私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

第16回 国策としてのオクタノール生産計画

2006-04-19 11:55:12 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 581号 05年04月19日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場(第16回)       
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第16回 国策としてのオクタノール生産計画

通産省の目論見では、オクタノール生産は1950年代をチッソと日豊化学、1960年
代を三菱化成(現在の三菱化学)など「第一期石油化」企業に分担させる計画だっ
たと思われます。

この頃、化学業界とそれを指導する通産省の最大の課題は、従来の電気化学方式
(石炭原料)から石油化学方式(石油原料)に いかに早く転換するかでした。こ
れがいわゆる「石油化」です。

通産省は 1955年に「石油化学工業 育成対策」を作成し、旧財閥系を中心とする
13社を結集して第一期石油化計画を進めていました。大規模な石油化学コンビナ
ートが各地に出現したのはこの計画のためです。第一期計画は1959(昭和34)年
に完了する見込みとなり(水俣病事件の山場だった時期と一致)、通産省は第二
期石油化計画を策定し始めていました。第一期に旧財閥系、第二期に(ともに水
俣病を発症させた)チッソや昭和電工といった旧・新興財閥系企業が多いのは偶
然とは思えません。

よく、水俣病事件について、チッソを「石油化(つまり近代化)に乗り遅れた」
企業との表現が散見されます。宮澤も「水俣病事件四十年」の中で「当初石油化
をためらっていたチッソなど電気化学系の企業は、乗り遅れに気付き第二期計画
への参画を急いだ」と記載しています。しかし、以上見てきただけでも通産省の
化学業界に対する指導力は絶大であることがわかります。チッソが自らの意思で
「石油化をためらう」ことは考えられません。「新興財閥系だったが故に石油化
を後回しにされ」「旧財閥系企業の石油化による供給体制が整うまで石炭由来の
製品供給を担わされた」と考える方が自然ではないかと思われます。

1951年頃、三井物産は日豊化学、興亜石油と連携してオクタノールなどの企業化
を計画、通産省は国会で旧陸軍岩国燃料廠の跡地利用について「何も決まってい
ない」との答弁を繰り返す一方、1952年6月、岩国の跡地を 日豊化学に払い下げ
ることに内定しました。しかし、1953年夏、中核と期待した日豊化学が経営破た
ん、計画は実現しませんでした。(三井東圧化学社史)

石油化計画に一度挫折した三井物産は改めて三井化学、東洋高圧、三池合成(後
に合併して 三井東圧化学、現在の 三井化学)に要請、後に 興亜石油とも 提携
(1954 年 6 月)して、岩国の 石油化学コンビナート建設を 実現させたのです。
(三井東圧化学社史)

通産省軽工業局長・中村辰五郎が「先般三井化学が特に関係会社の低級炭をもと
にしてこの事業(オクタノールなど高級アルコールの生産)をいたしたいという
ことで計画もし、検討も進めておる」と公表したのもこの頃で(1954.5.14 衆院
通産委員会)、三池合成が三池炭の液化、液化油からの各種化学品の製造研究な
どを通産省の研究補助を受けて行なっていた(三井東圧化学社史)という状況で
は、三井物産は新計画にオクタノールの企業化を明記できず、結果としてチッソ
が当分の間オクタノールを独占する形となり、水俣病の原因である有機水銀廃水
の垂れ流しを容認せざるをえなくなったのです。

一方、「石油化」の先陣・三菱化成は1955年に石油を原料とするオキソ法オクタ
ノールのパイロットプラントを建設していますが、工業化は1960年3月でした。
これで、やっとチッソからバトンタッチできる見込みがたったのです。1959年に
通産省がやっきになって水俣病の有機水銀説を否定しようとしたのは三菱化成の
オキソ法オクタノールが間に合わなかったからでしょう。三菱化成は原料を隣接
する三菱油化からパイプで受け、製品のオクタノールは三菱モンサントに供給、
これによって三菱化成も四日市コンビナート(三重県)に直接加わることになり
ました。

チッソの場合と違い、品質は極めて良好で、いきなりフル生産に入るなど、その
工業化は大成功でした。(三菱化成社史)三菱化成は早くも翌年には生産能力を
増強、その後他社も追随し、1963年に協和油化、64年に東燃石油化学が工業化に
成功しました。こうしてオクタノールの生産が石炭原料から石油原料に転換され
たのです。

チッソのオクタノール生産が激減することとなった「日窒の安賃闘争」をチッソ
が仕掛けた時期(1962年)と石油由来のオクタノール供給体制確立の時期が一致
しているのも偶然とは思えません。

第15回 植民地の崩壊体験

2006-04-14 07:06:36 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 580号 05年04月14日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場(第15回)       
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第15回 植民地の崩壊体験

1951年に行なった水俣工場のアセトアルデヒド工程の変更が劇症型水俣病を発生
させた原因となったのですが、その変更を行なったのが 終戦後 引き揚げてきた
朝鮮窒素肥料の技術者たちでした。棄て置かれ差別される被害者が増加していっ
てもなお廃水を流し続けた水俣工場で働いていた人たちがどのような経験をして
きたのかをみてみましょう。

