私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

第15回 植民地の崩壊体験

2006-04-14 07:06:36 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 580号 05年04月14日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場(第15回)       
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第15回 植民地の崩壊体験

1951年に行なった水俣工場のアセトアルデヒド工程の変更が劇症型水俣病を発生
させた原因となったのですが、その変更を行なったのが 終戦後 引き揚げてきた
朝鮮窒素肥料の技術者たちでした。棄て置かれ差別される被害者が増加していっ
てもなお廃水を流し続けた水俣工場で働いていた人たちがどのような経験をして
きたのかをみてみましょう。

水俣から燃料工場のある興南工場に渡った民衆は転勤工員などの一部を除いて、
それまで多くの日本人同様、窮乏生活を強いられていました。それが植民地朝鮮
に身を移すや否や制圧者に変身したのです。アパート式の社宅はレンガ作りでス
チーム暖房があり、安い電気が使え、トイレは水洗式と水俣の生活とは比べ物に
ならない夢のような文化生活を送ることができたのです。

青年たちは酒と女、それに 朝鮮人との喧嘩に 羽根を伸ばし、女たちは生まれて
初めて働かなくても毎日の生活ができる身分になりました。することがない彼女
たちは社宅 同士で遊び歩き、高級品を 競争で買い漁り、栄耀栄華の極楽生活を
満喫していました。一方、工場建設で住まいを奪われた朝鮮人は汚いみすぼらし
いに住み、興南工場に職を求め、差別の中窮乏の生活を送っていたのでした


被抑圧者は抑圧が強いほど、自らが制圧者になることを夢見る。殖民地制度とは

被抑圧者の中で醸成される制圧者への変身プログラムを見事にシステム化したも
のといえるでしょう。

太平洋戦争の敗戦が 近づくにつれ、朝鮮人の抵抗が 強まり、暴力だけが彼らを
働かせる唯一の手段になっていきました。そして日本の敗戦の日から「日本人さ
まが朝鮮人野郎に、朝鮮人野郎が日本人さまになった。朝鮮人は日本人になるの
にまるで一生懸命だった。」という状況が生まれました。

1945(昭和20)年 8月26日、進駐してきたソ連兵によって 興南工場は接収され、
日本人は立入禁止となりました。日本人の兵隊狩りと武器の接収が行なわれ、日
本の武器をもった朝鮮人民衆の報復が始まりました。日本人はそれまでの社宅を
でて、劣悪な朝鮮人用の社宅に移され、貯金も没収、所持品も盗難が横行。栄耀
栄華を極めた日本人があっという間に難民化、冬を迎えると本当の厄災に見舞わ
れたのです。女を襲い金品を奪う一部のソ連兵、発疹チブスの蔓延、飢餓、そし
て死。

朝鮮人の工場となった興南工場に人夫となって就労することになった日本人は、
かつての朝鮮人のようにサボることだけを考えている自分を見出すのです。日本
への逃亡も、飢餓の中 辛酸をなめました。どん底の 逃亡生活の中で「朝鮮人オ
モニのおかげで水俣に帰ってこれた。朝鮮人は日本人のようではなかった。」と
語る者もいれば、石を投げられた 経験などから「よーし、憶えとれ。今度 戦争
やったら、股腹一射でやるぞ。」とか「朝鮮と戦争が始まったら、俺は真っ先に
部隊長で行くぞ」という者もいました。実際に朝鮮戦争が始まったとき、彼らは
何を思ったでしょうか。

焼け野原になった水俣に帰り着いた彼らを地元の人たちはどのように迎えたので
しょうか。戦時中水俣とは別世界の暮らしをしていた引揚者は冷たい目で見られ
ました。「カネ儲けしようと思って行ったんじゃろが。贅沢しようと思って行っ
たんじゃろが。」と親戚が先になって言い、「お前ども、朝鮮人を奴隷のように
こきつかってきたんじゃろが。」と批判されました。(聞書水俣民衆史5 草風
館1990)

これらの経験が、原田正純の言う「“人を人とも思わない状況”いいかえれば人
間疎外、人権無視、差別」の底流に流れていることが考えられます。