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学んでいきます。

管理人 まりあっち

水俣秘密工場  第7回 ひまし油の行方

2006-03-25 09:31:18 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 571号 05年03月24日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第7回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第7回 ひまし油の行方

 チッソ水俣工場のオクタノールは米軍のジェット燃料用潤滑油原料に使われて
 いた。

これが私のたどりついた仮説です。チッソ水俣工場で作られたオクタノールのう
ち、チッソ自身が可塑剤DOP原料として自家消費していたオクタノールは約3
割で、残りは外販されていました。外販先に三建化工、三菱モンサントがあった
ことがわかっています(三菱モンサント化成三十年史)が、それで全てかどうか
は不明です。

さて、ひまし油の主成分はリシノール酸で、これをアルカリ熱分解することで二
塩基性酸であるセバシン酸と高級アルコールであるオクタノール各1分子が得ら
れます。二階堂がいうジェット戦闘機用潤滑油とはセバシン酸にオクタノール2
分子を化合(エステル化)させた物質だと思われます。

リシノール酸    CH3(CH2)5CHCH2CH=CH(CH2)7COOH
                  |
                  OH
                  
セバシン酸     HOCO-C8H16-COOH

オクタノール               HO-C8H17

潤滑油(DOS)  C8H17-OCO-C8H16-COO-C8H17

今回は潤滑油のもうひとつの原料であり、かつ米国が買い占めて入手困難だった
というひまし油が当時の日本にあったのかを検証します。

1949年運輸省不正払い下げ事件に関する国会審議でひまし油が登場します。1947
年4月、ひまし油二千七百リツトルが一万四千四百三十七円五十銭で払い下げら
れています。(1949.6.27衆院考査特別委員会)

1949年11月には 油糧配給公団をめぐる不正事件で、公団が 配給価格を調整した
り、保管料、保険料名目で中間マージンをピンハネしていたことが発覚。その資
金の使途として 学童にひまし油の集荷 奬励費という名目が上げられています。
(1949.11.11衆院考査特別委員会)

ウラ金を作っておいて、その使途が子供へのお小遣いだとはかなり苦しい言い訳
ですが、このときには、ひまし油の集荷が行なわれていたことがわかる貴重な証
言です。戦後しばらくは国有財産、配給物資をめぐる不正事件が頻発しています


1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると油脂統制令が解除になり、動植物油脂から爆
薬用グリセリンの生産が再開され、油脂の輸入が急増しますが、ひまし油は例外
だったようです。

1952年3月20日の衆院経済安定委員会では、ひまし油が逼迫してきた状況の中、
さらに輸出されようとしている状況が示されています。

 「たとえばただ天災地変とか、こうした異常の状態でなくても、何かの事情で
 相当慢性的に足りないような物資がある。先般も政府内で問題になったのです
 が、たとえばひまし油は現在需給の量から見ても必ずしも十分でない、あるい
 はアマニ油なんかもそうですが、こういう類のものは、むしろ逆に輸出すると
 いうような考え方が、搾油業者を中心として相当強く政府の内部に反映してお
 つた。御承知の通りにひまし油にしてもあるいはあまに油にしても、ほとんど
 これは外国から輸入しなければならないものだ、しかも需給推算から見て、こ
 のものはここ何箇月しかないという状態のものであります。それをあべこべに

 ことにひまし油のごときは、これを逆輸出するというようなことが、相当問題
 となつて、輿論をさわがしておるのであります。」(質問者・中崎敏)

 「たとえばひまし油のごときは足りないと言うが、もうないのです。一部の業
 者が、今にひまし油がなくなるからというので、しこたま買いだめして、売り
 惜しみしておる、今度はそれでさえも外国へ輸出して、国内に少くなつたら、
 ぱつともうけて行こう。こういうようなことではとてもこれを使つて行くとこ
 ろの生産業は脅威を受けるような結果になる。」(同上 1952.3.25 衆院経済
 安定委員会)

ところがチッソがオクタノールの工業化に成功した後の1953年になると状況に変
化が見られます。(1953.9.4参院農林委員会)ひまし油の輸入があったようです

食糧庁業務第二部油脂課長・長尾正が工業用油脂として、なたね(四千トン)、
タロー(九万六千トン)、椰子油(一万九千トン)、亜麻仁油、ひまし油といっ
た「外国産のものを入れて」と言明しています。ひまし油の輸出入統計をみれば
さらに詳しくわかることでしょう。

さらに、水俣病の原因を巡って通産省と他省庁が鋭く対立していた 1958年 9月、
小倉合成工業(福岡県北九州市)でリシノール酸の分解設備が完成していますの
で、当時米国が独占していたはずのひまし油が輸入され、国内でセバシン酸の供
給体制があったことは間違いありません。小倉合成工業は戦時中には爆薬原料の
ソルビットを生産していた海軍の管理工場でした。(小倉合成工業HPより)

この年8月には通産省が内部文書で「水俣病の原因が完全に究明されるまで対策
はとらず生産を続けさせる」ことを確認しています。(宮澤信雄「水俣病事件四
十年」葦書房1991)

