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ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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学校文化の変容を目指す学校図書館(フィンランドのホリスティックな学校図書館研究を読む)

2013年05月05日 | 知のアフォーダンス

 

 ずいぶん久しぶりにブログを更新しますが、その後の近況報告を兼ねて、学校図書館の勉強会のお知らせをさせていただきます。下記のとおり5月12日(日)に神戸で学校図書館の勉強会を開きます。できるだけ幅広い分野で活動しておられる皆さんに話し合いに加わっていただきたいと思いますので、この場でご案内をさせていただきます。

第11回学校図書館自主講座(神戸)

テーマ:「学校文化を変える学校図書館~フィンランドOulu市の実践分析を読み解く~」

日時:5月12日(日) 午前11:20-17:00

場所:新長田勤労市民センター 会議室3

(三ノ宮からJRまたは地下鉄で新長田駅下車、すぐ。新神戸駅から地下鉄で15分)

http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/shinnagata/

 2002年から2004年にかけてフィンランドのオウル市で実施された、情報リテラシーを育む学校図書館プログラムの成果を分析した下記の論文をもとに、学校教育と学校図書館、さらに学校と地域社会との連携などについて考えます。

Eeva Kurttila-Matero, “School Library ‐A Tool for Developing the School's Operating Culture”(ACTA UNIVERSITATIS OULUENSIS B103, University of Oulu, Faculty of Humanities, Information Studies, 2011)

(英語で書かれているこの論文の内容は、有志が分担して要約したものを配布し、それぞれの担当者が説明します)

 オウル市の11の小中学校と3つの高等学校が参加して実施されたこのプログラムは、SLI (the School Library of the Information Society「情報社会の学校図書館」)と呼ばれ、2000年にオウル大学の研修を受けた8人の校長先生が、学校へのICTの導入にあたって情報リテラシーを育む学校図書館の教育的機能に着目したことがきっかけで実現しました。情報専門職としてこのプロジェクトに関わり、コーディネーター及びファシリテーターの役割を果たしたこの論文の筆者Eeva Kurttila-Materoさんは、2004年にプロジェクトを終えてその職を辞した後、11の小中学校から提出された報告書や刊行物を分析し、それにもとづいて2009年に各学校の教師と校長へのインタビューを実施し、教師と校長の意識がどのように変わったかを追跡的に研究しました。そうすることによって筆者は、3年間の集中的な学校図書館プログラムで芽生えたものが、その後、どのように展開し、他の学校にどのような影響を及ぼしつつあるかといった点にも眼差しを向けています。

 以下、私がこの論文に注目して、これからの我が国の学校図書館のあり方を考える上で示唆に富むと考えた理由をいくつか挙げておきます。

1.フィンランドにおける実践である

フィンランドは、OECDが実施する国際的な学力テストPISAで好成績を上げていることや教育体制や公共図書館が充実していることでも知られていますが、その一方で学校図書館の発達は遅れていると言われています。そのフィンランドでおこなわれたSLIプロジェクトの分析がどんな意味をもつのかを探りたいと思います。

2.学校文化の変容を目指す取り組みである

学校に新しい教育実践が定着するには、まず教師と校長の意識と行動様式が変わらなくてはならないし、保護者や地域社会の理解と協力も必要ですが、それは一朝一夕に成し遂げられるものではありません。この論文は、SLIが児童の情報リテラシー育成のために学校文化の変容を目指していることに着目し、長期的な展望をもって、個々の教職員が新しい考え方を内面化し、学校全体に新たな文化を醸成していくプロセスに眼差しを向けています。

3.様々なレベルの「協働」と「統合」を目指す取り組みである

「協働(コラボレーション)」に関しては、学校共同体における教師、児童、保護者の相互関係が織りなす様々な形の協働はもちろん、行政と学校と公共図書館を結ぶラーニングコモンズの形成、さらには地域の研究機関、教員研修機関としてのオウル大学の役割にも注目したいと思います。また「統合」については、教科横断的で総合的な学習活動や、その担い手としての学校図書館と教育課程との統合、情報スキルと学習内容との統合、アカデミックな研究から得られた知見と実践知との統合といったことも、この論文の一貫したテーマになっています。

4.ホリスティックな観点に立つ研究である

学校や学校図書館を変化・発展するシステムと捉えて、そのシステムを構成する部分と全体、あるいはシステムとその環境との間の有機的かつダイナミック(動的)な相互関係を記述するために、この論文はヘルシンキ大学のユリア・エンゲストロームが開発した「活動理論モデル」を利用しています。そこから学校図書館の活動に影響を及ぼす重要な要素とその複雑な構造を解き明かす手がかりが得られるのではないかと思います。

 勉強会のプログラムと申込方法は下記の通りです。(時間配分は、一応の目安とお考えください)

日程:5月12日(日)11:00-17:00

11:00 開場(受付)

11:20 はじめに(趣旨と日程の説明)

11:30 研究の概要・・・足立正治

12:00理論的背景1

・学校の経営モデルと学校図書館・・・足立正治

・「学び」の理論・・・松田ユリ子

12:30 昼食

13:30 理論的背景2

・学校文化を変える学校図書館・・・天野由貴

14:00 調査結果の分析

・学校文化を変えるツール(教育方法、学校図書館、教師教育)・・・嶺坂尚、細川恵利

・ルール(教育課程、教科書、時間割、規律)・・・松田ユリ子

・仕事の分担(補助職員、図書館担当教員、教師の自律性)・・・山本敬子

15:00 休憩

15:20 調査結果の分析

・コミュニティ(学校共同体、地域社会)・・・米谷優子

・学校経営の対象(リテラシー教育、読書教育、教育の概念)・・・天野由貴

16:00 結論と話し合い・・・松戸宏予、足立正治

参加費:500円(会場費・資料費)

参加申込方法

自主講座のメンバー以外の方は、下記のアドレスにメールで、氏名、所属、メールアドレス、当日にやりとりできる連絡先をお知らせください。

holisticslinfo@gmail.com

 

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認識の原点としての「からだ」(「からだ・こえ・ことばのつながりを探るレッスン」を終えて)

2013年02月27日 | 知のアフォーダンス

 

 遅ればせながら、2月11日にNPO法人東京賢治の学校・自由ヴァルドルフシューレでおこなわれた「からだ・こえ・ことばのつながりを探るレッスン」報告をさせていただく。昨年の秋からはじめた連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」のプログラムのひとつだが、この日は、学校図書館や読書活動、ホリスティック教育などにかかわっておられる14名が参加してくださった。

    

    

 プログラムは、まずシュタイナー教育を実践しておられる賢治の学校の概要を4年生担当の菅谷真理子さんに話していただくところからはじまった。1年生から12年生までの教室を順にめぐりながら、板書や掲示、生徒の作品やノート、持ち物などによって、それぞれに異なる佇まいを見せる教室に身を置いて菅谷さんのお話を聞いていると、途中から加わったわたしにも、子どもの発達とのかかわりのなかで展開される教育の流れが、おおまかにではあるがイメージできた。魂と身体、感性と理性の融合をはかるシュタイナー教育では、教科の知識や技能も芸術性や美的経験を基盤として学ばれる。その一端に触れることができたのは、わたしにとって何よりも喜びだった。
 こうして東京賢治の学校に魅了されたあと、この学校で演劇とオイリュトミーを教えておられる高田豪さんのレッスンが、ゆるやかにはじまった。うごき、ふれあいながら、からだに意識を向けてゆく。助走の時間をたっぷりととってくださったおかげで、日頃、あまりからだに意識を向けていなかった人も、からだを防御している人も、最後まで抵抗なくレッスンに参加できたようだった。
 わたしにとって、相手を「押す」レッスンは、とりわけ示唆に富むものだった。「オス」とはどういう動作なのか。かならずしも自明ではなかった。人を「押す」とき、押す者と押される者の「からだ」に何が起こっているのか。「おさえる」のでも「つきはなす(つきとばす)」のでもない。意外だったのは、押したあと、手を放した相手を引き戻してしまうこともあれば、そこで止まってしまうこともある。そんな両者の呼応関係を丁寧に感じていくと「押す」から「推す」へとイメージがふくらみ、広がってくる。では、「圧す」や「捺す」はどうなのだろう?
 そのあとの呼びかけのレッスンでは、実際に呼びかけた人も、呼びかけられた人も、その様子を見ていた人も「伝える」「声を届ける」とはどういうことかを身をもって経験できたのではないだろうか。数日後に参加者のひとりが、こんなエピソードを寄せてくださった。レッスンの翌日、日頃からコミュニケーションが滞っていると感じていた娘さんと会ってお茶をのんだあと、本屋を覗いたときに棚に並んでいるマンガを見て娘さんが「あ、『君に届け』だ。最近、全巻読んだ」とつぶやくのを聞いて呼びかけのレッスンを思い出し、親子で同じキーワードにふれていたことに気づいたというのだ。ユングのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)を持ち出すまでもなく親子のように強く結ばれている人の間では起こりやすいことなのかもしれないが、ひとつの経験から次々に気づくことがあるのは、その経験の深さを物語るのではないだろうか。
 わたしは久しぶりに「からだとことば」のレッスンを受けて、一夜が明けてからも爽快感に満たされていた。十分とは言えなかったかもしれないが、予定の終了時間を大きく越えておこなわれたレッスンの様子は、先の学校見学も含めて、写真とメモ、参加者の感想によってイメージしていただければ幸いである。

