殺人者◆かき消された女たちの悲鳴

2008-10-20 16:23:41 | <ハ行>
   

  「ボーダータウン 報道されない殺人者」 (2006年・アメリカ)

実話をもとに、アメリカのメディアも報道を避けていた未解決の殺人事件を描いたサスペンスの力作。舞台はアメリカと国境を接するメキシコ北部の町、シウダ・フアレス。この国境地帯には、NAFTA(北米自由貿易協定)のもとに誘致された、マキラドーラと呼ばれる外国資本の工場が建ち並び、メキシコの安価な人件費を利用して大量の工業製品を生産、国外へと出荷している。この町で、1993年から15年にわたって、工場で働く女性たちが次々と殺害され、無残な姿で発見されるという事件が頻発している。犠牲者の多くは10代前半から20代前半。その数は2008年までに500人、一説には5000人に上るともいわれている。この事件の背後にひそむ深い闇を、サスペンスドラマの形を借りて世界に告発しようと試みたのが本作だ。

主人公はシカゴの新聞社で働く野心家の女性記者、ローレン・エイドリアン(ジェニファー・ロペス)。上司モーガン(マーティン・シーン)からメキシコ国境の町、シウダ・フアレスで起きている連続女性殺害事件の取材を命じられたローレンは、海外特派員のポストを条件にメキシコへ向かう。かつての取材仲間で現地新聞社の編集長ディアス(アントニオ・バンデラス)を訪ねたローレンは、事件の報道を続けるディアスの新聞が、当局の度重なる圧力で廃刊の危機に瀕しているのを知る。そのころフアレス郊外の砂漠から、傷だらけの少女エバ(マヤ・ザパタ)が生還する。工場からの帰りのバスに乗り合わせたところを複数の男たちに襲われ、暴行を受けて砂漠に埋められていたのだ。九死に一生を得たエバから証言を引き出し、事件の真相を暴こうと決意したローレンは、危険をかえりみずに連続殺害事件の核心へと迫っていく・・・・・・。

まずは本作の題材であるフアレス市での女性殺害事件が、映画が公開された現在でも、いまだに司直の手が及ばない未解決事件である点を確認しておきたい。Amnesty Internationalのサイト内検索窓にシウダ・フアレス市のつづり「Ciudad Juárez 」を入れると、100件近い検索結果が上がってくる。またアムネスティ・インターナショナル 日本でも、この映画の解説と背景Q&Aのページを設けているので、関心を持たれた方はぜひご覧いただきたい。上述の資料によれば、いまなお犠牲者の絶えない事件でありながら(アムネスティの今年の報告によれば、2007年の犠牲者数は25人を超える)、肝心の捜査が進まない理由は、犯行に絡んでいるのがメキシコの麻薬マフィアや政府筋の人間と見られているからで、そのため地元警察や州警察が犯行そのものを黙認・隠ぺいしているという見方がある。さらに女性への暴力行為が横行するメキシコの社会事情も、事件発覚の遅れに少なからず関係しているようだ(アムネスティによれば、メキシコ女性の4人に1人がパートナーから暴力を受け、その8割以上が警察への通報を行わない。女性の人権が軽視され、警察も捜査に動かないのが現実だという)。

しかし、問題はメキシコの国内事情ばかりではない。劇中、決死の取材を終えたローレンがスクープ記事を書き上げ、翌日には輪転機が回るというとき、シカゴの新聞社へ思いもよらぬ横槍が入る。自由貿易協定を中米まで拡大する法案を可決させたい上院議員と、国境地帯に工場を所有する企業の上層部が、すかさず上司に圧力をかけてくるのである。記事が掲載されれば不利益をこうむる彼らは、事件の真相を闇へ葬ろうと画策する。報道の自由とメディアの独立性を必死に訴えるローレンに、「いまはもう調査報道の時代じゃない」と言い放つモーガン。報道が企業の動向を無視できなくなったことをほのめかす、この生々しいやりとりには心底ぞっとするものがある。正義の最後の砦であるはずの報道機関が、大企業の論理で操られるとしたら、力なき者の身はいったいだれが守るのだろう。企業によるメディア買収が盛んなアメリカでは、いっそうのリアリティが感じられるシーンだ。