通産省は朝鮮戦争勃発を機に爆薬の供給能力整備を検討、日本油脂武豊工場(愛
知県)、三菱化成穴生工場(福岡県)、三井化学 早鐘工場(福岡県)で月産500
トンのTNT火薬の生産を計画していましたが、朝鮮戦争停戦に伴い需要が激減

自衛隊発足でも需要が伸びず、爆薬事業の挫折が明らかになったのもこの時期で
した。(三井東圧化学社史)


第6回 オクタノールの特殊用途

2006-03-22 06:21:38 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 570号 05年03月22日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第6回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第6回 オクタノールの特殊用途

可塑剤原料としては米国有力メーカーに不採用となったオクタノールに、通産省
はなぜ拘り続けたのでしょうか? 輸送に海上保安庁の護衛までつけるとは尋常
ではありません。グッドリッチの回答書から考え併せると、可塑剤以外の用途、
それも米政府が求めるような特殊用途があったと考える以外にありません。

ひとつの可能性が国会議事録の中にありました。1954(昭和 29)年 6月3日、衆
院・通商産業委員会化学工業振興に関する特別委員会に参考人として呼ばれた三
井化学工業株式会社顧問・二階堂行徳がオクタノールの意外な特殊用途を語って
います。ジェット戦闘機用の燃料添加剤(潤滑油)という用途です。

航空戦史上、はじめてジェット機同士の空中戦が行われた朝鮮戦争は 1950年6月
に勃発、米軍を驚かせたのは、優れた上昇力と加速性能をもったソビエト製の最
新鋭戦闘機ミグ15でした。後退翼をもつミグ15は、直線翼の米軍ジェット戦闘機
を圧倒。これに対して米空軍も後退翼の F-86Fセイバーを投入し、制空権を奪
い返したのです。やがて戦局は膠着状態になり、1953 年 7月に停戦でしたから、
チッソ水俣工場のオクタノール生産(52 年9月)はジェット戦闘機の重要性が強
く認識された朝鮮戦争の最中に始まっています。

 「これはアメリカの調べでありますが、ドイツでは航空機用の特殊潤滑油を石
 油から約三万四千九百八十トン、それから今のオレフインから約三万五千トン

 それからエステル型の合成品が約四千七百七十トン、合計七万四千七百五十ト
 ン戦時中の一九四二年につくつておりますが、このエステル型の合成品といい
 ますのは、ドイツで戦時中に工業化した最もすぐれた潤滑油でありまして、こ
 れは高級アルコールと二塩基性酸の化合エステルで、目下問題のジエツト航空
 機用に欠くことのできないものであります。そのジエツト航空機用の潤滑油を
 つくります原料は、オキソ法によってつくるのであります。」

この翌月7月1日に防衛庁が発足、新たに航空自衛隊が誕生しています。そして、
1954年度に初めて米国からジェット戦闘機を購入することが予算化されました。
(1954年2月25日、衆院予算委員会第一分科会)

そのジェット戦闘機にエステル型の潤滑油が欠かせないというのです。二階堂は
その一成分・高級アルコールを特定していませんが、オクタノールが工業化され
た代表的高級アルコールで、チッソ水俣工場が当時国内唯一の工場でした。高級
アルコールとは値段が高いという意味ではなく、炭素が6個以上ある炭素数の多
いアルコールのことをいいます。飲用のアルコールはエチルアルコールで炭素数
は2個ですので高級アルコールではありません。

オキソ法とは石油原料から高級アルコールをつくる合成方法で、日本ではオキソ
法オクタノールの工業化は、6年後の 1960年に三菱化成(現三菱化学)によって
達成されました。三菱化成は オクタノールと イソブタノールに「開発目標を絞
り」、工業化技術の開発を急いでいましたが、結果としてチッソ水俣工場がアセ
トアルデヒド経由という特殊な方法で8年間も埋め合わせをしていたのです。

しかし、二階堂はチッソの方法にはまったく触れていません。二階堂が国会に招
かれた1954年は既に「劇症型」水俣病患者が発生していましたが、まだ公式には
発見されていませんので、当日の彼が水俣病の存在を知る由もありません。従っ
て彼はチッソの方法を隠したのではなく、オキソ法完成までの「つなぎ」の技術
にすぎなかったから触れなかったのでしょう。

 「今日本でジエツト機をつくる態勢はできたように承つておりますが、ジエツ
 ト機エンジンをつくつても、また燃料は割にたやすくできるそうでありますけ
 れども、できましても潤滑油がなければ飛ぶことが絶対にできない。世界各国
 ともに、今ジエツト航空機の潤滑油は秘密にしてやつております。辛うじて用
 を足しておる程度のように、いろいろ乏しい資料でありますけれどもうかがわ
 れておるのであります。」

