いよいよ自主講座「現代の教育課題に応える学校図書館」がスタートした。司書、司書教諭、その他の教職員や研究者が、これから、およそ月一回のペースで、新しい時代の子どもの学びを支える学校教育と学校図書館のあり方を共に考える。11月28日(日)の午後、神戸市勤労会館で行なわれた第一回の会合には、地元の兵庫はもとより、東京、神奈川、奈良、大阪から11名が集まった。この日に出席できなかった人も含めてネット上で話し合いや作業を続けるためのメーリングリストも開設された。当日の記録は、こちらをご覧ください。(ブログ「中学生と学校図書館」にも関連記事があります。)
ラウンドテーブル
小さな丸いテーブルを囲んで議論をしている研究者たち。その手元にはノートパソコンと飲み物、冊子やメモも無造作においてある。11月22日付の朝日新聞(G-7、Media Watch)に掲載されたこの写真は、大地震で打撃を受けたハイチの高等教育をオープンエデュケーションで復興支援できないかを議論するMITのシンポジウムのひとコマである。ひとつのテーマをめぐって顔をつき合わせて集中的に話し合う研究者たち。必要な情報やデータは情報ネットワークを通じて手元のパソコンから即座に手に入る。最近よく見かける、このような会議のイメージは、これから21世紀の学校教育と学校図書館のあり方を考えようとしている私たちにとって、きわめて象徴的だ。
ネットワーク時代の知的活動
かつてソクラテスは、文字や書物が人間の記憶力を衰えさせ知的活動を阻害すると考えて、静的な書物に閉じ込められないダイナミックな対話の必要性を説いた。それに習って、アラン・ケイは「パーソナルでダイナミックなメディア」としてのパーソナルコンピュータのビジョンを描いたという。だが、現実には、本もコンピュータも、かならずしも彼らが予想したように機能したわけではない。書物に逃避して他者との関係を切り結べない者もいる一方で、書物を通して豊かな内的世界を構築し、他者との活発な対話が触発されることも多い。コンピュータのネットワークを通して多くの人とつながりコミュニティを形成することができても、身近な家庭や地域や職場でダイナミックな対話ができないこともある。ニコラス・カー(『ネット・バカ』青土社)によれば、浅く広くつながっていくインターネットの多用によって人は注意が散漫になり、深い読みや他者との共感ができなくなるという。私たちの課題は、ダイナミックな対話による思考を書物やコンピュータに閉じ込めないで、身体も含めた多様なメディアを自覚的に活用して知的活動を行なうすべを身につけることではないか。
学校教育と学校図書館(ジョン・デューイの再確認)
ここで私たちは、教育の基盤をコミュニケーションにおくとしたジョン・デューイの教育論の現代的意義を再確認しておく必要があるだろう。「生存のために自己を変革する教育はコミュニケーションによって成り立つ。コミュニケーションとは、経験を分かち合って共通の財産とする過程であり、それに参加する双方の当事者の資質を変えるものである。」(『民主主義と教育』第1章、足立訳)このようなコミュニケーションの場として、学校の図書室が果たす役割は大きい。「そこは、子どもたちのさまざまな経験、さまざまな問題、さまざまな疑問、子どもたちが発見してきたいろいろな具体的な事実をもち込んでくる場所となるだろう。そこでは、以上のようなことについて議論がなされるとき、その議論の対象となるそれらのうえに新しい光が投げかけられるが、とりわけ他者の経験からくる新しい光、集結された世界の叡智-それは図書室に象徴されているものであるが―というものからの新しい光が、投げかけられる場所である。」(ジョン・デューイ(市村尚久訳)『学校と社会・子どものカリキュラム』講談社学術文庫、p.146)その光景は、デューイの著作から100年が経った現在、小さな丸テーブルを囲んでネットワークにアクセスしながら議論する学者たちの姿と基本的に変わらないのではないか。デューイにとって学校の図書室は、子どもたちの経験を反省的なメタ思考へと高める場でもあった。「ここには理論と実践との有機的な関連がある。子どもは、たんに物事を為すというだけではなく、子どもが為していることについての観念もまた、獲得するのである。すなわち、子どもの実践に入りこみ、その実例を豊かなものにしてくれる。ある種の知的概念を当初から獲得してかかるのである。他方、あらゆる観念は、直接的であれ間接的であれ、経験のなかでなんらかの応用を見つけ出し、生活のうえになんらかの影響を与えるものである。いうまでもないことだが、このことが教育における「書物」あるいは読書の地位を決めることになるのである。書物は経験の代用物としては有害なものではあるが、経験を解釈したり拡充したりするうえでは、このうえなく貴重なものである。」(同上)また、デューイにとって「学校というものを、互いに孤立しているような各部分の複合体にするのではなく、一つの有機的な全体をなすようなものにする…」(同書、pp.151-152)こと、言い換えれば、教科、学年、体験、高次の思考といった教育活動の領域やレベルごとに分割された知の統合をはかることが肝要であり、その仕掛けとして図書室を学校の教育活動の中心に位置づけていた。
子どもたちの学びをはぐくむ学校や学校図書館のあり方を見直そうとする私たち自身の学びもまた、デューイに習って現場の実践を高次の認識に高めるラウンドテーブルとしたい。そんな少々長い前置きを私が語った後、今年の夏にオーストラリアの学校図書館を見てこられた慶應義塾普通部の庭井史絵さんから、写真を見せてもらいながら、その印象を語ってもらった。
オーストラリアの学校図書館
庭井さんによれば、オーストラリアの学校図書館は、おおむね3つの特徴をそなえているという。
・快適な空間
・コミュニケーションの場としての学校図書館
・探究のプロセスやスキルを自覚させる仕掛け
学校によって規模や豪華さの違いはあるが、どの学校図書館も書架や掲示はもちろん、ソファやラウンドテーブルやコンピュータや電子黒板にいたるまでが、3つの特徴を具現する統一したデザインに組み込まれていて美しい。オーストラリアといえば、ICTの教育に力を入れていて、学校への電子黒板導入率も高いと聞いている。PISA(国際学力到達度テスト)やIEA(国際教育到達度評価学会)の調査などの国際的な学力調査の基盤となるATC21S(21世紀型スキルの評価と教授)の研究プロジェクトもメルボルン大学の研究者が中心になっている。そんなことを考え合わせると、国の教育政策と研究者の成果が「協働による問題解決力」という学力観を共有しながら学校教育に反映されていて、そのなかで学校図書館の基本デザインも行なわれているといえるのではないだろうか?
「学校図書館に情報のストックとフローがあるのは当然という前提で、なおかつ生徒や教員のコミュニケーションを生み出す仕掛けがあり創造的な活動がしやすい環境が整えられていて、同時に学びに必要なスキルの指導も前面に押し出されているという点でオーストラリアの学校図書館はおもしろかったです。さらに、そういう要素が誰にでも分かる形で存在していることが一番、勉強になりました。」という庭井さんのコメントは、まさに日本の学校図書館活動の課題を的確に指摘している。
ブレーン・ストーミング
休憩時間をおいて後半は、この日のテーマである「日本の学校教育と学校図書館」について1時間ほどブレーンストーミングを行なった。これから、このときのメモをネット上で共有しながら、すべての発言をカード化し、次回はKJ方でまとめる予定である。
今後、この自主講座で扱うテーマは下記の通りである。テーマに関心をもって一緒に考えてくださる人なら、いつでも参加していただくことができる。ご連絡ください。
・ 21世紀に求められる学力と学校図書館
・ 学習者・メディアの多様性と学校図書館
・ 自立した学びを促進する学校図書館の環境デザイン
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