朔太郎の気楽な一日

ミニチュアダックスフンドの朔太郎です。よろぴく!

難しい話が・・・

2010年09月13日 | 黒革の手帳
この前宗教心って言葉が出てましたので書いておきます。
中野先生の御本の中で、こうありました。

何か自分が気にかかるという心、自分の言ったり、したりしていることが気にかかる。
「いらんことを言わなんだらよかったな」「あんなことをしなければよかった」
自分のしたことに気がとがめる。自分のしたことが苦になる。

そういう心が人間の心の底に無意識のうちいつでもうごいているはずです。
それが宗教心なのです。宗教心というと、すぐになにか、ありがたい心だというように
とるけれども、それはあとの話です。

ついでに六波羅蜜の話

「波羅蜜」は度(わた)るということ。六つあるから六度の行。
度るとはさんずいの偏をつけると渡る。みずの上だけではないのです。
迷いの世界から仏の世界へ度る六つの行。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧・・・智慧だけが別格で仏の智慧

「布施」蒔かぬ種は生えぬで、取り込むばかりの狭い生活をしていると
あまりろくなことはない。幸せになる行として蒔いておけ。

蛇足ですが、金持ちになりたいなら・・・お金を欲しがらずに、「惜しい」
と思えば金はたまると話しておられました。

「持戒」・「ほどほどにしろ、むちゃするな」ということ。

「忍辱」・ならぬ堪忍するが堪忍。耐え忍ぶということ。

「精進」・一生懸命やれということ、稼ぐに追いつく貧乏なしです。

「禅定」・心を散らさないこと。精神統一をする。
農家であるのにサラリーマンをうらやましがったり、
商売人でありながら月給取りをうらやましがったり、そんなのは心が散っている。
そうではなく、家業に惚れ込む。家に惚れ、女房に惚れ、家業に惚れていたら
まちがいないということ。

これらのことをやれば、人間が幸せになれる。しかし智慧がないとただ幸せになるというだけの
行で終わってしまう。
智慧があることによって仏法の行になる。自分を仏にしていく行になる。