日本の航空産業が生産と研究を再開できたのは 1952(昭和27)年4月でした。G
HQが「兵器、航空機の生産禁止令」を解除してからです。工場では朝鮮戦争に
参加した米軍機の点検・修理が 主な業務でした。7月に「航空機製造法」が公布
され、通産省重工業局に航空機課が新設されました(チッソは軽工業局が統括)。
そして、ジェット燃料用潤滑油の製造は軍事機密に属する事項だったのです。二
階堂の話しは潤滑油のもう一方の原料確保を巡って争奪戦が展開されているとい
う世界情勢の解説へと続きます。

 「これは余談でありますけれども、この二塩基性酸といいますのは、今のとこ
 ろではひまし油の中の一成分でありまして、ひまし油の一成分と高級アルコー
 ルとの化合物でありますから、このひまし油の獲得で英米ともに非常な努力を
 し暗躍をして、ブラジル、インドはアメリカが買い占めております。しかたが
 ないのでイギリスがニカラグアに今栽培を奨励してひまし油の獲得をしておる
 というような報道にも接しておるくらいに、非常に重要な問題でありまして、
 その原料は、オキソ法で高級アルコールをつくることによって一つの原料がで
 きるのであります。その片方の相手は今のところ、ひまし油であります。(中
 略)相手方のひまし油からとつた原料を使いますれば、高級アルコールと合成
 して十分潤滑油の性能が得られる品物ができるのであります。高級アルコール
 というものはこんな重要性が現在あるのでございます。」

ジェット戦闘機は原爆と並び最重要戦力でしたが、その性能を左右するのが、ひ
まし油とオクタノールだったのです。ひまし油の国際的争奪戦があったのならば

オクタノールもまた重要な軍需物資だったに違いありません。


第5回 国家護送されたオクタノール

2006-03-20 06:26:11 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 569号 05年03月19日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第5回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明


品質面でモンサントから評価されていなかったチッソのオクタノールですが、政
府にとっては格別の意味があったようです。チッソ水俣工場のオクタノールを積
載した一隻の輸送船を海上保安庁の巡視艇7隻で護衛するというできごとがあり
ました。

昭和37(1962)年 8月31日、輸送船・辰巳丸がチッソ水俣工場のオクタノールを
搬出する際、海上保安庁の巡視艇7隻が護衛についたのです。熊本県三角(みす
み)の海上保安部所属の巡視艇だけでなく、牛深からも応援がくるという念の入
れようでした。(1962.9.21 参院社会労働委員会)この時期1962年から翌年にか
けて、チッソをめぐって、水俣市を大きく揺るがすできごとがありました。

水俣工場の石油化に伴い、労働組合も会社に都合のよいように作り変えようとす
るチッソ経営者と、合理化に反対する組合との長期に亘る労働争議(日窒の安定
賃金闘争)が起きていました。チッソは組合に対し、同業他社並の賃上げを保証
する代わりに4年の長期に亘って労働争議権を放棄せよと提案しました。この会
社提案は労働組合法にも抵触し(1962.9.21 参院社会労働委員会)組合がのめる
提案ではなく、最初から組合再編を目論んだ提案だったと思われます。4月に組
合がストライキに入ると、会社はロックアウト、第二組合設立で応戦しました。
(宮澤信雄「水俣病40年」葦書房1997)

争議は次第に新旧労組同士の対立から水俣市住民を巻き込んだ大騒動に発展、63
年1月に第一組合の完敗で決着しましたが、その労働争議の最中に、中立たるべ
き海上保安庁が会社側に加担して輸送船を護衛するという行動にでていたのです


この問題は国会で取り上げられました。社会党の小柳勇は「周辺の巡視艇全部集
めて、その会社の製品を積み出す一艘の船を巡視艇七隻で、これを搬出する援護
をする、護衛をするということは、常識上どうでしょうか。」と公務員が民間企
業の労働争議に介入しているととられかねない問題点を指摘しました。

海上保安庁警備救難部長・樋野忠樹は「海上保安庁は労働争議にはあくまでも厳
正中立であり、海上における不法行為だけを取り締まるという方針である」こと
を強調しつつも、説明は最初からしどろもどろでした。積荷を護衛していたのだ
と言えない苦しさが滲み出ているようです。曰く

「ずっと前々からいろいろ新労組も旧労組も漁船等をチャーターいたしまして、
海上でいろいろデモ行為などをやったりすることもございましたので、当日また
紛争が起こるということよりも、むしろ海上における、非常に多くの人が乗って
海の上に出ます関係上、海難、人命の救助等も考えまして、確かに船は七隻出し
ましたが、それを積み荷を護衛して出すために出したのではございません。そう
いうふうな海上におけるいろいろ危険防止のためと、海上においていろいろ起こ
りますところの何といいますか、違法行為等に対しましての見張りといいますか

