私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

第24回 ダイオキシンは語る

2006-09-29 13:42:38 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 609号 05年09月27日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第24回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第24回 ダイオキシンは語る

「三井東圧化学は自社除草剤中のダイオキシン濃度を知っていて減らしていた」
と主張したのは横浜国大教授(当時)中西準子と益永茂樹です。彼らはまったく
別の目的で行なった研究から、このことに気付き、その結果、彼らは「無視」あ
るいは厳しい「迫害」を受けたのです。

1990年代 後半に沸き上がったダイオキシン騒動の中、1999年1月に中西らのグル
ープが農家に残されていた古い除草剤PCPとCNPを分析して、除草剤由来の
ダイオキシン汚染の 実態を 大学のワークショップで発表しました。CNPとは
1965年に三井東圧化学がPCPに代わる水田除草剤として開発した農薬です。商
品名 MO(M=三井、O=大牟田)が示すごとく、三井東圧化学 大牟田工業所
(福岡県大牟田市)を代表するヒット商品になりましたが、1994年に胆のうがん
の原因物質であることが指摘され生産中止となりました。このCNPも、PCP
同様枯葉剤生産とは不可分の関係にあると考えられますが、ここでは説明は省略
します。

中西は自らのHPで研究の意義を次のように説明しています。

 「私たちの研究室は、今年の1月に開かれたワークショップで、日本でかつて
 大量に使われた水田除草剤に最も毒性が高いダイオキシンが含まれていたと発
 表した。しかも、それらの毒性換算量(TEQ)は、『総量で ベトナムに散布さ
 れた枯葉剤の量を超え』、わが国で都市ごみ焼却炉から排出されていると推定
 される量と比較しても10倍程度高いという推定を出した。この結果は、都市ご
 み焼却炉だけを目の敵にしたような論調や行政の政策の変更を求める、歴史的
 な研究だと自負している。」

中西らの研究はゴミ焼却炉建設一本やりのダイオキシン行政に一石を投じるもの
で、国会で何度も取り上げられましたが、「朝日新聞を除くジャーナリスムは、
完全に無視」(中西のHP)という状況でした。その背景にはダイオキシン特需
に水を差されては困る産業界の意向があったと思われます。その後、中西らにと
って想定外の展開が待っていました。

 「その年の3月末に開かれた日本農薬学会で、三井化学のT氏が、告訴すると
 いい、さらによく事情が呑み込めないのだが、農水省までが国会内で、市民団
 体に対し、告訴も考えると発言した。」

さらには、「表面での無視とは裏腹に、水面下で我々の研究グループにかけられ
ている圧力と誹謗中傷、直接的な脅しは、背筋が寒くなるほど厳しい」(中西の
HP)という状況が続きました。

中西らは製造年次がわかる古い農薬を集めて、それぞれの農薬中のダイオキシン
濃度を測定、その結果とその農薬の年次ごとの過去の出荷量(統計データ)の掛
け算から年次ごとのダイオキシン放出量を推定したのです。その結果は大型焼却
炉建設一辺倒という国策の誤りを指摘するものでしたが、彼らが明らかにしたの
はそれだけではありませんでした。「日本国内で放出された除草剤由来のダイオ
キシンは米軍がベトナムで散布した枯葉剤由来のダイオキシン量より多かった」
ことを指摘するとともに、冒頭の「三井東圧化学は自社除草剤中のダイオキシン
濃度を知っていて減らしていた」ことまで証明してしまったのです。

三井東圧化学の除草剤を生産年順に並べると、不純物として含まれるダイオキシ
ン濃度に不自然な「不連続性」が見つかりました。そして、その「ダイオキシン
濃度が激減する不連続ポイント」とダイオキシンが社会的問題となった時期とが
ピタリ一致するというのが中西の主張の根拠です。

しかし、中西は「知っていて増やした」と言ったわけではありません。知った以
上、当該製品の製造中止ないしは有害物質を減らすのは企業努力として当然のこ
とと思われます。それなのに、なぜ三井化学のT氏や農水省は告訴するというほ
どに狼狽したのでしょうか? 三井東圧化学は1997年に三井石油化学と合併して
「三井化学」になっていました。