現地で犯罪を隠ぺいしようとする警察や市当局。いっこうに減らない猟奇事件の犠牲者と、いくらでも補充可能な安価な労働力。経済格差と優遇措置を背景に膨大な収益を吸い上げるアメリカの企業。その利益を最優先するアメリカのメディア。そして結果的に握りつぶされる悲惨な事件の顛末・・・・・・自由貿易協定が生み出したメキシコ社会の闇は、まるで円環する悪夢のようでもある。本作には、すっきりとした結末は望めない。ただメキシコ移民の血が流れるローレンが、髪を金髪に染めるのをやめ、フアレスに取材の拠点を移す決意の中に、かろうじて報道者としての良心をかいま見るのみだ。犠牲になったマキラドーラの女性たちの死は、おそらく形を変えて世界中に存在している。彼らの苦痛に思いを致すとき、映画は犯罪サスペンスの枠組みを超え、グローバル化した世界の構造的ひずみを露呈してみせるのだ。


満足度:★★★★★★★☆☆☆



<作品情報>
   監督・製作・脚本:グレゴリー・ナヴァ
   製作:サイモン・フィールズ/デビッド・バーグスタイン
   製作総指揮:バーバラ・マルティネス・ジットナーほか
   音楽:グレーム・レヴェル
   出演:ジェニファー・ロペス/アントニオ・バンデラス/マヤ・サパタ
       マーティン・シーン/ファン・ディエゴ・ボト/フアネス(特別出演)

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ボーダータウン 報道されない殺人者」
   ■DVD情報(輸入版) Amazon.com 「Bordertown」
   ■アムネスティ・インターナショナル日本/本作の「解説と背景」 「Q&A」

   

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DVD寸評◆ファーストフード・ネイション

2008-09-12 21:30:45 | <ハ行>
   

  「ファーストフード・ネイション」 (2006年・イギリス/アメリカ)

大手ハンバーガーチェーンの内幕を暴いたエリック・シュローサーのルポルタージュ「ファーストフードが世界を食い尽くす」(First Food Nation)をフィクショナライズした本作は、外食産業に依存しがちな諸兄諸姉にはぞっとするお話。とあるハンバーガー・チェーンの牛肉パテから、糞便性大腸菌が検出されたという検査結果が出る。報告を受けた本社幹部が、出荷元の牧場や下請けの精肉工場を視察するうちに、現場のずさんな衛生管理と、従業員である不法就労者の置かれた劣悪な環境が明らかになっていく。一方、チェーン店のアルバイト学生は環境保護グループに接近するうちに、ファーストフード業界で働くことに強い疑問を感じはじめる・・・・・・。安い、早い、(うまい?)を合言葉に全米はおろか世界を席巻したファーストフード。業界の驚くべき裏事情を暴きながら、利益至上主義の企業のモラル、不法就労の実態、現場で横行するハラスメント、浮上する環境問題などを管理、製造、販売に従事する三者の視点から描いている。

ここ数年、日本でも嫌というほど頻発する食品業界の偽装事件。ついには主食であるコメの偽装までが発覚し、もはや安全な食品はないのではと悲観したくなるような状況だ。食の安全を二の次に、自社の利益を追求する食品会社に非があるのは言うまでもないが、外食や手軽な食品に頼りたがる消費者の食に対する意識の低さが、日本の食文化の崩壊を招いているのはまちがいない。本作で描かれるのはアメリカのファーストフード業界の実態とはいえ、背筋の寒くなるような話はアメリカに限ったことではないだろう。この際、安全でおいしい食事は、時間と手間と良質の食材に創意工夫をプラスして、初めて得られるものだという当たり前のことを、いいかげん再認識したほうがよさそうだ。ふだん、いかに手を抜くかばかり考えている自分にとっても、まさに自戒の一作。もう「見ぬもの清し」なんて言っている場合ではない。

イーサン・ホーク、アヴリル・ラヴィーンら、リンクレイター監督のもとに集ったキャストの面々も見どころのひとつ。


満足度:★★★★★★★☆☆☆



<作品情報>
   監督・脚本:リチャード・リンクレイター
   原作・脚本:エリック・シュローサー
   製作:ジェレミー・トーマス/ジェフリー・スコール/マルコム・マクラレン
   出演:グレッグ・キニア/イーサン・ホーク/パトリシア・アークエット/アヴリル・ラヴィーン
       カタリーナ・サンディノ・モレノ/クリス・クリストファーソン