見守りといいますか、そういう意味合いで出したのでございます。」

小柳は納得しませんでした。さらに三角管内の6隻の巡視艇では足りず、牛深に
応援を出してもらったとの答弁にますます疑念を深め、樋野は言い訳に終始して
います。

海上保安庁・樋野「水俣は三角の管轄だから出した。牛深は水俣に近いから出し
た。七隻だが全部の船を出したわけではない。」

小柳「何からの襲撃を七隻の巡視艇で守ったんですか。」

海上保安庁・樋野「襲撃等を守る意味はございません。海上における紛争に備え
て出動した。」

小柳「どういうことで海上の紛争が起こるのでしょうか?」

海上保安庁・樋野「前々花火だとか、それから煙幕等を打ち上げたようなことも
ございましたので、もしものことがあると、非常に人がけがをしたり、落ち込ん
だり、重装備をたいていしておるものでございますので、落ち込みますと、すぐ
船が行かないと死人が出るような事態が起こりますので、船を出したような次第
でございまして、そういうような特別排除するというふうな考え方は毛頭ござい
ません。」

このやりとりからは、「海上保安庁が上から積荷を護衛しろと言われ現場の保安
部は忠実に実行しただけだ」とは言えない樋野の苦渋の表情が眼に浮かぶようで
す。国家に手厚く護衛されたオクタノールはどこへ運ばれたのでしょうか。その
ときの辰巳丸の行き先は明らかになっていません。


水俣秘密工場     第4回                  

2006-03-18 06:31:14 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 568号 05年03月17日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第4回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第4回 オクタノールの品質
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 568号 05年03月17日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第4回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第4回 オクタノールの品質

水俣工場でのオクタノール生産開始は 1952(昭和27)年9月、塩化ビニルの添加
剤(可塑剤)であるDOPは1953年に生産を開始しています。可塑剤の主要メー
カーである三菱モンサントはその社史の中でこの頃の事情を次のように記してい
ます。(三菱モンサント化成三十年史)

「1949(昭和24)年頃までの可塑剤は戦前に生産されていたものと同一の製品で

戦後急速に拡大した塩化ビニル加工に使用するためには質・量ともに極めて不十
分だった。当初使用されたDMP、DEPは揮発性が高くすぐ硬化して使い物に
ならないという欠点があったし、DBPは比較的品質はよかったが、電線用には
適さず、可塑剤メーカーの間で共同研究の動きが始まった。
 協和発酵は発酵法からオクタノールを生産、1950年にDOP月産30トンの製造
開始、三建化工もチッソからオクタノールの提供を受けDOPの生産を開始した

しかし、この時点では原料の品質にも問題があったことと供給量も不足していた
ため、可塑剤を輸入に依存する状態は解消されなかった。」

この当時、協和発酵の生産量は微々たるもので、国内産はほぼチッソが独占して
いました。水俣病事件の通説では「当時は輸入を極力抑えて国内生産でまかなう
ことが至上命題だった」中、供給不足の状態だったためにチッソの操業停止は考
えられなかったと言われていますが、塩化ビニル業界でトップクラスの三菱モン
サントが可塑剤の輸入を続けていたという事実は先の通産官僚の証言と食い違う
事態です。しかも、量の問題だけでなく、チッソのオクタノールには品質にも問
題があって使えなかったというのでは、水俣病を無視してチッソに操業を続けさ
せた通産省の政策は一体何なのだということになります。ひょっとして、三菱モ
ンサントの技術が低くて、チッソに限らずオクタノールから可塑剤を作る能力が
なかったという可能性もあります。これについても、「三十年史」はきっぱり否
定しています。

「三菱モンサントでは 1952年11月 可塑剤工場が完成(チッソ水俣工場よりも早
い!)、直ちにモンサント派遣技術者の指導に基づく試運転を実施、DOPとB
BP(ブチルベンジルフタレート)2品目の試験生産に 良好な成果を収めた。」
輸入品のオクタノールを使えばなんら問題がなかったのです。

「DOP原料のうちオクタノールは品質の良い国産品の安定受給が望めなかった
ため、全量を輸入することになった。しかし、輸入も困難を極めたため生産当初
から品質、歩留まりとも良好であったにもかかわらず、原料面の制約を受けざる
をえなかった。」

チッソのオクタノールには品質に問題があって、三菱モンサントではオクタノー
ルを全量輸入していたというのです。一体これはどうしたことでしょうか? 何
のためにチッソはオクタノールを作り続けたというのでしょう? しかも、この
ような事態は三菱モンサントに限りませんでした。業界最大手の日本ゼオンの社
史「ゼオン五十年のあゆみ」には次の記述があります。

「可塑剤については 1951年6月から研究班を組織し、古河電工理化学研究所の一
隅を借りて研究を開始し翌年11月にはすべての基礎研究を完了したが、既に数社
が生産を始め、輸入品も出回って原料をもたない当社(日本ゼオン)の立場は苦
しくなった。・・(中略)・・(可塑剤設備建設)の計画は中止した。」

日本ゼオンが基礎研究を終えた時点では、チッソがオクタノールの生産を開始し
ていて、三菱モンサントでは 可塑剤工場が 完成という状況でした。「数社が生
産」とはチッソとチッソから原料供給を受けた三建化工のことと思われ、「輸入
品」とは三菱モンサントが輸入オクタノールで可塑剤DOPを生産開始したこと
を指していると思われます。チッソと三建化工のDOPは使い物にならないと三
菱モンサントは評価していたのですから、日本ゼオンが可塑剤工場建設を見送っ
た最大の理由は、「期待していたチッソのオクタノールの品質が悪くて採用でき
なかった」ことにあったと考えられます。

