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世界の環境ホットニュース[GEN] 576号 05年04月04日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第12回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第12回 オクタノール生産技術の源流
チッソが10年に亘り 市場を独占した というユニークなオクタノール製造技術を
チッソ技術陣は どこで獲得したのでしょうか? 戦後の特殊用途のひとつがジェ
ット燃料用潤滑油原料でしたが、その技術の源流もまた戦前の航空燃料用途でし
た。
1935 年頃、軍用航空燃料に100オクタン(オクタン価 100)が要求されるように
なりました。オクタン価とはエンジンで安定的に燃焼させることができる燃料の
指標で、ガソリンの「ハイオク」は高オクタン価ガソリンの略です。当時、欧米
では戦闘機の高速化が進められ、日本海軍も1934(昭和9)年の次期 艦上戦闘機
の設計に際し、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めまし
た。これが後に太平洋戦争の花形戦闘機ゼロ戦へと繋がっていきます。戦闘機の
高速化に対応するためには燃料にも技術革新が求められました。それまでの戦闘
機用92オクタン価ガソリンにイソオクタンを混入することで達成されるのですが
、
分解ガソリン製造時の廃ガスの成分を利用してイソオクタンを作っていた米国と
比べ、石油精製規模が小さい日本では 同じ方法では 必要量を確保できません。
そこで、海軍は アセチレン→アセトアルデヒド→ブタノール→イソオクタン と
いう一連の合成プロセスを設計したのです。これが戦後のチッソ水俣工場のオク
タノール製造プロセスの原型となります。
海軍は3ヶ所(台湾、三重県四日市、朝鮮)にブタノールからのイソオクタン製
造工場を建設しました。計画では朝鮮窒素肥料竜興工場のイソオクタン航空燃料
生産能力は 年産1.8万トンで、そのためには原料となるアセトアルデヒドは5万
2千トンも必要でした。戦後、水俣工場の最大生産量が1960年の4万2千トンで
したから、いかに壮大な計画だったかがわかります。
朝鮮窒素肥料竜興工場では日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場でこのとき既に稼
動していた当時最大規模の五期アセトアルデヒド製造設備と同規模の設備を作る
ことで対応しようとしました。ところが、海軍の計画数量があまりにも膨大だっ
たため水俣五期製造設備を16セットも並立させるという無茶な構成になってしま
いました。(飯島孝「技術の黙示録」技術と人間社1996)
航空燃料(イソオクタン)工場は興南・本宮工場の中にある竜興工場という秘密
軍需工場でした。そのためアセトアルデヒド工場がND、ブタノール工場がNB
、
イソオクタン工場がNAなどと符牒で呼ばれていました。門が二重になっていて
燃料工場の前には憲兵が立っていました。アセトアルデヒド工場は まず2基がで
きて、試運転は1941(昭和16)年9月に 工場長以下上層部が全部立ち会って行な
われました。午前10時から始めて昼前にはアセトアルデヒドがでて、全員で万歳
しました。真珠湾攻撃の 3ケ月前のことで、燃料工場が成功したので海軍が日米
開戦を決めたと聞いたと工員は語っています。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
航空燃料イソオクタンは翌年5月に初めて産出されました。
しかし、問題はこの直後から表面化しました。通常は工場の操業経験を踏まえて
、
次第に生産規模の大きい工場に建て替えていくものなのですが、開戦に備え航空
機燃料の生産を急ぐという非常事態のため、朝鮮窒素肥料は水俣で実績がある規
模の設備をいきなり16セット設置することで海軍の需要に応えようとしたのです
。
そこに無理が生じました。小工場の乱立では操作技手がすぐに足りなくなるとい
う基本的問題を無視していたのです。燃料工場の運転要員として水俣から派遣さ
れたのは以下の通りです。
1939年10月 6人(経験工は3人)転勤
1940年初め 20人(経験工はナシ)転勤
その後 若干名転勤、経験工ナシ
これがすべてです。水俣でも徴兵で人手が足りなかったのです。足りない分は本
宮工場の他部門からの応援、現地採用者でまかない、1942年春に16セットすべて
建設し終わる頃、経験工不足は深刻化し、幼年工の育成を始めています。これで
は経験工3人で運転できた1基は好成績をおさめたとしてもそれ以降は期待できな
いのは誰の目にも明らかです。工場建設と 経験工3人による操作技手養成との競
争でした。半分の8セットが完成した段階で本運転できたのは半分程度でしたし、
全部の16セットが完成した後も 順調に稼動したのは 半分に過ぎませんでした。