水俣から燃料工場のある興南工場に渡った民衆は転勤工員などの一部を除いて、
それまで多くの日本人同様、窮乏生活を強いられていました。それが植民地朝鮮
に身を移すや否や制圧者に変身したのです。アパート式の社宅はレンガ作りでス
チーム暖房があり、安い電気が使え、トイレは水洗式と水俣の生活とは比べ物に
ならない夢のような文化生活を送ることができたのです。

青年たちは酒と女、それに 朝鮮人との喧嘩に 羽根を伸ばし、女たちは生まれて
初めて働かなくても毎日の生活ができる身分になりました。することがない彼女
たちは社宅 同士で遊び歩き、高級品を 競争で買い漁り、栄耀栄華の極楽生活を
満喫していました。一方、工場建設で住まいを奪われた朝鮮人は汚いみすぼらし
いに住み、興南工場に職を求め、差別の中窮乏の生活を送っていたのでした


被抑圧者は抑圧が強いほど、自らが制圧者になることを夢見る。殖民地制度とは

被抑圧者の中で醸成される制圧者への変身プログラムを見事にシステム化したも
のといえるでしょう。

太平洋戦争の敗戦が 近づくにつれ、朝鮮人の抵抗が 強まり、暴力だけが彼らを
働かせる唯一の手段になっていきました。そして日本の敗戦の日から「日本人さ
まが朝鮮人野郎に、朝鮮人野郎が日本人さまになった。朝鮮人は日本人になるの
にまるで一生懸命だった。」という状況が生まれました。

1945(昭和20)年 8月26日、進駐してきたソ連兵によって 興南工場は接収され、
日本人は立入禁止となりました。日本人の兵隊狩りと武器の接収が行なわれ、日
本の武器をもった朝鮮人民衆の報復が始まりました。日本人はそれまでの社宅を
でて、劣悪な朝鮮人用の社宅に移され、貯金も没収、所持品も盗難が横行。栄耀
栄華を極めた日本人があっという間に難民化、冬を迎えると本当の厄災に見舞わ
れたのです。女を襲い金品を奪う一部のソ連兵、発疹チブスの蔓延、飢餓、そし
て死。

朝鮮人の工場となった興南工場に人夫となって就労することになった日本人は、
かつての朝鮮人のようにサボることだけを考えている自分を見出すのです。日本
への逃亡も、飢餓の中 辛酸をなめました。どん底の 逃亡生活の中で「朝鮮人オ
モニのおかげで水俣に帰ってこれた。朝鮮人は日本人のようではなかった。」と
語る者もいれば、石を投げられた 経験などから「よーし、憶えとれ。今度 戦争
やったら、股腹一射でやるぞ。」とか「朝鮮と戦争が始まったら、俺は真っ先に
部隊長で行くぞ」という者もいました。実際に朝鮮戦争が始まったとき、彼らは
何を思ったでしょうか。

焼け野原になった水俣に帰り着いた彼らを地元の人たちはどのように迎えたので
しょうか。戦時中水俣とは別世界の暮らしをしていた引揚者は冷たい目で見られ
ました。「カネ儲けしようと思って行ったんじゃろが。贅沢しようと思って行っ
たんじゃろが。」と親戚が先になって言い、「お前ども、朝鮮人を奴隷のように
こきつかってきたんじゃろが。」と批判されました。(聞書水俣民衆史5 草風
館1990)

これらの経験が、原田正純の言う「“人を人とも思わない状況”いいかえれば人
間疎外、人権無視、差別」の底流に流れていることが考えられます。


第14回 チッソ技術者の入れ替わり

2006-04-12 11:37:28 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 578号 05年04月10日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第14回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第14回 チッソ技術者の入れ替わり

水俣工場は1945年の空襲で大打撃を受け、敗戦により日本窒素肥料(現チッソ)
は航空燃料を作っていた朝鮮窒素肥料を含むすべての海外資産を失い、さらに財
閥解体により旭化成、積水化学などが独立、水俣工場だけが残されました。そこ
へ植民地朝鮮から支配者意識をもった、技術については誇り高い、朝鮮窒素の技
術者たちが引き揚げてきたのです。彼らは水俣工場の中枢を占め、産業経済の復
興という新しい国策に沿って生産をあげ、水俣を支配し続けることになったので
す。1946(昭和21)年2月、アセトアルデヒド工場が 再開されましたが、その再
開と同時に、当のアセトアルデヒド工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七は
引き揚げ組に追い出される形で徳山工場建設所長に転出させられ、やがて退職し
てしまいました。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」)退職した橋本は1950年の水
俣市長選挙でチッソ労働組合の支援を受け当選しましたが、一時期食うにも事欠
く有り様だったといいます。(西村肇, 岡本達明「水俣病の科学」日本評論社)

