やりきれない事件が起こった。送迎当番で2人の園児を乗せた母親が、通わせている幼稚園をスルーして人気のない水田地帯で車を停め、自分の娘の目の前で、予め持っていた刺身包丁で子供2人をメッタ刺しにして、車外に放り出して逃走したという、あまりにも常軌を逸した事件である。同年齢の娘と、同年代の妻を持つ自分は、今朝はじめてこのニュースに接し、思わず吐き気を催してしまった。
新聞報道の範囲で事件の背景を追っていくと、今後もこの種の事件が続くような気がして戦慄を覚える。加害者の国籍や既往歴が騒がれているが、ことの本質はそこにはないと思う。もちろん、この女性がしたことは許されることではないのだが、現在、自分が平和で幸せに暮らしていると思っている人も、孤独の中、数年にわたり大きなストレスを抱え、砂を噛むような毎日を送りながら、とことん追いつめられた人の状況を想像してみてほしい。
私は男性だが、つくづく男はラクしているなあと思う。よく「社内の人間関係に疲れて・・・」などと愚痴をこぼしている人がいるが、あまりにもナイーブというか脳天気だなあと思ってしまう。大体会社なんて、本当に自分が合わなければ辞めて他を探せばいいだけの話。そもそも勤め先というのは、ほぼ自分と同質の人間が集まっているところである。新卒であろうが、中途であろうが、そこを志望する人が人事部に「こいつは組織になじむかどうか」を判定・許可されて入社しているわけだから、一見バックボーンやキャリアは多様であっても、価値観や能力・学歴レベルは、ほぼ一定の範囲におさまっているものだ。たとえ、途中で異端児が出現しても心配しなくていい。優秀で山っ気がある人間なら、そこを飛び出していくだろうし、そうでなければ組織の論理が働き、自然淘汰されるような仕組みになっている。
このように同類項の集まりを保証されているから、日本のサラリーマンは安心して会社に通う。仕事が好きというよりも会社が好きな人も多く存在し、無駄な残業で同僚にちょっかい出しながら、そのまま「飲みニュケーション」に突入して、帰宅は午前様。これで家族には「仕事が忙しい」とか「疲れてる」とか「俺が稼いで食わせてやってる」などとうそぶいていればいいのだから、こんな既得権を男がなかなか手放せないのも当然である。これでストレスがたまるとかほざく人がいるから始末に負えない。こんな生活で溜まるわけないだろ!ストレスなんて。
たとえ、未知の地域に転勤になっても心配いらない。社内の互助組織に手厚く守られ、新天地の取引先の人に連れられて、土地の地酒や珍味などに舌鼓を打ちながら「郷に入れば郷に従えですね、がっはっはっは~」と上機嫌で気炎を上げていればいい。休日は接待ゴルフ。どれも初めてのコースだから、前夜もコースガイドを確認するのに余念がない。
こういうとき、見知らぬ土地に来て小さな子供を育てている奥さんはどうしているんでしょうか。というよりどうすればいいんでしょうか。
育児漫画で人気の高野優さんがエッセイか雑誌の人生相談か忘れたが、若いお母さんがママ友達がなかなかできないことを悩んでいるのに対して、
「公園で親友を探そうなんて、渋谷のスクランブル交差点で彼氏を見つけるよりもはるかに大変な荒業だよ」
と軽妙なたとえで回答していたことを思い出す。
常に同類項の中に安住している男性に、知り合いもいない、風習も言葉も違う土地に入って、徒手空拳でスムーズに人間関係を築くことができるか?少なくとも私は自信がない。
私の好きな作家に貫井徳郎氏がいる。氏は短編も上手く、私と同年代なのに、女性を描かせたら、あの桐野夏生女史をして「こういう作家は信頼できる」と言わしめたほどの名手である。『崩れる-結婚にまつわる八つの風景』という氏の短編集に収録されている「誘われる」という秀逸な一編は、このエントリーを読んでいただいている方にも、是非おすすめしたいので、少し長くなるが、一部引用してみる。
芹奈は一歳の誕生日を過ぎてようやく人がましくなってきて、そろそろ友達が欲しい頃だった。私も一日中芹奈と付き合っているのに、精神的疲れを覚え始めていた時期だ。公園などで遊ばせ、他の子供たちと交流を持つことは、芹奈にとって絶対に良いことのはずだと確信していた。
