世界の環境ホットニュース[GEN] 572号 05年03月26日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第8回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第8回 日本では作れなかった航空燃料潤滑油
日本ではジェット燃料用潤滑油を作ることができたのでしょうか? 戦前の航空
燃料潤滑油の製造技術について、防衛庁 防衛研修所 戦史室「陸軍航空兵器の開
発・生産・補給」(東雲新聞社1975)に次の記述があります。
「シナ事変(日華事変)以後、航空潤滑油の供給は 米国からの輸入にすべてを
依存しており、1938(昭和13)年度末まで生産は皆無であった。航空機の発達
、
航空戦力の充実は逐次、航空潤滑油の需要を増大し、国内自給対策の必要がよ
うやく盛んになっていた。」
と作っていたのかいなかったのかわからない、ぼかした表現になっています。
「三井東圧化学社史」には次の記載があります。
「航空機などに使われる高級潤滑油は フィッシャー法により生成する含蝋(が
んろう)油を熱分解した後、塩化アルミニウムで重合する方法の他、動植物油
脂からの製造計画が推進された。」
この動植物由来の潤滑油は二階堂が国会で語ったジェット燃料用潤滑油と同じも
のではないかと思われます。
「三井化学は、昭和16年7月には目黒研究所でフィッシャー法合成油を原料にし
て高オクタン価ガソリン製造試験装置、ならびに潤滑油製造試験装置を建設す
ることを決定した。」
と三井化学は植物由来ではなく、合成油由来で潤滑油を生産することにしました
。
「三井東圧化学社史」ではさらに、
「太平洋戦争緒戦の勝利で 南方原油確保の見通しがついたため、人造石油増産
は見送られ、代わって南方原油からは得にくい航空機用燃料、潤滑油の生産が
求められました。」
とますます航空機用燃料と潤滑油の需要が高まっていたことを伝えています。
ところが、1942(昭和17)年10月13日付東京日日新聞は「スマトラの現実を語る
。
莫大な農鉱物資源」と題して、大東亜共栄圏の各地へ物資を補給せねばならぬス
マトラ島(インドネシア)の役目は重大だとする座談会の様子を伝えています。
その中で、昭南護謨(ゴム)組合業務部長の高木三郎は「潤滑油の問題が一時論
議されたようだが莫大なパーム油の生産を確保したのだからもう心配はない、ひ
まし油よりうんと良質の潤滑油をどんどん造らねばならぬ」と語り、航空用潤滑
油を巡って合成油由来か植物油脂由来かのビジネス争奪戦があったことが伺えま
す。
しかしながら、ついに航空機用潤滑油の生産はどちらも旨くいかなかったようで
す。三井東圧化学社史は次のように締めくくっています。
「昭和18年1月には 軍ならびに商工省の要請に応えて航空機用潤滑油 年産2797
トン、一般用潤滑油 年産1199トン設備の 新設を決定したが、終戦までに操業
するには至らなかった。」
航空機用潤滑油の供給体制が終戦までついぞできなかったことと米国巨大塩化ビ
ニル・可塑剤メーカーであるグッドリッチとモンサントの日本進出には何か関連
があるのでしょうか。
可塑剤と潤滑油とは構造的に非常に似通ったものであり、グッドリッチ、モンサ
ントはともに可塑剤、潤滑油分野でも米国のトップメーカーでした。その両社が
ともに占領下の日本に あいついで異例の進出を 決断したのも、日本の技術では
ジェット燃料用などの高級潤滑油を生産する技術がなかったからなのかもしれま
せん。
グッドリッチは1949年4月に 日本へ市場調査団を派遣した結果、「日本で塩化ビ
ニル樹脂をつくるのは4-5年早くグッドリッチ製品を輸入して日本で加工する
のが妥当」と日本進出見送りの結論を出していました。日本市場に魅力を感じて
いなかったのです。ところが同年11月にはそれまでの慎重姿勢を一転、提携が一
挙にまとまったのです。
しかも、グッドリッチ側は、「日本で使用する限り、計画中の塩化ビニル樹脂と
その可塑剤について将来発生する特許使用権すべてを新会社に与えること、技術
者の指導育成、採用機器のアメリカ及び日本での調達についての援助」などを約
束するという破格の譲歩を示しているのです。さらに、「日本において、ノルマ
ルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタル酸を原料にできるはず
であるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提供する。」とチッソのオ
クタノールに期待している一文があることも見逃せません。(「ゼオン五十年の
あゆみ」)
グッドリッチ態度急変の理由を「あゆみ」は語っていません。しかし、グッドリ
ッチの「日本進出見送り」から「古川電工との提携合意」に至る半年の間に、米
国にとってショッキングな出来事が2つもあったのです。
ひとつは 49年9月のソ連による原爆実験の成功。もうひとつは10月の中華人民共
和国の建国、すなわちレッドチャイナの誕生です。絶対的な破壊力をもつ核兵器
の独占状態が崩れたことに加え、同盟関係にある蒋介石政権の「台湾落ち」は米
国にとって大きな痛手で、軍事戦略と兵器体系の再編を迫る危機だったのです。