1945年8月末にはチッソを含む全国の軍需会社は その指定を解除され、経営者は
軍需会社生産責任者を解任されるとともに、降格または追放されました。米国の
日本に対する賠償政策の基本的な方針は(1)平和的日本経済ないし占領軍に対
する補給にとって 必要でない物資、設備、施設、(2)日本の在外資産の全部、
を連合国当局の決定に従って戦勝国及び被害関係国に引き渡すというものでした

(三井東圧化学社史)

翌46年2月、チッソでは アセトアルデヒドの生産が再開されますが、アセトアル
デヒド酢酸工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七が左遷されたのもこの頃で
す。これと入れ替わりに水俣工場を支配したのが朝鮮で航空燃料などを生産して
いた引き揚げ組でした。

しかし、47年に入ると米国の対日政策に変化が見られるようになりました。中国
共産党の成立、米ソの対立が次第に明らかになるにつれ、賠償問題も大幅に緩和
されることになったのです。米国は日本を工業化、再軍備化して共産主義に対す
る防衛線にしようとしたのです。

48年3月、ドレーパー賠償 調査団が来日、日本経済の早期自立のために賠償問題
を再検討し、賠償総額を 6億6千万円余とポーレー案の1/4に減額、しかも5億6千
万円は旧陸海軍工廠の施設を充当し、重化学工業設備のほとんどを賠償から除外
するというものでした。こうして賠償指定工場の多くは撤去を免れ復旧と生産拡
大に専心することができるようになったのです。

工業化には資金とエネルギーが必要です。第一次吉田茂内閣は、傾斜生産、つま
り主要産業(この場合1946年には食糧・石炭産業、翌年にはそれに加えて鉄鋼・
肥料産業)と特定企業に超重点的に、エネルギー源である石炭を配分、資金は復
興金融公庫から融資しました。

その過程で昭和電工疑獄事件が起こりました。チッソと昭和電工はともに戦前に
は化学肥料や爆薬を生産し、戦後はアセトアルデヒド工場廃水から水俣病、新潟
水俣病を発生させるというよく似た生い立ちをたどった会社です。昭和電工は巨
額の復興資金を引き出すために政府高官、GHQ高官に莫大なワイロを贈り、昭
和電工1社で復興資金の半分にあたる30億円を獲得してしまったのです。

チッソには復興資金をめぐる黒い噂はありません。その代わりにかつての日窒コ
ンチェルンの栄光再現を夢見て、米軍が必要とする軍需物資の生産を引き受けた
のではなかったでしょうか。

そして1950年6月、朝鮮戦争が勃発。翌1951年、チッソ水俣工場の アセトアルデ
ヒド工場でプロセスの変更が行なわれました。既に会社の中枢を占めていた「引
き揚げ組」はそれまでのアセトアルデヒドの蒸発・蒸留方式と触媒を変更したの
ですが、これが大誤算、故障続きのあげく、劇症型水俣病を発生させてしまいま
した。

水俣工場でのオクタノールの生産開始は朝鮮戦争の最中1952年9月のことでした。


第13回 航空燃料工場の致命的問題

2006-04-07 06:31:08 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 577号 05年04月07日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第13回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第13回 航空燃料工場の致命的問題

竜興工場の製造課長だった大島幹義は工場の問題点を次のように記しています。

「アセトアルデヒドの製造技術は日本窒素 水俣工場で1930年に完成し、その後
 改善を重ねてきたものであり、担当技術者並びに熟練工員を移駐して建設と運
 転に当たらせたので1941年に第一号基を完成して運転を開始した時は直ちに計
 画値に達するという好成績を収めた。しかし、運転基数が漸次増加するに従っ
 て成績が低下し故障頻発、戦争末期にはイソオクタン製造工程中で最も弱い工
 程になってしまった。最も確実と見透された工場が最後には最悪の成績になっ
 たことは大きな教訓であった。」

「まず第一に考えられることは日産150トンの生産計画に対して日産10トン設備
16基もおいたことだろう。日産 20-40トン規模の工場ならば一基能力10トンが
適当である。また多年の年期を入れた工員のみで構成されていた水俣工場なら
ば可能であったかもしれない。アセトアルデヒド工場の運転はかなりの熟練を
必要とした。」(大島幹義「プロセス工学」1959年 化学工業社)

朝鮮のアセトアルデヒド工場が最後に自滅した理由は「植民地」という制度自体
に求めることができます。

興南工場の運転は当初日本人のみで行なうとものとされ、朝鮮人の仕事は人夫と
雑役ばかりでした。しかし、日中戦争以降、朝鮮人工員が激増、敗戦時には工員
の8割に達しました。それでも工場の支配機構は最後まで完全に日本人が握って
いました。賃金、住居など待遇面でも格差は激しく、日本人であればバカでも支
配民族の一員であり、日本人による朝鮮人への武力は容認されていて、抵抗する
朝鮮人は即座に解雇されました。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はど
こまでも劣る民族である必要があり、「朝鮮人をみたら・・・と思え」と教えら
れました。これが植民地の工場の実態でした。