ところが、この友達というのが、なかなか見つからないものだということに、すぐに気づかされた。ただ漫然と公園に連れていき、「ほら遊びなさい」と背中を押してやっても、簡単に子供たちの輪の中に入ってはいけないのだ。芹奈が引っ込み思案な子供だというせいもあるだろうが、すでにできている仲良しグループの中に後から入っていきにくいのは、幼児といえども大人と同じなのだった。
一歳の赤ん坊でそうなのだから、親たちはなおさらのことだった。ただ親子でベンチに腰かけ、他の幼児たちが戯れているのを漫然と眺めているだけでは、誰も話しかけてきてはくれない。無為のひなたぼっこを何日も繰り返して、ようやくそのことを悟った。
そこでわたしは、勇気を振り絞ってこちらから親たちに話しかけることにした。わたしと同じくらいの年格好で、同じくらいに小さい子供を抱えている親に、「こんにちは」と声をかけるのだ。芹奈と同様、あまり見知らぬ人との付き合いに慣れていないわたしには、ビルの屋上から飛び下りるほどにも勇気がいることだった。
話しかけるときには、心臓がどきどき高鳴って仕方なかった。まるで男の人を自分から誘惑するような緊張感だった。話しかければたいていの人は愛想良く応じてくれた。芹奈もその場だけは子供たちに混じって遊ぶこともできた。
でもそれは、継続性のない交流だった。
そのときだけは邪険にされなくても、数日後に同じ場所で会ったときに親しみを示してくれる人は誰ひとりいなかった。本当にひとりもいないのだ。そのためにわたしは、芹奈を連れていろいろな公園を転々としなければならなかった。
(中略)
わたしは放浪に疲れ、こんな地域に越してきたことを後悔した。夫に愚痴をこぼしたものの、彼に事態を改善する手段などないのはわかっている。この先二十年以上もこの町に住み続けなければいけないのかと考えると、大袈裟ではなく目の前が真っ暗になった。
本編は著者ならではのアッと驚くどんでん返しが用意されているのだが、ここは小説のレビューではないので、あらすじの紹介は避ける。子育てする主婦の心象風景を例に出したかったのだが、何度も読んだ本なのに、今、転記していても胸が苦しくなる。切なさのあまり、最初に読んだときには思わず涙が出た。これは小説だが、その気になれば「プチタンファン」などの育児雑誌に星の数ほど同種の体験談を見つけることができる。子供がまだ小さいときは、私もその手の雑誌を結構買っていたのだが、読むたびに、正直男に生まれてよかったと思ったものだ。
学齢が上がり、幼稚園に行くようになっても、ママたちは大変だ。本当に色んな人がいるようなのである。自民党のはとっくに消滅しているのに、派閥もたくさんあるらしい。お迎えの帰りに毎日のようにファミレスで、日がな他の母親の噂話や悪口三昧の人たちもいる。ボスのように支配しているママがいて、人間関係にも相当に気を使う。自分だけであれば、逃げたりひきこもったりできるのだが、親は誰しも子供に不利益になることはしたくない。無事に健やかに育って欲しいと願っているから一層逃げ場がなくなり、追いつめられてしまう。幼稚園の外に出ても、サッカースクールなどで足を引っ張られることがあるそうだ。ある秀でた子が選抜チームに入ったときに、周囲の母親の猛烈なジェラシーで、あることないことネガティブ情報を言いふらされて、母子共にとても深く傷つけられたという話を聞いたことがある。このようなことは、妻に言わせると日常茶飯事で、だから彼女の口癖は「私も男に生まれたかった」である。
大変なのである、ママ達は。男は会社でラクしているのだから、奥さんの心の叫びを出来る限り汲みとって対話しないといけないだろうと思う。自分も含めてだが。
今回の事件も、本人は動機について口を閉ざしているようだが、精神の変調やルサンチマンは昨日今日に発生したものではなく、7年前に来日した時からの軌跡を辿っていかないと検証できないと思う。眼前で自分の母親の凶行を目撃させられた娘のことも気にかかる。
差別は人類の宿あであり、「差別をなくそう」といってなくなるような単純なものではない。国籍の問題でもないと思う。閉鎖的な地方都市というが、滋賀の長浜に限らず、日本の田舎なんてどこも閉鎖的だろう。統合失調症を患う人はたくさんいる。誰もが環境が変わって精神に変調をきたす可能性がある。現に東宮御所にいる妃殿下がそうであるように。
皆が冷静になって考え、社会の歪みを改善していかないと、今後も犠牲者が出る可能性は高い。
亡くなった佐野迅さん、武友若奈さんのご冥福を心より申し上げます。
