つい先日、おばあちゃんを車椅子に乗せて、いつもの様にうどん屋にむかっていたら、すれ違い際にある言葉が耳に入った。
『合理的にしやなアカンで、おじいちゃん。』と。
見ると40歳ぐらいの女性が70歳ぐらいの男性と歩く速度を合わせて歩いていた。
散歩をしながら他愛もない話をしているのだろう。
2人の会話の内容は、それ以上はわからない。
しかしその一言だけがどうしても引っかかった。
考えてみれば、家族で何をするにも、合理的にいかないことばかりだ。
ご飯を食べに行こうと言っていても、誰かが時間を守らない。それに対して、誰かが腹を立てる。なんとか店に入ったと思ったら、座り位置でモメ、メニューでモメる。ビールの注ぎ方でモメる。誰が支払うかでモメる。2件目に行くかどうかでモメる。家に帰っても、誰が犬の散歩に行くかでモメる。
全くもって、合理性のカケラもない。
しかし反面、そういったやりとりを、やれやれ…と思いながらも楽しんでいる自分がいる。
みんな、そうだろうと思う。
結局、集まってやいやい言うことが目的の一つであって、それが出来ること、許されることこそ家族に属する最大の特権なのかもしれない。
『合理的にしやなアカンで、おじいちゃん。』と。
見ると40歳ぐらいの女性が70歳ぐらいの男性と歩く速度を合わせて歩いていた。
散歩をしながら他愛もない話をしているのだろう。
2人の会話の内容は、それ以上はわからない。
しかしその一言だけがどうしても引っかかった。
考えてみれば、家族で何をするにも、合理的にいかないことばかりだ。
ご飯を食べに行こうと言っていても、誰かが時間を守らない。それに対して、誰かが腹を立てる。なんとか店に入ったと思ったら、座り位置でモメ、メニューでモメる。ビールの注ぎ方でモメる。誰が支払うかでモメる。2件目に行くかどうかでモメる。家に帰っても、誰が犬の散歩に行くかでモメる。
全くもって、合理性のカケラもない。
しかし反面、そういったやりとりを、やれやれ…と思いながらも楽しんでいる自分がいる。
みんな、そうだろうと思う。
結局、集まってやいやい言うことが目的の一つであって、それが出来ること、許されることこそ家族に属する最大の特権なのかもしれない。