ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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学校図書館で育む「本物の学び」(「探究的な学びと学校図書館の活用」キックオフ・ミーティングのご案内)

2015年02月08日 | 知のアフォーダンス

 

 昨年12月に書いた『「総合的な学習の時間」から考える「本物の学び」』で考えたことをもとにして、新たな自主講座をはじめます。

 子どもが切実な問題意識をもって自ら設定した課題に取り組み、経験や知識を再構成して、新たな気づきや発見にいたる探究の過程で、学ぶ意味を実感する・・・学校教育の過程で子どもが本気になって取り組む「本物の学び」(authentic learning)の機会を生みだしていくには、教師自身の能力開発と学校図書館の活用が鍵になると考えます。
 司書教諭や学校司書は、学校図書館をどのように整備し、子どもの学びにどのように関わればいいのか。教師は、学校図書館を活用して、子どもたちの学びをどのように導いていけばいいのか。こうした問題について、お互いの経験知を共有するために、
探究的な学びに関わる教員及び学校図書館職員の学びのための自主講座をはじめることにしました。
 
つきましては、下記のとおりキックオフ・ミーティングを開催して、自主講座の基本的な考え方を整理してプログラムを検討したいと思います。総合的な学習の時間や問題解決学習にかかわる先生方、司書教諭や学校司書の皆さん、その他、関心のある方のご参加をお待ちしています。また、この案内を広く関心のある方々に広めていただければ幸いです。

日時:3月1日(日)13:00~16:30
場所:神戸市勤労会館 307号室
テーマ:「探究的な学びと学校図書館の活用」
内容:講座の目的、計画の概要、諸概念の整理、日程、進め方などについて話し合います。
お問い合わせ、参加を希望される方は下記にご連絡ください。
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変えて送信してください)
スタッフ:
足立正治(元甲南高等学校・中学校教諭、大阪樟蔭女子大学非常勤講師)、天野由貴(椙山女学園大学図書館司書)、中津井浩子(甲南高等学校・中学校司書教諭)、山本敬子(甲南高等学校・中学校図書館司書)ほか。
企画・運営:学校図書館勉強会(神戸)
こちらは案内のチラシです。ダウンロードしてご自由に配布してください。

 いわゆる「ゆとり教育」批判を受けて2011年に改訂された学習指導要領は、「生きる力」という理念を継承し、「思考力・判断力・表現力等の育成」を掲げて、各教科において基礎的・基本的な知識・技能を習得、活用する学習活動を充実させるとともに、総合的な学習の時間を中心として教科等を横断した課題解決的な学習や探究的な活動を行うことを求めています。そして、総合的な学習の時間の指導にあたっては、「学習過程を探究的にする」だけでなく、「他者と協同して取り組む学習活動にする」ことも求められています(学習指導要領解説 総合的な学習の時間編 学習指導のポイント、平成20年7月、文部科学省)。また次の学習指導要領の改訂では、生徒が能動的に学習活動に参加する「アクティブ・ラーニング」が導入されようとしています( アクティブ・ラーニング次期学習指導要領の主役に / 初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問) )。こうした教育方法革新の要請は、学校図書館の活動とどのように関わるのでしょうか。それを考えるヒントが20世紀初頭に活躍したアメリカの哲学者ジョン・デューイの考え方の中にあります。
 デューイは、講義形式の授業によって知識を伝授する、伝統的な教育方法に疑問をもち、生徒が「能動的な活動」や「経験」をとおして学ぶことが必要だと考えて「問題解決学習」を提案しました。経験から学ぶということは、自ら体験したことを振り返って、そこで起こったことの関連性を考えること、すなわち「反省的思考」をおこなうことを意味します。問題解決学習は、子どもが自らの社会生活のなかで抱いた疑問や問題を解決するために、事象間の関連を問い、そこから科学的認識を獲得する「探究」の過程をたどります。デューイは、そのような学習過程を展開する学校の要(かなめ)に「図書室」を位置づけています(『学校と社会』)。デューイにとって図書室は「子どもの経験や疑問、発見などを持ち込んで議論し、書物として集積された他者の経験をとおして理論と実践を有機的に関連させる場所」であり、書物は「経験を解釈し、拡充する上で貴重である」としています。
 自主講座では、「探究」をキーワードにして、近年、活動理論との親和性も注目されているジョン・デューイの教育観を再検討し、現代の教育課題に応える学びのあり方と学校図書館の関わりを、いくつかの側面から総合的に捉えて探究したいと考えています。たとえば、ひとつは、空間と資料と人が有機的に関わりあう学びの「場所」(知能環境あるいは学びの広場)として学校図書館をどのように整備するか、ふたつ目は、多様なリテラシーの基盤となる情報やメディアのリテラシー(あらゆる形態の情報やメディアを選択、評価、活用する力)をどのように育むか、そして、もう一つは、探究活動を進めていく思考と感性をどのように培っていくか。
 「いかに教えるか」ではなく、子どもの学びに寄り添うことを軸にして、皆さんの経験を持ち寄って、実際に生徒の意欲を掻き立て、気づきや学びをもたらした経験や、逆に生徒の意欲を削いだり、失敗した経験なども話し合いたいと思います。具体的な実践知を共有することで、探究的な学びに関わる教師及び学校図書館職員の能力開発や司書教諭のリカレント教育のプログラムを提案することができればいいと考えています。職種や経験を問わず、私たちの試みに賛同して能動的に参加してくださる皆さんのお越しをお待ちしています。

 

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1.11「ぴっかり図書館」の「ぴっかりカフェ」・勉強会の報告です

2015年01月20日 | 知のアフォーダンス

 

 「近いうちに・・・」と思って後まわしにしていたら、いつのまか1.11の勉強会から一週間以上が過ぎてしまいました。どうやら加齢にともなう体内時計の減速が思いのほか進んでいるようです。
 言い訳はさておき、1.11という数字の並びはスッキリしていて、なんとなく縁起が良さそうですね。年が改まったばかりのこの日、私は新鮮な期待を胸に神奈川県立田奈高校に向かいました。神戸の「場所としての学校図書館」勉強会で取り上げた下記の論文の舞台となっている「現地」を訪れたいというメンバーのリクエストに、同校の司書で論文の執筆者の一人でもある松田ユリ子さんが快諾してくださったのです。勉強会からは松田さんをふくめて7名、そこに関東圏の学校司書の皆さんや「ぴっかりカフェ」に関わりのある人たちも来てくださって、合わせて20名近くの集まりになりました。
 勉強会で取り上げた田奈校図書館とNPO法人パノラマによる交流相談やバイターンの実践内容については、以下の資料に詳しいので、ご覧ください。

「高校生の潜在的ニーズを顕在化させる学校図書館での交流相談‐普通科課題集中校における実践的フィールドワーク」鈴木晶子・松田ユリ子・石井正宏(東京大学大学院教育学研究科、生涯学習基盤経営研究、第38号、2013年度)
有給職業体験プログラム「バイターン」実施プロジェクト

 ぴっかり図書館の印象を一言で表わすとすれば、「目を見張る」図書館といえばいいでしょうか。外側の壁面は写真やポスターなどで埋め尽くされていて、入り口の扉は鮮やかな黄色で塗りつぶされています。館内に入ると、本も資料も、すべてのものが誰かの目に触れることを意識して、そこにあります。見わたすと、奥の書架群から、いくつもの馬鹿でかい楕円形の分類表示板が競い合うように呼びかけてきます。引き寄せられていった私の目に真っ先に飛び込んできたのは、『焚書World of Wonder』(鴻池朋子・著、羽鳥書店、2011)でした。まったく知らない、初めて見る本です。(家に帰ってから兵庫県内の公共図書館と大学図書館を横断検索してみたのですが、蔵書件数はゼロでした。)好きなタイプの本ではないのですが、その強烈なタイトルと表紙に描かれたエネルギッシュな素描に惹かれて頁をめくってみると、書物のもつ生命力が迫力のある画とことばで表現されていて、すっかり圧倒されました。
 一息ついて近くの壁に目をやると、太宰治の写真に目がとまりました。近づいてみると小さな文字で作品の引用が添えてあります。
「いったい、あの音はなんでしょう。虚無などと簡単に片づけられそうもないんです。あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。(太宰治『トカトントン』より)」
 「トカトントン、トカトントン・・・」、太宰の脳裏に響いていた音が、私の頭に響きはじめました。気がつくと、それが、いつのまにか古川豪の唄に変わっています。「トカトントン、トカトントン・・・」。太宰治を悩ましつづけたのは敗戦から間もない頃に聞いた金槌の音でしたが、日本の高度経済成長期が終わろうとしていた1970年代のはじめに古川豪の脳裏によみがえってきたのは、自分が生まれ育った京都の町にかつて響いていた西陣織の機の音でした。ふたつの「トカトントン」が、いつのまにか私の頭のなかでつながっていたのです。

トカトントン/古川豪 (YouTube)

 そのとき、もう、私はただの見学者ではなくなっていました。
 我に返って目を落とすと、太宰の写真の下にも数冊の大型本が展示してあります。そのなかに『SLAM DUNK TEN DAYS AFTER』(井上雄彦・著、フラワー、2009)がありました。2004年12月に旧神奈川県立三崎高校で行われた「スラムダンク一億冊感謝記念・ファイナルイベント」で井上雄彦が黒板に描いた漫画の写真集です。三崎高校は、その年の4月に別の学校と再編統合し、すでに移転していて、残された校舎は、いまもイベントなどに使われているそうです。私は、写真集の頁をゆっくりとめくりながら、井上雄彦の黒板画そのものよりも、それらが描かれている黒板や教室の佇まいに、さまざまな想いをめぐらせていました。すると、ふたたび、さっきのトカトントンが聞こえてきます。
 私の想像が暴走しはじめたようです。日々ここにやってくる田奈高生たちも、きっと、いろんなものに目をとめて想像をふくらませ、暴走しているのかもしれませんね。

