声欄とえくれあと眼鏡とへそのごまと…

大人と社会について、自らの考え思いで腐していきます。社会への抵抗ではなく挑戦。

2008-12-19 09:35:32 | 読んで欲しい度☆☆☆
旅と旅行は違う。
旅は1人で、また行き先・目的も明確には決まっていないもの。
旅行は複数人で、また行き先・目的もはっきりしている。
と勝手に決めている。

私は専ら旅ばかりである。
目的もなく、気の向くままに足を伸ばす。
誰にも干渉されない。
その地での雰囲気を味わう。
それが旅の全てだ。

どこかで、旅は人生に似ていると読んだのを記憶している。
その理由はこうである。
『自由気ままに旅が出来るのは、家という帰る場所があるからである。
人生も右往左往しながら生きて行けるのは、死という還る場所がある。』

その通りだと思う。
私の中でかなり咀嚼したから、真偽はわからないが。


私は旅の途中に嫌な事があっても、家に帰れば全てが良い思い出に変わっている。
だからまた旅に出てしまう。

人生の途中の嫌な事も、還る所に還れば良い思い出になるのだろうか。
そしてまた人生を始めてしまうのだろうか。

にじり口

2008-12-18 12:59:18 | 読んで欲しい度☆☆☆
にじり口が好きです。
一般の人には、馴染みが薄いかもしれません。

にじり口とは、茶室についている小さな出入り口です。
にじるとは、膝をついてじりじりと動く様を指します。
にじらないと入れないぐらい小さいのです。

小さい理由はいくつかあります。
『小さい所を通る事によって、狭い茶室を広く感じさせる事が出来る』
また『刀を差したままでは入れない』様にするという効果もあります。
これは『どんなに身分が高い人でも頭を下げなければ入れない』という事にも通じます。つまり、茶の精神にはそういうもの(地位や身分)は関係ないという事です。

これほどコンセプトを建築的アイデアによって解決しているものは珍しいのではないでしょうか。
だから好きなのです。
今、周りを見渡してコンセプトをアイデアが満たしている例はどれだけあるでしょうか。
また出来上がったものを見て、素直にそのコンセプトを感じれるものがありますか。
建築に限らず、ただ奇抜なものが良いものとされてはいないでしょうか。

本当に価値がある物を見極めて、大切にしていきたいものです。

性癖とナンセンス

2008-12-17 08:41:38 | 読んで欲しい度☆☆☆
人生を何かに例えるのは面白いので、続けようと思う。
ただ、ネタが出来たらという条件付きです。

最近、言葉の意味を間違って使っているのをよく聞く。
多いのは『性癖』という言葉。
どうやら字面から、性的嗜好を連想するらしい。
しかし正しい意味は『くせ』だから、貧乏揺すりも立派な性癖なのだ。

意地悪な印象を与えるから、いちいち正すつもりもないけれど、意味を知っている人間からすると少し気になる。

同じように、『ナンセンス』という言葉。
センスが無いという意味で使われる事が多いようだ。
本来の意味は『無意味なこと、くだらないこと』


言葉は実に難しいと思う。特に日本語は。
コミュニケーションのツールだから、お互いに理解できれば、間違った意味でも問題ない。
それが社会全体に広がると、言葉は変化してゆくのだろう。


これを踏まえると、言葉の意味に拘る『性癖』は『ナンセンス』なのだろうか。

人生を何かに例えてみる その2~山登り~

2008-12-12 07:32:33 | 読んで欲しい度☆☆☆
人生を山登りに例えてみよう。

この世に産まれた時が山の登り口に立った状態としよう。

しかし、山登りは登り口に立つまでにとても重要な事がある。
準備だ。
持ち物の確認はもちろんのこと、当日の天候、登るルートも確認しないといけない。
大抵の人はそれなりの準備が出来ている。
中には詳細な地図を持っている人がいれば、方位磁石を持っている人もいる。
稀に、お金がなくて雨具すら持っていない人もいる。

そうやって登り始めるのだが、始めのうちは足慣らしである。
それとなしに登っているうちに、気が付けば山の中にいる。

山道は、苦しい登り道もあれば楽な下り道もある。
時には草をかき分けないと進めない道もある。
決して一本道だけではないだろう。
時には分岐点もある。
そういう時、自らが思う方向を選択する。
その積み重ねが山登りそのものだ。