メモと感想   写真 

 わたしが認識の原点としての「からだ」を意識するようになったのは、ほぼ40年前、GDM英語教授法研究会でおこなった公開授業を『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)の著者で演出家の竹内敏晴さんに見ていただいたのがきっかけであった。当時のわたしの関心は、どうすれば子どもたちが「実感(リアリティ)をもって」英語を使えるようになるか。外国語教育にありがちだった単なる日本語と英語の置きかえも、ひたすら聞いて口真似を繰り返す音声一辺倒の訓練も、定型表現の暗唱も、どれにも音声や文字とリアリティをもった意味をどうやって融合するかという視点はみつからなかった。絵や動作をもちいる指導法もあったが、その多くは条件反射的に刺激-反応のパタンを固定化する域を出るものではなかった。ことばの獲得は、もっと複雑かつダイナミックで発展的なものであるはずだ。そう考えてGDM(Graded irect Method)という方法に活路を求めたわたしは、その場の状況(環境)にじかにふれて、他者とかかわり、直接的なコミュニケーションをとおして「ことば」を獲得していくプロセスにあって、そこに介在する「からだ」のありようを意識化するために竹内さんの助言を求めたのである。
 「からだ」を媒介して環境とふれあい他者と関わる中で「ことば」をはぐくむことは、外国語教育にかぎらず一般にリテラシー教育の基本でもあるはずだ。とりわけ読書力や情報リテラシーの育成が求められる今日では、それを支える豊かな「ことば」をはぐくむことが必要である。だが、それは、できるだけ誤解を少なくして情報の中身を正確に伝達できることではないはずだ。多様な解釈を許さず、疑問の余地がない表現は、分かりやすく、実用的であり、無用な摩擦を引き起こすこともない。その一方で、ことばの使い方を技術的な側面だけで訓練し、合理的な思考力だけを訓練していると、やがて「ことば」がやせ細って、豊かさも力(パワー)も損なわれるのではないだろうか。感性の裏打ちのない情報にはリアリティがない。想像力も創造力も駆り立てないし、深さも広がりも生まない。情報社会から知識社会、学習社会へと変化する中で私たちの暮らしを稔りある豊かなものにするためにも、ことばの表層だけでなく、それを支える身体感覚とむすぶことが求められるのではないか。五感のすべてをかけて日常を感覚豊かに生きることが、ことばを豊かにすることにもつながる。

 

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「ディープ」な課題に向き合う図書館とは(”「調べるのが好き」が七割の社会”に想う)

2013年02月02日 | 知のアフォーダンス

 

 「図書館雑誌2013.1」の「窓」欄に上田修一慶應大学教授が寄稿しておられる『「調べるのが好き」が七割の社会』という短い文章を読んで、さまざまな想いを掻き立てられた。図書館のレファレンス件数が減る一方で「調べるのが好き」と回答した学生が七割もいるという。検索エンジンとスマートフォンの普及によって調査から達成感を味わう人が増えた。高度な検索スキルを身につけた人たちも増えているにちがいない。という流れから「ネオ・アレクサンドリア(Neo-Alexandria)」ということばが脳裏に浮かんだ。「ネオ・アレクサンドリア」とは、20世紀の終わりに半田智久氏(現在、お茶の水女子大学教育開発センター教授)が近未来の情報環境として描いた開放情報時空の呼称である。半田氏によれば、それは「私たちに必要な情報がコンピュータを介して日常的空間に満たされている状態」であって「私たちはその環境を構築し、その中で共に生きることによって単なる情報取得作業に煩わされることなく、多元的な学びの方向性を獲得し、個々に内在している知恵や技能や創造性といった知とその機能を、より豊かに育む機会を得ることができる」(半田智久著『知能環境論 頭脳を超えて知の泉へ』NTT出版、1996)。そのような社会が完成に近づいているのだろうか。
 1995年に起きた阪神淡路大震災からの復興の過程で出会った『知能環境論』は、わたしにとって21世紀を展望する学校と学校図書館を統一的に構想するよりどころとなった。子どもたちにとって(そして教師にとっても)豊かな「知のアフォーダンス」を提供することをめざそう。半田氏によれば「知のアフォーダンスとは、外在知がそれと出逢う人の内在知との関係において取りうる意味と価値、すなわちその個体にとっての知識の可能性を指している」(p.189)。そして「学習者にとって豊かで理想的な知のアフォーダンスとは、個々の学習者が必要としているものが常に十分に広く自由に開放されていて、そこでの活動に心地よい刺激と触発を受け、そこから先に知的な冒険をしてゆこうと動機づけられること、そしてそのときそれに応じられる環境があることである」(p.216)。当時、図書館長と視聴覚課長(現在のメディア情報部長)を兼務していたわたしは、再建計画の中に情報ネットワークの構築を組み込むとともに、無線LANとノートパソコンの導入による図書館機能の拡張と図書館職員をふくめた情報専門職の充実をはかった。
 震災から2年後の1997年に再建された学校で図書館が目指したのは、快適な資料・情報へのアクセスと情報サービスの充実をとおして知的な刺激を触発される快適な空間(「知のひろば」)を構築することであった。新しく採用されたスタッフと仕事をはじめたときに目を見張ったのは、専門職としての卓越した調査力と発信力であった。その能力を学校教育の中でどうのように展開し開花させるか。それが、わたしにとって図書館経営の中心となった。手はじめに、レファレンスの充実と生徒(および教職員)の情報活用力の向上を柱として、情報活用教育カリキュラムの立案と実施を図書館が担う体制をととのえた。まさに「調べるのが好き」といって自ら調べることで達成感をもつことのできる子どもたちが育つことを期待したのである。
 「窓」の文章を上田教授は、レファレンス件数を増やすよりも『「ディープ」な調べものと図書館の間に道筋をつけることを考えた方がいい』と結んでおられる。一般の人がわざわざ図書館に出向かなくても高度な情報検索までできる社会にあっては、図書館の仕事は、レファレンスは件数を増やすことを目指すよりも一筋縄ではいかない複雑な調べものに特化すればいいということなのだろう。だが、わたしは、あえて、この一文をもう少し深く読み込んでみたい。「ディープ」な調べものとは、どういうことを意味するのか。単に難度の高い調べものということなのだろうか。また、道筋をつけるといっても、図書館と調べものの道筋は、一般的な概念としては、すでについているはずなので、それが最近になって壊れたから修復するということではなくて、これまでにはなかった新たな道筋をつけるとしたらどうなるか。わたしは自分の経験を踏まえて、学校図書館のような持続的な学びの共同体のなかで子どもや教師にたいして行われる情報サービスは、ただ依頼された課題に回答するだけでなく、調べたい(知りたい)動機や問題意識、利用者(依頼者)の背景や文脈により深く踏み込んでかかわることが必要ではないかと考えている。資料や情報は、あくまでも「媒体」であり、きっかけであって、依頼者の真の目的ではないはずだ。わたしたちが本を手にして調べものをする目的は、その向こうにある。だとすれば学校図書館では、ただ「資料・情報を提供する」だけでなく子どもや教師のパートナーとして「課題解決に直接的にかかわる」ことが求められる。利用者のプライバシーへの配慮が必要なことは言うまでもないが、そのような関係性の構築は、もしかしたら大学図書館や公共図書館でも求められることかもしれない。そう考えて、昨年の暮れのブログに「間接サービスから直接サービスへ」という文章を書いた。

 ここまで書いてきて、ふと、やはり『図書館雑誌』の「窓」欄に掲載されていて感銘を受けた美しい文章のことを思い出した。調べてみたら、それはビジネス支援にかかわっておられる豊田恭子さんが書かれた「人生を応援する施設」という文章だった(『図書館雑誌』2006.3)。そこには、たとえば、こんな一文がある。「書棚の間を徘徊しながら、図書館員と会話を交わしながら、人は自分だけの「解」探しをする。孤独なはずの作業が、図書館という空気に包まれることで、悲壮感から免れる」。豊田さんによれば、図書館によるビジネス支援の第一の意味は、誰かに教えてもらえるような「解」のない問題を抱えて、ひとり悩み、苦しみ抜いて結論を出さなければならない「孤独な戦いを強いられている世の仕事人たちに、貴方たちは一人じゃない、というメッセージを送ることにある」という。図書館に救われるのは、もちろん「世の仕事人」にかぎらない。人生を思いつめた人、いじめや暴力に苦しむ子どもや教師、・・・「自殺したくなったら、図書館に行こう」いのちを育てる図書館員の群像(虫賀宗博、『世界』2005年8月号)で紹介された能登川町立図書館が思い浮かぶ。そこには、まさに「ディープな」課題に直面している人との間に道筋をつけようとする図書館の姿がある。