このような民族関係によって成立している工場で、運転工の主体的能動的な熟練
を要する部門はどうなったのでしょうか? このようなどうしようもない差別・
格差社会では朝鮮人は日本人の目を盗んでサボることだけを考えていました。そ
れが朝鮮人をさらに見下す理由にもなっていましたが、敗戦後日本人と朝鮮人の
立場が逆転すると日本人もまたサボることだけを考えるようになっていたのです

この植民地支配制度そのものが朝鮮での航空燃料工場自滅の要因となる「熟練工
不足」の原因でした。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)

 大島はもうひとつの問題も指摘しています。

「アセトアルデヒド製造では触媒水銀の消費量は全運転になると 年間百トンに
達し、日本の水銀産出量の過半を費やしてしまうことになることも大問題であ
った。」

真珠湾攻撃大勝利のウラではこのような致命的問題を抱えていたのです。さらに
年間百トンの水銀消費といっても水銀が消えてなくなるわけではありません。水
銀は廃水とともに海に捨てられていました。

竜興工場で働いていた工員のひとりは次のように語っています。

「朝鮮でも金属水銀が精留塔プレートに溜まりましたよ。それやこれやで1セッ
ト連続運転できるのがせいぜい3週間。いつもどこかのセットがとまっていた。
プレートの水銀回収は日勤の仕事だった。排水溝の水銀なんか回収しなかった

そんなことさせる人間が居りゃせんです。」

「廃液は最初のうちは全部垂れ流しました。大きな排水溝を作って 城川江に流
した。城川江から海に行く。あとでマンガン回収工場ができてからは金属水銀
を回収した。でも故障も多かったし、何やかやで廃液は相当垂れ流しとるです

(聞書水俣民衆史5 草風館1990)


第12回 オクタノール生産技術の源流

2006-04-04 08:04:53 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 576号 05年04月04日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第12回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第12回 オクタノール生産技術の源流

チッソが10年に亘り 市場を独占した というユニークなオクタノール製造技術を
チッソ技術陣は どこで獲得したのでしょうか? 戦後の特殊用途のひとつがジェ
ット燃料用潤滑油原料でしたが、その技術の源流もまた戦前の航空燃料用途でし
た。

1935 年頃、軍用航空燃料に100オクタン(オクタン価 100)が要求されるように
なりました。オクタン価とはエンジンで安定的に燃焼させることができる燃料の
指標で、ガソリンの「ハイオク」は高オクタン価ガソリンの略です。当時、欧米
では戦闘機の高速化が進められ、日本海軍も1934(昭和9)年の次期 艦上戦闘機
の設計に際し、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めまし
た。これが後に太平洋戦争の花形戦闘機ゼロ戦へと繋がっていきます。戦闘機の
高速化に対応するためには燃料にも技術革新が求められました。それまでの戦闘
機用92オクタン価ガソリンにイソオクタンを混入することで達成されるのですが

分解ガソリン製造時の廃ガスの成分を利用してイソオクタンを作っていた米国と
比べ、石油精製規模が小さい日本では 同じ方法では 必要量を確保できません。
そこで、海軍は アセチレン→アセトアルデヒド→ブタノール→イソオクタン と
いう一連の合成プロセスを設計したのです。これが戦後のチッソ水俣工場のオク
タノール製造プロセスの原型となります。

海軍は3ヶ所(台湾、三重県四日市、朝鮮)にブタノールからのイソオクタン製
造工場を建設しました。計画では朝鮮窒素肥料竜興工場のイソオクタン航空燃料
生産能力は 年産1.8万トンで、そのためには原料となるアセトアルデヒドは5万
2千トンも必要でした。戦後、水俣工場の最大生産量が1960年の4万2千トンで
したから、いかに壮大な計画だったかがわかります。

朝鮮窒素肥料竜興工場では日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場でこのとき既に稼
動していた当時最大規模の五期アセトアルデヒド製造設備と同規模の設備を作る
ことで対応しようとしました。ところが、海軍の計画数量があまりにも膨大だっ
たため水俣五期製造設備を16セットも並立させるという無茶な構成になってしま
いました。(飯島孝「技術の黙示録」技術と人間社1996)

航空燃料(イソオクタン)工場は興南・本宮工場の中にある竜興工場という秘密
軍需工場でした。そのためアセトアルデヒド工場がND、ブタノール工場がNB

イソオクタン工場がNAなどと符牒で呼ばれていました。門が二重になっていて
燃料工場の前には憲兵が立っていました。アセトアルデヒド工場は まず2基がで
きて、試運転は1941(昭和16)年9月に 工場長以下上層部が全部立ち会って行な
われました。午前10時から始めて昼前にはアセトアルデヒドがでて、全員で万歳
しました。真珠湾攻撃の 3ケ月前のことで、燃料工場が成功したので海軍が日米
開戦を決めたと聞いたと工員は語っています。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
航空燃料イソオクタンは翌年5月に初めて産出されました。