チッソのオクタノールを採用しなかった両社の塩化ビニル製品の評価はどうだっ
たのでしょうか? 日本プラスチック工業史(小山寿著 工業調査会1967)に次
の一節があります。

渋谷駅前の夕暮れ時のことである。ハチ公前に現れた闇屋風の若いものがビニル
レインコートを3つ4つぶらさげてこんなことを叫んでいた。「サアサア、よく
見てごらん。そんじょそこらで売っているレインコートとはレインコートが違う

こちらがモンサントで、こちらがゼオンだ。ちゃぁんとマークがホレこの通り入
っている。夏になると水飴みたいにのびちゃったり、冬は焼海苔みたいにパリパ
リ破れちゃったりする代物じゃない。」

やはり、チッソのオクタノールは「可塑剤原料としては」問題があったと考えざ
るをえません。しかし、米国グッドリッチ・ケミカル社は当初チッソのオクタノ
ールに大きな期待を寄せていたのです。日本ゼオンは古河電工と米国グッドリッ
チ・ケミカル社との合弁会社ですが、日本側の提携要請に対するグッドリッチの
回答書(1949年11月29日付)の中に次の一文があります。

「日本において、ノルマルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタ
ル酸を原料にできるはずであるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提
供する。」

ここで、「2-エチルヘキサノール」というのが、アセトアルデヒド経由のチッソ
製オクタノールのことで、「ノルマルオクタノール」は生産量が少なかったこと
から今シリーズでは「2-エチルヘキサノール」のことを「オクタノール」と表記
します。 [編集者注:「2-エチルヘキサノール」と「ノルマルオクタノール」は
原子の種類と数が同じで、構造だけが違う異性体。ここでは名前がややこしくな
るのを避けるため前者を「オクタノール」と呼ぶ。]

チッソのオクタノール生産開始は 1952年9月です。それを米国の一企業がなぜ3
年も前に「原料にできるはず」と予言ができたのでしょうか? オクタノール生
産は日米両政府の合意の下で遂行された「国策」だった、それを支援するために
グッドリッチ社の日本進出が画策されたのではないかという推論が成り立ちます

しかも、可塑剤としては不適格で米国系外資メーカーが採用しなかったにも関わ
らず、通産省がチッソの操業を続けさせた経緯を併せ考えると、チッソのオクタ
ノールには「可塑剤以外の国策に関わる用途」があったと考えられます。


水俣工場でのオクタノール生産開始は 1952(昭和27)年9月、塩化ビニルの添加
剤(可塑剤)であるDOPは1953年に生産を開始しています。可塑剤の主要メー
カーである三菱モンサントはその社史の中でこの頃の事情を次のように記してい
ます。(三菱モンサント化成三十年史)

「1949(昭和24)年頃までの可塑剤は戦前に生産されていたものと同一の製品で

戦後急速に拡大した塩化ビニル加工に使用するためには質・量ともに極めて不十
分だった。当初使用されたDMP、DEPは揮発性が高くすぐ硬化して使い物に
ならないという欠点があったし、DBPは比較的品質はよかったが、電線用には
適さず、可塑剤メーカーの間で共同研究の動きが始まった。
 協和発酵は発酵法からオクタノールを生産、1950年にDOP月産30トンの製造
開始、三建化工もチッソからオクタノールの提供を受けDOPの生産を開始した

しかし、この時点では原料の品質にも問題があったことと供給量も不足していた
ため、可塑剤を輸入に依存する状態は解消されなかった。」

この当時、協和発酵の生産量は微々たるもので、国内産はほぼチッソが独占して
いました。水俣病事件の通説では「当時は輸入を極力抑えて国内生産でまかなう
ことが至上命題だった」中、供給不足の状態だったためにチッソの操業停止は考
えられなかったと言われていますが、塩化ビニル業界でトップクラスの三菱モン
サントが可塑剤の輸入を続けていたという事実は先の通産官僚の証言と食い違う
事態です。しかも、量の問題だけでなく、チッソのオクタノールには品質にも問
題があって使えなかったというのでは、水俣病を無視してチッソに操業を続けさ
せた通産省の政策は一体何なのだということになります。ひょっとして、三菱モ
ンサントの技術が低くて、チッソに限らずオクタノールから可塑剤を作る能力が
なかったという可能性もあります。これについても、「三十年史」はきっぱり否
定しています。

「三菱モンサントでは 1952年11月 可塑剤工場が完成(チッソ水俣工場よりも早
い!)、直ちにモンサント派遣技術者の指導に基づく試運転を実施、DOPとB
BP(ブチルベンジルフタレート)2品目の試験生産に 良好な成果を収めた。」
輸入品のオクタノールを使えばなんら問題がなかったのです。