 ぴっかり図書館で私が目にしたものは、まるで私の目に触れるために、そこに存在していたかのようです。あるいは、自分が潜在的に求めていたものに出会ったというべきかもしれません。やってくる者を一瞬のうちに引き込んで、これまで思いもしなかったような意味作用のスイッチを入れる。そこは、まさに、創造的な活動を起動させる、アフォーダンスに満ちた知能環境だといえます。だからこそ、ぴっかりカフェがうまく機能しているのではないか。そう思いながら私は、松田さんがスライドを使ってカフェの様子を話してくださるのを聞いていました。
 松田さんの話を受けて、論文の共同執筆者でもあるNPO法人パノラマの石井正宏さんが、田奈高図書館でカフェの運営をはじめた経緯と思いを話してくださいました。飾り気のない率直な語り口で紡ぎだされる石井さんのことばは、豊かな経験と深い思索に裏打ちされてよく吟味されていて、聞き入ってしまいました。
 週一回開かれるぴっかりカフェを待ち望んでいる生徒がいるといいます。先生方や校長先生もこられるそうです。それぞれ自分が必要としている何かを求めてカフェにやってくるのでしょう。話し相手や相談相手であったり、無償で提供されるお茶やお菓子であったり、ふだんは心の底にかくれていて気づかない「何か」であったりするのかもしれませんが、それがどんなものであっても、一人ひとりにとっては、なくてはならないものにちがいありません。ぴっかり図書館のぴっかりカフェは、それに応えて、利用者にとって自分が必要としている何かを見つけたり、手に入れたりできる場所として田奈高になくてはならない存在になっているようです。
 学校図書館とNPOとのコラボレーションといっても、実際には、それぞれの活動を担う生身の人間同士のコミュニケーションによって成り立っています。そこでは、両者の思いや価値観はもとより、身体感覚や感受性、他者との関わり方など、さまざまな要因が複雑に絡み合って日々の実践を生みだしているはずです。実際に田奈高の図書館に身をおいて、松田さんや石井さんをはじめ、何らかのかたちで関わった人たちがそれぞれの息づかいやリズムをともなった自らの声で語ることばを聞いていると、論文からはくみ取れなかった実践の背景が多少なりとも感じ取れたように思います。
 ぴっかりカフェが機能するには、ぴっかり図書館がなくてはならなかったはずだし、ぴっかり図書館が存在するには、田奈高という土壌がなくてはならなかったのではないか。その田奈高の文化は、生徒と教職員の日々の活動によって生み出されています。それらが互いに影響し合って安心と信頼に包まれた場所が生まれ、課題集中校とされる田奈高で厳しい現実を抱えた高校生一人ひとりを支え、元気づけている。そうした関係の中でとらえると、ぴっかり図書館やぴっかりカフェの活動が果たしている役割がよく見えてきます。カフェやコラボレーションといったかたちの向こうに私たちが学ぶべき大切なものがあるようです。
 この日は、前日に私のブログを読んで勉強会のことを知った前校長の中田正敏先生も来てくださっていて、学校づくりのお話をうかがうことができました。

 最後に石井正宏さんが、田奈高生のために自ら作られた「進め!!田奈高生」を唄ってくださいました。(動画はフェイスブックに投稿されているものです)

 実りある学びの機会をつくってくださった石井さん、松田さん、中田先生、そして参加してくださった皆さんにあらためて感謝いたします。

 

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「ぴっかり図書館」の「ぴっかりカフェ」‐「場所としての学校図書館」勉強会

2014年12月17日 | 知のアフォーダンス

 

 次回の「場所としての学校図書館」勉強会は、神奈川県立田奈高校を訪問して、図書館とNPO法人が協働して進めておられる交流相談の取り組みについてお話をうかがいます。
 田奈高校の図書館(通称「ぴっかり図書館」)では、毎週一回程度、カフェ(通称「ぴっかりカフェ」を開いて生徒たちが自由に話せる場を設け、日常会話から生徒たちの不安や悩みを聴きとって解決策につなげる活動を行っておられます。その運営にNPO法人パノラマも参加して、生活困窮など様々な困難を抱えている(あるいは、そのリスクの高い)高校生に対して企業を紹介し、職業体験やアルバイトをとおして卒業後の就労を支援する活動を展開しておられます。
 勉強会では司書の松田ユリ子さんとNPO法人パノラマの石井正宏さんにそれぞれの立場からお話してただき、学校図書館と地域のNPOが協働して、このような活動を行うことの意味を考えたいと思います。
 学校図書館関係者にかぎらず広く関心のある方をお誘いくだされば幸いです。

 勉強会の日程は下記のとおりです。(開始時間が以前にお知らせしたのと変わっていますので、ご注意ください)

「場所としての学校図書館」勉強会(第6回)

日時:1月11日(日)13時30分~16時30分(できるだけ13時20分以後にお越しください)

場所:神奈川県立田奈高校図書館
 
東急田園都市線『青葉台駅』よりバスをご利用ください(「田奈高校」下車)

テーマ:田奈高図書館と「ぴっかりカフェ」

 お問い合わせ及び参加を希望される方は下記のアドレスにメールをください。
   holisticslinfo#gmail.com (#を@に変えて送信してください)

【参考資料】

・田奈高図書館における交流相談については、以下の文献をご覧ください。
「高校生の潜在的ニーズを顕在化させる学校図書館での交流相談‐普通科課題集中校における実践的フィールドワーク」鈴木晶子・松田ユリ子・石井正宏(東京大学大学院教育学研究科、生涯学習基盤経営研究、第38号、2013年度)

・「ぴっかりカフェ」のコンセプトを説明したサイト(動画もあります)はこちらにあります。
有給職業体験プログラム「バイターン」実施プロジェクト

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

 わたしは、この「ぴっかりカフェ」の試みを、これまで何度か紹介してきたヘルシンキ大学のユリア・エンゲストローム教授の用語を借りて「ノットワーキング」と「拡張による学習」の試みととらえて、これからの学校や学校図書館のあり方を考える手がかりにしたいと考えています。
 複数の活動システム(activity system)が結び目(knot)をつくって新たな活動を展開することをノットワーキング(knot-working)と呼びます。活動システム相互の関わりの中から、単独のシステムでは担いきれない新たな活動対象とツールを生みだすことによって、ノットワーキングに関わる活動システム自体が変容していくことを「拡張による学習」といいます。そのような活動は、今日の急速な社会的・文化的変化に対応できなくなっている固定的な組織や制度を変革するために有効ではないかと考えられます。
 「ぴっかりカフェ」は、困難を抱えた高校生と適切な人材を求める地域の企業とをつなぐという活動のために田奈高図書館とNPO法人パノラマという二つの活動システムのノットワーキングによって生み出されたツールといえるでしょう。そこには二者だけでなく、その活動を容認あるいは支援してくれる田奈高の教師たちやカフェを利用してくれる生徒たち、さらにその生徒たちを受け入れてくれる地域の企業が参加しなければ成り立たないことを考えると、それが単に学校図書館の中だけの局所的な試みではなく、そこに参加する人々をとおして学校や社会のあり方を変えていく活動であることは明らかです。
 学校図書館が、このようなノットワーキングを始動するには、まず生徒たちが置かれている文脈(背景)を視野に入れて彼らの問題を把握し、固定化された従来の図書館業務では対応しきれないことを課題として認識することが必要でしょう。その上でノットワーキングを遂行していくためには、そこに関わる当事者間の関係から生じる多様なコンテクストに対応できる「流動的な知性」(Fluid Intelligence)と状況の全体を見通す感性も求められるでしょう。次回の勉強会では、そういった点についても考えてみたいと思います。

 ちなみに「活動理論」や「場所としての学校図書館」に関する私の問題意識については、下記の記事をご覧ください。

学校図書館専門職とノットワーキング:「イフォメーション・パワー」の先にみえる協同の形(2005/12/25)

間接サービスから直接サービスへ(2012/12/31)

場所と場による学校図書館づくり(2014/7/11)

居場所としての学校図書館を考える(2014/8/16)

 

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「場所としての学校図書館」勉強会開催のお知らせ

2014年09月05日 | 知のアフォーダンス

 

 間際になってからのお知らせで恐縮ですが、標記の勉強会を下記のとおり開催します。関心のある方はご参加ください。

日時:9月7日、10:30~16:30

場所:(神戸市)六甲道勤労市民センター 5F 会議室C
三ノ宮から大阪方面に各駅停車で2駅目(快速電車では最初の停車駅)、JR六甲道駅の南側に隣接する「メイン六甲」の5階です。

参加費:会場費として400円程度(参加者数によって変わります)

参加を希望される方は、下記のアドレスにメールでご連絡ください。holisticslinfo#gmail.com (#を@に変えて送信してください)

プログラム(変更になる場合があります)

午前

・夏の活動報告
(夏休み中に国内外の図書館関係の集会に参加された皆さんによる報告)

・「バーバラ・ストリプリングさんの講演を聞いて」山本敬子、足立正治
(元米国図書館協会会長のバーバラ・ストリプリングさんが熊本と大阪でおこなった講演をもとに理念や探究学習支援、専門職の養成について考えます)

午後

・「場所としての学校図書館-昼休みの学校図書館における生徒の行動に着目して」松田ユリ子

・「居場所としての学校図書館」足立正治
(「居場所」とは何かを考え、多様な活動の拠点としての学校図書館のあり方を考えます)

「場所としての学校図書館」勉強会について

 いうまでもなく「場所」とは「何かが存在したり行われたりする所」、つまり存在と活動を前提にして成り立っている概念です。場所には自然があり、事物(artifact)があり、人(他者と自分)が存在します。わたしたちは、さまざまな活動をとおして場所と関わり、相互に影響し合いながら生き、学び、人として成長していきます。わたしたちの生存の基盤である場所という概念を軸にして、学校と学校図書館のありようを見なおそうというのが、この勉強会の趣旨です。関心のある方は、上記アドレスににメールでご連絡ください。

 

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居場所としての学校図書館を考える

2014年08月16日 | 知のアフォーダンス

 

 またもや前回の投稿からずいぶん時間が経ってしまいましたが、「場所」と「場」をめぐる話題をどのように受けとめてくださったでしょうか。「校舎が人をつくる」。近年では伝統的な校舎を解体して建てかえる計画が持ち上がったときなどに、このことばをよく耳にします。改修・保存を求めるひとたちは、その建築がはぐくんできた学びの伝統と校風を大切にし、それを引き継いできた先輩たちの営みを継承すべきだと主張しますが、たいていの場合、その主張は退けられ、「時代の要請に応える」として、効率的に利用でき、学生のニーズに合った(とされる)新たな建物に建てかえられていきます。校舎だけでなく校地や周囲の環境などをふくむ学校という場所が学生や教師の意識と行動にどのようなインパクトを与え、その人生をどのように左右する契機となってきたか。そんな不確定要素が多くて計量的な分析になじみにくい基準は省みられずに、短期的なスパンで学習活動を活性化し教育効果を高めることが優先されます。これは学校建築にかぎらず最近の教育施策全般にみられる傾向のようです。しかし、学校を単に効率的な人材養成機関ととらえるのではなく、子どもの生涯にわたる学びの基盤を形成する場所だという認識に立てば、長期的な展望をもって学校という場所と子どもの人間的成熟との関わりを考えておくべきなのは当然でしょう。わたしは学校の施設のなかでも、とりわけ学校図書館に注目して「子どもの生涯にわたる学びの基盤を形成するために学校図書館はどんな場所であるべきか」というテーマにとりくんでいます。その一環として今日は「居場所としての学校図書館」について考えることにします。