結局、99年7月、三井化学と農水省は 告訴することなく、逆に記者会見を開いて
三井東圧化学の除草剤に最も毒性の高いダイオキシンが含まれることを認め、さ
らに9月には三井化学のK氏が謝罪のため中西準子教授を訪問して次のように語
りました。(中西準子のHP)

 「今までのご迷惑を社として、深くお詫びします。今までの三井東圧の dirty
 な部分は全部洗い直し、きれいになります。新しい社長の中西宏幸(三井石油
 化学出身)は、ともかくクリーンで、何が何でもクリーンでなければならない
 と言っております。現在、鋭意分析に努力をしているのですが、7月に発表し
 た値より高い値も検出されており、それも含めて、データが出次第、データの
 説明をふくめて中西社長が謝罪に伺いますので、なにとぞ今までのことは御容
 赦いただきたい。中西(こちらは準子)先生が、疑問を出しておられる経年変
 化についても、きちんとご説明させていただきます。」

中西準子は その説明を 待っていましたが、何の説明も ないまま(中西のHP)
2002年4月12日、農水省は 記者会見を開き、農水省が独自に分析した水田除草剤
CNP検体33試料についての調査結果を公表しました。さらに同日、三井化学も
独自に調査した自社製CNPの分析結果をHP上で公開しました。
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak171_175.html

中西はその分析結果について、次のように述べています。中西らの分析結果と農
水省の分析結果とは

 「試料が違うにも拘わらず、驚くほどの一致である。」「それに引き替え、三
 井化学が99年7月に発表した値は全く違う。よく見ると、低い値は我々の結果
 とも、農水省の結果とも一致している。しかし、三井化学の発表データには高
 い値が全くない。一体これは何だ?」(中西のHP)

つまり、かねて三井化学が主張していた除草剤のロットごとのダイオキシン濃度
の違いは大差なく、ダイオキシン濃度の低い除草剤では中西・農水省・三井化学
3者間にも大差がない。しかし、より誤差が少ないと考えられる高濃度ダイオキ
シンの除草剤では三井化学だけ低い数値になっているのは三井化学による意図的
な情報操作の疑いがあると中西は告発しているのです。さらに中西は自身のHP
で次のように指摘しています。

 「再度言いたい。1999年7月 記者会見までして、三井化学が発表したデータは
 どういう性質のものか? また、もしそれが間違いがあったとして、訂正値を
 今に至るまで、発表しなかったのは、何故か?(厳密には、今も発表していな
 い。)それを、三井化学は説明する義務がある。そうでないと、嘘のデータを
 出しているということと同じことになる。」

 「1970年代後半における(ダイオキシン濃度の)急激な減少が、農水省と横浜
 国大のデータには 見られるが、三井化学のデータにからは読めない。1975~6
 年頃に、知っていたか否かは、企業責任問題の最重要ポイントである。」

1976年にはイタリアで枯葉剤245Tを生産していた工場の爆発事故があり、大
量のダイオキシンが工場周辺に飛散しました(セベソ事件)。この事件をきっか
けにダイオキシン問題が世界的関心事となり、ニュージ-ランドのイワンワトキ
ンスダウ社を除く世界中の枯葉剤工場が閉鎖、日本の三西化学もこのとき工場を
閉鎖したのです。

三井化学のT氏と農水省の担当者が中西を告訴するとまで言い出した原因が、中
西の「ダイオキシンを知っていて減らした」との指摘にあることを三井化学自身
が公表データで証明してくれました。そして、中西準子の指摘は中西宏幸・三井
化学初代社長の当初の意向に反してでも隠さなければならない重大なタブーだっ
たのでしょう。そのタブーは「化学兵器・ダイオキシン」と深く関わっていると
考えられます。

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第23回 人体実験の目的

2006-09-29 13:41:58 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 608号 05年09月21日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第23回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第23回 人体実験の目的