「DOP原料のうちオクタノールは品質の良い国産品の安定受給が望めなかった
ため、全量を輸入することになった。しかし、輸入も困難を極めたため生産当初
から品質、歩留まりとも良好であったにもかかわらず、原料面の制約を受けざる
をえなかった。」

チッソのオクタノールには品質に問題があって、三菱モンサントではオクタノー
ルを全量輸入していたというのです。一体これはどうしたことでしょうか? 何
のためにチッソはオクタノールを作り続けたというのでしょう? しかも、この
ような事態は三菱モンサントに限りませんでした。業界最大手の日本ゼオンの社
史「ゼオン五十年のあゆみ」には次の記述があります。

「可塑剤については 1951年6月から研究班を組織し、古河電工理化学研究所の一
隅を借りて研究を開始し翌年11月にはすべての基礎研究を完了したが、既に数社
が生産を始め、輸入品も出回って原料をもたない当社(日本ゼオン)の立場は苦
しくなった。・・(中略)・・(可塑剤設備建設)の計画は中止した。」

日本ゼオンが基礎研究を終えた時点では、チッソがオクタノールの生産を開始し
ていて、三菱モンサントでは 可塑剤工場が 完成という状況でした。「数社が生
産」とはチッソとチッソから原料供給を受けた三建化工のことと思われ、「輸入
品」とは三菱モンサントが輸入オクタノールで可塑剤DOPを生産開始したこと
を指していると思われます。チッソと三建化工のDOPは使い物にならないと三
菱モンサントは評価していたのですから、日本ゼオンが可塑剤工場建設を見送っ
た最大の理由は、「期待していたチッソのオクタノールの品質が悪くて採用でき
なかった」ことにあったと考えられます。

チッソのオクタノールを採用しなかった両社の塩化ビニル製品の評価はどうだっ
たのでしょうか? 日本プラスチック工業史(小山寿著 工業調査会1967)に次
の一節があります。

渋谷駅前の夕暮れ時のことである。ハチ公前に現れた闇屋風の若いものがビニル
レインコートを3つ4つぶらさげてこんなことを叫んでいた。「サアサア、よく
見てごらん。そんじょそこらで売っているレインコートとはレインコートが違う

こちらがモンサントで、こちらがゼオンだ。ちゃぁんとマークがホレこの通り入
っている。夏になると水飴みたいにのびちゃったり、冬は焼海苔みたいにパリパ
リ破れちゃったりする代物じゃない。」

やはり、チッソのオクタノールは「可塑剤原料としては」問題があったと考えざ
るをえません。しかし、米国グッドリッチ・ケミカル社は当初チッソのオクタノ
ールに大きな期待を寄せていたのです。日本ゼオンは古河電工と米国グッドリッ
チ・ケミカル社との合弁会社ですが、日本側の提携要請に対するグッドリッチの
回答書(1949年11月29日付)の中に次の一文があります。

「日本において、ノルマルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタ
ル酸を原料にできるはずであるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提
供する。」

ここで、「2-エチルヘキサノール」というのが、アセトアルデヒド経由のチッソ
製オクタノールのことで、「ノルマルオクタノール」は生産量が少なかったこと
から今シリーズでは「2-エチルヘキサノール」のことを「オクタノール」と表記
します。 [編集者注:「2-エチルヘキサノール」と「ノルマルオクタノール」は
原子の種類と数が同じで、構造だけが違う異性体。ここでは名前がややこしくな
るのを避けるため前者を「オクタノール」と呼ぶ。]

チッソのオクタノール生産開始は 1952年9月です。それを米国の一企業がなぜ3
年も前に「原料にできるはず」と予言ができたのでしょうか? オクタノール生
産は日米両政府の合意の下で遂行された「国策」だった、それを支援するために
グッドリッチ社の日本進出が画策されたのではないかという推論が成り立ちます

しかも、可塑剤としては不適格で米国系外資メーカーが採用しなかったにも関わ
らず、通産省がチッソの操業を続けさせた経緯を併せ考えると、チッソのオクタ
ノールには「可塑剤以外の国策に関わる用途」があったと考えられます。


水俣秘密工場 2

2006-03-15 10:40:40 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 567号 05年03月15日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第3回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明


第3回 人が死んでも「工業立国」

仮説は「なぜ、被害拡大を防げなかったのか?」という疑問に対する私なりの解
答です。1956年の「公式発見」のときには原因物質は未解明でしたが、既にチッ
ソ水俣工場の廃水が原因であることは誰もが気付いていたのです。その後もチッ
ソ付属病院の医師が工場廃水をまぜたエサを猫に与え、発症が確認された1958年
には工場廃水が原因であることが「科学的に」証明されたわけですし、遅くとも
熊本大学研究班が有機水銀説をだした1959年には工場に操業をやめさせ、排水を
とめることはできたはずなのです。「防げなかったのではなく、故意に防がなか
ったのだ。」とはよく言われてきたことです。事件発生からの数年間、特に1959
(昭和34)年の通産省、熊本県、チッソの動きを見ていけば、通産省が主導して
チッソの操業停止だけは何がなんでも阻止しようとしていたことが明白です。