しかし、問題はこの直後から表面化しました。通常は工場の操業経験を踏まえて

次第に生産規模の大きい工場に建て替えていくものなのですが、開戦に備え航空
機燃料の生産を急ぐという非常事態のため、朝鮮窒素肥料は水俣で実績がある規
模の設備をいきなり16セット設置することで海軍の需要に応えようとしたのです

そこに無理が生じました。小工場の乱立では操作技手がすぐに足りなくなるとい
う基本的問題を無視していたのです。燃料工場の運転要員として水俣から派遣さ
れたのは以下の通りです。

 1939年10月 6人(経験工は3人)転勤
 1940年初め 20人(経験工はナシ)転勤
 その後   若干名転勤、経験工ナシ

これがすべてです。水俣でも徴兵で人手が足りなかったのです。足りない分は本
宮工場の他部門からの応援、現地採用者でまかない、1942年春に16セットすべて
建設し終わる頃、経験工不足は深刻化し、幼年工の育成を始めています。これで
は経験工3人で運転できた1基は好成績をおさめたとしてもそれ以降は期待できな
いのは誰の目にも明らかです。工場建設と 経験工3人による操作技手養成との競
争でした。半分の8セットが完成した段階で本運転できたのは半分程度でしたし、
全部の16セットが完成した後も 順調に稼動したのは 半分に過ぎませんでした。
(聞書水俣民衆史5 草風館1990)


第11回 再軍備への道

2006-04-04 06:36:07 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 575号 05年04月02日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第11回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第11回 再軍備への道

敗戦以来壊滅状態だった日本航空業界を 蘇らせたのが朝鮮戦争(1950年6月25日
勃発)です。この戦争を契機として、米国の対日政策が大転換、1952年4月9日、
GHQによる「兵器・航空機の生産禁止令」が解除になりました。これにより航
空機産業は自主的に航空機の生産と研究を再開することができたのです。しかし

7年もの禁止期間中、世界の航空機技術は ジェット機に移っていました。そのた
め経験の少ない各社がそれぞれ独自に行なうよりも、むしろ一致協力することが
必要と判断、戦前の航空機メーカーが共同出資して 1953年7月「日本ジェットエ
ンジン株式会社」が設立されました。(日本航空宇宙工業会「日本の航空宇宙工
業戦後の歩み」1985)チッソがオクタノールの生産を始めた時期と重なります。

朝鮮戦争 戦時下の1951年9月、日本はサンフランシスコで,連合諸国と講和条約
を結び独立を果たしましたが、同時に戦後日本の国是「日米同盟(対米追従)」
の基礎となる日米安全保障条約を締結、独立後も日本に米軍が駐留することとな
りました。

安保条約は米軍駐留の「権利」は明記されているのに、日本を守る「義務」は謳
われておらず、駐留米軍の行動目的とその範囲も明確ではないという不平等なも
のでした。

その上で米国は相互安全保障法(MSA)を制定し、それまでの種々の対外援助
をこの法律の下に一本化し、すべて軍事援助中心にすることにしました。日本政
府は53年6月にMSA交渉を米国に申し入れ、9月の日米首脳会談、10月の池田・
ロバートソン会談を経て、翌 54年3月、MSA協定(日本国とアメリカ合衆国と
の間の相互防衛援助協定)を結び、援助を受けるかわりに同盟国としての「極東
の地域防衛」の義務を負うことになったのです。このとき吉田茂・池田勇人と続
く戦後保守内閣は「再軍備化」を国民に納得させるために「工業化による経済成
長」を米国に求めたのです。(中馬清福「密約外交」文春新書2002)

こうして、日本の政治は再軍備へと向かい、まるで憲法にうたわれた戦争放棄と
軍備禁止を嘲笑うかのように、軍備増強がくりかえされていきました。軍国化へ
の道は、戦後の世界政治の力学に押し流されたやむをえない面が確かにありまし
たが、それだけではありません。米国の世界戦略に追従することで物質的利益を
引き出し、経済成長を果たしていこうとする戦後保守政治の基本姿勢は現在でも
続いていて、私たちは、憲法に盛られた崇高な平和の理念を投げ捨てることによ
り、物質的繁栄をはかるという選択を積み重ねてきたといえるでしょう。

1952年に始まったチッソ水俣工場のオクタノール生産も、そのような戦後保守政
治の流れの中に位置づけると違った風景も見えてきます。従来言われてきた「経
済成長に不可欠だった塩化ビニル用可塑剤原料の供給」という解釈は、全体の一
部にすぎません。

チッソに与えられたミッションは「米国の世界戦略に貢献(追従)するという日
本の国是に沿った軍需物資(またはその原料)の提供」ではなかったか。類似の
事例は他にも見つかることでしょう。日本は米国の軍需工場としての役割を果た
すことで、世界の工場となることを米国から担保され、結果として経済成長とい
う果実を得ました。そして、その負の部分はチッソも水俣病患者も含めた「水俣