知能環境論―頭脳を超えて知の泉へ
クリエーター情報なし
NTT出版

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1月17日の朝につぶやく

2013年01月18日 | 知のアフォーダンス

 

昨日のわたしのつぶやきと、これまで1月17日に書いてきたブログ記事を振り返ってみた。

 あれから18回目の1月17日の朝をむかえた。ミニバイクで一進一退しながら駆け抜けた神戸の光景が、大阪大空襲の一夜が明けた尼崎の光景と重なって、鮮明によみがえってくる。(諸行無常、それは生きる力の源)そして、連日の酷使に耐えて塵灰の町を駆け抜けてくれた相棒とは、3年前に別れた。(相棒との別れ

 大阪大空襲の記憶を起点としてかたちづくられてきたわたしの人生は、1.17を契機に大きく変わった。そして2年前の3.11は、わたしがつくりあげてきたものを大きく揺さぶった。いまは、また起点にもどり、わたしがたどってきたすべてが合流して新たな水脈をつくりだしつつあるのを感じる。

 一年前の1月17日に書いた記事がGooブログから送られてきた。東日本大震災で注目された「釜石の奇跡」について「教員も含め、自ら考え臨機応変に行動する力が日々の防災教育で培われていたのだと思っている。覚えさえすれば点が取れる教育では命を守れない。今回の震災が教えてくれたことです」という舞子高校環境防災科の諏訪清二先生のことばをあらためてかみしめた。(自らの命を守る教育を! 阪神淡路大震災から17年目をむかえて) 

 今朝、私は5時30分に目を覚ました。何事もなく過ぎてゆく5時46分。あらためて、いま、ここに生きている自分を存在せしめているものは何かを考えていた(15年の経験をどう生かすか。阪神淡路大震災の節目の日に寄せて

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諸行無常、それは生きる力の源(2009年1月17日)

 震災の日の朝、我が家の建物には被害がありましたが家族の身は無事だったこともあって、私は、職場に向かうべく、5時46分の地震発生から1時間後にミニバイクで家を飛び出しました。いたるところで寸断され、余震に揺れる道路を、山際へ海岸へと大きく迂回しながら、自宅のある神戸市の西端から東の端を越えて4時間近くかかって職場のある芦屋市まで駆け抜けました。その途中で目に映った神戸の街は、一瞬にして50年前へとタイムスリップしてしまったかのようでした。それは、私の人生の記憶の原点である、終戦直前の大阪大空襲で焦土と化した(当時住んでいた)尼崎の町と重なって、その後に続く戦後の記憶をも包み込んだ、「懐かしい」光景でした。私の心を覆っていたのは、あの時と同じ、どうにもやりきれないこの世の無常、はかなさ。しかし、それがこの世のありようそのものであり、その現実を受け入れることによって、新たに生きる力が湧き出してくるということを、私は幸いにも50年のうちに多少なりとも学んでいました。事実、震災直後のどさくさから復興にいたるまでの何年かは、もっとも精神的な高揚感をもって仕事ができた期間でもありました。破壊は痛みと犠牲をともない耐えがたいことではあるけれども、創造の原動力にもなりうるということに望みを託すほかないでしょう。

 

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間接サービスから直接サービスへ(電子社会における図書館サービスを考える)

2012年12月31日 | 知のアフォーダンス

 

 年の瀬に届いた『図書館雑誌』(2012.12)に「IFLAヘルシンキ大会レポート」が掲載されていたので、ざっと目を通した。8月14日の全体会でヘルシンキ大学のユリア・エンゲストローム(Yrjö Engeström)教授がおこなった"Towards knotworking : Designing a new concept of work in an academic library"(「ノットワーキングに向けて:大学図書館の仕事にたいする新しい構想を描く」)と題する講演についてのコメントを探したのだが、7件の報告のうち、これに触れているものは見当たらなかった。
 講演のベースになっているのは、2009年から2010年にかけてヘルシンキ大学の図書館員たちが研究者と共同で新しい図書館サービスの開発に取り組んだChange Laboratoryである。当時、わたしは、この取り組みに注目して、学校図書館にかかわる人たちの集まりなどで何度か紹介してきたが自分たちに引き寄せて関心をもってくださる方はほとんどおられなかったようだ。その理由が図書館界の事情に疎いわたしにはよくわからない。

 取り組みの概要はこうだ。情報の電子化が進んだことで研究者は研究室にいながら新しい情報の水脈を求めて直接的に情報にアクセスしてリサーチを行い、学生たちも電子書籍や電子情報にアクセスして読書や勉強をするのが普通になった。ヘルシンキ大学Viikki Science Libraryの職員たちは、そうした情報行動をとる研究者や学生と直接的に触れ合う機会が少なくなっていくことに危機感をいだくようになる。自分たちの仕事は、単にデジタル情報を仲介するだけでいいのだろうか? 図書館員に求められる専門性とは何か? これから自分たちのやるべき仕事は何か? かれらは単なる技術論を超えて自らのアイデンティティにかかわる根源的な問題意識をもって同大学のCRADLE(Center for Research on Activity, Development, and Learning「活動、発達、学習に関する研究センター」)のエンゲストローム教授とともに「図書館におけるノットワーキング」というプロジェクトをはじめた。
 ノットワーキングとは、境界交差すなわち越境することであり、相手の領域に相互に踏み込む協働のかたちである。電子化への対応として取り組んだノットワーキングは、図書館サービスの質的な転換を生みだすことになる。それは単なる資料・情報の仲介者にとどまらず、研究者のパートナーあるいはクライアントとして研究により深くかかわっていくことであった。それには徹底的な現状分析と拡張的な再設計、そして粘り強い取り組みが必要であることはいうまでもない。

 エンゲストロームの講演の様子とパワーポイントは下記で見ることができる。

The plenary talk online in video

The presentation slides

 Viikki Science Libraryの取り組みが生み出したのは、利用者が抱えている課題の解決に資すると思われる「資料・情報を提供する」サービスから一歩踏み込んで、利用者の「問題解決に直接的にかかわる」サービスへの転換といっていいだろう。それは大学図書館ばかりでなく、当然、公共図書館でも検討されるべき課題でもあるはずだ。この点に関しては、私が非常勤講師を務める大学でお世話になっている歌野博さんが『人文会News』(no.113  2012.9)に寄せられた「公共図書館のディストピア、その傾向と対策」と題する論考に注目したい。この論考で歌野さんは、国会図書館法が改正されてデジタル資料の国会図書館への電子納本が義務付けられ、図書館における電子書籍利用モデルの実現に向けて一歩を踏み出したことによって、やがて公共図書館(職員)の存続そのものが危ぶまれることになるとして、やはりサービスの見直しを提案しておられる。歌野さんは、1970年代に確立された「貸出パラダイム」(貸出を公共図書館サービスの中核に据える路線)が「市民の図書館」の形成に果たした役割を高く評価しながらも、時代の変化に応じた転換が必要だという。資料と利用者を媒介し、資料提供をとおしてクライエントの課題解決を「支援」するといった従来の図書館サービスから脱却すべきだというのだ。それは「間接性から直接性の方向へ舵を切る。資料からの相対的な自立を図ること。ライブラリアン自身が資料代わりになること」(p.34)である。資料依存から脱却して図書館のありようを変えようという試みなら、すでに始まっている。たとえば「場所としての図書館」、あるいは「図書館の触媒機能」を発揮して他の機関との連携・コラボレーションによって地域文化を掘り起し、住民・市民の間に文化的発芽を促す試みなどがある。しかし、その場合、提供したサービスをどのように利用するか(しないか)、そして、それがどのような効果をもたらすかは、全面的に利用者に委ねられていて、そのかぎりにおいて「図書館サービスの間接性」は維持されたままである。歌野さんによれば、図書館のサービスも一般の行政サービスや弁護士のように高度の専門性もってクライエントが抱える課題を「(資料に委ねるのではなく)人が直接的に解決するサービス」へ転換することが必要だという。たとえば国立国会図書館の「調査及び立法考査局」の仕事がある。これをモデルにして公共図書館がシンクタンクとなって自治体行政への直接的なサービスをおこなう、いわば地方議員の政策秘書的な機能を担うといったことも考えられるという。この考えを敷衍すれば市民への直接的なサービスの可能性も見えてくるだろう。市民や住民が日常生活の中で抱える問題に対して直接的な解決策を提案するサービスはできないものだろうか。それは、ただ回答や資料を提供するだけでなく、さらに利用者のふところ(コンテクスト)に踏み込んだ相談業務となるだろう。図書館の調査能力を駆使して提案や選択肢を提供することで問題を抱えた住民のパートナーとなるのである。その萌芽は、たとえば鳥取県立図書館におけるビジネス支援にみることができる。県内の企業家がシャッターガードという軽量シャッター補強材の開発と事業化に成功した事例では、図書館は資料情報の提供ばかりでなく人の紹介もおこない、さらに事業展開の戦略にまでかかわっておられる。また、これまで資料提供を軸に行われてきた公共図書館と学校との連携についても、提案型の新たな協働を創出することも可能になるはずだ。たとえば、ただ教師の依頼によってテーマに沿った資料を提供するだけでなく、授業事例やレッスンプランなども収集して授業づくりの相談にも応じるなど。この点でも鳥取県立図書館の場合はすべての県立高校に司書を出向させていて、現場のニーズに即応するとともに新たなニーズをも創出しながら従来よりも踏み込んだ連携を可能にする条件がととのっているといえる。こうして地域行政への関与から地域産業の振興や市民性の育成、学校教育にいたるまで、図書館が従来よりも一歩踏み込んで深くかかわることによって、その機能はいっそう拡張、強化され、専門職の雇用促進にもつながる道筋もできるだろう。

