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管理人 まりあっち

第14回 チッソ技術者の入れ替わり

2006-04-12 11:37:28 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 578号 05年04月10日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第14回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第14回 チッソ技術者の入れ替わり

水俣工場は1945年の空襲で大打撃を受け、敗戦により日本窒素肥料(現チッソ)
は航空燃料を作っていた朝鮮窒素肥料を含むすべての海外資産を失い、さらに財
閥解体により旭化成、積水化学などが独立、水俣工場だけが残されました。そこ
へ植民地朝鮮から支配者意識をもった、技術については誇り高い、朝鮮窒素の技
術者たちが引き揚げてきたのです。彼らは水俣工場の中枢を占め、産業経済の復
興という新しい国策に沿って生産をあげ、水俣を支配し続けることになったので
す。1946(昭和21)年2月、アセトアルデヒド工場が 再開されましたが、その再
開と同時に、当のアセトアルデヒド工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七は
引き揚げ組に追い出される形で徳山工場建設所長に転出させられ、やがて退職し
てしまいました。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」)退職した橋本は1950年の水
俣市長選挙でチッソ労働組合の支援を受け当選しましたが、一時期食うにも事欠
く有り様だったといいます。(西村肇, 岡本達明「水俣病の科学」日本評論社)

1945年8月末にはチッソを含む全国の軍需会社は その指定を解除され、経営者は
軍需会社生産責任者を解任されるとともに、降格または追放されました。米国の
日本に対する賠償政策の基本的な方針は(1)平和的日本経済ないし占領軍に対
する補給にとって 必要でない物資、設備、施設、(2)日本の在外資産の全部、
を連合国当局の決定に従って戦勝国及び被害関係国に引き渡すというものでした

(三井東圧化学社史)

翌46年2月、チッソでは アセトアルデヒドの生産が再開されますが、アセトアル
デヒド酢酸工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七が左遷されたのもこの頃で
す。これと入れ替わりに水俣工場を支配したのが朝鮮で航空燃料などを生産して
いた引き揚げ組でした。

しかし、47年に入ると米国の対日政策に変化が見られるようになりました。中国
共産党の成立、米ソの対立が次第に明らかになるにつれ、賠償問題も大幅に緩和
されることになったのです。米国は日本を工業化、再軍備化して共産主義に対す
る防衛線にしようとしたのです。

48年3月、ドレーパー賠償 調査団が来日、日本経済の早期自立のために賠償問題
を再検討し、賠償総額を 6億6千万円余とポーレー案の1/4に減額、しかも5億6千
万円は旧陸海軍工廠の施設を充当し、重化学工業設備のほとんどを賠償から除外
するというものでした。こうして賠償指定工場の多くは撤去を免れ復旧と生産拡
大に専心することができるようになったのです。

工業化には資金とエネルギーが必要です。第一次吉田茂内閣は、傾斜生産、つま
り主要産業(この場合1946年には食糧・石炭産業、翌年にはそれに加えて鉄鋼・
肥料産業)と特定企業に超重点的に、エネルギー源である石炭を配分、資金は復
興金融公庫から融資しました。

その過程で昭和電工疑獄事件が起こりました。チッソと昭和電工はともに戦前に
は化学肥料や爆薬を生産し、戦後はアセトアルデヒド工場廃水から水俣病、新潟
水俣病を発生させるというよく似た生い立ちをたどった会社です。昭和電工は巨
額の復興資金を引き出すために政府高官、GHQ高官に莫大なワイロを贈り、昭
和電工1社で復興資金の半分にあたる30億円を獲得してしまったのです。

チッソには復興資金をめぐる黒い噂はありません。その代わりにかつての日窒コ
ンチェルンの栄光再現を夢見て、米軍が必要とする軍需物資の生産を引き受けた
のではなかったでしょうか。

そして1950年6月、朝鮮戦争が勃発。翌1951年、チッソ水俣工場の アセトアルデ
ヒド工場でプロセスの変更が行なわれました。既に会社の中枢を占めていた「引
き揚げ組」はそれまでのアセトアルデヒドの蒸発・蒸留方式と触媒を変更したの
ですが、これが大誤算、故障続きのあげく、劇症型水俣病を発生させてしまいま
した。

水俣工場でのオクタノールの生産開始は朝鮮戦争の最中1952年9月のことでした。