という地域社会に押し付けられたのです。これが水俣病事件の背景だったのでは
ないかと思われます。その構造は米軍基地を押し付けられている「沖縄」も同じ
です。

その前提にたてば、水俣病関西訴訟一審で秋山武夫通産省軽工業局長(当時)が
「チッソが製造していたアセトアルデヒドの重要さはパルプなどの比ではなく、
操業停止など考えられなかった」と証言した、その意味するところが初めて納得
できるように思えます。


第10回 オクタノール大増産

2006-04-04 06:35:23 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 574号 05年03月30日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第10回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第10回 オクタノール大増産

通産省が「有機水銀説」を斥け、水俣病の原因を曖昧化することに成功した1959
年は、チッソがオクタノールの大増産に踏み切った年でもありました。

    アセトアルデヒド  オクタノール
     (チッソ)   (チッソ)  (他社)
1955年   10,632     3,222    1,781
1956年   15,919     5,469
1957年   18,085     5,689
1958年   19,191     7,802    1,647
1959年   31,921     12,980
1960年   45,244     13,147    1,378
(西村肇、岡本達明「水俣病の科学」日本評論社2001)

その背景には通産省の第二次石油化計画の存在があるといわれています。計画に
沿ってチッソも石炭を原料とする水俣工場を廃棄し、石油を原料とする新工場を
千葉県五井に建設することになったのです。その新工場建設資金捻出のため、オ
クタノールを大増産したというわけです。水俣病裁判でチッソ専務・徳江毅が証
言し、通説となっています。

しかし、私はその説に納得いかないのです。

1959(昭和34)年11月に発足した「不知火海漁業紛争調停委員会」に、熊本県知
事・寺本は福岡通産局長・川瀬健治をオブザーバーに加えています。その理由は
チッソが あまりに通産省の意向を 気にしていたからでした。斡旋の最終段階で
チッソが補償金額を呑んだのは川瀬が「それでいいだろう」と言ったからでした

(水俣病裁判・寺本証言)

このことからチッソはこの時点で既に当事者能力を失っていて、とても自主的な
判断で オクタノール増産を決めたとは思えません。増産は 通産省の強い指導が
あってのことでしょう。通産省が原因の曖昧化を図りつつ、被害補償の調停を仕
切り、問題工場の増産まで指示した理由が「一民間企業の新工場の資金調達」だ
ったとは考えられません。59年4月には三菱化成がオキソ法オクタノール工場の
建設に着手、翌年3月に完成しているのです。通産省はもう可塑剤原料として評
価の低いチッソのオクタノールを特別扱いする理由はありません。

チッソのオクタノールが塩化ビニル可塑剤ではなく、ジェット燃料潤滑油の原料
だったとすると、この時期のオクタノール増産の意味は何でしょう?

国内では通産省と防衛庁が欧米に立ち遅れたジェットエンジン工業を育てるため

エンジンも国産化する方針を決定、1955(昭和30)年に防衛庁の単発エンジン型
T1ジェット中間練習機の国産開発計画がスタートしました。開発エンジンはJ3
と命名され、防衛庁向けに7台のエンジンを製造、1959年8月までに防衛庁が寒冷
地試験・空中試験を含むほぼ全部の試験を完了しました。

同時に技術導入によるジェットエンジンの国産化も始まっていました。石川島重
工が、米GE社の技術を導入して朝鮮戦争で米軍が使用したT33戦闘機に搭載さ
れたエンジンJ47 の部品製造に着手。1959年1月、J47 部品の試作品を 米国製
J47エンジンに組み込み、防衛庁 立川第三研究所(東京)でわが国最初の150時
間連続運転を行い、4月から本格的量産に入ったのです。

7月には量産型の試作機YJ3-3の一号機を防衛庁に納入、試運転と改良を繰り返
し、ついに三号機が ジェット中間練習機に搭載されました。そして1960年5月17
日、富士重工宇都宮飛行場で初飛行に成功、戦後初の純国産ジェット機が誕生し
ました。(石川島播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)このようにチッ
ソのオクタノール増産は国産ジェットエンジン開発の歩みと同一歩調をとってい
ます。

一方 国際情勢に目を転じると、1959年1月、キューバのバティスタ大統領(米国
の傀儡政権)がドミニカ共和国へ逃亡、カストロ率いる革命政権が誕生しました

しかし、米国はそれを認めず経済封鎖による孤立化を謀りました。カストロは対
抗策としてソ連に接近、ソ連のフルシチョフ首相はキューバに中距離ミサイル配
備を計画、その後ミサイルの撤去を巡って米ソが対立、核戦争の一歩手前となる
「キューバ危機」につながっていったのです。