 資料・情報や場所を提供するだけでなく利用者と直接的にかかわって課題解決のパートナーとして協働する図書館員の姿は、学校図書館においてこそ、もっとも求められ、優れた実践の中にその事例を数多く見ることができる。司書教諭であれ学校司書であれ、何らかの形で学校図書館に配置される教職員がその職務を果たそうとすれば、必然的に子どもや教師との直接的な触れあいを持続させないわけにはいかないし、三者相互の関係性の中で自分自身をふくめた当事者すべての学びと成長にかかわることになる。そのことを明確に意識化している図書館担当者であれば、何よりも自らが子どもの学びを左右する情報源として信頼に足る存在であろうとするだろう。それは、レファレンスでも授業支援でも図書の整理でも、図書館業務のあらゆる局面において、その時々の子どもの学びや教師の教育活動に深くかかわって自らの専門性を活かすところからもたらされる。そこに、それぞれの局面で固定化された役割分担を超えて課題解決のために協働するノットワーキングを生む余地がある。

 利用者に「資料・情報を提供する」だけでなく利用者の「課題解決に直接的にかかわる」サービスをめざす図書館員に求められるのは、図書館業務に関する知識・技能の画一的な行使ではなく、当事者間の関係から生じる多様なコンテクストに対応できる「流動的な知性」(Fluid Intelligence)であろう。その育成と行使を阻害している諸々の要因、とりわけ制度やシステム、そして慣行や自らの行動の前提となっている認識をどのように変えていくか、その具体的な方略を立てて実行していくことが、これからの図書館の課題になるのではないだろうか。

 

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11年目の憂鬱(司書教諭講習を終えて)

2012年09月17日 | 知のアフォーダンス

 


(石山寺公式ブログ「石山寺 四季のたより」より)

 JR石山駅を出たバスが商店街を抜けて京阪石山駅付近にさしかかると、急に視界が開け、豊かな水をたたえてゆったりと琵琶湖にそそぐ瀬田川の景色が目に飛び込んでくる。静かな川面をミズスマシのようにすべっていくカヌー。晴れた日には広い空のかなたに湖南アルプスを望むこともできる。やがてバスが石山寺山門前を通過するころには、この土地の清々しい気に包まれて身も心もすっかりリラックスしている。そして、ほどなくバスは滋賀大学石山キャンパスの西門に到着する。
 この大学で例年夏に開講されている学校図書館司書教諭講習の講師をお引き受けして11年になる。担当してきたのは「学校経営と学校図書館」「学習指導と学校図書館」「読書と豊かな人間性」の3科目。学校図書館法の改正にともなって新しい司書教諭講習が始まったとき、来るべき新しい時代に向かう学校改革の一端を担うことになるかもしれないという期待をもって臨んだ。これまで学校図書館のことを専門的に研究してきたわけではない。40年におよぶ教職経験のなかで学校図書館の経営にかかわったのは1994年から2002年までのわずか8年間にすぎない。そんな私とってチャレンジングな仕事ではあったが、なんとか現場の感覚を大事にしながら、県内の先生方を中心とする受講者の皆さんとともに学校改革の担い手としての学校図書館や司書教諭の具体的なイメージをつくりだすことを目指した。
 3科目をとおして講習の基軸に据えたのは以下の3点である。(もう少し具体的なシラバスを下に記す)

・現実社会の文脈のなかで学校教育を問い直し、学校図書館のあり方を考える
・学習者一人ひとりの多様なニーズに応えるメディア・センター(コミュニケーション・センター)としての学校図書館のビジョンを形成する
・情報とメディアのリテラシーを培う教育のコーディネーターとしての資質の向上をはかる

 講習が始まった当初、会場となった視聴覚教室は受講者で埋め尽くされ、暑い熱気につつまれていた。だが、その数年後に大学で司書教諭資格を取って卒業する新卒者が採用されはじめると、現職の先生方の数が少しずつ減りはじめる。そして、教員免許の更新制度が導入されてからは、教育学部のある石山キャンパスは8月の日程の大半が更新講習のために割り当てられ、司書教諭講習はその合間を縫うように行われることになる。そんななか、今年も8月後半から末日にかけて少しばかり変則的な日程で行われたが、受講者の皆さんが、それぞれの想いと問題意識をもって能動的に参加してくださったおかげで、密度の高い充実した8日間を過ごすことができた。とはいえ、かつてに比べると先生方の気概というか熱気のようなものが希薄になっているのは否めない。
 近年、学校図書館をとりまく学校現場の状況が講習で目指してきた学校図書館像と乖離しつつあるのを感じる。大都市からの人口流入による生徒数の増加にともなう教師の多忙と教室不足のために学校図書館を縮小せざるをえなくなった特別支援学校。同じく校務が多忙になったために図書館担当教員の人数を減らして、学校図書館の実質的な運営を学校司書一人に任せざるをえなくなった高校。自治体や学校がICTの推進を重点目標にすることによって学校図書館への関心が読書活動に絞り込まれていることなど・・・。もちろん、以前に比べて学校図書館が充実し活性化されている学校も少なくないし、公共図書館との連携や支援にも、さまざまな工夫がみられるようにはなっている。しかし、問題は、学校図書館にたいする基本的な認識と学校における位置づけがほとんど変わっていないことにある。多くの学校で、学校図書館は、いまだに読書材を提供する場所あるいは調べものをする場所としてしか認識されておらず、学校経営の要として組織的に運営されるようになっていないようだ。その結果、図書館担当者は、図書を整理し、利用を増やし、施設を維持・管理することだけに専念することになる。生徒一人ひとりの問題や欲求に寄り添い、多様なメディアを活用して情報の評価力や判断力を高めるといった、きめの細かい教育活動を展開することは多忙な教員にとっておろそかになりがちである。そして、何のために学校図書館が必要なのかが問い直されることもないまま、惰性的な図書館運営がつづくことになる。学校図書館が、学校教育における切実な問題にかかわるものとして教職員に認識されることはないし、教師自身が学び合うことをとおして教育実践を豊かにする場として機能することもないだろう。
 読書活動に偏重する(あるいは逃げ込む)ことによって学校図書館機能が矮小化されているといえないだろうか。「コミュニケーションと創造的な学びの場」という視点が抜け落ちてしまっては学校図書館の機能は半減する。この状況は、単に言語活動に学校図書館が欠かせないことを訴えて人と財源の確保を求めるだけで解決できる問題ではなさそうだ。まずは学校図書館担当者自身が、学校の現実に対する切実な問題意識をもって意識の転換をはかることが必要ではないか。利用可能なあらゆる資源を活用して学校改革のために学校図書館を活用するという方向に大きく舵を切ることを期待したいのだが・・・。せっかくの司書教諭講習が現場で生かしきれていないのは、もったいない話である。

 いまや危機的状況にある学校教育のあり方を深くとらえなおす視点を学校図書館はどのような形で示すことができるのか。そんな問題意識をもって、私は昨年の秋に立教大学の司書課程主催で開催された連続講座の企画にかかわり、この秋には、あらたな課題を掲げて連続セミナーをはじめようとしている。(関心のある方はご参加いただければ幸いです)

連続講座「情報を評価し判断する力を育む(終了)

連続講座の報告
「混沌を生きるリテラシー」(”St. Paul’s Librarian” pp.53-56 No.26 2011、立教大学 学校・社会教育講座司書課程)

連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」(参加申込受付中)

第1回「『希望をつむぐ高校』という希望」(2012年9月30日)