当時明らかにされなかった実験の目的を推理するには、まず実験が行われたタイ
ミング、そして実験内容を吟味することから始めましょう。

PCPや245Tに関わる事故の続発は三井東圧化学大牟田工業所だけではあり
ませんでした。三井東圧化学の子会社三西化学(福岡県久留米市)では60年の創
業当初からPCPなどの漏洩が凄まじく、熊本大学・野村らのいわゆる官製の調
査が数度に亘って行われたにも拘わらず、いずれも許容範囲内との結論が出され

一向に改善されないままでした。その官製調査の結果と住民の実体験との差に住
民は納得できず1972年5月、高橋晄正(東京大学医学部)らに検診を依頼しました。

自主検診には 工場周辺住民134名が参加、検診の結果、皮膚症状(かぶれ、ブツ
ブツ、しみ、色が悪いなど)、視力低下、結膜炎様 症状、鼻・咽頭症状、神経精
神症状(不眠、熟眠困難、嗅覚障害など)、自律神経 症状、胃腸障害などが多数
存在することが認められました。さらに、微血尿、コリンエステラーゼ活性値の
低下、心電図異常も認められています。これらの項目は三井東圧化学の人体実験
の内容と類似していました。こうして検診を進めるうち、高橋はあることに気付
いたのです。これらの他覚的異常者は井戸水飲用者に多いということに。それま
での官製調査では大気中の農薬濃度ばかりが検討されていたので画期的な指摘で
した。

高橋らの指摘によって72年9月に井戸水が分析され、三西化学の下流域でPCP、
BHCなどが検出されました。そこで住民らは12月に、三西化学の証拠保全を申
し立てるとともに、愛媛大学 農学部教授 立川涼に土壌の分析を依頼しました。
その結果、PCP,BHCの他にも68~69年の間だけ使用されていた排水路から
PCBまでもが検出されました。その内容が三西化学にもたらされると工場幹部
はそれまでの知らぬ存ぜぬとの態度を一変させ、何やら動きが慌ただしくなった
ことを住民は特に印象深く記憶していました。そしてついに、2月1日に住民が三
西化学を水質汚濁防止法違反、毒劇物取締法違反で告発したのです。問題の人体
実験はこの2週間後に行われています。

従って、このタイミングでの人体実験は、近い将来、三西化学並びに三井東圧化
学が提訴された場合の裁判戦術にとって重要なデータ取りだったのではないかと
推測されるのです。

では、どのようなデータを必要としていたのでしょうか? 私はここで大胆な仮
説をたててみました。野村が知っているPCP中毒は「ダイオキシン濃度が高い
PCP(あるいは245TCP)」によるもので、三井東圧化学が人体実験に用
いたPCPや245TCPは「極限までダイオキシン濃度を減らしたもの」だっ
たのではないか、という仮説です。つまり「従来のPCPまたは245TCP中
毒の原因はダイオキシンか否か?」を確認するためだったのではないかと推理し
ました。

三井東圧化学がPCP、245TCPでは既に多くの被害者を出しているにもか
かわらず、新聞社の取材に対し、ことさらに「薬品は無害」と言い立てている背
景には、会社側に「純粋のPCP」の毒性は極めて低いのではないかという確信

あるいは期待があったのではないかと思われます。「かぶれるはずがない」との
過信さえあったかもしれません。被験者にばれることはなかろうという希望があ
ったからこそ「被験者に無断で」やってしまったのだと考えられます。しかし、
結果は期待に反して「発症」し、実験の存在が明らかになったのです。

この仮説の必要条件としては少なくとも、三井東圧化学に「自社除草剤中のダイ
オキシン濃度を知り、なおかつ減らせる」技術がなければなりません。

三西化学農薬裁判は最高裁まで争われた結果、99年2月に 多数の物的証拠があり
ながら住民原告敗訴で終わりました。ところがその翌月、「三井東圧化学は自社
除草剤中のダイオキシン濃度を知っていて減らしていた」と主張する大学教授が
現れたのです。

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第20回 林野庁245T遺棄事件

2006-09-29 13:41:18 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 605号 05年09月06日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第20回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第20回 林野庁245T遺棄事件