 学校図書館という場所がもつ機能について、最近は「読書センター」「学習情報センター」に「心の居場所」を加えて三つの側面から語られることが多い。学校図書館というひとつの場所が利用者との関わり方によってさまざまな様相を示すというのは、その通りだと思う。だとすれば、三つの機能の相互の関係を明らかにする必要があるだろう。子どものなかで読書と学習はどのようにつながっていて、それらの活動に場所はどのように関わるのか。「居場所としての図書館」とは、単に「落ち着いて読書や学習ができる場所」「読書をとおして自分を取り戻す場所」といった意味でとらえるだけでいいのだろうか・・・。でも、どうして「心の居場所」なのか。居場所を語るときに、あえて身体的な関わりを捨象して心的過程に特定あるいは限定する必要があるのだろうか。「心のオアシス」といった表現も含めて、ポエムに入り込んでしまっては議論を深められないのではないか。
 他方で、学校図書館が居場所としての機能を果たすことが期待されている背景のひとつに、何らかの理由で学校生活にストレスを感じて、馴染めないでいる子どもたちをケアする受け皿が必要だという事情がある。だとすれば、肝心なのは、そういった子どもたちを担いきれない学校の教育システムそのものを問い直し、改善していくことであって、その過程で学校図書館が受け皿となることは、あくまでも緊急避難的なものと考えるべきだろう。
 では、学校図書館本来のあり方としての居場所は、どのようにとらえるべきか。
 「居場所」とは、文字どおり「(自分が)存在する(ことを実感できる)場所」「身のおきどころ」である。その場所にいることでホッとしたり、生きた心地がしたり、自分の力を存分に発揮できると感じるとき、わたしたちは、こころとからだが統合された全体として場所につつまれている。場所には自然があり、事物(artifact)があり、人(他者と自分)がいる。居場所は、それらすべてが自分のありのままを受け入れてくれる場所であり、そこを起点として社会的・創造的な活動が営まれる場所でもある。そうした場所で営まれる活動をとおして、わたしたちは自らのアイデンティティを摸索し、コミュニティへの帰属意識を高め、自らの存在を確認できるのである。つまり、居場所は自分を知る場所でもある。
 学校図書館が、そのような居場所として十全に機能するには、どのような条件が必要だろうか。その手がかりは、当然のことながら、図書館で積み重ねられてきた活動の中にある。たとえば、かつて図書館のビジネス支援に関して「人生を応援する施設」(『図書館雑誌』2006.3)という短い文章に記された豊田恭子さんのことばが、いまも記憶に残っている。

書棚の間を徘徊しながら、図書館員と会話を交わしながら、人は自分だけの「解」探しをす  る。孤独なはずの作業が、図書館という空気に包まれることで、悲壮感から免れる。

図書館によるビジネス支援の第一の意味は、誰かに教えてもらえるような「解」のない問題を抱えて、ひとり悩み、苦しみぬいて結論を出さなければならない孤独な戦いを強いられている世の仕事人たちに、貴方たちは一人じゃない、というメッセージを送ることにある。

 ここから読み取れるのは、場所と利用者と図書館員との有機的なかかわり(相互作用)から生みだされる図書館の「空気」である。その空気を肌で感じた利用者はきっと、自分の存在を実感できるかけがえのない場所として「ここが自分の居場所だ」と感じるにちがいない。もちろん、学校図書館にも同じような活動の蓄積があり、経験から得られた叡智がある。
 学校図書館の目的(それは、もちろん学校教育の目的でもある)は、子どもたちが責任ある市民社会の担い手として成熟するプロセスに寄り添い、これからの人生で遭遇するであろう、さまざまな正解のない課題に立ち向かって生き抜く力を高めることにある。そのためには、何よりも子どもたちが安心して自分を開き、勇気をもって自らの疑問や違和感にチャレンジし、もてる力を存分に発揮して探究に打ち込むことができる場所が必要である。だからこそ、学校図書館における場所と利用者と図書館員との相互作用による居場所づくりの経験が、もっと語られ、共有されるべきである。
 だが、一般的に大人が何らかの教育的意図をもって関わってくる場所は、子どもの居場所感覚を失わせることが多い。その一方で、子どもたちが大人の干渉を避けて自発的につくった居場所は、同質性の高い「たまり場」になりやすい。それも居場所の一つにはちがいないが、異質な存在が排除されることによって創造的な活動の源泉にはなりにくいということもある。このジレンマをどう克服するか。子どもと大人が同じ場所を共有しながら、それぞれの意図をもって自分を生きるなかで、試行錯誤を重ねて社会や世界へと広がる新たな関係性を築いていく。その営みをとおして、それぞれの居場所感が醸成されるのを待つほかないだろう。
 そんな居場所としての学校図書館でおこなわれる活動は、苦手を克服するとか、自分にないものや不足しているものを自分のものにするといった「訓練」にはなじまない。いま、ここに存在しない自分になることに意識を集中することによって居場所感が失われる可能性が高いからだ。場所に触れ、場所を感じ、場所と関わることによってもたらされるのは「気づき」(awareness)である。子どもたちは成長の過程で生きていくために必要なさまざまな知識や能力を身につけているにもかかわらず、そのことに気づいていなかったり、過小評価していたりすることが多い。それには、現在の学校の価値観や成績評価のあり方が、不足していたり、欠落していたり、他者より劣っていたりする、特定の知識や技能、資質などに子どもの意識を向けていることが大きく影響しているのだろう。
 気づきが子どもの学びにもたらすものは大きい。たとえば、いま自分が利用できる多様な資源(知識や技能、直接・間接の人のつながり、身近な情報源を利用する能力など)に気づいて、それを創造や課題解決のために活用すること(いざというときに、あらゆる手立てをつくして手もちの資源を使いこなすこと)。自分の思考や行動を限定してきた無意識の前提や価値観に気づいて視野を広げ、さまざまな事象に対して相対的な見方ができるようになること。人々の多様さやユニークさに気づいて、同調圧力に流されないで他者や自分のありのままを受けいれられるようになること。ことばにならない自分の内的欲求や直感に気づいて、それを新たな発想や探究につなげること・・・

 場所を構成する自然や事物や人に触れて、さまざまなことに気づき、発見することから、受容と変容という学びのプロセスがはじまる。そのような居場所としての学校図書館を実現するには、自らも探究者であり、豊かな感性をもつ大人の存在が不可欠である。子どもと共に歩み、同じ月を見ることで「貴方は一人じゃない」という無言のメッセージを送る。そんな学校図書館における教師や学校司書の営みが居場所づくりの一つのモデルとなって学校全体に、そして地域社会にも広がっていけばいいのだが。

参考文献

田中治彦・萩原建次郎編著『若者の居場所と参加:ユースワークが築く新たな社会』(東洋館出版社、2012)

若者の居場所と参加
東洋館出版社、2012
東洋館出版社

 

 

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場所と場による学校図書館づくり(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告4)

2014年07月11日 | 知のアフォーダンス

  

 歳を取ると時間が経つのが早くて、気がついたら、前回の投稿からずいぶん時間が経っていました。明後日(7月13日)に神戸でおこなう「場所としての学校図書館」勉強会のために、あわててこの文章をまとめました。(勉強会について詳しいことを知りたい方は holisticslinfo@gmail.com までご連絡ください)

 前稿の冒頭に取り上げたラーニング・コモンズの説明に気になる個所がある。

複数の学生が集まって、電子情報も印刷物も含めた様々な情報資源から得られる情報を用いて議論を進めていく学習スタイルを可能にする「場」を提供するもの。

(文部科学省、大学図書館の整備について(審議のまとめ)-変革する大学にあって求められる大学図書館像- 用語解説、平成22年12月、科学技術・学術審議会 学術分科会 研究環境基盤部会 学術情報基盤作業部会)

 何気なく読み過ごしてしまう人が多いかもしれないが、わたしは、ちょっとした違和感をもった。英語でlearning commonsというときのcommonsは「共有地」「広場」すなわち公共の「場所」のことである。だから、ラーニング・コモンズは、学生が図書館のコンテンツを利用して学習、共同、コミュニケーションといったさまざまな活動をおこなえる場所(施設)のことだ。そう思っていたからだ。どうして「場」なのか? なぜカッコに入れて強調してあるのか?

 わたしたちは日常的に「場」ということばをよく用いる。それほど意識しないで「場所」と「場」を代替可能な文脈で用いていることが多い。一つの文章のなかで「空間」「場所」「場」を使い分けることもある。では、まったく同義かと問われると、どこか違うような気もする。そこのところが、なかなかうまく説明できない。とくに「場」の意味はあいまいだ。辞書をながめていて分かってきたことは、どうやら「場所」の意味を残しながら、その場所の「状況」や「雰囲気」、その場所がもたらす「機会」「場面」「局面」といった意味をそのつど重ね合わせて使っているらしいということだ。だから、「場」を英語に翻訳しようとすると少し困る。一律にplaceとすることはできないので、文脈に応じて適切な語を選ばなくてはならない。英語のplaceは、あくまでもスペース、エリア、スポットといった物理的な空間としての「場所」のことである。それにくらべて日本語の「場」は(物理学の用語としての「場=field」をのぞいて)多義的で文脈依存度が高い。そのことは日常的な会話ではあまり問題にならないし、むしろ豊かで奥行きのあることばだと受け止めることもできる。だが、ここで話題にしている学習環境としてのLCや学校図書館の整備と、そこでの学習活動についてきめの細かい議論をしようとすれば、「場所」と「場」の使用範囲をはっきりさせて、その両面から考えてみることも意義があるのではないだろうか。

 そこで着目したのは、長年、都市計画に携わってこられた岩見良太郎氏(埼玉大学名誉教授)の「場」をめぐる議論である。岩見氏は、物理的環境と社会環境を一体的に設計することによって、ハードだけではない「場」の創出による街づくり(通称、「場所」と「場」のまちづくり)を進めてこられた方だ。その岩見氏が、日本語の「場」から「場所」とは異なる独自の概念を引き出して、英語の文章にも、そのままBaと表記しておられることの意味を探りたい

 岩見氏の場の概念は、おおむね以下のように要約できる。(知能環境論も視野に入れて、わたしなりに拡張的な解釈をしています。岩見氏は近著『場のまちづくりの理論‐現代都市計画批判』(日本経済評論社、2012)において詳しく理論的な説明をしておられるので、関心のある方は、ぜひご参照ください)

 人は生きていくためにさまざまな活動をおこなっており日々の生活はそうした活動の連鎖で成り立っている。生身の人間が活動するには一定の広がりをもつ空間と他者とのかかわりが必要である。「活動は、一定時間、一定の空間を占め、一定の人びとと関係を取り結ぶことによって実現される」。何らかの活動を行うことを前提として空間を語るとき、わたしたちはそれを「場所」という。社会的存在であるわたしたちの活動には、何らかの形で他者が介入し、お互いにかかわりあう。活動目的に応じて、そのつど、わたしたちが動員(あるいは参加)できる個人的な人のつながりを「縁」と呼ぶ。縁は社会的ネットワーク(社会・文化的環境)の一部分であり、活動は縁(ひいては、その背後にある社会・文化的環境)に規定されて営まれる。わたしたちは場所において、縁に媒介されながら、共同活動主体として相互行為をおこない、対象に働きかけている。といっても、活動は、いつも同じ場所で、同じ時間帯に、対面による相互行為として行われるわけではない。活動は、時間的に継起するいくつかの副次的活動からなり、場所の移動もおこなわれる。