熊本大学から有機水銀説が出された直後(1959年8月)に 化学工業を所管する軽
工業局長に就任した秋山武夫は、厚生省の国会における水俣工場名指し発言にも

被害の拡大にも、そして核心となる有機水銀説が出されても、結果としてアセト
アルデヒド製造を支障なく続けさせながら、水俣病を闇に葬ることに成功してい
ます。まるでそのような任務を背負って局長に就任したかのように。その彼が後
にチッソ水俣病関西訴訟で証人尋問(1986年11月17日)にたち、次のように語っ
ています。

 原告側弁護士「かつて浦安の漁民がパルプ廃液の被害を訴えたとき、本州製紙
 江戸川工場は操業を停止した。水俣では人が死んでいるのに、なぜ操業停止を
 命じなかったのか?」

 秋山「チッソが占める重要度の比率が違う。経済価値なり周囲に与える影響な
 りを考えると、紙もアセトアルデヒドも同じだという結論にはならないはずだ


通産省の局長が、アセトアルデヒドの重要度は水俣の人命以上だ、と認識してい
たということです。人命以上のアセトアルデヒドがたかが塩化ビニルの添加剤の
原料だったという点には違和感をもたざるをえません。

同じく通産省工業用水課長・藤岡大信は「当時の産業政策からして、排水対策な
ど講じないことも使命だった」という主旨の証言をしています。(同関西訴訟一
審)

水産庁漁業振興課長井上和夫は、各省庁奇病対策会議で「とにかく排水を止めて
被害を防ぐべきだ、原因はゆっくり調べればよい」と主張すると「工業立国だよ

と言われた(熊本三次訴訟証言)。

さらに,当時経済企画庁水質調査課長補佐だった汲田卓蔵は「廃水が原因だと解
っていても止めるわけに行かなかった、確信犯だといわれても謝るしかない」と
告白している(NHKスペシャル・戦後五十年「チッソ水俣工場技術者の証言」
1995年7月1日放送)。と、工場の操業停止を阻止した理由として、工業立国とい
う国是、高度経済成長をあげています。

それに対して元NHKアナウンサーの宮澤信雄は「なぜチッソを守らなければな
らなかったのか。それが、高度成長政策を軌道にのせることにつながったのか。
それは直接には、水俣工場でのアセトアルデヒド生産を守るためだった。さらに
は、アセトアルデヒドを原料とするオクタノールを増産させるためだった。そう

せんじつめればたかがアセトアルデヒドのためだったのだ。」と吐き捨てていま
す。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」葦書房1991)

そうなのです。たかがアセトアルデヒドのために払った犠牲の何と大きいことで
しょう。それにアセトアルデヒドは、チッソ水俣工場が最も生産量が多かったと
いっても、水俣工場でしか作れないという代物ではありませんでした。7社8工場
が稼動していたのですから対策を講じるまでの間、他社から調達するという手立
てもあったでしょう。オクタノールを輸入するという手段だってあったはずです


当時は外貨が不足していたので輸入をできるだけ避けたかったという言い訳もあ
りましたが、チッソが水俣病を放置してオクタノールの大増産を行なった1960年
に通産省は外貨の浪費を平気でやっています。三井鉱山(福岡県)の労働争議の
際に、十分な国内炭生産力がありながら通産省が外国炭を輸入して企業にあてが
うという、国が一企業を利する政策を行なって、通産大臣池田勇人は「一貫性が
ない。」と国会で非難されています(1960.3.21 参院予算委員会)ので、説得力
のある根拠とはなりえません。

百歩譲って、人命以上に重要だと通産官僚に言わしめたチッソ水俣工場のオクタ
ノールは輸入品に置き換えるわけにはいかないほどのすばらしい品質を誇ってい
たのかもしれません。次回はその品質を探ってみます。


  水俣秘密工場     

2006-03-12 18:16:09 | Weblog
    世界の環境ホットニュース[GEN] 566号 05年03月12日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第2回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第2回 水俣病事件の概略

風化が懸念される事件ですから、今回はその概略を述べ、今シリーズの理解の一
助にしたいと思います。

日本の化学工業界が石油を原料にするようになったのは高度成長期の1960年代以
降で、それまでは原料に石炭から作られるアセチレンを利用していました。アセ
チレンとは昔懐かしい夜店の灯りに使われていたガスです。アセチレンからアセ
トアルデヒド、酢酸、塩化ビニルなどの様々な有機化合物が作られていました。
水銀触媒を加えた稀硫酸にアセチレンガスを吹き込むとアセトアルデヒドができ
ます。その工程で水銀が有機化、その廃水を海に垂れ流し、近海の魚が水銀で汚
染され、その魚を食べることによって水俣病が発生しました。