         

<参考URL>
   ■公式サイト 「ファーストフード・ネイション」
   ■DVD情報 amazon.co.jp 「ファーストフード・ネイション デラックス版」
   ■原作(翻訳版)「ファーストフードが世界を食い尽くす」(エリック・シュローサー著・草思社)

   

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ハプニング◆絵空事でない滅びの暗示

2008-07-29 17:47:54 | <ハ行>
  

  「ハプニング」 (2008年・アメリカ)

公式サイトで配布されている「ハプニング」のブログパーツには驚かされたが、映画本編で起きるさまざまな現象は、「シックスセンス」以来のシャマラン監督のお家芸としては、さほどのインパクトは感じなかった。かといって試写会評などで囁かれているような、期待を裏切る失敗作とも思えない。どこまでもありのままに、(語弊があるかもしれないが)適度に心地よく展開していく流れは、この世の常ならぬありさまを映し出しているようで、好感すらおぼえた。なぜなら、現状ではだれにも説明できないことは世界にいくらでもあり、その解答を拙速に求めたがるのは私たちの驕り(おごり)だと思うからだ。たとえば冒頭で主人公の科学教師・エリオット(マーク・ウォールバーグ)が生徒に問いかけるミツバチの大量失踪の謎(蜂群崩壊症候群(CCD)参照)は、ミツバチの免疫力の低下や帰巣感覚の喪失など諸説はあるものの、その原因ははっきりしていない。生徒のひとりが答えたように、「自然界には未知の領域があり、いまだ解明されないことがある」という見方がもっとも妥当であり、好意的にとれば、この映画は自然現象に翻弄される人間のありようを謙虚に受け止めるべきだと訴えているように思う。

「ハプニング」というタイトルどおり、観客は突然はじまった異常事態の中に放り込まれ、主人公と一緒に恐怖を体験する。地震や台風や津波のように、それは抗しがたい力で人々を襲い、一定の時間猛威を振るったあと収束に向かう。目に見えない脅威という意味ではウイルスや化学兵器を連想させるものの、その本体が何で、どのように人間の感覚を狂わせるのかは謎のままだ。エリオット夫婦と行動を共にする風変わりな農場主は、植物には外敵から身を守るために毒素を放出するものがあり、さらに植物どうしは種がちがってもコミュニケーションを取れると話す。この説を信じたエリオット一行は、木立や草原を吹きわたる風の声に耳を傾け、植物に不必要な刺激を与えないように注意を払いながら田園を逃げまどう(このあたりは「ゾーン」の仕掛ける罠に気を配りながら廃屋を目指して草むらを進む「ストーカー」のシーンと似たものを感じる)。森の梢から吹き降りた風が、草をなぎ倒しながら一行の頭上を掠める場面は、スリリングでありながら自然のたおやかさと神秘性を感じさせて、なぜか清々しい。本来、自然界にはかすかな音や光や風の動きがあり、そこにはさまざまな変化を暗示する兆候が表れているのかもしれず、私たちが五感を研ぎ澄まして謙虚に問いかければ、自然は多くの答えを与えてくれるかもしれない。エリオットたちの安全への逃避行は、近代以降私たちが失ってしまった、人と自然が本来取り結ぶべき絆のかたちを暗示しているようで興味深い。

アメリカ東部を襲った異常現象は解明されないまま収束し、ヨーロッパへ飛び火するシーンで映画は終わる。自然への畏怖の念を喚起することが監督の意図だとしたら、あえて事態に説明を加えないという演出は納得がいく。ネット上に散見される「2012年地球滅亡説」を挙げるまでもなく、数年後には現実となるかもしれない脅威はすでに私たちの日常に影を落としている。「ハプニング」はもうシャマラン監督の描いた絵空事ではないと感じるくらいの感性は、だれもが持つべき世界になってしまった。残念なことではあるけれど・・・・・・。