 活動において場所と縁という二つの条件が重ね合わされたところに、その活動の基盤となる「場」が形成される。場は活動の条件であるとともに、その成果でもある。すぐれた場は一回のデザイン、一回の活動によって形成されるのではない。長い年月にわたる活動が積み重なって、場は豊かになっていく。豊かな場は豊かな活動を生み、豊かな活動が場をさらに豊かなものにしていく。前稿で紹介した『知能環境論』で半田智久氏が理想の学習環境として描写した「研究室の図書コーナー」はまさに、そのようにして形成された豊かな「学びの場」だったといえる。そこに集った人たちは、おそらく、先輩たちがその活動によって生み出し蓄積してきたものを、自分たちの活動によって引き継ぎ、その時々の活動に適した環境に変容させていったのだろう。場は活動をとおして形成され、蓄積され、継承され、変化していくものであり、何らかの意図をもった他者から一方的に与えられたり、提供されたりするものではない。そこには(単なる場所の受動的な利用者ではない)活動主体の関与が不可欠である。

 学校内のすべての利用者に開かれ、共有される場所としてのLCや学校図書館は、外在知の集積によって豊かな知のアフォーダンスを提供することをめざす。利用者(児童・生徒・学生)は、そこで外在知にふれて自らの内在知を駆動することによって、創造的な活動をおこなう。そこには何らかのかたちで他者が共同活動主体としてかかわり、相互作用がおこなわれる。利用者相互の直接的なコミュニケーションばかりでなく、そこにはいない人たちとの(たとえば、その活動成果の活用といったかたちでの)間接的コミュニケーションがおこなわれていることも忘れてはならない。教職員もまた教育主体として、学習主体である児童・生徒・学生とともに共同活動主体となって教育・学習環境としての場所と場の生成にかかわるだろう。そうしたダイナミズムを念頭においたうえで、学校図書館を「場所」と「場」の両面から見ていくことによって、わたしたちの課題に向き合う新たな地平が開かれることを期待したい。

(注)
1 〈場〉概念の意味論的考察--〈場の都市計画〉に向けて (岩見良太郎教授 岡部恒治教授 退職記念号) The semantics of ba: toward the city of planning of ba

2

場のまちづくりの理論―現代都市計画批判
岩見良太郎・著
日本経済評論社

3「場」「場所」「結い」の概念構成』(平成20年度埼玉大学総合研究機構研究プロジェクト(研究経費)研究成果報告書)
4 教育職でなくても教育施設の管理運営を担当する場合にも自らの役割について主体的な関与が求められるだろう。

 

 

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知のアフォーダンスに満ちた場所(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告3)

2014年06月27日 | 知のアフォーダンス

  

少し日が経ちましたが、前稿につづいて勉強会で考えたことの報告です。

まずラーニング・コモンズ(LC)とは何かを確認しておきましょう。

・・・複数の学生が集まって、電子情報も印刷物も含めた様々な情報資源から得られる情報を用いて議論を進めていく学習スタイルを可能にする「場」を提供するもの。その際、コンピュータ設備や印刷物を提供するだけでなく、それらを使った学生の自学自習を支援する図書館職員によるサービスも提供する。
文部科学省、大学図書館の整備について(審議のまとめ)-変革する大学にあって求められる大学図書館像-用語解説平成22年12月、科学技術・学術審議会 学術分科会 研究環境基盤部会 学術情報基盤作業部会)

 さて、6月8日、わたしたちは対照的なふたつの大学ラーニング・コモンズについて話し合った。椙山女学園大学のLCは、図書館と一体化されていて、明るく広々としている。学生は必要に応じて館内を移動して、さまざまな活動をすることができる。同志社大学のLCは、いくつかのゾーンに分かれていて利用目的に応じて効率よく活動できるようにテクノロジーが整備されている。図書館とは空間的に離れているが、LC内で適宜、図書館(その他の)職員によるサービスやサポートは受けられる。どちらのLCも学生のアクティブ・ラーニング(能動的な学び)を促すことを念頭においてデザインされている。そして、ともに学生に支持され、よく利用されているようだ。
 学生が進んで足を運び、共同で能動的な活動をおこない、議論を重ねて成果をだす。上記の定義に照らせば、それでLCの目的は達成できたといえる。だが、目に見えるかたちでの活動や成果が、そのまま個々の学生の学びの内実(知的変容の過程)を反映しているわけではない。学びの過程やスタイルは一人ひとり異なる。個々の学習者の内面で展開されている思考や想像、創造や革新、知識の獲得や感情のインパクトなどは、外部からは知る由もないし、本人でさえ十分に把握しているとはいえない。また、何らかの教育的意図をもってデザインされた学習環境が学習活動を限定し、条件づけ、方向づけていても、学習者自身は気づかないことが多い。学習者が自らの学びへの気づき(メタ認知)を高め、コントロールできるようになるには、外側から「与える」条件ばかりでなく、こころの過程から学習環境を捉える視点も必要だろう。
 では、学習者にとって理想的な学習環境とはどんなものか。心理学者の半田智久氏(現お茶の水女子大学教育開発センター教授)は、『知能環境論 頭脳を超えて知の泉へ』(NTT出版、1996)のなかで、こんなエピソードを語っている。

「私がこれまでに出逢った図書館の中で最もすばらしかったのは、図書館というより大学時代の研究室の図書室、より正確にいえば図書コーナーであった。その部屋には大きなテーブルが二つあり、常にそのテーブルの周囲には大学院生や学部生が集まり、世間話をしていたり、勉強会をしていたり、実験の合間にお茶を飲んだりしていた。その部屋の残り三分の二ほどのスペースには書架が並んでいた。図書は各学科専攻ごとに管理されていたため、そこは学内で最も心理学に関すると図書が集まっていた。とはいっても、自分にとって魅力的だったのは二、三の書架に並べられた洋書だった。それだけの量でも当時の自分にとってはあまりにも充実しており、一つひとつがまで自分の知らない未知の世界につながっていたのである。静かな休日などは至福の時が流れていた。必要なものはコピーするという時代のちょっと手枚だったこともよかったのかもしれない。未知の本に囲まれながら、その場で学ぶことが最も効率的だったのだ。当時二十歳の頃、まだ柔らかい頭の自分にとっては、どの一冊一冊にも胸が躍るような気分であった。別に私は読書家ではないのだけれども、その図書コーナーは不思議と読書欲を掻き立て、学ぶことへの意欲を高めてくれたのである。
 いろいろな理由があったと思うが、研究室は全体にすばらしかった。仲間も先輩もつながりが深く、大学院生から学部生までが一体となっていた。楽しい雰囲気と多くの刺激に満ちた中、興味の尽きない書籍の間を自由に漂えるという環境は何でもないようでありながら、実はものすごく恵まれた環境だったのである」(pp.181-182)

 これに類した経験をもち、共感できる人は少なくないだろう。半田氏はこのエピソードにつづいて学習意欲を高めなかった例もいくつか挙げておられる。「蔵書数は多くても、先生や知らない人の目を気にしながら、本を探し急いで借り出す」タイプ、「研究室単位でばらばらに図書が管理されていて、その部屋の主がいなければ利用できない」タイプ、資料を「中央図書館に集中してしまう」タイプなどである。要するに半田氏にとって理想の図書館(図書室・図書コーナー)とは、誰に気兼ねすることもなくいつでも好きなときに利用できる空間があって、資料の数は多くなくても、その多くが自分の関心に合っていて新鮮な刺激を与えるものであること、そして、そこに集う人たちと深くつながりあって、楽しい雰囲気に満ちている環境ということになる。
 だが、個々の学生に適した、このような条件を満たす環境をあらかじめ整えておいて提供することは不可能に近い。となれば、物理的には同じ環境を他者と共有しながら、そこを自らの学びを最大化する環境に変えていく学習者自身の活動にも期待したい。もう少し半田氏のことばに耳を傾けてみよう。

「それ(ポテンシャルの高い知の生息域)を求める個人は環境の変化に身を委ね、適応してゆくよりも、自ら積極的にその知能環境を変化させつつさらに先を求めてゆこうとする。自らの知を自律的に統御する機能は内在知の一つだが、その力に長けた創造性豊かな人たちは、常に自分を取り巻く環境を先鋭的に変化させることに関してかなりの努力をする。いかなる創造にも個人が関わる知能環境そのものの創造や変革が必然的に伴うからである」(p.183)

 ここで「知能環境」とは、主体(個々の学習者)そのものを組みいれた、広い意味での環境の総体のことをいう。それは、自分の外側にある「外在知」と自分の内側にある「内在知」との相互作用がおこなわれ、新たな知が生成される現場でもある。(これは、環境に埋め込まれて私たちの活動を促進、拡張してくれる目に見えないテクノロジーを意味する「環境知能」とは異なる概念である)。外在知には、他者から提供されるものだけでなく自らの活動によって表出したもの(ことばや作品、身体表現など)も含まれる。そして、内在知には、記憶や想像、思考などに加えて、外在知に対して主体的な働きかけをおこなう原動力となる「熱い知」も含まれる。「熱い知」の例として半田氏は、感性(知のアフォーダンスを感知する力)、夢を描く力(想像力)、知の欲動(実践に駆り立てる力)、意志(動機を自覚的、持続的に集中させる力)を挙げている。わたしたちは外在知に触れ、それが発する情報やメッセージに刺激されて内在知が駆動し、意味や価値を見出し、知識を獲得する。そうした学びを呼び起こす「外在知の可能性」のことを半田氏は〈知のアフォーダンス〉と呼ぶ。
 では、学習者にとって理想的な知のアフォーダンスとはどんなものか。

「学習者にとって豊かで理想的な知のアフォーダンスとは、個々の学習者が必要としているものが常に十分に広く自由に開放されていて、そこでの活動に心地よい刺激と触発を受け、そこから先に知的な冒険をしてゆこうと動機づけられること、そしてそのときそれに応じられる環境があることである」(p.216)

 この説明に即して考えると、LCや学校図書館が個々の学習者にとって主体的な学習活動を誘発する豊かな知のアフォーダンスに満ちた環境であるための条件は、おおむね以下のようになるだろう。

 個々の学習者が自分にとって意味と価値のある知識を生み出し、想像力や表現力を豊かにする手がかりとなる情報や、それを得るためのメディアやツール、人など(「個々の学習者が必要としているもの」)を、選択的・限定的に提供するのではなく、いつでも必要に応じて自ら探索し、アクセスできる状態にあること(「常に十分に広く自由に解放されている」)。そこで探索・思考・創造といった活動をすることが学生にとって快適で、「熱い知」(感性・夢を描く力・知の欲動・意志)を解放し(「そこでの活動に心地よい刺激と触発を受け」)、学習意欲や探究心を高める(「そこから先に知的な冒険をしてゆこうと動機づけられる」)。そして、こうした条件の整ったLCや学校図書館が、いつでも必要なときに利用できる状態(「そのときそれに応じられる環境」)にあること。