第2回「ホリスティックな知とはなにか? シュタイナーとクリシュナムルティ」(2012年10月21日)

以下の論考についても直接入手して読んでいただければ幸いです。
「図書館を使いこなす力」(学図研ニュース No.319、2011年9月号)

※ 参考までに以下に今年(2012年)の夏に滋賀で実施した司書教諭講習の大まかな内容を紹介しておく。多少の変更はあるが、基本的なテーマは11年間ほぼ同じである。

「学校経営と学校図書館」

学校教育と学校図書館

現代の教育課題と学校図書館

学校図書館法

学校図書館職員

学校図書館の実務

学校図書館メディア

学校図書館の施設・設備

学校図書館のパブリック・サービス

学習者の多様性と学校図書館

特別支援教育における学校図書館

多文化社会における学校図書館

学習スタイルと学校図書館

教育とコミュニケーション

学校経営と学校図書館

学校図書館の評価

学校経営と学校図書館

学校図書館経営の革新

「学習指導と学校図書館」

探究型学習と学校図書館

情報の収集と整理(演習)

創造と共有(演習)

探究型学習の評価(演習)

学校図書館の情報サービス(演習)

学習指導における司書教諭の役割

 

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学校図書館自主講座(第10回)のご案内

2012年09月10日 | 知のアフォーダンス

 

 下記のとおり学校図書館自主講座(第10回)を神戸で開きます。この自主講座に関する情報は、自由に転送・転載してくださって結構です。今回のテーマに関心をお持ちの方をご存知でしたら、お誘いください。

   日時:10月14日(日)13:30~17:00

   場所:神戸市勤労会館 306号室

   プログラム:

   1.『読書へのアニマシオン』を実践して見えたこれからの教育

      発表者:細川恵利(奈良育英中学校高等学校・司書)

   2.学校図書館におけるメディア・リテラシーの実践

      発表者:松田ユリ子(神奈川県立田奈高等学校・司書)

   3.フィンランドOulu市における学校図書館の取り組みを読む(ガイド)

      提案と解説:足立正治(大阪樟蔭女子大学・非常勤講師)

 プログラム3では、以下の論文の概要とそのベースになっている活動理論と用語について解説させていただきます。つきましては、この論文を分担して読んで、次回以降の自主講座で発表していただくメンバーを募っています。10月の自主講座でメンバーと分担を決めたいと思いますので、ご協力いただける方は、それまでにお申し出ください。

対象論文:

"SCHOOL LIBRARY: A TOOL FOR DEVELOPING THE SCHOOL’S OPERATING CULTURE"

あるいは次の論文を読んでいただいてもかまいません。その場合、ネット上からダウンロードできないので、この論文が掲載されている本を手に入れていただく必要があります。

“A New Operational Culture: The Case of the School Library in the Information Society Project in the City of Oulu, Finland”. Global Perspectives On School Libraries. Marquardt, Luisa; Oberg, Dianne eds. De Gruyter Saur, 2011, p.57-70, (IFLA publications, 148).

Global Perspectives on School Libraries: Projects and Practices (Ifla Publications)
クリエーター情報なし
Walter De Gruyter Inc

 

 

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ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる(連続セミナー)

2012年08月10日 | 知のアフォーダンス

 

 さまざまな形で学校図書館にかかわる仲間が集まって、近代的な知を超えて人間の全体性を育む学校と学校図書館のあり方を問いなおす連続セミナーを計画しました。子どもたちが「からだ‐あたま‐こころ」のバランスをたもち、自らをとりまく自然や社会とかかわりながら、豊かに育ちあえる。そんな学校をどのようにつくるか、学校図書館はどのようにかかわるかを、多様な参加者とともに考える連続セミナーを計画しました。その手はじめに、人間と社会のつながりを回復し、子どもや若者が希望をもって生き抜く力を育む学校教育と知のありかたを問いなおす講座を開きます。この後も「からだとことば」など、さまざまなテーマでワークショップや講演会を行う予定ですのでご期待ください。

連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」

第1回 9月30日(日)13:30~15:30

『希望をつむぐ高校』という希望

講師: 菊地栄治(早稲田大学・教授、教育社会学)

 大阪府立の二つの高校に寄り添って教師と生徒を励まし、元気づけてこられた菊地栄治さんをお迎えして、生徒の現実に向き合う学校づくりについて語っていただきます。格差が広がり、努力が報われる保証もない社会にあって、子どもや若者が希望をもって生き抜く力をつけるために大人はなにをすべきか。社会に開かれ、異質な他者とふれあって創造的に生きていく術を身につける場としての学校や図書館のありようを考える手がかりにしたいと思います。
 菊地栄治さんの編著書:『進化する高校 深化する学び:総合的な知をはぐくむ松高の実践』(学事出版)、『持続可能な教育社会をつくる:環境・開発・スピリチュアリティ』(せせらぎ出版)など。当日は、菊地さんの近著『希望をつむぐ高校』(岩波書店)を著者割引価格にて提供していただきます。ご希望の方は、参加申込のときに必要部数をお申し出ください。

第2回 10月21日(日)13:30~15:30

ホリスティックな知とはなにか? シュタイナーとクリシュナムルティ

講師: 古山明男(「多様な教育を推進するためのネットワーク」代表)

 生徒を選ばない塾を経営し、子どもや若者のさまざまなニーズに応えてこられた古山明男さんをお迎えして、人間の全体性を深く見つめて独自の教育を創りあげたシュタイナーとクリシュナムルティの人間観と教育思想を語っていただきます。両者に共通するのは、時代に対する危機意識であり、自由で愛に満ちた人を育てることが真の社会変革をもたらすとして、学校をつくったことです。制度や職務の壁でかんじがらめになって、ひたすら「学力」のみを追い求めてきたひずみがあらわになった我が国の学校と社会に、はたして脱出口はあるのでしょうか?
 古山明男さんの著書とブログ:『変えよう! 日本の学校システム』(平凡社)、ブログに「変えよう! 日本の学校システム 教育は制度がネックだ

対 象: 教師、図書館関係者、一般市民、研究者、学生、など

会 場: 立教大学池袋キャンパス 14号館6階601教室

参 加 費:1回1,000円(当日、受付にてお支払ください)、大学生以下は無料

参加申込:下記メールアドレス宛に、お名前、ご連絡先(メールアドレスとよろしければ電話番号も)、ご所属と職種、出席希望回を記入の上、開催日1週間前までにお申し込みください

申込先メールアドレス: holisticslinfo@gmail.com

主 催:「ホリスティックな知を育む学校・図書館」を考える会
(事務局)立教大学 学校・社会教育講座 中村百合子研究室内(tel. 03-3985-3831)

(呼びかけ人)足立正治(元甲南高等学校・中学校・教諭)、中村百合子(立教大学・准教授)、中山美由紀(東京学芸大学附属小金井小学校・司書)、松田ユリ子(神奈川県立田奈高校・司書)、山本敬子(甲南高等学校・中学校・司書) ※五十音順

 

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読書という場の不自由さや制約に意識的になるために(11月27日の和田敦彦さんのお話しをめぐって)

2011年12月04日 | 知のアフォーダンス

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立教大学の連続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」で「読む」という行為をどのような観点から取り上げるか、企画段階で中村さんと講師をさがしていたとき、いつか読んだ登山と読書についての論考が印象的だったことを思い出した。和田敦彦さんが2003年の雑誌『環』(藤原書店、vol.142003、特集「読む」とは何か)に寄稿された「読むことと登ることの間で」(雑誌「環」vol.142003、特集「読む」とは何か)である。登山や登山史に関心があったわけではない。登山について「書き、読む」ことと登山という「行為」とがどのようにかかわっているかというテーマが私の意味論的な関心を刺激したのである。私たちにとって登山とは、ただ「山に登ること」ではなく、その行為に対する何らかの意味や価値が付与されている。私はこれまで、そういった意味づけ(価値付け)の作用を頭の中で起こっている作用として考えてきたが、和田さんの論考は、私たちの認識を形成する外在的な要因(登山について書き、読むことを可能にしている出版・流通の仕組みや、そこにかかわる人、読まれる場所といった要因)に目を向けてくれたのである。登山の意味が社会化されてゆくプロセスといってもよい。プロセスに着目することによって、登山という行為は、個人的な意味を超え、社会的に固定された意味づけ(価値づけ)からも解放されて、問い直しの対象となり、新たな意味(価値)を生み出すことが可能になる。そんな広がりをもった視点から読むことの意味を問い直してみたいと思った。中村さんの依頼を和田さんが快く引き受けてくださって、1127日に連続講座の第3回でお話しいただくことができた。 

 