(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
世界の環境ホットニュース[GEN] 576号 05年04月04日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第12回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第12回 オクタノール生産技術の源流
チッソが10年に亘り 市場を独占した というユニークなオクタノール製造技術を
チッソ技術陣は どこで獲得したのでしょうか? 戦後の特殊用途のひとつがジェ
ット燃料用潤滑油原料でしたが、その技術の源流もまた戦前の航空燃料用途でし
た。
1935 年頃、軍用航空燃料に100オクタン(オクタン価 100)が要求されるように
なりました。オクタン価とはエンジンで安定的に燃焼させることができる燃料の
指標で、ガソリンの「ハイオク」は高オクタン価ガソリンの略です。当時、欧米
では戦闘機の高速化が進められ、日本海軍も1934(昭和9)年の次期 艦上戦闘機
の設計に際し、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めまし
た。これが後に太平洋戦争の花形戦闘機ゼロ戦へと繋がっていきます。戦闘機の
高速化に対応するためには燃料にも技術革新が求められました。それまでの戦闘
機用92オクタン価ガソリンにイソオクタンを混入することで達成されるのですが
、
分解ガソリン製造時の廃ガスの成分を利用してイソオクタンを作っていた米国と
比べ、石油精製規模が小さい日本では 同じ方法では 必要量を確保できません。
そこで、海軍は アセチレン→アセトアルデヒド→ブタノール→イソオクタン と
いう一連の合成プロセスを設計したのです。これが戦後のチッソ水俣工場のオク
タノール製造プロセスの原型となります。
海軍は3ヶ所(台湾、三重県四日市、朝鮮)にブタノールからのイソオクタン製
造工場を建設しました。計画では朝鮮窒素肥料竜興工場のイソオクタン航空燃料
生産能力は 年産1.8万トンで、そのためには原料となるアセトアルデヒドは5万
2千トンも必要でした。戦後、水俣工場の最大生産量が1960年の4万2千トンで
したから、いかに壮大な計画だったかがわかります。
朝鮮窒素肥料竜興工場では日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場でこのとき既に稼
動していた当時最大規模の五期アセトアルデヒド製造設備と同規模の設備を作る
ことで対応しようとしました。ところが、海軍の計画数量があまりにも膨大だっ
たため水俣五期製造設備を16セットも並立させるという無茶な構成になってしま
いました。(飯島孝「技術の黙示録」技術と人間社1996)
航空燃料(イソオクタン)工場は興南・本宮工場の中にある竜興工場という秘密
軍需工場でした。そのためアセトアルデヒド工場がND、ブタノール工場がNB
、
イソオクタン工場がNAなどと符牒で呼ばれていました。門が二重になっていて
燃料工場の前には憲兵が立っていました。アセトアルデヒド工場は まず2基がで
きて、試運転は1941(昭和16)年9月に 工場長以下上層部が全部立ち会って行な
われました。午前10時から始めて昼前にはアセトアルデヒドがでて、全員で万歳
しました。真珠湾攻撃の 3ケ月前のことで、燃料工場が成功したので海軍が日米
開戦を決めたと聞いたと工員は語っています。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)
航空燃料イソオクタンは翌年5月に初めて産出されました。
しかし、問題はこの直後から表面化しました。通常は工場の操業経験を踏まえて
、
次第に生産規模の大きい工場に建て替えていくものなのですが、開戦に備え航空
機燃料の生産を急ぐという非常事態のため、朝鮮窒素肥料は水俣で実績がある規
模の設備をいきなり16セット設置することで海軍の需要に応えようとしたのです
。
そこに無理が生じました。小工場の乱立では操作技手がすぐに足りなくなるとい
う基本的問題を無視していたのです。燃料工場の運転要員として水俣から派遣さ
れたのは以下の通りです。
1939年10月 6人(経験工は3人)転勤
1940年初め 20人(経験工はナシ)転勤
その後 若干名転勤、経験工ナシ
これがすべてです。水俣でも徴兵で人手が足りなかったのです。足りない分は本
宮工場の他部門からの応援、現地採用者でまかない、1942年春に16セットすべて
建設し終わる頃、経験工不足は深刻化し、幼年工の育成を始めています。これで
は経験工3人で運転できた1基は好成績をおさめたとしてもそれ以降は期待できな
いのは誰の目にも明らかです。工場建設と 経験工3人による操作技手養成との競
争でした。半分の8セットが完成した段階で本運転できたのは半分程度でしたし、
全部の16セットが完成した後も 順調に稼動したのは 半分に過ぎませんでした。
(聞書水俣民衆史5 草風館1990)