新聞報道の範囲で事件の背景を追っていくと、今後もこの種の事件が続くような気がして戦慄を覚える。加害者の国籍や既往歴が騒がれているが、ことの本質はそこにはないと思う。もちろん、この女性がしたことは許されることではないのだが、現在、自分が平和で幸せに暮らしていると思っている人も、孤独の中、数年にわたり大きなストレスを抱え、砂を噛むような毎日を送りながら、とことん追いつめられた人の状況を想像してみてほしい。
私は男性だが、つくづく男はラクしているなあと思う。よく「社内の人間関係に疲れて・・・」などと愚痴をこぼしている人がいるが、あまりにもナイーブというか脳天気だなあと思ってしまう。大体会社なんて、本当に自分が合わなければ辞めて他を探せばいいだけの話。そもそも勤め先というのは、ほぼ自分と同質の人間が集まっているところである。新卒であろうが、中途であろうが、そこを志望する人が人事部に「こいつは組織になじむかどうか」を判定・許可されて入社しているわけだから、一見バックボーンやキャリアは多様であっても、価値観や能力・学歴レベルは、ほぼ一定の範囲におさまっているものだ。たとえ、途中で異端児が出現しても心配しなくていい。優秀で山っ気がある人間なら、そこを飛び出していくだろうし、そうでなければ組織の論理が働き、自然淘汰されるような仕組みになっている。
このように同類項の集まりを保証されているから、日本のサラリーマンは安心して会社に通う。仕事が好きというよりも会社が好きな人も多く存在し、無駄な残業で同僚にちょっかい出しながら、そのまま「飲みニュケーション」に突入して、帰宅は午前様。これで家族には「仕事が忙しい」とか「疲れてる」とか「俺が稼いで食わせてやってる」などとうそぶいていればいいのだから、こんな既得権を男がなかなか手放せないのも当然である。これでストレスがたまるとかほざく人がいるから始末に負えない。こんな生活で溜まるわけないだろ!ストレスなんて。
たとえ、未知の地域に転勤になっても心配いらない。社内の互助組織に手厚く守られ、新天地の取引先の人に連れられて、土地の地酒や珍味などに舌鼓を打ちながら「郷に入れば郷に従えですね、がっはっはっは~」と上機嫌で気炎を上げていればいい。休日は接待ゴルフ。どれも初めてのコースだから、前夜もコースガイドを確認するのに余念がない。
こういうとき、見知らぬ土地に来て小さな子供を育てている奥さんはどうしているんでしょうか。というよりどうすればいいんでしょうか。
育児漫画で人気の高野優さんがエッセイか雑誌の人生相談か忘れたが、若いお母さんがママ友達がなかなかできないことを悩んでいるのに対して、
「公園で親友を探そうなんて、渋谷のスクランブル交差点で彼氏を見つけるよりもはるかに大変な荒業だよ」
と軽妙なたとえで回答していたことを思い出す。
常に同類項の中に安住している男性に、知り合いもいない、風習も言葉も違う土地に入って、徒手空拳でスムーズに人間関係を築くことができるか?少なくとも私は自信がない。
私の好きな作家に貫井徳郎氏がいる。氏は短編も上手く、私と同年代なのに、女性を描かせたら、あの桐野夏生女史をして「こういう作家は信頼できる」と言わしめたほどの名手である。『崩れる-結婚にまつわる八つの風景』という氏の短編集に収録されている「誘われる」という秀逸な一編は、このエントリーを読んでいただいている方にも、是非おすすめしたいので、少し長くなるが、一部引用してみる。
芹奈は一歳の誕生日を過ぎてようやく人がましくなってきて、そろそろ友達が欲しい頃だった。私も一日中芹奈と付き合っているのに、精神的疲れを覚え始めていた時期だ。公園などで遊ばせ、他の子供たちと交流を持つことは、芹奈にとって絶対に良いことのはずだと確信していた。
ところが、この友達というのが、なかなか見つからないものだということに、すぐに気づかされた。ただ漫然と公園に連れていき、「ほら遊びなさい」と背中を押してやっても、簡単に子供たちの輪の中に入ってはいけないのだ。芹奈が引っ込み思案な子供だというせいもあるだろうが、すでにできている仲良しグループの中に後から入っていきにくいのは、幼児といえども大人と同じなのだった。
一歳の赤ん坊でそうなのだから、親たちはなおさらのことだった。ただ親子でベンチに腰かけ、他の幼児たちが戯れているのを漫然と眺めているだけでは、誰も話しかけてきてはくれない。無為のひなたぼっこを何日も繰り返して、ようやくそのことを悟った。