林野庁 長官の「71年夏の245T使用中止」表明 後も、塩素酸ソーダの散布は
全林野 労組、住民の反対にも拘らず 更に規模を拡大していて、林野庁の除草剤
散布意欲は少しも衰えていません。米軍もニクソン大統領の中止命令後にも拘ら
ず枯葉作戦を続けていたことが後に判明しています。(1971.10.24 朝日新聞)

とりあえず、林野庁は「国有林での245Tの使用中止」(4月6日付 林野造303
号通達)と、「在庫の245Tは追って処分方法を連絡するまで鍵のかかる倉庫
に保管」(4月19日付 林野業170号 通達)を指示。その後、日本版 枯葉 作戦で
245Tが散布されることはありませんでしたが、その代わりに林野庁は245
Tを国有林に遺棄することにしたのです。

多くの国民が日本版枯葉作戦のことを忘れかけていた1984年、全国各地の国有林
から245Tが流出していることが判明、林野庁の杜撰な処分が問題となりまし
た。1983年8月、全林野労組四国地方本部は当局に埋設薬剤の追跡調査を要求し、
独自に調査も開始しました。84年4月の交渉では、当局は 埋設処分に問題はなか
ったと答えています。そこで、全林野労組四国地本はダイオキシン問題に取り組
んでいる愛媛大学農学部教授・立川涼に協力を要請、5月9日に同学部助教授・脇
本忠明らが愛媛県宇和島市郊外津島町の山林にある現場に同行、245Tの流出
を確認したのです。(GEN333号既報)

この日の発掘作業で地中 約1.5mから日産ウィードンという商品名のついた段ボ
ールにつつまれた石油缶が掘り出されました。(河村宏・綿貫礼子「毒物ダイオ
キシン」技術と人間1986)

「当時、缶を四、五本ずつ一緒に包んだというビニールはもれた薬剤で変質した
のか、破れ、露出した三本の缶はいずれも腐食して穴があいていた。缶は薬剤名
が印刷された段ボールに包まれ、薬剤のにおいがプーンと鼻をつく状態」(84
年5月15日衆院環境委員会)で発見されました。

全林野労組四国本部は独自の調査結果を公表、1971年当時高知営林局管内の13営
林署に245Tの乳剤2700リットル、粒剤1020キロの在庫があったことを示す資
料を提示して、埋設箇所の全調査、埋設方法の確認と科学的な分析、今後の万全
な対策を求め、調査には全林野労組の立会いを強く要請しました。

しかし、林野庁長官・秋山智英は、全林野労組の意見は聞いてもいいが、調査へ
の参加は認めないと発言(1984.5.15 衆院農林水産委員会)、林野庁の責任問題
も「林野庁あげて取り組む」と答えただけで責任を認めたわけではありませんで
した。(1984.5.17衆院農林水産委員会)

林野庁が 労組の立会を 認めなかったのはこのときだけではありません。1971年
日本版枯葉作戦で245Tの散布が取りやめになった直後、除草剤を処分する際
に、全林野労組は 自分たちが最大の犠牲者だから きちんと廃棄処分することに
自分たちを立会させてくれと申し入れたのですが、林野庁は拒否したという経緯
がありました。そして84年にはダイオキシンの問題が社会的にも大きく取り上げ
られた影響で、84年4月の労使交渉 以来、マスコミが245T埋設問題を取材し
ていることを当然林野庁も把握しているという状況にありました。それでも林野
庁長官・秋山智英は、愛媛大学の調査が報道されるまで知らなかった、当事の詳
細は調査中でわからない、といい続けました。

しかし、野党の追及で、245Tの杜撰な取り扱いが次々に露呈、田中恒利(社
会党)は「そういう状況を見ると、営林署なり営林局なり林野庁というものは、
山を守らなければ いけないのに どうも むしろ山を破壊しておる じゃないか」
(1984.5.17衆院農林水産委員会)と語っています。

