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世界の環境ホットニュース[GEN] 574号 05年03月30日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第10回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第10回 オクタノール大増産
通産省が「有機水銀説」を斥け、水俣病の原因を曖昧化することに成功した1959
年は、チッソがオクタノールの大増産に踏み切った年でもありました。
アセトアルデヒド オクタノール
(チッソ) (チッソ) (他社)
1955年 10,632 3,222 1,781
1956年 15,919 5,469
1957年 18,085 5,689
1958年 19,191 7,802 1,647
1959年 31,921 12,980
1960年 45,244 13,147 1,378
(西村肇、岡本達明「水俣病の科学」日本評論社2001)
その背景には通産省の第二次石油化計画の存在があるといわれています。計画に
沿ってチッソも石炭を原料とする水俣工場を廃棄し、石油を原料とする新工場を
千葉県五井に建設することになったのです。その新工場建設資金捻出のため、オ
クタノールを大増産したというわけです。水俣病裁判でチッソ専務・徳江毅が証
言し、通説となっています。
しかし、私はその説に納得いかないのです。
1959(昭和34)年11月に発足した「不知火海漁業紛争調停委員会」に、熊本県知
事・寺本は福岡通産局長・川瀬健治をオブザーバーに加えています。その理由は
チッソが あまりに通産省の意向を 気にしていたからでした。斡旋の最終段階で
チッソが補償金額を呑んだのは川瀬が「それでいいだろう」と言ったからでした
。
(水俣病裁判・寺本証言)
このことからチッソはこの時点で既に当事者能力を失っていて、とても自主的な
判断で オクタノール増産を決めたとは思えません。増産は 通産省の強い指導が
あってのことでしょう。通産省が原因の曖昧化を図りつつ、被害補償の調停を仕
切り、問題工場の増産まで指示した理由が「一民間企業の新工場の資金調達」だ
ったとは考えられません。59年4月には三菱化成がオキソ法オクタノール工場の
建設に着手、翌年3月に完成しているのです。通産省はもう可塑剤原料として評
価の低いチッソのオクタノールを特別扱いする理由はありません。
チッソのオクタノールが塩化ビニル可塑剤ではなく、ジェット燃料潤滑油の原料
だったとすると、この時期のオクタノール増産の意味は何でしょう?
国内では通産省と防衛庁が欧米に立ち遅れたジェットエンジン工業を育てるため
、
エンジンも国産化する方針を決定、1955(昭和30)年に防衛庁の単発エンジン型
T1ジェット中間練習機の国産開発計画がスタートしました。開発エンジンはJ3
と命名され、防衛庁向けに7台のエンジンを製造、1959年8月までに防衛庁が寒冷
地試験・空中試験を含むほぼ全部の試験を完了しました。
同時に技術導入によるジェットエンジンの国産化も始まっていました。石川島重
工が、米GE社の技術を導入して朝鮮戦争で米軍が使用したT33戦闘機に搭載さ
れたエンジンJ47 の部品製造に着手。1959年1月、J47 部品の試作品を 米国製
J47エンジンに組み込み、防衛庁 立川第三研究所(東京)でわが国最初の150時
間連続運転を行い、4月から本格的量産に入ったのです。
7月には量産型の試作機YJ3-3の一号機を防衛庁に納入、試運転と改良を繰り返
し、ついに三号機が ジェット中間練習機に搭載されました。そして1960年5月17
日、富士重工宇都宮飛行場で初飛行に成功、戦後初の純国産ジェット機が誕生し
ました。(石川島播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)このようにチッ
ソのオクタノール増産は国産ジェットエンジン開発の歩みと同一歩調をとってい
ます。
一方 国際情勢に目を転じると、1959年1月、キューバのバティスタ大統領(米国
の傀儡政権)がドミニカ共和国へ逃亡、カストロ率いる革命政権が誕生しました
。
しかし、米国はそれを認めず経済封鎖による孤立化を謀りました。カストロは対
抗策としてソ連に接近、ソ連のフルシチョフ首相はキューバに中距離ミサイル配
備を計画、その後ミサイルの撤去を巡って米ソが対立、核戦争の一歩手前となる
「キューバ危機」につながっていったのです。
1960年12月、石川島重工と播磨造船所が合併、同時に航空エンジン事業部が発足
しました。発足に際し、事業部長・永野治は次のように語りました。
「航空工業の世界各国での目覚しい進歩は ほとんど軍用機開発によって基礎を
作られたもので、国家の存亡を賭けた要請によって大きな経済的庇護がこれを
可能にしたのである。
戦後の日本ではこの恩典は全く望めない状況となった。それにもかかわらず
我々は一種の悲願としてこの分野の開発に乗り出した。前途はまことに多難で
ある。そこで我々のこれに処する考えを次のようにまとめた。
第一は、対象をガスタービンないしジェットエンジンに限る。第二は日本で
は望めない開発努力の成果を先進の外国から導入する。第三には当面の確定需
要先である防衛庁の開発装備計画に全面的に協力することである。」(石川島