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話しかけるときには、心臓がどきどき高鳴って仕方なかった。まるで男の人を自分から誘惑するような緊張感だった。話しかければたいていの人は愛想良く応じてくれた。芹奈もその場だけは子供たちに混じって遊ぶこともできた。
でもそれは、継続性のない交流だった。
そのときだけは邪険にされなくても、数日後に同じ場所で会ったときに親しみを示してくれる人は誰ひとりいなかった。本当にひとりもいないのだ。そのためにわたしは、芹奈を連れていろいろな公園を転々としなければならなかった。
(中略)
わたしは放浪に疲れ、こんな地域に越してきたことを後悔した。夫に愚痴をこぼしたものの、彼に事態を改善する手段などないのはわかっている。この先二十年以上もこの町に住み続けなければいけないのかと考えると、大袈裟ではなく目の前が真っ暗になった。
本編は著者ならではのアッと驚くどんでん返しが用意されているのだが、ここは小説のレビューではないので、あらすじの紹介は避ける。子育てする主婦の心象風景を例に出したかったのだが、何度も読んだ本なのに、今、転記していても胸が苦しくなる。切なさのあまり、最初に読んだときには思わず涙が出た。これは小説だが、その気になれば「プチタンファン」などの育児雑誌に星の数ほど同種の体験談を見つけることができる。子供がまだ小さいときは、私もその手の雑誌を結構買っていたのだが、読むたびに、正直男に生まれてよかったと思ったものだ。
学齢が上がり、幼稚園に行くようになっても、ママたちは大変だ。本当に色んな人がいるようなのである。自民党のはとっくに消滅しているのに、派閥もたくさんあるらしい。お迎えの帰りに毎日のようにファミレスで、日がな他の母親の噂話や悪口三昧の人たちもいる。ボスのように支配しているママがいて、人間関係にも相当に気を使う。自分だけであれば、逃げたりひきこもったりできるのだが、親は誰しも子供に不利益になることはしたくない。無事に健やかに育って欲しいと願っているから一層逃げ場がなくなり、追いつめられてしまう。幼稚園の外に出ても、サッカースクールなどで足を引っ張られることがあるそうだ。ある秀でた子が選抜チームに入ったときに、周囲の母親の猛烈なジェラシーで、あることないことネガティブ情報を言いふらされて、母子共にとても深く傷つけられたという話を聞いたことがある。このようなことは、妻に言わせると日常茶飯事で、だから彼女の口癖は「私も男に生まれたかった」である。
大変なのである、ママ達は。男は会社でラクしているのだから、奥さんの心の叫びを出来る限り汲みとって対話しないといけないだろうと思う。自分も含めてだが。
今回の事件も、本人は動機について口を閉ざしているようだが、精神の変調やルサンチマンは昨日今日に発生したものではなく、7年前に来日した時からの軌跡を辿っていかないと検証できないと思う。眼前で自分の母親の凶行を目撃させられた娘のことも気にかかる。
差別は人類の宿あであり、「差別をなくそう」といってなくなるような単純なものではない。国籍の問題でもないと思う。閉鎖的な地方都市というが、滋賀の長浜に限らず、日本の田舎なんてどこも閉鎖的だろう。統合失調症を患う人はたくさんいる。誰もが環境が変わって精神に変調をきたす可能性がある。現に東宮御所にいる妃殿下がそうであるように。
皆が冷静になって考え、社会の歪みを改善していかないと、今後も犠牲者が出る可能性は高い。
亡くなった佐野迅さん、武友若奈さんのご冥福を心より申し上げます。
コメント頂いたのでおじゃましました。きれいに書かれていて読みやすく、内容もためになるブログですね。
この事件は加害者から動機が語られていないのでここに至るまでの心理がわからない。強度のストレスによる心理的破綻だとしても、それが2人の幼児に向けられたのはなぜか、解明を待ちたいと思います。
コメントありがとうございます。
私も、以前、日記に会社の愚痴を書いた挙句、最後は音次郎さんみたいな結論をかいちゃいました。文才はないですけど。
そうなんですよ。良くも悪くも、”辞めないで残っている人間”は同種、同感性の人間なんですよね。ウチの職場では、異端児が誕生せずに、心の病人が誕生して辞めちゃいましたが。