1960年12月、石川島重工と播磨造船所が合併、同時に航空エンジン事業部が発足
しました。発足に際し、事業部長・永野治は次のように語りました。

「航空工業の世界各国での目覚しい進歩は ほとんど軍用機開発によって基礎を
作られたもので、国家の存亡を賭けた要請によって大きな経済的庇護がこれを
可能にしたのである。
  戦後の日本ではこの恩典は全く望めない状況となった。それにもかかわらず
 我々は一種の悲願としてこの分野の開発に乗り出した。前途はまことに多難で
 ある。そこで我々のこれに処する考えを次のようにまとめた。
  第一は、対象をガスタービンないしジェットエンジンに限る。第二は日本で
 は望めない開発努力の成果を先進の外国から導入する。第三には当面の確定需
 要先である防衛庁の開発装備計画に全面的に協力することである。」(石川島
 播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)

第9回 ジェット燃料は米軍が独占

2006-04-04 06:34:22 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 573号 05年03月28日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第9回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第9回 ジェット燃料は米軍が独占

チッソが作ったオクタノールを原料に、米国グッドリッチあるいはモンサントの
技術を利用して合成したと考えられる潤滑油を含むジェット燃料はすべて米軍が
独占していました。航空自衛隊は米軍の言い値で売ってもらうしかなかったので
す。

日本政府は航空自衛隊発足に当たり、米国からジェット戦闘機を購入(1954年度)

防衛庁の前身である保安庁 長官官房長・上村健太郎は1955年4月から使用する計
画であることを明言しました。(1954.2.25 衆院予算委員会第一分科会)ところ
が、同じ保安庁の経理局長・石原周夫は「1954年度は要員の確保をしていない」
と発言、横路節雄(社会党)はその矛盾を指摘しました。「55年4月 からジェッ
ト機を飛ばそうというのなら、54年度中にパイロットも整備士も訓練しておかな
いといけない。その予算を確保してなくてどうやって 55年4月からジェット機を
飛ばせるのだ」というわけです。さらにジェット戦闘機の維持費を既に購入して
いる練習機から見積もって5千万円と答弁する経理局長に、横路は政府の内部資
料を入手していたのか「練習機とジェット戦闘機は違う。一億円はかかる」と反
論、石原も一億円という試算結果があることを認めました。

経済成長前の当時の日本に、ジェット戦闘機の維持・管理は重荷だったことでし
ょう。運用する予定がない前提の予算案からジェット戦闘機は米国から売りつけ
られたものであったことが読み取れます。

それだけではありません。その燃料も米軍が独占していて、航空自衛隊の自由に
なるジェット燃料は一滴もなかったのです。米軍は日本人パイロットの訓練費用
として「どんぶり勘定」で日本政府に請求していたのです。1955(昭和30)年7
月25日の衆院大蔵委員会で明らかになりました。

横路節雄「防衛庁の装備局長の方では、航空用燃料については初めから税金がか
からないんだ、こう言う。なぜかからないんだと聞いたら、いやあれは自分で持
っておるものではないのだ。アメリカに全部委託して、そうしてアメリカの航空
燃料を使っているから、だから税金がかからないというお話しだ。」

防衛庁装備局長・久保亀夫「米軍の指導の下、T33(現代ジェット戦闘機の祖

朝鮮戦争後練習機となった)を築城基地(ついき・福岡県)で訓練しているが、
この基地の管理一切は米軍が行なっており、費用は適当な割合で日本側に請求さ
れる。その中にジェット燃料費もたまたま含まれている。」と説明、横路は重ね
て、「航空自衛隊は燃料を民間業者から買わず、米軍の燃料を使っているのだろ
う。」と質問しています。

久保は「米軍の燃料は訓練の場合のみ使用していて、通常は指名競争入札で民間
業者から購入している」と反論していますが、横路から燃料の購入量を聞かれて
辻褄が合わなくなっていきます。

航空燃料使用量の29年度実績は海上自衛隊、航空自衛隊併せて約1万キロリット
ルに対し、30年度予算に3万キロリットル(差額は2億5千万円)を要求していて、
横路に3倍増の根拠を示せと迫られました。久保は練習機、実用機とも「相当」
増えるので、燃料も「相当」増えるのだと回答、横路に「相当」では根拠になら
ないと具体的回答を要求され、久保は立ち往生しています。

ところが昭和31年4月9日衆院決算委員会では「ジェット燃料は米軍から1キロリ
ットル1万円で購入している。国内調達はまだきわめて部分的で、一万五、六千
円から七、八千円程度の間になる」と防衛庁装備局管理課長・竹田達夫がジェッ
ト燃料は米軍からの購入がお得であると答弁しています。米軍がそんなにディス
カウントしてくれていたとは驚きですが、ともあれ前年の装備局長・久保の「ジ
ェット燃料の調達は通常は指名競争入札」発言はその場しのぎの言い逃れだった
ことがわかります。

ここで明らかになったのは、この時代、ジェット燃料を含む航空燃料はすべて米
軍が牛耳っていたということです。それほどジェット燃料を含む航空燃料は重要
な軍需物資だったということが類推されます。

第8回 日本では作れなかった航空燃料潤滑油

2006-04-04 06:33:33 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 572号 05年03月26日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第8回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第8回 日本では作れなかった航空燃料潤滑油