播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)
世界の環境ホットニュース[GEN] 574号 05年03月30日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第10回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第10回 オクタノール大増産
通産省が「有機水銀説」を斥け、水俣病の原因を曖昧化することに成功した1959
年は、チッソがオクタノールの大増産に踏み切った年でもありました。
アセトアルデヒド オクタノール
(チッソ) (チッソ) (他社)
1955年 10,632 3,222 1,781
1956年 15,919 5,469
1957年 18,085 5,689
1958年 19,191 7,802 1,647
1959年 31,921 12,980
1960年 45,244 13,147 1,378
(西村肇、岡本達明「水俣病の科学」日本評論社2001)
その背景には通産省の第二次石油化計画の存在があるといわれています。計画に
沿ってチッソも石炭を原料とする水俣工場を廃棄し、石油を原料とする新工場を
千葉県五井に建設することになったのです。その新工場建設資金捻出のため、オ
クタノールを大増産したというわけです。水俣病裁判でチッソ専務・徳江毅が証
言し、通説となっています。
しかし、私はその説に納得いかないのです。
1959(昭和34)年11月に発足した「不知火海漁業紛争調停委員会」に、熊本県知
事・寺本は福岡通産局長・川瀬健治をオブザーバーに加えています。その理由は
チッソが あまりに通産省の意向を 気にしていたからでした。斡旋の最終段階で
チッソが補償金額を呑んだのは川瀬が「それでいいだろう」と言ったからでした
。
(水俣病裁判・寺本証言)
このことからチッソはこの時点で既に当事者能力を失っていて、とても自主的な
判断で オクタノール増産を決めたとは思えません。増産は 通産省の強い指導が
あってのことでしょう。通産省が原因の曖昧化を図りつつ、被害補償の調停を仕
切り、問題工場の増産まで指示した理由が「一民間企業の新工場の資金調達」だ
ったとは考えられません。59年4月には三菱化成がオキソ法オクタノール工場の
建設に着手、翌年3月に完成しているのです。通産省はもう可塑剤原料として評
価の低いチッソのオクタノールを特別扱いする理由はありません。
チッソのオクタノールが塩化ビニル可塑剤ではなく、ジェット燃料潤滑油の原料
だったとすると、この時期のオクタノール増産の意味は何でしょう?
国内では通産省と防衛庁が欧米に立ち遅れたジェットエンジン工業を育てるため
、
エンジンも国産化する方針を決定、1955(昭和30)年に防衛庁の単発エンジン型
T1ジェット中間練習機の国産開発計画がスタートしました。開発エンジンはJ3
と命名され、防衛庁向けに7台のエンジンを製造、1959年8月までに防衛庁が寒冷
地試験・空中試験を含むほぼ全部の試験を完了しました。
同時に技術導入によるジェットエンジンの国産化も始まっていました。石川島重
工が、米GE社の技術を導入して朝鮮戦争で米軍が使用したT33戦闘機に搭載さ
れたエンジンJ47 の部品製造に着手。1959年1月、J47 部品の試作品を 米国製
J47エンジンに組み込み、防衛庁 立川第三研究所(東京)でわが国最初の150時
間連続運転を行い、4月から本格的量産に入ったのです。
7月には量産型の試作機YJ3-3の一号機を防衛庁に納入、試運転と改良を繰り返
し、ついに三号機が ジェット中間練習機に搭載されました。そして1960年5月17
日、富士重工宇都宮飛行場で初飛行に成功、戦後初の純国産ジェット機が誕生し
ました。(石川島播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)このようにチッ
ソのオクタノール増産は国産ジェットエンジン開発の歩みと同一歩調をとってい
ます。
一方 国際情勢に目を転じると、1959年1月、キューバのバティスタ大統領(米国
の傀儡政権)がドミニカ共和国へ逃亡、カストロ率いる革命政権が誕生しました
。
しかし、米国はそれを認めず経済封鎖による孤立化を謀りました。カストロは対
抗策としてソ連に接近、ソ連のフルシチョフ首相はキューバに中距離ミサイル配
備を計画、その後ミサイルの撤去を巡って米ソが対立、核戦争の一歩手前となる
「キューバ危機」につながっていったのです。
1960年12月、石川島重工と播磨造船所が合併、同時に航空エンジン事業部が発足
しました。発足に際し、事業部長・永野治は次のように語りました。
「航空工業の世界各国での目覚しい進歩は ほとんど軍用機開発によって基礎を
作られたもので、国家の存亡を賭けた要請によって大きな経済的庇護がこれを
可能にしたのである。
戦後の日本ではこの恩典は全く望めない状況となった。それにもかかわらず
我々は一種の悲願としてこの分野の開発に乗り出した。前途はまことに多難で
ある。そこで我々のこれに処する考えを次のようにまとめた。
第一は、対象をガスタービンないしジェットエンジンに限る。第二は日本で
は望めない開発努力の成果を先進の外国から導入する。第三には当面の確定需
要先である防衛庁の開発装備計画に全面的に協力することである。」(石川島
播磨重工「IHI航空宇宙30年の歩み」1987)