 取り組むべき課題は明白である。学生や児童生徒一人ひとりが成熟するために必要な知のアフォーダンスに満ちた場所づくり。その障害となっているのは何か。この日の話し合いでは、LCのデザインとマネジメントにあたっては教員や図書館職員の意識と関わり方が鍵になることが浮き彫りになった。また、大学教育に求められているアクティブ・ラーニングと小中高における探究型学習をつなぐ視点についても問題が提起された。

 ここで、やっと図書館における「場所」と「場」の概念の違いを考えられる地点にたどり着きましたが、長くなるので、いったん置いて、日を改めて書くことにします。

アクティブ・ラーニング
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

知能環境論―頭脳を超えて知の泉へ
クリエーター情報なし

NTT出版

構想力と想像力ー心理学的研究叙説
クリエーター情報なし
ひつじ書房

 

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椙山女学園大学の"iCircle"(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告2)

2014年06月15日 | 知のアフォーダンス

  

 神戸から飛び出して名古屋での勉強会は、6月8日の間際になって、発表をお願いしていた細川恵利さんが急な校務が入って出席できなくなり、参加を楽しみにしておられた方が前日に関東地方を襲った大雨の影響で欠席を余儀なくされたり、いろいろ予期せぬ出来事もありましたが、いつものメンバーに加えて、初めて参加してくださった学校図書館関係者、半年以上もたって更新した私のブログをたまたま見て参加してくださった方など、多彩な顔ぶれで活発な話し合いが行なわれ、無事に終えることができました。

 椙山女学園大学のLCは、図書館を入ってすぐ左手に広がる開放的な空間だ。一階フロアの三分の一ほどを占めているだろうか。その規模は同志社大学のLCとは比べものにならないが、広々と感じられる。ガラス張りの壁面から自然光をふんだんに取り込んで明るく、外の空や樹木にも目をやることができる。可動式の机、椅子、ホワイトボードなど、白を基調とした家具は詰め込まずにゆったりと配置されていて、圧迫感がない。それらを自由に組み合わせ、タブレットPCやプロジェクターも使って、人数や目的に合わせて使い勝手のいい空間を自分たちでつくることができる。カフェスペースもある。天野さんに聞くと、やはり開放感や広がりを意識されたそうだ。「学習しろっ」という感じをださないで、思考をまとめるために少し漂えるような空間、余白のような空間を求めたという。
 一階中央にある階段を下りると地下は二層になっていて、すべて開架。仕切りのついた机もあって、膨大な本に囲まれてひとり集中して調べものや思索に没頭できる。2階はゆったりと読書ができるエリア。絵本コーナーもある。3階に上がると、サイズの異なるグループ学習室が4室あり、それぞれのドアがグリーン、ブルー、レッド、オレンジに色分けされている。

椙山女学園大学中央図書館フロアマップ

 仲間とアクティブに学べる空間からひとり静かに過ごせる空間まで、変化に富んだ図書館全体を活用すれば、学生は、自分で発想し、考え、議論し、知識を獲得し、探究を重ねる学びのプロセスのそれぞれの局面に適した学習環境を、そのつど自分たちで創っていくことができるだろう。
 椙山のLCは、学びに必要な三つのキーワード、idea(考え)、intelligence(知能)、inquiry(探究)の頭文字をとった“i”と、共通の問題意識をもった学生が議論を交わす“Circle”を重ねてiCircleと呼ばれる。

スライド:椙山女学園大学ラーニング・コモンズiCircleの紹介(天野由貴)

 5月に訪問した同志社大学のLCも開口部が多くて外の景色を眺めることができたが、外部の自然光をとくに感じることはなかった。面積や規模には圧倒されたけれども、広々とした感じや開放感をとくに意識することはなかった。それよりも、一時の訪問者としての私が目を奪われたのは、技術の粋を尽くした学習環境のなかで多くの学生が自分たちの活動に集中し、作業に没頭している姿だった。そこは、また、ネットワークをとおして世界とつながっている。図書館や国際交流・留学部門、PBL推進支援センターなど学内各部署とのネットワークはもちろん、職員が出向して学生の相談に応じるなどの連携をはかっていて、ラーニング・ハブとしての役割も果たしている。だが、図書館との空間的なつながりはない。その点でも、図書館と一体化された椙山のLCとは、きわめて対照的だ。

スライド:同志社大学ラーニング・コモンズ見聞記(山本敬子)
(写真は省いてありますので、下記でごらんください)

良心館ラーニング・コモンズHP
案内パンフレット

 この日の発表を終えた後、山本さんはフェイスブックに以下のように書いておられる。

 ぜ同志社はLCと図書館を全く別の建物、組織として設置したのか、時間が経つにつれて気になって気になって仕方がなかったので、井上真琴氏の論文などを時間の許す範囲でかき集めて読んでみた。井上氏といえば、著書『図書館に訊け!』に表れているように、選書・レファレンス・アカデミックスキル育成などを通じ、大学図書館で積極的な学習支援を展開してきた図書館人でもあった。関係の論文や講演も多数。普通に考えると、図書館とLCをつなげて考えてよさそうだが…? 同志社LC設置までの経緯、井上氏の異動の様子と論文・報告資料、教育開発センターレポート、それらを時系列にざっと眺めていくと、なんとなく見えてくるものがあり…
 
ウカツにかけないが、大学図書館&図書館員の厳しい現実がそこにはあった。教育と図書館との関わり、そこで働く者に求められること…学校図書館にも通じることがたくさんある。ちがう立場の者との協働なくして、物事を進めることはできない。その際の共通語は「教育」であることは間違いない。

 山本さんと天野さんの話は、どちらも図書館職員の教育にたいする意識のあり方や関わり方にまで踏み込んで、考えさせる内容だった。

 こうして、わたしたちは椙山女学園大学LCの居心地のいい空間に身をおいて、時間が経つのも忘れて幅広く活発な話し合いをし、充実した思考の時間を過ごすことができました。はじめて参加された方からも「とても刺激的な勉強会でした。自分の立場、役割、できること、すべきこと、いろいろと考えさせられた、あっという間の数時間」だったとメールをいただきました。豊かな学びを生み出す条件は、かならずしも面積や設備の規模とは直接的な関係がないのかもしれません。

 つぎは、この経験をふまえて「場所」と「場」について考えようと思います。

 

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同志社大学LCのインパクト(大学ラーニング・コモンズから考える「場所としての学校図書館」報告1)

2014年06月13日 | 知のアフォーダンス

 

 今日から数回に分けて、6月8日に椙山女学園大学で開かれた「場所としての学校図書館」勉強会を、私なりの視点から報告させていただきます。この日のテーマは「大学ラーニング・コモンズから考える『場所としての学校図書館』」。まずは今回の勉強会が開かれた経緯から。

 発端は、勉強会に関わるメンバーのうち4人が5月20日に同志社大学のラーニング・コモンズを訪問して強いインパクトを受けたことにある。同志社大学の今出川キャンパスに2012年10月に竣工した「良心館」の2階と3階にラーニング・コモンズ(以下LC)がオープンしたのは翌年の2013年4月であった。2階は交流と相互啓発のための「クリエイティブ・コモンズ」、3階はアカデミックスキル育成のための「リサーチ・コモンズ」とされ、合わせて約2,550㎡、図書館を併設しないLCとしては現時点で日本最大の面積を占める。
良心館 ラーニング・コモンズ
案内パンフレット

 同志社大学LCに一歩足を踏み入れると、まず日本最大といわれるその規模に圧倒された。ゾーンと呼ばれる多様な空間に分かれていて、各ゾーンの目的に合わせて技術の粋を集めた電子機器や様々な色彩とデザインの家具類が配置されている。何よりも利用している学生が多いことに驚く。どのゾーンも学生であふれ、何らかの活動を行っている。そのなかで埋没することなく、さまざまな立場と役割を担って働くサポートスタッフの姿も際立っていた。このときの印象を、同行者の一人、というより私たちを見学に誘ってくださった卒業生でもある山本敬子さんは、その日のフェイスブックに以下のように書き込んでおられる。

 到着後間もなく講義と講義の合間の民族大移動光景を目にしました。ノートPCはロッカー形式で学生証を利用しての自動貸出なのですが、ちょうど入れ替わりのタイミングで渋滞していたこともあり、スタッフが貸出・返却のサポートをしていました。学習支援のためのさまざまな種類のスタッフが配置されています。フロアを行き来して館内全体を目配りしていると思しきスタッフの姿を目にしましたが、常に誰もが何かの手助けをしている様子。学生・院生アルバイトも面接などで優秀な人材のみを集めているようです。
 館内の学生数はかなり多く、個人ブースはほぼ満席、グループ学習室も数室のみ空いているという状態。自習、PCを利用しての作業、打ち合わせなど、みな目的をもって何かをしています。ぼんやりしている学生がいません。見学に疲れて何の仕掛けもない普通の長いすにただ座っていると、周りからかなり浮いている自分を感じました。壮大なスケールの学習室です。
 ワークショップの1室でPCセミナーが開催されていましたが、防音効果がすばらしいのか、外に物音が全く漏れていません。オープンスペースでの催しがない時間だったので、イベントと他の一般利用がどう共存しているかを見られなかったのは残念でした。今度足を運ぶときはイベント時間を狙ってみることにします。
 卒業生としては、自分の学生時代と隔世の感があり、今の学生をちょっとうらやましく思いました。

 そこは、さまざまな刺激にさらされる空間だった。わたしのような高齢者には刺激が強すぎて、神経が高ぶり、ほんの1,2時間、そこにいただけで疲れてしまったが、エネルギッシュな若い学生たちにとっては活動意欲をそそられる適度な刺激なのだろう。さまざまな刺激にさらされている方が、かえって落ち着けるということもあるだろう。
 山本さんはどうだったのだろう?