日本ではジェット燃料用潤滑油を作ることができたのでしょうか? 戦前の航空
燃料潤滑油の製造技術について、防衛庁 防衛研修所 戦史室「陸軍航空兵器の開
発・生産・補給」(東雲新聞社1975)に次の記述があります。

「シナ事変(日華事変)以後、航空潤滑油の供給は 米国からの輸入にすべてを
 依存しており、1938(昭和13)年度末まで生産は皆無であった。航空機の発達

 航空戦力の充実は逐次、航空潤滑油の需要を増大し、国内自給対策の必要がよ
 うやく盛んになっていた。」

と作っていたのかいなかったのかわからない、ぼかした表現になっています。
「三井東圧化学社史」には次の記載があります。

「航空機などに使われる高級潤滑油は フィッシャー法により生成する含蝋(が
 んろう)油を熱分解した後、塩化アルミニウムで重合する方法の他、動植物油
 脂からの製造計画が推進された。」

この動植物由来の潤滑油は二階堂が国会で語ったジェット燃料用潤滑油と同じも
のではないかと思われます。

「三井化学は、昭和16年7月には目黒研究所でフィッシャー法合成油を原料にし
 て高オクタン価ガソリン製造試験装置、ならびに潤滑油製造試験装置を建設す
 ることを決定した。」
 
と三井化学は植物由来ではなく、合成油由来で潤滑油を生産することにしました

「三井東圧化学社史」ではさらに、

「太平洋戦争緒戦の勝利で 南方原油確保の見通しがついたため、人造石油増産
 は見送られ、代わって南方原油からは得にくい航空機用燃料、潤滑油の生産が
 求められました。」
 
とますます航空機用燃料と潤滑油の需要が高まっていたことを伝えています。

ところが、1942(昭和17)年10月13日付東京日日新聞は「スマトラの現実を語る

莫大な農鉱物資源」と題して、大東亜共栄圏の各地へ物資を補給せねばならぬス
マトラ島(インドネシア)の役目は重大だとする座談会の様子を伝えています。
その中で、昭南護謨(ゴム)組合業務部長の高木三郎は「潤滑油の問題が一時論
議されたようだが莫大なパーム油の生産を確保したのだからもう心配はない、ひ
まし油よりうんと良質の潤滑油をどんどん造らねばならぬ」と語り、航空用潤滑
油を巡って合成油由来か植物油脂由来かのビジネス争奪戦があったことが伺えま
す。

しかしながら、ついに航空機用潤滑油の生産はどちらも旨くいかなかったようで
す。三井東圧化学社史は次のように締めくくっています。

「昭和18年1月には 軍ならびに商工省の要請に応えて航空機用潤滑油 年産2797
 トン、一般用潤滑油 年産1199トン設備の 新設を決定したが、終戦までに操業
 するには至らなかった。」

航空機用潤滑油の供給体制が終戦までついぞできなかったことと米国巨大塩化ビ
ニル・可塑剤メーカーであるグッドリッチとモンサントの日本進出には何か関連
があるのでしょうか。

可塑剤と潤滑油とは構造的に非常に似通ったものであり、グッドリッチ、モンサ
ントはともに可塑剤、潤滑油分野でも米国のトップメーカーでした。その両社が
ともに占領下の日本に あいついで異例の進出を 決断したのも、日本の技術では
ジェット燃料用などの高級潤滑油を生産する技術がなかったからなのかもしれま
せん。

グッドリッチは1949年4月に 日本へ市場調査団を派遣した結果、「日本で塩化ビ
ニル樹脂をつくるのは4-5年早くグッドリッチ製品を輸入して日本で加工する
のが妥当」と日本進出見送りの結論を出していました。日本市場に魅力を感じて
いなかったのです。ところが同年11月にはそれまでの慎重姿勢を一転、提携が一
挙にまとまったのです。

しかも、グッドリッチ側は、「日本で使用する限り、計画中の塩化ビニル樹脂と
その可塑剤について将来発生する特許使用権すべてを新会社に与えること、技術
者の指導育成、採用機器のアメリカ及び日本での調達についての援助」などを約
束するという破格の譲歩を示しているのです。さらに、「日本において、ノルマ
ルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタル酸を原料にできるはず
であるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提供する。」とチッソのオ
クタノールに期待している一文があることも見逃せません。(「ゼオン五十年の
あゆみ」)

グッドリッチ態度急変の理由を「あゆみ」は語っていません。しかし、グッドリ
ッチの「日本進出見送り」から「古川電工との提携合意」に至る半年の間に、米
国にとってショッキングな出来事が2つもあったのです。

ひとつは 49年9月のソ連による原爆実験の成功。もうひとつは10月の中華人民共
和国の建国、すなわちレッドチャイナの誕生です。絶対的な破壊力をもつ核兵器
の独占状態が崩れたことに加え、同盟関係にある蒋介石政権の「台湾落ち」は米
国にとって大きな痛手で、軍事戦略と兵器体系の再編を迫る危機だったのです。
(太田昌克「731免責の系譜」日本評論社1999)