チッソの水俣工場では 1946(昭和21)年2月にアセトアルデヒド工場が再開され
ました。アセトアルデヒドからオクタノールの生産開始(1952年)、さらに翌年
オクタノールからDOP(塩化ビニル添加剤)の生産開始と続き、オクタノール
は三菱化成が別法で生産を始めるまで10年にわたってチッソが市場を独占しまし
た。オクタノールから作られるDOPが需要急増の塩化ビニルに使われ、このた
め水俣病被害が拡大しても工場を止められなかった、というのがこれまでの通説
になっています。

1951年に製造プロセスを変更すると、まもなく水俣湾に異変が起こり始め、1952
年には水俣湾の魚が大量に白い腹をみせて浮き、猫が狂い死する例が多数見られ
るようになりました。被害はついに人間にも及び、1953年に30人ほどの「劇症型
水俣病」患者を発生させたのです。しかし、このときは市内の病院でほとんどの
患者が診察を受けていたにもかかわらず、共通の奇病であることに誰も気付かな
かったのです。

1956(昭和31)年4月下旬に チッソ付属病院に幼い姉妹が原因不明の特異な神経
症状であいついで入院。小児科の医師が以前にも大人で類似の患者を診たことを
思い出し、伝染病かもしれないと考えて保健所に届け出ました。この日、5月1日
が水俣病の「公式発見」とされています。この日から今年が50年目にあたるので
す。

この時点で既にチッソの工場廃水が原因であることは誰もがわかっていました。
しかし、厚生省が水俣工場を名指しで汚染原因と断定し、熊本大学が「有機水銀
説」を公表しても通産省は操業停止に反対しました。その一方で原因の曖昧化に
奔走、熊本県も漁業被害には一切応じないとの姿勢を貫きます。チッソも責任を
認めなかったため、漁民は困窮のどん底に喘ぐことになりました。

「有機水銀説」が出されると、東京の学識者による反論が続きました。日本工業
協会大島竹治理事の「爆薬説」、東京工大・清浦雷作教授の「有機アミン説」、
東邦大・戸木田菊次教授の、腐った魚が原因とする「腐敗アミン説」などで、い
ずれも根拠がなくすぐに否定されましたが世間を混乱させる効果を果たしました

チッソはサイクレータと呼んだ廃水浄化装置を設置して以後10年にわたって汚染
防止対策が万全であることを宣伝しましたが、実は試運転で水銀除去の効果が十
分でなかったことが判明、工場排水はサイクレータを通過させずに世間を欺き通
しました。

厚生省水俣食中毒部会、熊本大学研究班は工場廃水に言及できないまま立て続け
に解散させられ、さらに漁民の工場乱入・打ち壊し事件の後、わずかな年金支給
という形でチッソと被害者互助会が合意、1959年末をもって水俣病事件は終わっ
たこととされ、1960年よりチッソはアセトアルデヒドの大増産に乗り出したので
す。

チッソは加害責任を認めなかったため、被害者は地域に君臨する会社への反逆者
とみなされ、差別・迫害を受けました。被害者は水俣病であることを隠すように
なりました。水俣を離れる人もでました。(関西など熊本以外でも裁判があるの
はこのためです。)熊本県も 水俣市も 早く終わらせたいとの姿勢でしたので、
「患者が発生してはならない」という点でチッソと利害が一致、その中で「認定
制度」が発足したのです。認定制度は差別・迫害のため名乗り出られない患者に
対しても本人申請を建前とし、患者がいないことにしたい行政(もともと加害者
でもある)が認定する権利をもつなど「潜在患者」を多く作り出してしまう恐れ
のある制度でした。

終わったことになっていた水俣病が1965年に新潟で発生、1973年には九州の有明
海で第三水俣病、山口で第四水俣病 発生かと報道されました。1967年6月に新潟
水俣病被害者が昭和電工を提訴、水俣との交流が始まったことで、水俣の被害者
が再び立ち上がることになりました。

チッソ水俣工場は 1968年に アセトアルデヒドの生産を中止、工場停止を受けて
やっと政府は熊本・新潟「水俣病」に政府公式見解を発表、「水俣病は公害」と
認めました。水俣病第一次訴訟では、1973年 3月20日、熊本地方裁判所は、チッ
ソの過失責任を明快に認め、患者側全面勝訴の判決を言い渡したのです。同時に
認定を棄却された被害者が厚生省に行政不服審査を求め、放置された被害者の救
済活動も始まりました。しかし、被害者の喜びも束の間、認定条件が改悪され、
逆に患者の切捨てが進みました。そのため、被害者は司法に救済を求め、熊本第
二次、第三次、待たせ賃訴訟、関西訴訟と行政側敗訴の判決が続きますが、行政
側が控訴して司法による救済も進みませんでした。

一向に解決を見ない水俣病事件に対し、社会党政権である村山内閣のとき政治決
着が図られました。1995年、村山富一首相は「水俣病問題の解決に当たっての談
話」を発表しましたが、水俣病の発生も、被害の拡大も、救済の遅れも行政の責
任を認めず、自然発生的にそうなったかのように語る談話は他人事で最終解決に
はなりませんでした。このため、新たな認定、新たな救済を求めて次々に提訴が
続いているのです。

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