声欄とえくれあと眼鏡とへそのごまと…

大人と社会について、自らの考え思いで腐していきます。社会への抵抗ではなく挑戦。

信仰心

2008-12-31 05:43:05 | 読んで欲しい度☆☆☆
長い間、飾ってあったお守りと御札を片付けた。
もう5年ほど、私の部屋を見守ってくれていた。
本当は1年しか効力を発揮しないらしいが。
こんなお守りや御札はどうすれば良いか知っているだろうか。

私のお守りと御札はどちらも神社の物だったので、白い紙に包んで近くの稲荷神社におたきあげをお願いした。
そして賽銭箱に気持ちとしてお金を入れ、今までありがとうございましたと拝んで帰ってきた。
これで良いらしい。
たったこれだけなのに、なんだか心がとてもすっきりした。

神様とか仏様の存在って、こういう時のためにあるのだと思った。
気持ちというのは、目に見える形ではないので整理すると言っても、どこか釈然としない。
だから目に見える形で清算するための、ひとつのアイテムなのだ。
効力として1年と区切ってあるのは、気持ちを1年毎に切り替えるためだろう。
また、どうしても納得できない事や考えても結果が出ない事の『落とし所』として、使えば良い。
これが、いわゆる困った時の神頼みだろう。

神様とか仏様という存在は、決して何かをしてくれる存在ではない。
こちらから働きかけて初めて、何かを得る事ができる。
当たり前だが、それ自体はそこに存在しているだけなのだ。
存在していることの証明としてお墓や御札があって、感謝の気持ちを持つのだ。
人間にとって、なんとすごい(都合の良い)存在を編み出したのかと感心する。

人間が作り上げた存在なので、信仰と言うのは、信じる人間にとって一番都合の良いものでなければおかしい。
神様や仏様は、決して能動的ではないので、神のお告げとか何々の霊が憑いているとか言うのは、悪い奴の口車だろう。
神様が、使い様もないお金を巻き上げようとするはずがない。


正月になったら、お参りして新しい御札を手に入れようと思う。

挑戦者として何をすべきか

2008-12-30 07:31:35 | 読んで欲しい度☆
先日、コンテストの話に触れた。
選ばれた者だけが良かった良かったと勝者になる。
一方、選ばれなかった者は敗者となりその時点から、次の機会の挑戦者となる。

これは何もコンテストだけに限った事ではない。
様々な場面で、選ばれた者が勝者であり、それ以外は挑戦者なのだ。

挑戦者が伸し上がるためには、条件がある。
ひとつは挑戦をし続ける事だ。
挑戦を止めた時点で負けた事になる。
もうひとつは冷静に内省する事。
客観的に自分を顧みて、改善しなければならない。

今年、市役所の面接を合計5つも落ちた。
深く内省出来ていなかった。
勝者になりたい。
何よりも自分に勝たなければならない。
来年は挑戦者から伸し上がりたい。

自分を規定するもの

2008-12-29 07:25:09 | 読んで欲しい度☆☆☆
自分を規定するものに最近気付いた。
それはクソな社会でも、お金の量でもなくて、自分自身だったのだ。

気付いたきっかけはふとした事で、目的地までどの方法を選択するかだった。
2、3年前なら迷うことなく自転車で行けた距離に、もうその気力は無くなっていた。
寒いだの体が重いだのと何かに理由をつけて行かなくなっていた。

若い頃は何も恐れず、ただひたすら純粋に追い求めた。
これが情熱であり、好奇心そのものなのだ。
そしてこれが失せる事で、自分の可能性を細らせている。
即ち自分を規定する事になる。

良い様に言えば、大人になったと言える。
実際、その様な大人が大半だ。
だが、クリエイティブな仕事には大敵ではないか。
少なくとも、私はそうなってはいけないと思っている。

何かが終わる寂しさ

2008-12-28 07:33:56 | 読んで欲しい度☆☆☆
今年中で終わってしまう好きなものがふたつある。
ひとつは、くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン。
ひとつは、森博嗣のブログだ。

どちらも生の考えや思いが覗けたメディアだった。
このふたつには産地直送の魅力があった。
それだけに楽しかったので、非常に残念だ。

もちろん永遠に続くとは思っていないけれど、まだまだ続くのが当たり前だと思っていた。
それだから、なんだか寂しい。
でも、物の終わりってこういうこと以外にはない。
いつも突然にやってくると思えるものだ。
何かが終わるとは、そういう事なのだ。


どうやら命も例外ではなさそうだ。

この世は天国か地獄か

2008-12-27 05:52:37 | 読んで欲しい度☆☆☆
毎日毎日、人が人を殺す事件が報道されている。
こんな事件が報じられなかった事は1日もない。
腹立たしいし、悲しいし、虚しいし、情けない。
世の中が何だかしょうもなく感じてしまう。

こんな話を知っているだろうか。
有名な天国と地獄の違いの話だ。
ある人が、天国と地獄を覗き見させてもらった。
天国も地獄もその環境に違いはなく、食卓に座らされており、自分の腕よりも長い箸を手にくくり付けられていた。
自分自身では食べ物を食べられない様になっている。