<ちょっと想像 私の学生時代にLCがあったら…>
 国文学専攻なので図書館で本を借りるはず。LCはその設立目的からざわめきのある場なので、本を読む場所も図書館のまま。文献を読みながらじっくり考えるのも図書館の方が向いているようなので、私のレポート作成場所は…図書館? LCはグループ学習や発表の打ち合わせのときに限定して使いそうです。
 ふだんの利用比率(想定) 図書館:LC=8:2
 情報活用セミナーなどは図書館司書を目指していたのできっと参加、コモンカフェのようなイベントは今なら喜んで参加するでしょうが、当時は敬遠したかもしれません。

  このようなLCがこれからの学校のひとつの姿を示唆しているとすれば、わたしたちは、それをどう受け止めるべきなのだろう。無為にその日の到来を待っているわけにはいかない。山本さんは、以下のように締めくくっておられる。

 どの大学・学校も同じ悩みを抱えているのでしょうが、新しく多様な学習形態をハード面で保障することは目に見えて分かりやすく、それはそれで意味のあることかもしれません。しかし、知のあり方や学びを問い直す土壌をつくり、学内で共有するにはかなり時間がかかるだろうな、と改めて感じました。

 見学を終えた4人は近くのホテルのロビーで、それぞれが受けたインパクトの断片をさまざまな角度から語り合い、数時間かけてオーバーヒートした頭脳をクールダウンさせ、この日の記憶が薄れないうちに振りかえる機会を設けることを約束して別れた。その時点で4人の都合がつけることができたのが6月8日だった。同行したメンバーのひとり天野由貴さんが、自身が勤務する椙山女学園大学でLCの設置に関わり、この4月にオープンさせる原動力となっていたことから、名古屋に場所を移して椙山女学園大学LCで開催しようということになった

 ということで、つぎは同志社大学LCといろんな意味で対照的な椙山女学園大学LCから、図書館とLCのかかわり、図書館職員の教育へのかかわりについて考えたことを報告します。

 

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大学ラーニングコモンズから考える「場所としての学校図書館」:6月8日(日)at椙山女学園大学

2014年05月30日 | 知のアフォーダンス

 

2010年の暮れから神戸で続けてきた学校図書館自主講座「現代の教育課題と学校図書館」は昨年末にいったん終結し、今年から新たに「場所としての学校図書館」を考える勉強会を始めています。そのメンバーのうちの4人が、5月20日に同志社大学のラーニングコモンズを訪問して、いろんな意味で強いインパクトを受けました。そこで、そのときに感じたことや考えたことを振り返り、場所としての学校図書館を考える手がかりにしたいと、以下のプログラムをたてました。今回は神戸を飛び出して、この4月に開設されたばかりの椙山女学園大学のラーニングコモンズにお邪魔します。せっかくの機会なので、広く図書館関係者にも加わっていただいて一緒にこのテーマを深めたいと考えています。

参加していただける方は、次のアドレスにメールでご連絡ください。
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変えて送信してください)。発表者とお知り合いの方は、そちらに連絡してくださってもかまいません。

日時:6月8日(日)、12時頃から17時頃まで(昼食をすませてくるか、お弁当をもって少し早めにお集まりください)

場所:椙山女学園大学ラーニングコモンズ(図書館内)

名古屋市営地下鉄東山線「星が丘」下車、6番出口より徒歩5分

http://www.sugiyama-u.ac.jp/sougou/access.html

テーマ:大学ラーニングコモンズから考える「場所としての学校図書館」

プログラム:(昼食をすませてから、はじめます)

1.同志社大学ラーニングコモンズ見聞記

・山本敬子(甲南高等学校中学校司書)

・細川恵利(奈良育英中学校高等学校司書教諭)

2.椙山女学園大学LC設置の経緯とコンセプト

・天野由貴(椙山女学園大学図書館)

3.学習空間、ひろば、居場所(概念の整理)

・足立正治(大阪樟蔭女子大学非常勤講師)

4.参加者による話し合い

  

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シュタイデルの仕事に触れると、どうして幸せな気持ちになれるのだろう?

2013年12月03日 | 知のアフォーダンス

 

 前日までの寒さが和らいで、爽やかな青空が広がった12月1日の日曜日、新開地にある神戸アート・ビレッジ・センターで、映画「世界一美しい本を作る男―シュタイデルとの旅―」(原題How to Make a Book with Steidl)を見た。ドイツのゲッティンゲンで小さな出版社と印刷所を営むゲルハルト・シュタイデル氏の仕事ぶりを追うドキュメンタリーである。この夏、以下の記事と写真に魅了されてからこの映画が関西で上映されるのをずっと待ち望んでいた。

「世界一美しい本を作る男」シュタイデル社の映画と展覧会
韓国・ソウルの大林(デリム)美術館で開かれた「How to Make a Book with Steidl展」

 配給会社テレビマンユニオンのロゴがスクリーンから消えると、いきなりシュタイデル氏の仕事場が映し出される。写真家ジョエル・スタンフェルド氏と写真集「iDubai」の企画について熱っぽく語り合うシュタイデル氏は小柄ながら、強い信念とバイタリティを感じさせる。彼は、同時に進行中の複数の本作りのために自らニューヨークやノバスコシア、パリなど世界各地にアーティストの家を訪れて、打ち合わせを重ね、本の企画から編集、装幀、デザイン、印刷、製本、出版にいたるすべての工程に携わることによって、「商品」ではない「作品」としての本を一冊ずつ丁寧に仕上げていく。そのポリシーをシュタイデル氏は「判型に内容を当てはめるのではなく、本の内容に合わせて判型を決める」と語る。

 さまざまな対話と試行と決断を重ね、やがて「iDubai」は完成するが、出版を待つ他の本のためにシュタイデル氏の仕事はこれまでどおり続いている。途中からお邪魔して、本作りの現場に立ち会わせてもらったわたしたちは、そんなシュタイデル氏を仕事場に残して、そっとお暇する。

 監督をつとめたゲレオン・ヴェツェルとヨルグ・アドルフ両氏は、シュタイデル氏の日常の一部を切り取って、その仕事ぶりを淡々と描写しながら、シュタイデル氏の本に匹敵するのではないかと思えるほどクリアで安定した美しい映像をつくりだしている。

 アーティストが納得するまで対話を重ね、本の内容と、それに見合った厚みや重さ、紙の質感や色、インキのシミと香りなどが一体とした本作りを進めるシュタイデル氏の仕事を見ていると、本が「からだ」をもった生命体のように思えてくる。その仕事の作法とリズムが映像をとおして伝染し、画面が消えたあともぼくのからだの中で息づいていて、幸せな気持ちだ。

 この映画の価値を映画監督の是枝裕和さんのコメントが見事に言い表している。

「顔を見ること、言葉を交わすこと、手で触れること。本来はコミュニケーションの基本であったはずのこれらの直接的な方法を、私たちはどこかへ置き忘れたまま日々の暮らしを送っている。すべて間接的に済ますこと、それこそが便利な生活なのだとでも言うように。しかし、私たちが手にしているはずのその便利さは、匂いを嗅いだり、重さを感じたりといった身体的な経験と引き換えに与えられたものであることをシュタイデルの本を巡る仕事ぶりを見ていると、気付かざるを得ない。この作品は、本が作られる魅力的でスリリングなプロセスを追いかけた作品であると同時に、身体性を失いつつある現代人の暮らしに多くの示唆を与えてくれる、優れた文明批評でもある」

 じつは、前日には武庫川女子大学で、こちらも関西で初めて上映されるという『疎開した40万冊の図書』を見たばかりだった。第二次世界大戦中に東京の日比谷図書文化館の蔵書を郊外に運び出し、戦火から本を守った人々の思いを追うドキュメンタリーである。これからは、あらゆる情報はデジタルアーカイブとして残しておくことで、たとえ戦火に見舞われても消失を免れることができるだろう。しかし、バーチャルな情報を保存するだけでなく、質感をもったリアルな書物を生み出し、受け渡していくこともまた、命をつなぐ人間の営為といえるだろう。

疎開した四〇万冊の図書
クリエーター情報なし
幻戯書房

  

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「この惑星には、愛されるという勝ち方がある」(神戸の海文堂書店が99年間の歴史に幕を閉じた)

2013年10月01日 | 知のアフォーダンス

  

 9月30日、関西のメディアは前日の堺市長選で日本維新の会が擁立した候補が敗北したことを大きく報じていた。維新の橋下代表は大阪都構想で「堺はなくならない。変わるのは役所組織だ」と訴えたそうだが、堺市民は、名前だけ残して統治機構を変えてしまうことに不安を抱いたのではないか。真っ当な判断だったというべきだろう。元町に向かう電車の中でそんなことを考えていて、ふと山崎豊子さんが長年、堺市に暮らしておられることを思い出した。何かコメントが出ていないか携帯で調べてみたら、速報で訃報が流れていた・・・

 今から書こうとしているのは、堺市長選のことでも山崎豊子さんのことでもない。もっとローカルでぼくにとって切実な話題だ。この日、世の中を知るリアルな情報源として頻繁に利用していたジュンク堂明石店と元町の海文堂書店が閉店したのである。
 
ぼくが元町に向かっていたのは、海文堂書店を最後に訪れておきたかったからだ。地域版を除いて大きなメディアに報じられることはなかったが、大勢の人が詰めかけていた。レジには長い行列ができている。こんなに混雑したのは阪神淡路大震災後に再開して以来のことではないだろうか? カメラをもった人や大きめのバッグをもった遠方から来られたらしい人も多い。それなのに、店内はざわついていなくて、むしろ人の気配が心地よい。たぶん、みんなの呼吸が深くなっていたからだろう。だれもが愛おしそうに棚を見つめ、本を手に取り、店員さんと言葉を交わし、この店の空気に触れて、その感覚を皮膚に沁み込ませようとしていた。9つに分かれている各ゾーンの担当者はほぼ全員が店に出ておられたようだ。児童書の田中さんは、いつも通り棚の前でお客さんの相談に丁寧に応じておられた。そして、人文書の平野さんの姿も見られる。
 店に入ってすぐ、ブックフェアのコーナーには、各分野の担当者が選んだ、多種多様な本が並んでいる。その中で、ぼくの目に留まったのは『「本屋」は死なない』(石橋毅史、新潮社)、『理想の書店』(青田コーポレーション出版部)、『名物「本屋さん」をゆく』(井上理津子、宝島SUGOI文庫)、『書店の棚 本の気配』(佐野衛、亜紀書房)、『本の声を聴け』(高瀬毅、文藝春秋)・・・『疎開した40万冊の図書』(金謙二、幻戯書房)は中田邦造をはじめとする太平洋戦争末期の戦災から本を守った日比谷図書館員をはじめとする人々の記録だ(この本が映画化されていることは今日になって知った)。少し移動すると『さようなら、うにおこる』(小島水青、中央公論社)、『さようなら、手をつなごう』(中村航、集英社文庫)、『さようなら、愛しい人』(レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)、『さようなら、オレンジ』(岩城けい、筑摩書房)、『さようなら、私』(小川糸、幻冬舎文庫)、『さようなら、コタツ』(中島京子、集英社文庫)・・・『みなさん、さようなら』(久保寺健彦、幻冬舎文庫)、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一、ちくま新書)。それにしても、よく集めたものだ! さらに目を転じると「いっそ この際 好きな本ばっかり」のコーナー。担当者が好みの本を選んでコメントを添えているのだが、ほとんど完売していた。店員と客の想いが響きあっていた証だろう。振り返ると「いっそ この際 好きな本 うらばん」の張り紙。官能小説を集めたこの棚と平凡社在庫希少本は人文書の平野さんが担当したそうだ。「海文堂の棚は私にとって、社会のいろんなことへ興味を広げてくれる学校でした」という、神戸新聞の田中伸明記者のコメント(「<きょういく部屋>〝色気〟のある本屋の閉店」)が、この書店の人文書コーナーファンの気持ちを代弁してくれている。
 海文堂と言えば海事関係の品揃えが豊富なことで知られているが、ぼくにとっては一階奥の人文書コーナーと、2階奥の美術書コーナーとギャラリーが魅力だった。一般の書店では、けっして目立つところには置かれないであろう本が、しっかりと面出しで並んでいたりする。掲示はあっても多くは地味なもで、本そのものより目立つことはなかった。本自体に語らせる。本の力を信頼して、その力を最大限に引き出す。だから心が動く。棚と向き合っていると、その時々の自分にとって刺激的な本が自然に目に飛び込んでくる。ここは、ぼくにとって自分を発見する場所でもあった。特定の本や展示を求めて行くのではなくて、ふらりと立ち寄って意外な発見をする喜びがそこにあった。
 児童書も充実していた。当初は元社長の島田誠さんが担当しておられて、専門家に選書を依頼し、読書相談、こどもの育児教育相談コーナーも作られたそうだ。その後、島田さんは社長を継ぎ、ギャラリーを運営。各ゾーンの担当者は仕入れから陳列まで大きな裁量権が与えられて「専門店の集合」を目指したという。本は、売れ筋だけではなく、担当者のセンスで選ぶ。9部門の各ゾーンにそれぞれ担当者のデスクがあって、未整理の本や書類が無造作に積まれていた。担当者デスクのほかに一階の中央にカウンター、レジではない、申し込みや相談コーナーになっている。従業員は月替わりのブックフェアを順に任され、担当分野とは関係なく好きな本を自由に仕入れることができたという。中には本すら並べない猛者もいたという逸話が、朝日新聞(兵庫)「消える灯火 海文堂書店閉店」(3)『従業員は「棚の社長」』で紹介されている。