私ら家族も、今住んでる地区に引っ越して5年目で、ようやく慣れてきましたね。嫁も最近はアロマにはまって息子を私のおしつけて”いい意味”活動的です。
事件は許される行為ではありませんが、日本の閉鎖的な慣習、私ら男の身勝手は考えなおさないと
そして自分も含め、環境や生い立ちに強い影響を受けていることも実感しました。
自分を認めてくれると自分が感ずることのできる人がどれほどいるか・・・これはすごく大切なことであると気が付きました。それが自分自身であっても構いません。
いつも流される時間の中で、こういうことに気が付くことは滅多にありませんが、その体験は大きな宝物です。
ただ単に「理屈」で「善悪」を語り切って捨てた自分もいたことも確かなのです。
時と場合、都合の良い言葉かもしれませんが、切って捨てる自分も好きですが・・・考えちゃいました。今回は・・・
ありがとうございました。
そうなんです。公園デビューの日は本当にドキドキでしたね。まるで「逆ナン」するかのようですよ。
私も狭くて濃いコミュニティに一時期、身を置いていたことがありますが、そこにいるだけで、皆と同じ空気を吸っているだけで息が詰まることがありました。個人個人は皆いい人達なんです。でも、幼稚園も一緒、遊び場所も一緒、どこへ行くのも一緒という、距離感が馴染めません。「子供同士が仲良しだから、母親同士も仲良くしなきゃいけない。」という概念が、ある人間には大きなプレッシャーになり、強迫観念にとらわれる大きな原因だと思います。
・・・私も、その経験があったから、自分流の「ママ友論」を語ることができるようになったとは思いますけど、辛い人には辛いでしょうね。
そうですね、子供の親になったのならば
自分の事よりも我が子の事を第1に考えて欲しいですね
最近はそんな親が少なくなって来てますけどね
転勤族なもので、公園デビューなるものから始まり、私も随分苦労してきました。
この公園デビューを果たして仲良しさんグループが出来た後もまたこれが難しいんですよ^^;
いない間に噂話にされるのが嫌だとか、はずされて仲良くしてるんじゃないかとか、つまらないことに拘って、ウチの仕事ややりたい事をほっぽらかして、定時に公園に行ったりしていました。
そのうちバカらしくなってやめるのですが、
この渦中にいるときはそれが分からないんですよね。
女という動物は幼少のころから仲良しグループをつくり、自分の居場所をまず確保しないと安心できません。たいていの対人トラブルはそんな性から起こります。
今回の事件は送迎バスを用意できない園が、各々の父兄の送迎の負担を軽減するためのグループ送迎という方針をとっていたというのもひとつの原因かと思われます。
園にとって園児はお客様であり、ひとりひとりの親について人間関係や責任問題を問える立場にありませんから。
人間関係から子育てまで・・・・・・。
ストレスがたまり、日本社会特有のムラの論理もあり、ダンナさんがあまり関与してくれないと、ストレスは1人で溜め込むことになります。
そんなことをふと思い出しながらこの事件を眺めていました。
もちろん、この事件は日本人主婦の問題ではなく、別の問題を孕んでいるのだろうとは思いますが。
私の知人は、逆ナンの方が公園デビューより100倍ラクだった(笑)と言ってました。
たしかに、小学生くらいになれば、子供の友達=自分の友達ではなくなるのでしょうが、幼稚園くらいの時期が世のママたちに最大の試練になっているのかもしれませんね。
>鉄夫さん、コメントありがとうございます。
そうですね。加害者の娘のことも大変気になります。
>チャコさん、コメントありがとうございます。
グループ送迎よくないですね。この制度は非常に難しいです。行政や幼稚園は、地元で育って、知人も多く、勝手知ったる母親だけでないことを考慮してほしい。弾力的なシステムが必要だと思います。
TBありがとうございました。
音次郎さんの意見、「うんうん」と
うなずきながら読ませていただきました。
私も密かにストレスを溜めるタイプなので、
気がつくと頭に10円サイズの頭皮が!なんてよくあるんです。
容疑者の場合、不安とストレスに押しつぶされてしまって
その矛先が二人の園児に向いてしまった…
許されることではないですが。
誰かが危険信号を察知していたらと残念に思うばかりです。
亡くなられた二人の園児のご冥福と
二度とこのような事件が起こらないことを願います。