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学んでいきます。

管理人 まりあっち

第11回 再軍備への道

2006-04-04 06:36:07 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 575号 05年04月02日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第11回】             
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第11回 再軍備への道

敗戦以来壊滅状態だった日本航空業界を 蘇らせたのが朝鮮戦争(1950年6月25日
勃発)です。この戦争を契機として、米国の対日政策が大転換、1952年4月9日、
GHQによる「兵器・航空機の生産禁止令」が解除になりました。これにより航
空機産業は自主的に航空機の生産と研究を再開することができたのです。しかし

7年もの禁止期間中、世界の航空機技術は ジェット機に移っていました。そのた
め経験の少ない各社がそれぞれ独自に行なうよりも、むしろ一致協力することが
必要と判断、戦前の航空機メーカーが共同出資して 1953年7月「日本ジェットエ
ンジン株式会社」が設立されました。(日本航空宇宙工業会「日本の航空宇宙工
業戦後の歩み」1985)チッソがオクタノールの生産を始めた時期と重なります。

朝鮮戦争 戦時下の1951年9月、日本はサンフランシスコで,連合諸国と講和条約
を結び独立を果たしましたが、同時に戦後日本の国是「日米同盟(対米追従)」
の基礎となる日米安全保障条約を締結、独立後も日本に米軍が駐留することとな
りました。

安保条約は米軍駐留の「権利」は明記されているのに、日本を守る「義務」は謳
われておらず、駐留米軍の行動目的とその範囲も明確ではないという不平等なも
のでした。

その上で米国は相互安全保障法(MSA)を制定し、それまでの種々の対外援助
をこの法律の下に一本化し、すべて軍事援助中心にすることにしました。日本政
府は53年6月にMSA交渉を米国に申し入れ、9月の日米首脳会談、10月の池田・
ロバートソン会談を経て、翌 54年3月、MSA協定(日本国とアメリカ合衆国と
の間の相互防衛援助協定)を結び、援助を受けるかわりに同盟国としての「極東
の地域防衛」の義務を負うことになったのです。このとき吉田茂・池田勇人と続
く戦後保守内閣は「再軍備化」を国民に納得させるために「工業化による経済成
長」を米国に求めたのです。(中馬清福「密約外交」文春新書2002)

こうして、日本の政治は再軍備へと向かい、まるで憲法にうたわれた戦争放棄と
軍備禁止を嘲笑うかのように、軍備増強がくりかえされていきました。軍国化へ
の道は、戦後の世界政治の力学に押し流されたやむをえない面が確かにありまし
たが、それだけではありません。米国の世界戦略に追従することで物質的利益を
引き出し、経済成長を果たしていこうとする戦後保守政治の基本姿勢は現在でも
続いていて、私たちは、憲法に盛られた崇高な平和の理念を投げ捨てることによ
り、物質的繁栄をはかるという選択を積み重ねてきたといえるでしょう。

1952年に始まったチッソ水俣工場のオクタノール生産も、そのような戦後保守政
治の流れの中に位置づけると違った風景も見えてきます。従来言われてきた「経
済成長に不可欠だった塩化ビニル用可塑剤原料の供給」という解釈は、全体の一
部にすぎません。

チッソに与えられたミッションは「米国の世界戦略に貢献(追従)するという日
本の国是に沿った軍需物資(またはその原料)の提供」ではなかったか。類似の
事例は他にも見つかることでしょう。日本は米国の軍需工場としての役割を果た
すことで、世界の工場となることを米国から担保され、結果として経済成長とい
う果実を得ました。そして、その負の部分はチッソも水俣病患者も含めた「水俣

という地域社会に押し付けられたのです。これが水俣病事件の背景だったのでは
ないかと思われます。その構造は米軍基地を押し付けられている「沖縄」も同じ
です。

その前提にたてば、水俣病関西訴訟一審で秋山武夫通産省軽工業局長(当時)が
「チッソが製造していたアセトアルデヒドの重要さはパルプなどの比ではなく、
操業停止など考えられなかった」と証言した、その意味するところが初めて納得
できるように思えます。