講演のテーマは「読むことの歴史から学ぶ・教える」。書物が書かれ、読まれるまでの過程でどんなことが起こっているか、そこに介在する人や場に焦点を当てて、具体的な事例を交えて話してくださった。私の読んだ論文とは異なるテーマだが、書物と読者の「あいだ」に着目するという視点は一貫している。アメリカにおける日本図書館やその基礎を築いた角田柳作のこと、日本文化を海外に紹介する役割を果たしてきたタトル出版のこと、明治大学図書館による風俗関係資料の収集をめぐる逸話などを引き合いに出した和田さんのお話に導かれて歴史的、地理的、文化的に距離のある「遠く」の読書環境を眺めてみると、たしかに私たちの読書環境が相対化されて見えてくる。内容はおおむね和田さんの近著『越境する「書物」 変容する読書環境のなかで』(新曜社、2011と重なり合っていたが、これから読もうという人には格好の導入となったことだろう。

越境する書物―変容する読書環境のなかで
クリエーター情報なし
新曜社

大型書店に本があふれ、次々にベストセラーが作り出され、書籍の電子化が進み、新刊も古書もネット書店で容易に購入できる時代にあって、私たちはつい、自由に書物を読むことができていると思い込んでしまうが、その一方で出版されていても私たちの目にも手にも届かない(届きにくい)書物があることには気づきにくくなっている。そもそも、書物として書かれないアイデアは数知れない。そこには、さまざまな制約が介在しているはずなのに、そのことが意識されないまま、供給される書籍と読者が求めているものが一致している(読者が求める本はすべて手に入る)ように思えてしまう状況は決して自由だとは言えないのではないか。

余談だが、和田さんは、かつてご自身の著書『読むということ テクストと読書の理論から』(ひつじ書房、1997の表紙に牢獄のイメージを出すように求められたという。

読むということ―テクストと読書の理論から (未発選書)
クリエーター情報なし
ひつじ書房

 

ひるがえって学校図書館のことを考えてみたい。学校がはらんでいるさまざまな制約のなかで、学校図書館が子どもたちに促してきた「自由読書」とはどんなものだったのか。学校図書館にかかわってきた人たちは、学校の制約をどこまで意識化し、それをどのようして乗り越えようとしてきたのか。そして、現在の学校図書館の読書活動はどうなのか。そのために、20110906日のブログ学校図書館というのはそれ自体背理的な存在なのです」(内田樹さん)で取り上げた内田樹さんの問題提起を手掛かりにしてはどうだろう。114日に書いた「原子力をどう教えるか(放射線に関する副読本を巡って)」でも、学校図書館の立ち位置を間接的に問うたつもりである。学校という制約のなかで子どもたちを守りながら、現実世界に触れ、異質な他者と関わり合う場で「市民性」を育んでいくことが学校の課題だとすれば、そのために学校図書館はどのような読書環境を作っていけばよいのか。

和田さんがおっしゃる「読書という場の不自由さや制約に意識的になる」ことが、私たち大人にとっても子どもたちにとっても、読書によって世界を拓いていくとっかかりになるかもしれない。
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「学校図書館というのはそれ自体背理的な存在なのです」(内田樹さん)

2011年09月06日 | 知のアフォーダンス

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学校は、知識と技能を効率的に身につけて上級学校に送り出すことに追われて、ともすると、子ども一人ひとりの成長を助け、民主主義社会の担い手を育てるという視点が抜け落ちてはいないだろうか。学校が卒業・進学のための通過点になり、テスト結果への依存を強めていることが、子どもの学ぶ意欲を削ぎ、自分の考えで行動しない、従順な子どもを生み出しているのではないか。読書についても、社会や共同体との関係を抜きにして(つまり文化の問題としてではなく)個人の問題として、「よく本を読む子どもは学校の成績も良い」とか「将来の役に立つ」などと語られることが多い。そんな学校の教育システムに埋め込まれた学校図書館に、この矛盾から抜け出す道はあるのだろうか。 

 

少し前の話題だが、内田樹さんが、8月18日(木)に静岡県の高等学校図書館研究大会で「子供たちが本を読むことの意味」について講演されると知って、私の問題意識にたいする手がかりが得られるのではないかと注目していた。後日、ネット上で探したら、内田さん自身が講演の前後にTwitterに書き込んだつぶやきと、この大会に一般枠で参加された(つまり高等学校の図書館担当の先生ではない)人のブログ記事がみつかった。

 

まず、一般参加された方のブログ「草の実・草だより」から、内田さんの発言を転載させていただく。
・リアルタイムの価値観ではいけない。「今」しか見ていてはいけない。利益誘導、市場原理に組み込まれては本当の学力はつかない。

・学校は墓地や病院と同じように異界と現世界の境界にある特殊なところ。境界線の向こうに落ちないように、また、向こうから侵入する危険物をストップするよう大人(特に教育に携わる)は見張り手となる役割がある。

・とはいえ、異界との接触から子どもは成長する。大人は適度なさじ加減をしながら見守りたい。

・教育が今歪んでしまったのは、勉強することが個人の利益につながるという考えだからだ。勉強することが共同体の利益になるという視点が抜け落ちている

  

文脈がつかめないので、いささか分かりにくいが、私にとって、2番目と3番目の引用(注)は、きわめて示唆的である。学校図書館は、まさに「異界と現世界の境界」にあって子どもの成長を促す「ゆとり」の部分、日本家屋でいえば、屋内と屋外の境目にある縁側のような役割を果たすところだと考えられないだろうか。
(注)
 この部分について、ブログ「内田樹の研究室」を探していたら、8月6日の記事学校の制度性について、など」で、その数日後に福岡県高等学校国語部会で行う予定の講演の構想をつづっておられるところが手掛かりになりそうだ。

 

この後に転載させていただくが、内田さんは、ご自身のTwitterでの発言の中で、学校図書館が背理的な存在だと指摘しておられる。だが、学校図書館を担当する立場から考えれば、「それでいいんです」と開きなおっているわけにはいかない。自らの限界と矛盾を自覚することから、変化が始まるのではないかという希望は捨てたくない。学校図書館は「子供が反秩序的になるために読む本」は提供できなくても、成長の過程で、今、自分が読むべき本を知って、それを自ら手に入れて読むことのできる子どもを育てることはできる。そのためには、まず、学校図書館の再定義が必要である。学校図書館が、「学校の教育課程の展開に寄与する」だけでなく、独自の立場から、たとえば「民主主義社会を担う、自立した市民を育てる」といった観点から、「図書館の自由」をどこまで実現できるかを問い続けることによって、公教育としての学校教育の在り方を問い直すことができないだろうか。現場における教師と学校図書館職員との協働を生み、学校の教育力を高めることができないだろうか。だが、成熟した大人になりえていない教育行政には、それを受け止めるだけの度量は期待できないかもしれない。内田さんは、そんな悩ましい問題を提起しておられる。

9月24日から立教大学で行われる公開連続講座「情報を評価し、判断する力を育てる」詳細PDF)では、この問題についても考えてみることにしたい。

 

 以下は、内田樹さんのつぶやき(8月18日のTwitterより)

・子供たちはどうして本を読むべきか。それは自分たちの住む世界とは違う世界があることを知るためです。違う仕方で世界を分節し、違う度量衡で価値を考量し、違う身体で生きている他者と想像的に同期すること。ですから子供の読書は本質的に反社会的、反秩序的なものと見なされます。それでいいんです。

・ですから、学校図書館というのはそれ自体背理的な存在なのです。子供が反秩序的になるために読む本はたいていの場合そこには置かれないからです。それでいいんです。反秩序的になるために秩序を当てにしちゃだめです。子供のうちから横着はいかんです。

・読書を「それによって読み手が知識や情報を獲得できる自己利益増大のための行為」と見なすと、学校図書館の存在理由は崩れます。そこを利用する生徒だけが選択的に受益する制度を公費で維持することに「受益者負担」の原則で反対する保護者に反論することができないからです。

・「そんなに本が読みたきゃ自分で買え。公費を使うな」という主張に反論できない。現にいくつかの高校では司書が補充されず、図書館が機能停止し始めているそうです。教育行政が「教育の受益者は教育を受ける本人である」と考えているなら、いずれ公教育という制度そのものが瓦解するでしょう。

・教育の受益者は共同体そのものである。子供たちを知性的・情緒的・身体的に成熟させないと社会制度そのものが存立しなくなるという理路がわかっていない「子供たち」が今教育行政を支配しています。彼らを成熟させることが可能なのでしょうか。僕はいささか悲観的です。

 

この日の内田さんの講演を学校図書館の人たちが、どう受け止めたのか? ぜひとも知りたいところだが、残念ながら、今のところ見つかっていない。

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「大人にだまされない感性豊かな子どもを育てることは、図書館の使命でもある」小出裕章さん