地獄では、それでも必死になって自分で食べようとしている。
食べられないから余計必死になる。

天国では、自分で食べられないから隣の人に食べさせてあげる。
食べ物をお互いの口に運ぶのだ。


どうですか。
この世はさながら地獄じゃないですか。
皆が皆、我がの欲求を満たすために必死じゃないですか。
他人の口に食べ物を運んでも、自分の口に運んでくれる人はいない。
正直者がバカを見る世の中です。

こんな時はまず、本当に信じられる人間の口に食べ物を運ぶ事が大切です。

コンテストの難しさ

2008-12-26 10:08:20 | 読んで欲しい度☆☆
コンテストやコンペは人が人を審査する難しさがある。

出品する側が最良だと思い、本当に誰にも負けていないと思った作品でも結果として一番になれない時がある。
そこに人が人を審査する難しさがある。
審査員はその世界でもトップクラスの人間なのだが、彼らにも彼らのスタイルがある。
平等に見る様に心掛けていても、作品のレベルが一定以上であれば、好き嫌いも反映されることになる。
その世界でトップクラスであるから、それに対する思いも一流だ。

もちろん、審査員の好き嫌いの有無を言わさないレベルの作品がある時もある。
しかしそれは稀で、だいたいはどれが一番でもおかしくないレベルだから審査員の人も頭を悩ませるのだ。
そしてそういう時は鶴の一声もあったりする。
だから審査員の好みをある程度知って対策を講じる事も必要なのだ。
その際も、自分たちのレベルは落としては元も子もない。


とM-1を見ながら、思ったりした。

丑年

2008-12-25 07:26:05 | 読んで欲しい度☆☆
年賀状を書いていて、来年は丑年だなと思った。
世の中のスピードとは違って、ゆっくり、のんびりの年ですね。
ゴールの手前でネズミに先を越されたぐらいですから。

世の中に流されて、走り続けるのもいいだろう。
しかし何でも速いのが、勝っているとは限らないのではないか。

もし世の中が運動場のトラックだとしたら、結局同じところを回っているだけだとしたら。
走っている人は、どんどん先に行くだろう。
しかし俯瞰で見ればどちらが先とも後とも言い切れない。
走り続けて肉離れを起こしても仕方がない。

と、丑年の私は自分を納得させている。

変わり者

2008-12-24 06:50:12 | 読んで欲しい度☆
他人から多少なりとも変わり者だと思われているようだ。
別に他人の目を気にしてではないが、自分でもつくづく変わり者だなと思うことはある。
変わり者が良いか悪いかはわからない。
というより、本人次第だ。

しかし、変わり者には変わり者の辛さがある様に思う。
皆と同じ様にしていれば、周りの流れに身を任せていれば、“それなり”という楽がある。

変わり者は信じたものを突き詰める事によって、初めて評価を得る事が出来る。
突き詰める事が出来なければただの変わり者で終わってしまうのだ。

私が尊敬する手塚治虫、水木しげる、色川武大(阿佐田哲也)はどれも変わり者だと思う。
信じたものを突き詰める事が出来たから、新しい分野を開拓し成功出来たのだ。

まだ一般的でないものを突き詰めるには、何よりも自分を信じぬく事が出来なければならないだろう。

自殺

2008-12-23 10:40:46 | 読んで欲しい度☆☆☆
自殺はダメです。

このブログで何度か『正々堂々と逃げる』事を推奨したきたが、自殺は『卑怯な逃げ』です。
理由は、一番簡単な方法で、誰も幸せにはしないし。

でも、自殺をする時の勇気ってすごいと思う。
正直、死ぬ瞬間は怖い。
先に何があるのかわからないから。
その死ぬ勇気があれば生きる事は容易いのではないか。

生きてこそです。
人間としての最低限のルールが生きる事です。
そのルールの中で、『正々堂々と逃げる』事を私は推奨します。

マンチェスターユナイテッド リオ・ファーディナンド選手

2008-12-20 06:26:09 | 読んで欲しい度☆☆☆
イングランドのサッカークラブ、マンチェスターユナイテッドにリオ・ファーディナンドというディフェンダーの選手がいる。
マンチェスターユナイテッドは世界でも屈指のクラブチームで、現在クラブチームの世界一を決める大会のために日本に来ている。

ファーディナンドはその中でスタメンを張り続ける、トッププレイヤーである。

そのファーディナンドが、01年に児童殺傷事件のあった大阪教育大付属池田小学校に花束を贈ったそうだ。
『あの悲劇が今も脳裏から離れることなく、もう一度追悼の献花をしたいと思っていました。残念ながら日程の関係で今回は大阪に行くことができません。どうか私の代わりに献花してください』とのメッセージが寄せられていた。(朝日新聞12/19)

ファーディナンドは01年に休暇で来日した際に事件を知り、京都に行く予定を変更して、数日後に校門に献花したそうだ。

なんて素晴らしい選手だと思った。
彼の人間性が窺える話である。

この事件は犯人が絶対に悪いし、被害者や関係者の方々は本当にいたたまれない。
だからこういう事件がなかった方が良かったことは大前提であるが、その中でこういう話があることは何かの救いにならないだろうか。

ピッチの内外で人の心を打つ事が出来る選手であるファーディナンドは素晴らしい選手である。
そんな人間になりたいものだ。