また山道には、同じ道を歩く人がいたりする。
挨拶する人、黙々と登る人様々だが、歩くスピードが同じで話すうちに気の合う人もいる。
そういう人とも分岐点で別れる事も珍しくない。
悲しみに浸る余裕はなく、新しい道ではまた新しい出会いがある。

そうやって、登っている間に周りの人間が揃えた持ち物が重すぎて、邪魔になる事はよくある。
必要な物を誤って捨ててしまって、後から気付く事もある。
取りに戻るも良し、そのまま進むも良し。
困っている時に、たまたま通り掛かりの人が助けてくれたりもする。
そんな人と恋に落ちる事もあるだろう。

登るうちに分岐点で別れたはずの人と、また出合うなんて事もある。

そうこうして、やっとの思いで頂上に登る。
頂上に到着した時、山登りの清々しさを知る。
下を見て、しばらく自分が登ってきた道のりに思いを馳せる。
ただ、これで山登りは終わりではない。
頂上から見える新たな高みを目指す事もできる。
どちらにしても山は登ったら下りないといけない。

下り道も様々で、平坦な道、ぬかるんだ道、滑落の恐れがある道。
体力・気力が少なくなっていく一方だが、最後まで歩くのはやめられない。
小まめに休みながらも、山を下りる。

ゴールが遠くから見えている人、角を曲がったところで急に見えた人など様々だ。

ただ山道を下り終えた人はみな、心地よい達成感が達成感を包んでいることだろう。

良くも悪くも、登った本人にしか、登った山の高さ・奥深さ・楽しさ・厳しさはわからない。

人生を何かに例えてみる その1~競馬~

2008-12-11 11:43:34 | 読んで欲しい度☆☆☆
人生を競馬の1レースに例えてみよう。

馬は自分。
馬を操る騎手も自分。
この世に生まれた時から、ゲートが開いてレースが始まる。
いや競馬というのは、レースの前から始まっている。
親の血統や育てられ方は、馬にとっては大きな要因だ。

スタートした瞬間に、出の良い馬がいれば、ヨロツク馬、つまづく馬、出遅れる馬までいる。

そうやってじわじわっとスタートして、第1コーナーを回る頃には、大体の順位付けが終わる。
先頭から最後尾まで、長くなるだろう。

さぁレースはこれから。
流れはどうだ。
早い時もあれば、緩い時もある。
その時に、騎手がどう捌くか。
違いはあるが、トップスピードで走り続ける事が出来る優駿はなかなかいない。
だからこそ、騎手の腕が物を言う。

レースの途中で、馬から落ちてしまう騎手もいる。
応援してくれる人もいるだろう。
一緒にスタートした人馬も当然気にかけている。
しかし、残念ながら馬が骨折して動けない時がある。
競馬のルール上、落馬した地点からやり直せることができれば、競争中止にはならない。

先頭を走るのが好きな馬もいる。
後ろの方で足を溜める馬もいる。
それぞれリスクがあって、前にいる馬は早くにバテてしまうことがある。
後ろの馬は、スパートが遅すぎると、足を余す事がある。

そうやってレースを終えるまで走り続けるのだが、馬によってゴールは違う。
第何コーナーまであるのだろうか。
このレースが行われる競馬場がどこなのか誰も分からない。
騎手も初めてのレースだから、どこでスパートを掛ければ良いか分からない。
だから、みんな前の方でレースをしたがるのかも知れない。
しかし、最後の直接はものすごく長いかも知れない。
そうすると、後ろの馬にもチャンスはある。

もしかすると競馬場を選択出来るのかも知れない。


しかしこの競馬は、走り終わった人馬にしか分からない。
走り終わった後に振り返って、やっとわかるのだろう。

芸人について

2008-12-10 11:14:27 | 読んで欲しい度☆☆☆
芸人は素晴らしい職業である。

なんと言っても、何も持たずに言葉だけで、人を笑わせる事が出来る点が素晴らしい。

そう考えているから、顔芸や被り物で笑わせるのは好きではない。
事実、笑ったことがない。

また、食べ物を粗末にする様な事も笑えない。
何より意識が食べ物にいってしまうからだ。


言葉だけで、笑いを取れる様な実力のある芸人が増えて欲しいし、そういう人を評価する社会になって欲しい。

阪神タイガース 岩田稔投手

2008-12-09 14:35:46 | 読んで欲しい度☆☆☆
阪神に岩田という投手がいる。
今シーズンは10勝を上げ、25歳とこれからの一層の活躍が見込まれる。
彼こそプロのスポーツ選手であり、長く続けて欲しいと願う選手の1人である。