2011年08月14日 | 知のアフォーダンス

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2011年8月13日(土)、沖縄県西原町立中央公民館で小出裕章さんの講演会「放射能と子どもたち」が行われた(ブログ「小出裕章非公式まとめ)。主催は、西原町立図書館。7年前のこの日(8月13日)、沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落。ブレードの傷を検知するために搭載していた放射性物質ストロンチウム90が飛散し、3.6マイクログラムが消失した。新館長の新川美千代さんは、小出さんが、この事故を調査されたときに知り合ったのがご縁で今回の講演を依頼された。また、新川さんは、今春、図書館長に就任するにあたっても小出さんに相談したところ、次のように励まされたという。

「大人に騙されない感性豊かな子どもたちを育ててください。それは図書館の使命でもあります」

 

新川さんは、小出さんの講演の前に、茨木のり子さんの「倚りかからず」という詩を朗読された。

「倚りかからず」 茨木のり子

もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

(『倚りかからず』茨木のり子著、筑摩書房、1999年)

倚りかからず
 
筑摩書房
倚りかからず (ちくま文庫)
 
筑摩書房

これは、茨木さんの詩の中では「自分の感受性くらい」とならんで、私も大好きな一編で、9月から始まる連続講座「情報を評価し判断する力をいかに育むか」に寄せる私の思いにも重なるので、転載させていただいた。

 なお、この日の小出さんの講演内容はYouTubeで公開されている。

「放射能と子どもたち」パート1

「放射能と子どもたち」パート2

講演の後の記者会見

・環境が放射能に汚染されてしまった現状を踏まえて、いかにして子どもたちを被曝から守り、第一次産業を守るかということが大切。

・そのためには、基準を決めて、それ以上であれば危険だから出荷停止、それ以下であれば安全なので流通させるという考え方は間違っている。放射能は微量でも危険で、安全な基準などないからだ。

・今やるべきことは、汚染を測定して表示すること。その上で、生産したものは、私たちがすべて引き受ける。影響を受けやすい子どもたちには、汚染度の高いものは食べさせないようにする。だが、第1次産業を守るためにも、大人は原発を許してきた責任に応じて覚悟をもって食べる。その判断は消費者に任されている。

・反原発の闘いと沖縄の闘いは同じ。強いものに従うのではなく、生きることが困難なものに目を向ける優しさをもつことが人間の価値を決める。

7年前のヘリ墜落事故についての小出さんたちの調査結果は、下記の本で報告されている。

『沖国大がアメリカに占領された日―8・13米軍ヘリ墜落事件から見えてきた沖縄/日本の縮』図(青土社、2005)

沖国大がアメリカに占領された日―8・13米軍ヘリ墜落事件から見えてきた沖縄/日本の縮図
 
青土社

目 次

1.   8・13米軍ヘリ墜落事件―事件の意味と背景(大学が米軍に「占領」された七日間―検証ドキュメント

事件とその波紋

大学は何を蹂躙されたか

放射能汚染を検証する

基地の中の日常

基地依存経済の縮図

岐路に立つ沖縄/日本)

2.   「黒こげの壁」への想像力を問う―「記憶」の継承と発信(「記憶の場」を考える

可能性としての大学

二つの建物が語りたかった物語―ペルー館と琉球政府立法院

たじろがず見よ)

3.   付録

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『知の広場』と『Here Comes Everybody』のこころざし:時代が求める図書館とは?

2011年06月18日 | 知のアフォーダンス

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知性の在り方が問われる現代にあって、教育の明日を拓くために学校図書館はどのような役割を担うべきか? この問いにたいする私の答えは、一言でいえば、ただ本を借りるための図書館にしないことだ。最近は、CDやDVDを借りたり、インターネットにアクセスできる学校図書館も多い。これからは電子書籍も提供されるようになるだろう。そして、何よりも授業や学習に必要な資料を提供することが学校図書館の重要な役割であるとされている。だが、印刷物であるか最新のテクノロジーであるかを問わず、ただ資料や情報を提供するだけでは、時代が求める学びを拓く力にはならない。人が集い、出会いと対話が生まれ、思いがけない発見や学びを生み出す可能性をもった図書館が必要である。そこで行われるさまざまな活動に参加することをとおして子どもたちがコミュニケーション能力や社会性を培い、これからの社会に必要な知性と創造力を育んでゆく。そんな図書館の活動は、当然、教室の授業を活性化し充実させるのに役立つし、子どもたちが社会を眺める窓にすぎなかった学校を、社会に参加するための入り口へと変える原動力にもなる。それには、教師とともに「拡張的な学び」をデザインしコーディネートする学校図書館職員の存在が不可欠である。優れた専門職が、個々の職場を越えて相互のコミュニケーションと協力をはかりながら、その能力を十全に発揮して働くことのできる環境をつくることが急務である。そう考えて、1994年に学校図書館に関わるようになって以来、取り組んできた私の活動と、その背景となっている個人史を語り、記録として出版したのが、先日紹介した『Here Comes Everybody 足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』(自費出版)である。

 これを読んでくださった青柳啓子さんから、イタリアの公共図書館の取り組みを紹介した『知の広場 図書館と自由』(アントネッラ・アンニョリ著、萱野有美訳、柳与志夫解説、みすず書房)と共通項が多いことを知らせていただいた。さっそく読んでみたら、まさに、その通りだった。こんなに楽しい図書館の本は読んだことがない!そう思えるほど私が求めてやまなかった図書館の姿が描き出されている。公共図書館と学校図書館、イタリアと日本との違いはあるが、そのこころざしに共鳴し、意を強くした。しかも、日本語版の発行日が『Here Comes Everybody・・・』と同じ2011年5月10日ではないか! これは、ユングのいうシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)ととらえるべきだろうか。少なくとも、これらの本が、この時代を生きる私たちが意識下で渇望している何かと同期していることはまちがいなさそうだ。そのあたりのことを、8月8日(月)に開催される『Here Comes Everybodyを語る会』(詳細は下記)でも大いに語り合いたいと思う。 

知の広場――図書館と自由
クリエーター情報なし
みすず書房

 以下は、asahi.comに掲載された『知の広場』のレビューである。

http://book.asahi.com/review/TKY201106070152.html

 [評者]辻篤子(朝日新聞社論説委員)[掲載]2011年6月5日

■予期せぬ人・体験と出合う場

 「すべてが欲しい、今すぐに欲しい」

 情報でも映像でも音楽でも、そんな個人の欲求をネットがいとも簡単に満たしてくれる時代である。

 図書館はいわばその対極にある不自由な存在かもしれない。だからこそ、創造力や社会の知性を育てる文化活動の場として重要性は増す、とする。欲しいものだけでない、予期せぬものとの出合いが、豊かな人生には欠かせない。

 著者は、イタリアでの実績をもとに、そんな場としての図書館作りを豊富な具体例とともに提言する。

 本が、読んでくれる人をじっと待っている静かな図書館はもう存在しない。人々が集い、さまざまな体験をする「屋根のある広場」がこれからの姿だとする。

 広場のイメージはいかにもヨーロッパ的だが、千代田区立図書館で、出版社や古書店ともつながった新たな場作りに取り組んだ柳与志夫氏の熱のこもった解説が、私たちの身近にひきつけてくれる。

 

足立正治の『Here Comes Everybody』を語る会

日時:2011年8月8日(月)第1部13:30-17:00 第2部18:00-20:00

場所:兵庫県民会館 304号室

プログラム:

第1部 語る会:講演や鼎談など

第2部 夕食と交流の集い

申込締切:7月10日

詳しい案内は下記にあります。

http://www.kh.rim.or.jp/~masa-sem/HCE/annai2.pdf

本の入手方法は下記までお問い合わせください。

masa-sem@goo.jp

(残部が少なくなっていますので、これからお申込みいただいても、増刷のために、しばらくお待ちいただくことになるかもしれませんが、あらかじめご了承ください)

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「あかん。人類は滅びるしかない。」:梅棹忠夫にとって「暗黒のかなたの光明」とは?