(1)老舗にネットの荒波 
(2)1・17感じた本の力 
(3)従業員は「棚の社長」 
(4)「海の人」集い育った 
(5)惜別「心のふるさと」
神戸・海文堂書店、99年の歴史に幕 数百人に見守られ

 「マニアックになってもいい」「棚に思いをぶちまけろ」という、この書店の経営が利潤追求のための効率化と相反することは明らかだ。同じ元町から三宮に出て全国に広がったジュンク堂とは逆に、中心街から少し外れた同じ場所で「神戸の文化拠点」を目指した海文堂が私たちに伝えようとしたメッセージとは何だったのだろう?
 ジュンク堂は元町にあった大同書房が1976年に名前を変えて三宮センター街に移転したのが始まりである。店内で立読みをする客のために腰を掛けて読める場所を提供したのは画期的だった。大阪の堂島に進出した時は、立派な机と椅子が用意されていて客は競って場所取りをし、図書館のように本を積み上げて読んだ。海文堂とジュンク堂は共に神戸の書店文化の象徴的存在だったが、まったく異なる運命をたどることになった。
 ジュンク堂の仙台ロフト店に勤めておられる佐藤純子さんの「神戸の夜は車窓めし 女のひとり飯」には海文堂訪問記が愛情深く描かれている。
 ツイッターにも海文堂の閉店を惜しむ声があふれた。

「愛されるという勝ち方がある」ってなんかのCMで言ってたけど、海文堂書店さんほど愛されてる書店もないと思う。(海乃宝石+紫電改 ‏@marine_garnet

海文堂の最後のシャッターを閉めるとき、待っていた多くのお客さんの前で、「リアル書店でもっと本を買ってください。そうでないと、この国から本屋がなくなってしまいます。」と店長の福岡さんがおっしゃった。町に本屋さんがあることが、生活をどれだけ豊かにするか。聞いていて、涙が出てきた。(夏葉社 ‏@natsuhasha)

 この時の様子が動画「神戸元町海文堂 閉店の挨拶」に残されている。
 これほどまでに愛され、求められた海文堂の経営を圧迫した要因は何だったのか。街の本屋さんが、利潤を出すことを第一義的に考えるのではなく、人と本を直接つなぐという理念を貫いて本屋が生き残るには、どのような条件を満たせばいいのだろうか。それは、ネット社会や市場経済の壁をどう乗り越えるかという問題でもあるだろう。「時間泥棒」に憑りつかれた人や街に豊かな時間を取り戻す手立ては、きっと見つかるはずだ。
 
翌日、海文堂のホームページに以下のような挨拶が掲載された。

海文堂書店は、2013年9月30日をもちまして閉店いたしました。長年にわたりお引き立てくださいまして、本当にありがとうございました。本と人、人と人の息づかいに満ちた本屋さんに、どうかこれからも足をお運びください。そして、皆様お一人おひとりにたくさんの本とのよい出会いがありますことを願っております。海文堂書店一同

 海文堂に先立って、9月25日には紅茶専門店の草分けだった大阪・堂島のムジカが閉店し61年間の歴史に幕を下ろしていた。ムジカには、毎日新聞ビルの地下にあった69年頃から通い始め、すぐそばの路地に移転してからもよく訪れていた。神戸店は営業を続けるようだし、茶葉は、これまで通り我が家に近いアリエルで求めることができる。だが、海文堂と時期を同じくして、自分が生きてきた足跡を辿る目印が消えていくのは、自分の存在の実感が薄れていくようで、とても寂しい。

 

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第3回大人のための絵本サロン-秋の勝沼でプレイフルな学びの場を一緒につくりませんか?

2013年08月26日 | 知のアフォーダンス

 

 一冊の本をめぐって交わされたことばが、ときには劇的に、ときには微細に、その人の考え方や行動に影響をあたえ、やがて、その人生を変えるかもしれません。わたしたちの「大人のための絵本サロン」は「読書へのアニマシオン」の手法を用いて、本を介して出会い、語り合う、大人のためのプレイフルな学びの場をつくることを目指しています。今回は、勝沼の自然や文化的風土とそこに参加されるみなさんが相互にかかわりあって生み出される場の全体をひとつのアートとして楽しもうと思います。ふるってご参加ください。(チラシをダウンロードしていただけます)

日 時:2013年10月13日(日)14:00‐10月14日(月・祝)15:00
場 所:大善寺(通称ぶどう寺、山梨県甲州市勝沼町)、その他

     JR中央本線、勝沼ぶどう郷駅または塩山駅下車
参加費:1,500円(1日のみ参加の人は1,000円)
宿泊費:6,500円(1泊2食込)

  ※二日目の昼食代(縁側カフェ<やまいち>)として、別途1,500円が必要です。
参加申込:氏名、所属、職名、連絡先と宿泊希望の有無を明記の上、9月10日(火)までにメールで山本敬子(keiko@konan.ed.jp)までお申し込みください。

プログラム:
 
青柳啓子さんによる絵本サロン、参加者によるアニマシオン、意見交換、フットパス体験や縁側カフェでのアニマシオンなど盛りだくさんです。本はマリー・ホール・エッツの絵本『もりのなか』(福音館書店)ミヒャエル・エンデの『モモ』(岩波書店)、その他、詩なども使用します。その他、読書へのアニマシオンに関する詳しいことは参加申し込みをされた方にお知らせします。

学びを深める沈黙-アートとしての「読書へのアニマシオン」体験(2010年に清里でおこなった絵本サロンの報告です)

呼びかけ人:足立正治(大阪樟蔭女子大学非常勤講師)、細川恵利(奈良育英中学校・高等学校司書教諭)、松田ユリ子(神奈川県立田奈高等学校司書)、山本敬子(甲南高等学校・中学校司書) *50音順
アドバイザー: 青柳啓子(勝沼図書館司書・NPO法人日本アニマシオン協会監事)

「アニマシオン」とは?
 
早稲田大学の増山均さんによれば、アニマシオンとは、第二次世界大戦後、経済成長に偏った社会の中で人々の人間性を回復することをめざしてフランスから始まり南ヨーロッパや中南米諸国に広がった国民の余暇権・文化権を保障する取り組みのことをいいます(人間発達とアニマシオン)。我が国では、スペインのモンセラット・サルトさんが開発した読書教育の方法「読書へのアニマシオン」が1997年に佐藤美智代さんと青柳啓子さんによって紹介され(『読書で遊ぼう アニマシオン』柏書房)、それが読書教育関係者の間で一般に「アニマシオン」と呼ばれるようになりました。詳しいことは「日本アニマシオン協会」のホームページをご覧ください。

 アニマシオンによる読書体験は、単なる内容理解を越えています。もしも、あなたが先生や親、司書だったら、身近な子どもたちにも、ことばや人やものへの感受性を高める、この体験をさせてあげたいと思うでしょう。

これまでの経緯
 
この会は、山梨県甲府市でイタリアン「ラ・ベッラ・ルーナ」を拠点にして「大人のための絵本サロン」を続けてこられた青柳啓子さんの活動を引き継いで学ぶために、2010年に有志が集まってはじめました。第一回は山梨県北杜市のペンション「リッツイン清里」で『ぶどう酒びんのふしぎな旅』、第二回は神奈川県川崎市のウィーン菓子工房「リリエンベルグ」で『ルピナスさん-小さなおばあさんのお話』をおこないました。今回は、それをさらに拡充して参加者によるアニマシオンも盛り込んだ合宿をおこなうことにしました。この後、奈良でおこなうことも検討中ですが、各地で、それぞれの地域に根付いた活動が広がればいいと考えています。
 

もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
 
福音館書店
モモ (岩波少年文庫(127))
 
岩波書店

 

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「文化アニメーター」としての図書館員(アントネッラ・アンニョリさんの講演を振り返る)

2013年06月17日 | 知のアフォーダンス

 

 少し前の話で恐縮ですが、先々週の木曜日(6月6日)に母校の京都外国語大学でアントネッラ・アンニョリさんの講演「知の広場 新しい時代の図書館の姿」(イタリア語学科主催)がおこなわれると聞いて、出かけてきました。そのときのメモと記憶を頼りにまとめた講演の要旨は、すでにネット上にアップロードしてありますが、忘れないうちに、わたしがこの講演をどう受けとめたかを記しておきたいと思います。

 この日、用意された大教室はほぼ満席で、図書館関係者はもちろん、研究者や学生、一般市民など、さまざまな方が参加しておられたようです。わたしは現職教員のときに、しばらく学校図書館の仕事をしていたことはありますが、もともと図書館専門職でも研究者でもありません。ただ、定年退職後に時間的な余裕ができたこともあって地域の図書館を利用することが多くなったことから、地域の文化・情報基盤としての公共図書館のあり方にも関心を寄せるようになりました。そんなわたしが、いまアンニョリさんのお話をふりかえって印象に残っているのは、以下のように語っておられたところです。

「これからは新しい能力をもった図書館員が必要。それは役人であるより文化アニメーターの能力である。イタリアでは難しい状況にあるが、図書館員が自分たちで変えていかなくてはならない。図書館員は、人と本、人と情報の間に入ってファシリテーターの役割を果たすべきだと思う」(要旨)

 「文化アニメーター」というのは、そのとき通訳されたままの表現ですが、イタリア語ではanimatore(アニマトーレ)。ここでは、もちろんアニメの原画や動画をつくる技術者のことではなくて、社会文化アニマシオンを推進する専門職のことです。このことばをアンニョリさんは、burocrateつまり「役人、官僚」ということばと対比して使っておられました。社会文化アニマシオンというのは、早稲田大学の増山均さん(人間発達とアニマシオン)によると、第二次世界大戦後、経済成長に偏った社会の中で人々の人間性を回復することをめざしてフランスから始まった国民の余暇権・文化権を保障する取り組みのことで、その後「スペインやイタリアなどの近隣諸国をはじめ、中南米各国にも広がり、社会改革の原理として影響をもたらしている」といいます。その基本理念は、文字どおり「魂を活性化すること」(=アニマシオン)で、人間本来の主体性と創造的な内的活力を活性化させることを意味します。スペインで生まれた「読書のアニマシオン」やフランスの「公共図書館におけるアニマシオン」も、この理念にもとづく取り組みと言えるでしょう。