埋設量の 多い 地域は、粒剤では、熊本県 宇土市(2055kg)、熊本県 北部町
(1295kg)、鹿児島県吉松町(1200kg)、青森県小泊町(1200kg)、愛知
県設楽町(1095kg)、岩手県岩泉町(1095kg)など合計25トンあまり、乳剤
では高知県窪川町(648リットル)、同・大豊町(360リットル)、愛媛県津島町
(252リットル)、高知県宿毛市(198リットル)など 合計2.1キロリットル(た
だし、判明分のみ)でした。(河村宏・綿貫礼子「毒物ダイオキシン」技術と人
間1986)

林野庁が除草剤、枯葉剤散布に固執した理由として当時問題にされたのは、産・
官の癒着でした。林野庁が薬剤を高価格で大量にかつ安定的に購入する代わりに

幹部が農薬メーカーや関連特殊法人に多数天下っていたのです。(1982.3.18 衆
院農林水産委員会)

林野庁が国有林で245Tを散布していたのは、廃棄物処理が目的だった塩素酸
ソーダ散布と異なり、もともといずれ必ず終わるベトナム戦争の「後」、「枯葉
作戦後」を見据えた農薬メーカーの事業開拓の意味合いがあったと思われます。
あるいは米軍に買い叩かれていた枯葉剤を林野庁が高価で買い取ることで全体の
価格調整を図っていたのかもしれません。この利権構造は松食い虫対策に引き継
がれました。もともと被害がなかった松林に殺虫剤を空中散布して「被害が減っ
た」とか、散布しなかった 地域で「効果があった」などの 虚偽の報告をもとに
「松くい虫防除法案」が上程され、野党議員から「こんないい加減な資料では審
議はできない」と反発されましたが(1977.9.12 衆院農林委員会)、与党自民党
の賛成多数で法案は成立、その後も散布効果は不明確なまま現在に至っています


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第19回 日本でも枯葉剤散布

2006-09-29 13:40:39 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 604号 05年09月03日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第19回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第19回 日本でも枯葉剤散布

林野庁が国有林で米軍同様に枯葉剤245Tを散布していたことが発覚したのは
1970年5月です。北海道大学医学部の調査で 明らかになり、「北海タイムス」が
とりあげました。(1970.5.28 全林野新聞)国有林で245Tが使用されたのは
1967年から1970年にかけて(1984.5.18 衆院環境委員会)で、粒剤で4494トン、
乳剤で109キロリットル、有効成分量(245Tそのもの)にして 91トン(工場
出荷量96トン-廃棄またはメーカー返却5トン)(1984.7.17衆院環境委員会)が
散布されました。枯葉剤の もう一方の成分 24Dも青森、秋田、岩手、山形の
2620 ヘクタールの山林に370トンが散布され、本来害を及ぼしてはいけないはず
の杉にまで被害がでました。(1970.7.10衆院農林水産委員会)

1970年には青森県下北半島に生息する北限のニホンザルが南下を始めていること
が確認され、奇形児も発見されました。その後モンキーセンターの調査で、ベト
ナムで問題となっていた枯葉剤を林野庁が生息域周辺で散布していたことが判明

南下の原因は枯葉剤で餌を失ったためと推定されました。

秋田県玉川村では天然記念物カモシカの生息地に除草剤を散布、3日後に口から
泡をふいているカモシカが発見され、死亡が確認されると、その内臓は営林局が
持ち去り、死因は不明のままです。「森林(ヤマ)は死に人は滅びつつある」が
全林野の除草剤散布現地調査団の感想でした。(1971.6.24全林野新聞)

四国ではニホンカワウソの生息を示す足跡、食べ残しのエサ、巣などの発見報告
(いわゆるカワウソ情報)が絶えたのも、245Tが大量に散布されていた1970
年前後(1984.5.21 朝日新聞)でしたし、この頃各地で先天的奇形猿が話題にな
りました。

林野庁は散布予定箇所以外に除草剤が拡散することは絶対ないと主張、枯葉剤散
布が下北半島のニホンザル南下の原因とするモンキーセンターの調査結果を否定
していましたが、全林野調査団の現地調査で散布予定地の笹は完全に枯れ、予定
地外の沢沿いの笹も広く枯れているのが確認されています。(1971.6.17 全林野
新聞)