2011年06月12日 | 知のアフォーダンス

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昨年7月に90歳で亡くなった梅棹忠夫さんの足跡をたどる「ウメサオタダオ展」国立民族学博物館)の会期が、この14日で終わる。私は、梅棹さん(関西人の気安さと関西弁丸出しの語り口にたいする親しみやすさから、そう呼ばせていただく)と同時代を生きた一人として、その活動をまぶしく眺めながら、フィールド調査や文明論から刺激を受け、『知的生産の技術』によって知的活動の極意を学ぼうとしてきた。梅棹さんは、ものごとの本質を分かりやすいことばづかいで語ることでも定評がある。たとえば「あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく」(小長谷有紀編『梅棹忠夫のことば』p.6、河出書房新社)ということばは、学びのありかたを的確に表している。だが、梅棹さんの真骨頂は、何と言っても、その発想(ひらめき)にあると私は考えている。川喜田二郎氏に魅かれるのもこの点だが、この二人にとって発見や創造の源泉となる発想やひらめきはどのようにして生み出されるのだろう? それは、おそらく理論的にはアブダクション(abduction)や創発(emergence)といった概念によって説明されるのかもしれないが、実践的には、きっと二人が使っていたツールや技術が大きく関係しているにちがいない。思考の道具に着目することによって、学校で学び方の指導をするときにも、ただ情報や資料をかき集めて、こぎれいにまとめるだけの調べ学習と、自由な発想に導かれて発見と創造をおこなう探究活動との違いを明確にできるのではないか。そんなことを考えていた私は、展覧会で梅棹さん直筆のカードやノート類を目の当たりにして、感慨深いものがあった。

しかし、その時々の梅棹さんをフォローし刺激を受けてきた私は、展覧会場で見た、見事に整理された梅棹さんの90年の生涯に少しばかり物足りないものを感じた。「知の巨人」といわれた梅棹さんだが、はたして自分の人生にまったく悔いはなかったのだろうか? 失明してからも旺盛な執筆活動をつづけ、膨大な論文や著作を残した梅棹さんが、語りつくせなかったことはないのだろうか? そんなことを考えていた私にとって、6月5日にNHK教育テレビで放映されたETV特集「暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~」は見ごたえがあった。今回の展覧会のために資料を整理しているときに、未刊の書『人類の未来』のためにつくられた目次が発見された。番組は、梅棹さんがそのエピローグの最後に記した「暗黒のかなたの光明」の意味を読み取ろうとするもので、NHKオンデマンドで19日まで配信されている。

『人類の未来』をめぐるいきさつは、4月末に出た河出書房新社の『KAWADE夢ムック 文藝別冊 梅棹忠夫 地球時代の知の巨人』で詳しく取り上げられている。科学は私たちに目先の幸福はもたらしてくれるが、長期的に見ると科学万能主義と飽くなき知的好奇心の行き着く先は人類の破滅である。梅棹さんは人類の未来について、そんな予測をしていたらしい。晩年に語ったという「あかん。人類は滅びるしかない。大脳が大きすぎるからや」(同書p.51の小池信雄氏による回想)ということばは衝撃的だ。そんな未来の暗闇に光明を見いだす「英知」はないのだろうか。梅棹さんは、桑原武雄氏との対談のなかで「科学を趣味にしたらええ。人生の生き甲斐としてね」(同書p.59)と語っている。科学技術は、利潤追求や、他人を支配するための合理的な手段にもなるし、搾取に奉仕し、環境を悪化する原因にもなる。そんな功利的な目的と結びついた科学技術を解放し、純粋な「遊び」にすればいいのだという。はたして私たちは老荘思想に立ち帰るべきなのだろうか?

奇しくも、この展覧会が始まった3月10日の翌日、東日本大震災と福島原発の事故という、まさに文明の危機を実感し、それに立ち向かわざるをえないできごとが起こった。これを契機にして私たちは、これまでの生き方から脱却して文明の大転換をはかれるのだろうか? 梅棹さんが残した課題にどう応えるかが問われている。

梅棹忠夫---地球時代の知の巨人 (文藝別冊)
クリエーター情報なし
河出書房新社
文明の生態史観 (中公文庫)
梅棹忠夫
中央公論社
知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹忠夫
岩波書店
アブダクション―仮説と発見の論理
米盛裕二
勁草書房

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命をつなぐ営みのために:『Here Comes Everybody・・・』を出版しました!

2011年05月21日 | 知のアフォーダンス

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『Here Comes Everybody 足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』がやっと出版された。私が甲南中高を去るにあたって2010年3月21日に催してくださった「足立正治氏とともに考える学校図書館の過去・現在・未来」の記録をもとにしてつくられたものだが、出版社を通さずに印刷・製本以外のすべての作業を自分たちで手がけたために完成まで一年以上かかってしまった。時間がかかったわりには不備な点が目立つが、型にはまらない自由な発想を大切にしたおかげで、カバーからカバーまで、どのページにも、この本にかかわった人たちの心地よい気が満ちているのは、何ものにも代えがたいことである。

当初から意図していたわけではないが、あらためて読み返してみると、本書には「図書館」「学び」「一般意味論」という3つのテーマが織り込まれている。共通しているのは、いずれも人類の命をつなぐために必要な基本的な活動であるという点だ。言い換えれば、本書は、時間と空間を超えて人々の経験に学び、人類を破滅に追いやらない知性を私たちのなかにいかに育むかという問題意識に貫かれている。折しも3.11に起きた未曾有の災害は、私たちの生き方を見直し、次世代に命をつなぐ人間の営みについて深く考える機会となった。生死を分ける局面で命をつなぐ行動とは何か? 私たちは現在置かれている状況をどのように受けとめ、どこに向かって行動すべきか? そのために私たちの知性と感性をどのように活かすべきか? 奇しくも、そんな問題意識が高まるなかで出版されることになった本書に何らかの手がかりが見つかればいいのだが・・・

 中沢新一氏によれば、人間の知識は、線形的な知識と非線形的な知識という二つのタイプの複論理(バイロジック)として構成されている(「非線形図書館」、『つくる図書館をつくる‐伊東豊雄と多摩美術大学の実験』pp.64-65、鹿島出版会、2007)。線形的知識とは主として言語によって、非線形的知識とは無意識‐直観によって経験を組織化して得られる知識のことである。人間の知の集積である図書館においては、もちろん、この複論理性が再現されているべきだ。そして、一見まとまりがなく、とりとめのない本書もまた、複論理的に読み取ってくだされば、それなりの統一感をもって理解していただけるかもしれない。

(出版されたといっても、出版社が関わっていないので、本書が既成の流通経路に乗って書店に並ぶことははい。だからと言って記念の会の参加者があの時の記録を読み返し、自分たちのエッセイをお互いに読みあうだけではもったいない。せっかく本になったのだから一人でも多くに人たちに届けて、読んでもらいたいと思う。関心のある人は左の欄からメッセージを送ってくださるか、下記のアドレスまでお問い合わせください。頒布価格2400円+送料でお分けします)

masa-sem@goo.jp

 片桐ユズルさんのブログで紹介されています。

 

 
(画像をクリックすると拡大されます)

 

目次(画像をクリックするとPDFで目次が見られます) 

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思考力の育成に学校図書館はどうかかわるか:第6回学校図書館自主講座in神戸を公開!

2011年05月06日 | 知のアフォーダンス

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昨年末より月一回のペースで進めている学校図書館自主講座「現代の教育課題と学校図書館」の第6回「思考力の育成に学校図書館はどうかかわるか」を下記の通り公開します。 

本講座は、現代の教育課題に応える学校図書館のあり方を考え、新たな実践の創出に向けたゼミ形式の勉強会です。テーマは壮大ですが、参加者がリラックスした雰囲気のなかで交流し、自由な発想と柔軟な思索を展開することによって、日常の実践から頭ひとつ抜け出し、日本の学校教育と学校図書館をめぐる状況をクリティカルに見通す目をもつことを目指しています。

 お問い合わせ、参加申込は、氏名、所属、連絡先を明記の上、左欄の「メッセージを送る」から連絡くださるか、下記までメールをください。

                masa-sem@goo.jp

 

第6回学校図書館自主講座(神戸)のご案内

テーマ:思考力の育成に学校図書館はどう関わるか

日 時:5月15日(日) 13:30~17:00

場 所:新長田勤労市民センター 講習室1

 http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/shinnagata/index.html

 JR新長田駅下車、すぐ(JR三ノ宮から新長田まで各駅停車で乗車時間8分)

会 費:300円(会場費+資料費)

内 容 

第1部 報 告

1.探究型学習にチャレンジ!~今高ビック6を活用して~ 

報告者:鈴木啓子(兵庫県立西宮今津高等学校司書)

2.テーマ設定の過程を可視化する~中2グループ研究の授業から~

報告者:鳴川浩子(玉川聖学院中・高等学校司書教諭)

3.思考力を鍛える学校図書館プログラムの構築に向けての課題

報告者:桑田てるみ(国士舘大学准教授)

第2部 全体討議

司 会:足立正治(元 甲南高等学校・中学校 教諭)

 

<参考資料>

2010812日に田園調布学園中等部・高等部で行われたシンポジウム「学校図書館と創る探究型学習」子どもたちの言語力や思考力を育むために学校図書館はどうかかわるのか)の記録 

資料1:『思考力の鍛え方』出版に至るまでの経緯と基本的な考え方(桑田てるみ、眞田章子)

【要旨】

【パワーポイント】

資料2:パネルディスカッション:学校図書館とともにつくる探究型学習の可能性を探る

【要旨】

Part1 『思考力の鍛え方』に紹介された実践をめぐって

Part2 パネリストと参加者全員によるディスカッション

司会:桑田てるみ(国士舘大学准教授)

パネリスト: 眞田章子(かえつ有明中高等学校司書)

       庭井史絵(慶應義塾普通部司書教諭)

       野村愛子(田園調布学園中・高等部司書)

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)