彼はⅠ型糖尿病を高校生の時に発症し、1日4回のインスリン注射を打ちながら生活している。

プロのスポーツ選手が、自分やチームのために頑張るのはもちろんだ。
ただ、それだけでは十分に役目を果たしていない。
多くの人に夢や希望を与える事も大きな仕事だと思う。

岩田投手自身も糖尿病と闘うスポーツ選手を見て勇気付けられたそうだ。


岩田投手は、同じ糖尿病と闘う子ども達の病院訪問も行っている。
彼が活躍する事によって、多くの人が勇気付けられる事を思うと、彼を応援せずにはいられない。

是非とも長い間、活躍して欲しい。

絶対的

2008-12-08 12:24:39 | 読んで欲しい度☆☆
世の中に絶対的なものはない。
絶対だと思われているだけだ。
置かれている社会の中において絶対的なだけで、広い目で見れば違う。

競馬で例えれば(競馬を知らない人はゴメンね)、新馬戦で血統が絶対的でも勝てるか分からない。また勝ち上がってもオープンで通用するとは限らない。


あらゆる角度から見れば、絶対的なものはない。
社会は大分と広い。
人は、自分が置かれている社会を絶対的なものと見てしまいがちだ。

特に学生時代は、学校と家という社会が絶対的なものになる。
だから、いじめが大変苦しいものになり、場合によっては自殺にまで至ってしまう。
違うんだ。実はもっと広い社会があって、学校を含む社会なんてほんの小さなものだとわかるのは、もっと後になってからだ。

だから学生には、今見えている社会が絶対ではなくて、社会はもっと広いと言いたい。


どこの社会でも絶対的なものはないから、社長だからと威張っているのは井の中の蛙、所詮お山の大将だ。
客観的に、俯瞰的に自分を見れていない証だ。

ブランドについて

2008-12-07 16:32:45 | 読んで欲しい度☆☆
日本人のブランド信仰は凄まじい。
女性の服や装飾品に対するブランド好きは目に余るものがある。

端的に言って、自分に自信がないからブランドを身に纏いたいのだと思う。

一見、女性だけかと思いきやブランド信仰は社会全体に蔓延している。
名の知れた大学に行きたい、大企業で働きたいというのもブランド信仰だろう。
その気持ちは分からなくはない。
ただ、社会も大学や勤めている会社で人物を評価する傾向がある。
それはマズイ。
本当のその人を見えにくくしている。



ただ『ブランド力があるものは、それ相当の良さがある場合が多い』という事実は否めない。

そういえば

2008-12-06 11:07:56 | 読んで欲しい度☆☆☆
このブログを書き始めて、1ヵ月が経った。
始めは誰かに見られるものではなく、記録的な物として活用しようと考えていた。
何かの際に見返して、自分を律したり自分を励ましたりしようと。
だからブログタイトルも滅茶苦茶に付いている。

しかし何かの縁があって、毎日決まって30人ほどが訪れ、合計80回ほど表示されている。
一体こんなもの誰が見ているのだろうと思いながらも、やはり嬉しい気持ちもある。

それは、このブログを読んだ人に私まるで馬太郎(稀にラジオで名前が言われる事もある)が良かれ悪かれ内在する事になるからだ。
私から発信されたものが、あなたに触れる事で、あなたの中に私が存在する事になる。

だから私は、『亡き人も生き続けている』と考えている。


昨年、自殺した小学校の同級生がいる。
その時思ったのは『一瞬でも私の顔は思い浮かばなかったのだろうか』という事だ。

私の中のそいつはずっと生き続けているのに、そいつの中の私はその時殺されてしまった様な気がした。
いやこれは大袈裟だ。
何かやりきれなかったのだ。



話が少し変わってしまったが、このブログの意義として記録的なもの以外に、何かの時に、このブログに書かれていたものを思い出すことで、気が紛れる人が1人でもいれば嬉しいと思う様になった。