                
満足度:★★★★★★★☆☆☆




<作品情報>
   監督・製作・脚本:M・ナイト・シャマラン
   撮影:タク・フジモト
   音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
   出演:マーク・ウォールバーグ/ズーイー・デシャネル/ジョン・レグイザモ
       ベティ・バックリー/アシュリン・サンチェス

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「ハプニング」
   ■Wikipedia 蜂群崩壊症候群(CCD) 




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百万円と苦虫女◆すがすがしい「自分離れ」のロードムービー

2008-07-24 14:52:24 | <ハ行>
  

  「百万円と苦虫女」 (2008年・日本)

なんともタイトルがユニークで意表をつく。主人公の佐藤鈴子(蒼井優)を苦虫女と表現するのが適切かどうかはわからないけれど、少なくとも「スイーツ」やら「癒し」やら「コスメ」やら「自分磨き」に日々血道を上げるタイプの女でないことだけは確か。鈴子はひたすら居場所を変えながら貯蓄額百万円をめざして黙々と働く。なぜか? 息の詰まる鬱陶しい他人との関わりを断ち切って、風に舞う花びらのように、しばしのあいだ宙を漂っていたいのだ。人はだれもが自分を映す鏡。煮詰まった人間関係には、いやでも自分の人生が投影されてしまう。もし自分自身から逃げたくなったら、だれも自分を知らない見知らぬ土地へひとりで旅立つしかない。それは究極の「息抜き」であり、すがすがしい「自分離れ」の儀式だ。

鈴子の旅は、前科の付いてしまった自分と周囲との軋轢(あつれき)という最悪の地点からスタートする。それでも彼女の逃避行をすこしも重く感じないのは、頑固でまじめで不器用な鈴子の発するどこかユーモラスな持ち味と、旅先での心温まる出会いの風景だろう。余裕をもって暮らすための資金、百万円が貯まったら別の土地へ移り住むというルールは、根なし草のように漂う鈴子の生きるよすがとして彼女を支えている。だからアルバイト先の海の家でナンパされても、山の村で宣伝ガールの桃娘を無理強いされても、(桃の村では百万円は貯まらなかったかもしれないが)結局は断って旅立っていくのだ。人との関わりにとまどい、心を閉ざしていた鈴子が揺らぎを見せたのは、地方都市のバイト先で知り合った大学生・中島(森山未來)に心の内を明かしてしまった時。お互い惹かれあい、やっと鈴子にも幸せが訪れるのかと思いきや、中島の不可解な行動が鈴子の心をかき乱す。百万円という足枷(あしかせ)が仇になるこのあたりのエピソードは、うっかりだまされてしまうくらい実におみごと(なぜなら小金持ちの女にたかる男は世の中にはたくさんいるだろうし、まじめな女に甘えるのが上手な男はそれ以上にいるはずなので、鈴子に思いを重ねる観客は「中島くん、お前もか」と内心ヤキモキしてしまうのだ)。

ラストでふっきれたように旅立っていく鈴子の視線の先にいる中島は、あのあと歩道橋を全速力で駆け上がっていくのだろうか。すべてまで見せずに終わる心にくい演出は、鈴子にまだ旅を続けさせたいという監督の思いの表れかもしれず、それはまた多分に観客の願いを汲んでいるとも思った。鈴子の弟のエピソードを通して描かれる学校でのいじめや、桃の村が象徴する過疎化や地方の経済格差の問題など、さりげなく世の四方に目を配りながら、数十年来のブームである「自分探し」の愚を真っ向から指摘した点はまさに快挙。「探さなくたって(自分は)いやでもここにいますから」という鈴子のせりふは、「自分探し」に疲れはてた人にもほっとする救いの言葉になるだろう。

                
満足度:★★★★★★★★☆☆




<作品情報>

   脚本・監督・原作:タナダユキ
   主題歌:原田郁子(クラムボン)「やわらかくて きもちいい風」
   出演:蒼井優/森山未來/ピエール瀧/竹財輝之助
        齋藤隆成/笹野高史

         

<参考URL>
   ■映画公式サイト 「百万円と苦虫女」
   ■原作本 amazon.co.jp 「百万円と苦虫女」(幻冬舎刊)
   ■サントラ 「百万円と苦虫女 オリジナル・サウンドトラック」  




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