 しかし、そのような背景をもたないわたしたちは、日頃から余暇や文化、ゆとりといったものを、それほど切実に求めていないように思えます。文化とは、経済生活に余裕があったうえで教養や嗜みとして楽しむものだと考えがちではないでしょうか。でも少し考えてみれば、わたしたちがどんな状況にあるときにも、というより、むしろ苦境に立たされ精神的なゆとりがないときにこそ、活力をもってイキイキと生き抜くために文化の力が欠かせないことがわかります。音楽や絵画に元気づけられたり、一冊の本によって世界の見方が変わったり、一服のお茶が冷静な判断をとりもどしてくれたり・・・そんなことを想いながら、アンニョリさんのお話の中に出てきた図書館の事例を思い出してみました。

 ふだんは図書館に来ない人を呼び込む。「文盲を減らす」と表現された情報格差解消の取り組み。十代の若者と一緒につくる図書館。失業者や家が狭い人がやってきて職を探したり仕事をしたりできる図書館。共同作業や討論をする場所としての図書館。ホームレスも排除しないで、だれもが一日中快適に過ごすことのできる図書館、などなど。そういった仕事を「官僚的なお役所仕事」としてではなく「文化アニメーター」としてやることのできる資質や能力が、これからの図書館員に求められるとアンニョリさんはおっしゃるのです。

 快適な居住空間に地域の人々を講師に迎えて、さまざまな講座をひらいて、図書の利用に結びつけている「アイデアストア」の事例も話してくださいましたが、それは、ただ老人に生きがいを与えるだけでなく、働き盛りの人たちが新しいアイディア生み出し、問題や課題を抱えた人たちがブレークスルーを見つける場所にもなるでしょう。

 こうしたアンニョリさんの話から浮かび上がってくる公共図書館の姿は、社会のインフラというより、むしろライフラインと言った方がいいかもしれません。「第三の場所」、とアンニョリさんはおっしゃいました。米国の社会学者レイ・オルデンバーグ(Ray Oldenburg)は著書“The Great Good Place”で家庭(第一の場所)や仕事場(第二の場所)だけでなくカフェやサロンのような「第三の場所」が社会的に重要な機能を担っていることを指摘し、スターバックスもそのコンセプトにもとづいて設計されていることは知られています。しかし、講演から数日たって中島岳志さんの『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)を読んだとき、わたしは考え込んでしまいました。この本に描かれているのは、まわりに善意の人や友だちがいても孤独や孤立から抜け出せなかった被告の姿です。そんな状況が誰にでもおこりうる社会に暮らしているのだとしたら、わたしたちは現代社会に求められるライフラインとしての「第三の場所」はどういうものかを、あらためて考えてみる必要があるでしょう。そういえば、かつて雑誌『世界』(2005年8月号)に虫賀宗博さんの「自殺したくなったら、図書館へいこう」という記事が掲載されて話題になったことがありましたが、「第三の場所」におけるコミュニケーションについて何らかの手がかりが得られるかもしれません。

 お話の最後にアンニョリさんは、あるアメリカの図書館の看板をスライドで見せてくださいましたが、そこにはこんなことが書かれていました。(この看板の写真は、図書館のホームページに掲載されています)

GILPIN COUNTY PUBLIC LIBRARY

Free Coffee, Internet  無料のコーヒーとインターネット

Notary, Phone, Smiles 公証人と電話と笑顔

Restrooms & Ideas トイレとアイディア

 公共図書館で公証人(notaryあるいはnotary public)を提供するというのは、なかなかイメージしにくいかもしれませんが、アメリカではごく普通のことのようです。公証とは重要な文書を公に証明をしてもらうことを言いますが、たとえば日本だったら役所に行って印鑑証明を取ったりするようなときに、アメリカでは郵便局や銀行、図書館などに行って、重要書類にサインをするのを見届けて、本人のものであることを証明してもらうのです。パスポートなどの書類をコピーして提出する場合にも、たしかに原本のコピーであることを証明してもらえます。そんなアメリカの公証人は日本の公証人のような法律家ではありません。ライセンスをもった社会的信用のある立場の人で、図書館員や郵便局員、地元の名士だったりするのです。

 少し脱線してしまいましたが、アンニョリさんは、この看板をわたしたちに見せながら、公共図書館では、とくに「スマイル」と「アイディア」を提供することが大切だとおっしゃいました。それは、単に図書館員は愛想が良くて親切であるべきだということではなくて、図書館を利用する人々が笑顔をとりもどし、知的な充実感を味わう経験をするために図書館(員)は何をすべきかを問うておられるのでしょう。

 講演後の質疑応答でもアンニョリさんの図書館像は一貫していました。すべての人々に平等な情報環境を提供する図書館。社会的弱者とされる人たちを排除しないで迎え入れる図書館。そういった図書館は、情報格差の拡大や人々の分断をくいとめて社会を安定的に維持するために不可欠であり、そこに市場原理における淘汰の原理を適用するべきではない。アンニョリさんのお話しをとおして、わたしなりにそんなことを考えました。

知の広場――図書館と自由

アントネッラ・アンニョリ, 柳 与志夫[解説], 萱野 有美

 

みすず書房

<アニマシオン>を知りたい人には、下記の本をお勧めします。

アニマシオンが子どもを育てる―新版 ゆとり・楽しみ・アニマシオン
増山均著、2000年
旬報社
アニマトゥール フランスの社会教育・生涯学習の担い手たち

ジュヌヴィエーヴ・ブジョル、ジャン=マリー・ミニヨン著/岩橋恵子監訳、

2007年

明石書店
フランスの公共図書館60のアニマシオン
ドミニク アラミシェル著、辻由美訳、2010年
教育史料出版会

 

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続・学校文化の変容を目指す学校図書館(フィンランドのホリスティックな学校図書館研究を読む)

2013年05月19日 | 知のアフォーダンス

 

 12日の第11回学校図書館自主講座には、たくさんの方に参加していただき、和やかななかにも実り多い会になりました。まだ途中の段階で英語の読みも浅く、十分にこなれていない発表にもかかわらず、辛抱強くおつきあいくださった皆さんに、この場を借りてお礼申し上げます。そこで今日のブログも引き続いて同じ話題を取り上げさせていただきます。

 昨年のIFLA(国際図書館連盟)の年次大会がヘルシンキで開かれると知ったとき、正式なプログラムが発表されていないうちから、ひそかに期待していたプログラムが二つあった。その一つは、ヘルシンキ大学のユリア・エンゲストローム教授の講演である。教授が2009年から2010年にかけてヘルシンキ大学の科学技術系図書館(Viikki Science Library)の職員とともに新しい図書館サービスの開発のためにおこなったチェンジ・ラボラトリー(Change Laboratory)のことは、かねてから聞いていた。そのプロセスで、図書館職員は自らが置かれている状況をどのように認識し、その意識と行動をどのように変えることになったのかが知りたかった。エンゲストローム教授の講演は予想どおり実現し、大会に参加しなかった私も「ノットワーキングに向けて:大学図書館の仕事にたいする新しい概念をデザインする」("Towards knotworking : Designing a new concept of work in an academic library")と題する講演の様子と、その時に使用されたスライドを見ることができたので、講演をめぐる雑感を、すでにブログに書いた。

間接サービスから直接サービスへ(電子社会における図書館サービスを考える)

 もうひとつ私が期待したのは、フィンランド北部の都市、オウル市における学校図書館の取り組みに関する何らかの報告だった。オウル市の学校図書館に関心をもつきっかけになったのは、前年(2011)に発表された「学校の文化を変えるツールとしての学校図書館」と題する、このたび自主講座のメンバーで分担して読むことになった下記の論文だった。

Eeva Kurttila-Matero, “School Library ‐A Tool for Developing the School's Operating Culture”(ACTA UNIVERSITATIS OULUENSIS B103, University of Oulu, Faculty of Humanities, Information Studies, 2011)

 かつてフィンランドを視察した学校図書館関係者から、この国の学校図書館には、ほとんど見るべきものがないと聞いていた。たしかに論文を読んでみても、他の学校図書館先進国にくらべて、とくに進んだ実践が紹介されているわけではない。それにもかかわらず魅力を感じるのは、この論文には、地域的な規模での学校図書館の取り組みと、それにかかわる教師や校長の学びのプロセスが、報告書やインタビューといった生の資料を数多く引用して描かれていて、現場の教師の息づかいが感じられるからだ。加えて、学校図書館や教育学、情報学といった多分野における先行研究を踏まえることによって分析に幅と深みを増している点も見逃してはならない。といっても、教員OBの私に学術論文としての妥当性や信頼性を厳密に論ずることができるわけではないが、とにかく、1960年代には「学校の心臓」とまで呼ばれていながら、その後の不況の影響もあって1990年代にほぼ消滅状態になったフィンランドの学校図書館を、ICTの導入にともなう情報リテラシーの育成という新たな使命を付与して、一からよみがえらせようとする試みに感動さえ覚える。

 そんな私の期待に反してIFLAの膨大なプログラムの中に、この実践に関する報告を見つけることはできなかったが、その代わりにオウル市のリタハリュ・コミュニティセンター(Ritaharju community centre)に関する資料が見つかった。

Together for the Future - Ritaharju community centre

 このセンターには図書館、学校、デイケアセンター、青少年活動センターといった所轄行政機関の異なる4つの施設が入っているのだが、それは単なる集合体ではなく、それぞれの機能が相互に有機的に作用しあうことによって一つの複合体を形成するようにデザインされているという。たとえば図書館は、公共図書館と学校図書館の両方の機能を果たしていて、小学校一年生全員に利用者カードを発行して学校の教育プログラムにさまざまな児童サービスを組み入れるとともに、学校図書館として、情報検索の指導はもちろん、隣接する情報センターを利用しながら教師とともに探究型学習やプロジェクト型学習の指導にもかかわっている。

 12日の学校図書館自主講座では、そんなオウル市の最近の動向も紹介しながら、フィンランドの教育行政と学校図書館の歴史などを踏まえて、2002年―2004年に実施されたSLI(情報社会の学校図書館)プロジェクトの成果とその後(2009年まで)の影響について研究の概要をメンバー有志が手分けして報告した。

 なお、当日の参加者には事前に、かなり詳しい論文の要約を配布してありましたが、当日の話し合いにもとづいて少し修正を加えたものを6月初めにはネット上にアップロードする予定ですので、ブログの読者の皆さんは、それまでお待ちください。以下は、当日、各報告者が使ったスライドを集めたものですが、内容の一端でも感じ取っていただければ幸いです。

第11回学校図書館自主講座(神戸)発表用スライド

 

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)