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世界の環境ホットニュース[GEN] 577号 05年04月07日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第13回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第13回 航空燃料工場の致命的問題
竜興工場の製造課長だった大島幹義は工場の問題点を次のように記しています。
「アセトアルデヒドの製造技術は日本窒素 水俣工場で1930年に完成し、その後
改善を重ねてきたものであり、担当技術者並びに熟練工員を移駐して建設と運
転に当たらせたので1941年に第一号基を完成して運転を開始した時は直ちに計
画値に達するという好成績を収めた。しかし、運転基数が漸次増加するに従っ
て成績が低下し故障頻発、戦争末期にはイソオクタン製造工程中で最も弱い工
程になってしまった。最も確実と見透された工場が最後には最悪の成績になっ
たことは大きな教訓であった。」
「まず第一に考えられることは日産150トンの生産計画に対して日産10トン設備
16基もおいたことだろう。日産 20-40トン規模の工場ならば一基能力10トンが
適当である。また多年の年期を入れた工員のみで構成されていた水俣工場なら
ば可能であったかもしれない。アセトアルデヒド工場の運転はかなりの熟練を
必要とした。」(大島幹義「プロセス工学」1959年 化学工業社)
朝鮮のアセトアルデヒド工場が最後に自滅した理由は「植民地」という制度自体
に求めることができます。
興南工場の運転は当初日本人のみで行なうとものとされ、朝鮮人の仕事は人夫と
雑役ばかりでした。しかし、日中戦争以降、朝鮮人工員が激増、敗戦時には工員
の8割に達しました。それでも工場の支配機構は最後まで完全に日本人が握って
いました。賃金、住居など待遇面でも格差は激しく、日本人であればバカでも支
配民族の一員であり、日本人による朝鮮人への武力は容認されていて、抵抗する
朝鮮人は即座に解雇されました。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はど
こまでも劣る民族である必要があり、「朝鮮人をみたら・・・と思え」と教えら
れました。これが植民地の工場の実態でした。
このような民族関係によって成立している工場で、運転工の主体的能動的な熟練
を要する部門はどうなったのでしょうか? このようなどうしようもない差別・
格差社会では朝鮮人は日本人の目を盗んでサボることだけを考えていました。そ
れが朝鮮人をさらに見下す理由にもなっていましたが、敗戦後日本人と朝鮮人の
立場が逆転すると日本人もまたサボることだけを考えるようになっていたのです
。
この植民地支配制度そのものが朝鮮での航空燃料工場自滅の要因となる「熟練工
不足」の原因でした。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
大島はもうひとつの問題も指摘しています。
「アセトアルデヒド製造では触媒水銀の消費量は全運転になると 年間百トンに
達し、日本の水銀産出量の過半を費やしてしまうことになることも大問題であ
った。」
真珠湾攻撃大勝利のウラではこのような致命的問題を抱えていたのです。さらに
年間百トンの水銀消費といっても水銀が消えてなくなるわけではありません。水
銀は廃水とともに海に捨てられていました。
竜興工場で働いていた工員のひとりは次のように語っています。
「朝鮮でも金属水銀が精留塔プレートに溜まりましたよ。それやこれやで1セッ
ト連続運転できるのがせいぜい3週間。いつもどこかのセットがとまっていた。
プレートの水銀回収は日勤の仕事だった。排水溝の水銀なんか回収しなかった
。
そんなことさせる人間が居りゃせんです。」
「廃液は最初のうちは全部垂れ流しました。大きな排水溝を作って 城川江に流
した。城川江から海に行く。あとでマンガン回収工場ができてからは金属水銀
を回収した。でも故障も多かったし、何やかやで廃液は相当垂れ流しとるです
」
(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
世界の環境ホットニュース[GEN] 577号 05年04月07日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第13回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第13回 航空燃料工場の致命的問題
竜興工場の製造課長だった大島幹義は工場の問題点を次のように記しています。
「アセトアルデヒドの製造技術は日本窒素 水俣工場で1930年に完成し、その後
改善を重ねてきたものであり、担当技術者並びに熟練工員を移駐して建設と運
転に当たらせたので1941年に第一号基を完成して運転を開始した時は直ちに計
画値に達するという好成績を収めた。しかし、運転基数が漸次増加するに従っ
て成績が低下し故障頻発、戦争末期にはイソオクタン製造工程中で最も弱い工
程になってしまった。最も確実と見透された工場が最後には最悪の成績になっ
たことは大きな教訓であった。」
「まず第一に考えられることは日産150トンの生産計画に対して日産10トン設備
16基もおいたことだろう。日産 20-40トン規模の工場ならば一基能力10トンが
適当である。また多年の年期を入れた工員のみで構成されていた水俣工場なら
ば可能であったかもしれない。アセトアルデヒド工場の運転はかなりの熟練を
必要とした。」(大島幹義「プロセス工学」1959年 化学工業社)
朝鮮のアセトアルデヒド工場が最後に自滅した理由は「植民地」という制度自体
に求めることができます。
興南工場の運転は当初日本人のみで行なうとものとされ、朝鮮人の仕事は人夫と
雑役ばかりでした。しかし、日中戦争以降、朝鮮人工員が激増、敗戦時には工員
の8割に達しました。それでも工場の支配機構は最後まで完全に日本人が握って
いました。賃金、住居など待遇面でも格差は激しく、日本人であればバカでも支
配民族の一員であり、日本人による朝鮮人への武力は容認されていて、抵抗する
朝鮮人は即座に解雇されました。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はど
こまでも劣る民族である必要があり、「朝鮮人をみたら・・・と思え」と教えら
れました。これが植民地の工場の実態でした。
このような民族関係によって成立している工場で、運転工の主体的能動的な熟練
を要する部門はどうなったのでしょうか? このようなどうしようもない差別・
格差社会では朝鮮人は日本人の目を盗んでサボることだけを考えていました。そ
れが朝鮮人をさらに見下す理由にもなっていましたが、敗戦後日本人と朝鮮人の
立場が逆転すると日本人もまたサボることだけを考えるようになっていたのです
。
この植民地支配制度そのものが朝鮮での航空燃料工場自滅の要因となる「熟練工
不足」の原因でした。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
大島はもうひとつの問題も指摘しています。
「アセトアルデヒド製造では触媒水銀の消費量は全運転になると 年間百トンに
達し、日本の水銀産出量の過半を費やしてしまうことになることも大問題であ
った。」
真珠湾攻撃大勝利のウラではこのような致命的問題を抱えていたのです。さらに
年間百トンの水銀消費といっても水銀が消えてなくなるわけではありません。水
銀は廃水とともに海に捨てられていました。
竜興工場で働いていた工員のひとりは次のように語っています。
「朝鮮でも金属水銀が精留塔プレートに溜まりましたよ。それやこれやで1セッ
ト連続運転できるのがせいぜい3週間。いつもどこかのセットがとまっていた。
プレートの水銀回収は日勤の仕事だった。排水溝の水銀なんか回収しなかった
。
そんなことさせる人間が居りゃせんです。」
「廃液は最初のうちは全部垂れ流しました。大きな排水溝を作って 城川江に流
した。城川江から海に行く。あとでマンガン回収工場ができてからは金属水銀
を回収した。でも故障も多かったし、何やかやで廃液は相当垂れ流しとるです
」
(聞書水俣民衆史5 草風館1990)