(太田昌克「731免責の系譜」日本評論社1999)
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com
水俣秘密工場【第8回】
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水俣秘密工場 原田 和明
第8回 日本では作れなかった航空燃料潤滑油
日本ではジェット燃料用潤滑油を作ることができたのでしょうか? 戦前の航空
燃料潤滑油の製造技術について、防衛庁 防衛研修所 戦史室「陸軍航空兵器の開
発・生産・補給」(東雲新聞社1975)に次の記述があります。
「シナ事変(日華事変)以後、航空潤滑油の供給は 米国からの輸入にすべてを
依存しており、1938(昭和13)年度末まで生産は皆無であった。航空機の発達
、
航空戦力の充実は逐次、航空潤滑油の需要を増大し、国内自給対策の必要がよ
うやく盛んになっていた。」
と作っていたのかいなかったのかわからない、ぼかした表現になっています。
「三井東圧化学社史」には次の記載があります。
「航空機などに使われる高級潤滑油は フィッシャー法により生成する含蝋(が
んろう)油を熱分解した後、塩化アルミニウムで重合する方法の他、動植物油
脂からの製造計画が推進された。」
この動植物由来の潤滑油は二階堂が国会で語ったジェット燃料用潤滑油と同じも
のではないかと思われます。
「三井化学は、昭和16年7月には目黒研究所でフィッシャー法合成油を原料にし
て高オクタン価ガソリン製造試験装置、ならびに潤滑油製造試験装置を建設す
ることを決定した。」
と三井化学は植物由来ではなく、合成油由来で潤滑油を生産することにしました
。
「三井東圧化学社史」ではさらに、
「太平洋戦争緒戦の勝利で 南方原油確保の見通しがついたため、人造石油増産
は見送られ、代わって南方原油からは得にくい航空機用燃料、潤滑油の生産が
求められました。」
とますます航空機用燃料と潤滑油の需要が高まっていたことを伝えています。
ところが、1942(昭和17)年10月13日付東京日日新聞は「スマトラの現実を語る
。
莫大な農鉱物資源」と題して、大東亜共栄圏の各地へ物資を補給せねばならぬス
マトラ島(インドネシア)の役目は重大だとする座談会の様子を伝えています。
その中で、昭南護謨(ゴム)組合業務部長の高木三郎は「潤滑油の問題が一時論
議されたようだが莫大なパーム油の生産を確保したのだからもう心配はない、ひ
まし油よりうんと良質の潤滑油をどんどん造らねばならぬ」と語り、航空用潤滑
油を巡って合成油由来か植物油脂由来かのビジネス争奪戦があったことが伺えま
す。
しかしながら、ついに航空機用潤滑油の生産はどちらも旨くいかなかったようで
す。三井東圧化学社史は次のように締めくくっています。
「昭和18年1月には 軍ならびに商工省の要請に応えて航空機用潤滑油 年産2797
トン、一般用潤滑油 年産1199トン設備の 新設を決定したが、終戦までに操業
するには至らなかった。」
航空機用潤滑油の供給体制が終戦までついぞできなかったことと米国巨大塩化ビ
ニル・可塑剤メーカーであるグッドリッチとモンサントの日本進出には何か関連
があるのでしょうか。
可塑剤と潤滑油とは構造的に非常に似通ったものであり、グッドリッチ、モンサ
ントはともに可塑剤、潤滑油分野でも米国のトップメーカーでした。その両社が
ともに占領下の日本に あいついで異例の進出を 決断したのも、日本の技術では
ジェット燃料用などの高級潤滑油を生産する技術がなかったからなのかもしれま
せん。
グッドリッチは1949年4月に 日本へ市場調査団を派遣した結果、「日本で塩化ビ
ニル樹脂をつくるのは4-5年早くグッドリッチ製品を輸入して日本で加工する
のが妥当」と日本進出見送りの結論を出していました。日本市場に魅力を感じて
いなかったのです。ところが同年11月にはそれまでの慎重姿勢を一転、提携が一
挙にまとまったのです。
しかも、グッドリッチ側は、「日本で使用する限り、計画中の塩化ビニル樹脂と
その可塑剤について将来発生する特許使用権すべてを新会社に与えること、技術
者の指導育成、採用機器のアメリカ及び日本での調達についての援助」などを約
束するという破格の譲歩を示しているのです。さらに、「日本において、ノルマ
ルオクタノール、2-エチルヘキサノールおよび無水フタル酸を原料にできるはず
であるからDOP型可塑剤製造のための同様データを提供する。」とチッソのオ
クタノールに期待している一文があることも見逃せません。(「ゼオン五十年の
あゆみ」)
グッドリッチ態度急変の理由を「あゆみ」は語っていません。しかし、グッドリ
ッチの「日本進出見送り」から「古川電工との提携合意」に至る半年の間に、米
国にとってショッキングな出来事が2つもあったのです。
ひとつは 49年9月のソ連による原爆実験の成功。もうひとつは10月の中華人民共
和国の建国、すなわちレッドチャイナの誕生です。絶対的な破壊力をもつ核兵器
の独占状態が崩れたことに加え、同盟関係にある蒋介石政権の「台湾落ち」は米
国にとって大きな痛手で、軍事戦略と兵器体系の再編を迫る危機だったのです。
(太田昌克「731免責の系譜」日本評論社1999)