弘前大学教育学部教授・石川茂雄は、「枯葉剤をまくと、下北半島で日本の北限
である、たいへん貴重な植物が死んでしまう。さらにサルのえさがなくなってし
まう。枯葉作戦に 使用した薬を 散布するのだったら、事前に相談して欲しかっ
た。」と語っています。(1970.7.10衆院農林水産委員会)

宮城県の花山村では心配した村長が営林署を訪ね、「慎重を期してやってくださ
い」と要請して、営林署職員は慎重を期しますといっていたのに、村長がうちに
帰ったらもう散布されていたという事件もありました。

これらの営林署を管轄する青森営林局の安江営林局長は記者会見で「野生動物の
保護も水の汚染もこれから調査する。」と語りました。これでは、林野庁は調査
も実験もしないで枯葉剤を使用したのではないかと疑われても仕方ありません。

ところが、林野庁長官・松本守雄は「塩素酸ソーダは食塩よりも毒性が小さい。
枯葉剤は劇物に指定されていないから危険はまったくない。」と答え、動物への
影響についても「魚毒性は極めて少ない。牛、羊、鶏には影響はないというデー
タがでている。サルでは実験していない。鳥類での実験はあるが省略する。」と

営林局長が「これから」と答えた動物実験は既に「良好な」結果がでていること
を強調、枯葉剤散布をやめる考えのないことを表明しました。(1970.7.10 衆院
農林水産委員会)

しかし、その後農林省林業試験場の「除草剤の鳥類の生殖機能に及ぼす影響」を
確認する実験で、245Tの場合は卵の変化どころか親鳥(ウズラ)が48羽中45
羽も死ぬという結果がでて、試験場内部でも「245Tは絶対使うべきではない

との声がでていました。実験結果は 71年2月の農林省の技術会議で報告されたも
のの、農林省は公表せず、情報を掴んだ日本野鳥の会が同試験場に問い合わせた
ところ、実験 担当者が「外部に 出すのは 好ましくない、と 上司に言われてい
る。」と回答を拒否したのです。(1971.3.26朝日新聞夕刊)

この問題は早速国会で取上げられ、林野庁長官・松本守雄は、外部へ発表する段
階ではないと判断していた、隠していた訳ではないと釈明。この夏の使用を中止
することを表明しました。日本野鳥の会事務局では「永久に使用しないとは言っ
ていないことが問題だ。」とのコメントをだしています。(1971.3.27朝日新聞)

林野庁長官は下北半島への245T散布を批判されて、「ウズラの実験は11月に
行なった(だから、毒性は知らなかった)。」と答弁しています。(1971.4.14
衆院 産業公害対策特別委員会)これは明らかに7月の「鳥類での実験はあるが省
略する。」との答弁と矛盾しています。林野庁は国会で追及されてから後追い実
験するというのが日本版枯葉作戦のひとつの特徴です。

古寺宏(公明党)は

 「245Tの中のダイオキシンは、サリドマイドの百倍の催奇性があるという
 ふうにいわれておるわけですね。そういうことを知っていながら、しかもこう
 いうウズラの実験なんかは、何も薬を散布してしまったあとで実験しなくても

 幾らでも林業試験場で実験できたんじゃないか、私はこう思うのです。そうい
 うようないろいろないままでの経過を見ますと、この245Tを散布するため
 にいろいろ国民を、あるいは住民を、はっきり言うならだまして散布してきた

 こういうふうにしか受け取れないわけです。」(1971.4.14 衆院産業公害対策
 特別委員会)

と日本版枯葉作戦の目的が「とにかく散布すること」にあったと指摘しています


結局、米軍がベトナムでの枯葉作戦を4月に中止 (1970.12.28 朝日新聞)すると、
日本版枯葉作戦での245T使用もその夏だけでなく中止されました。林野庁は
散布をやめ、在庫の245Tを国有林に埋めて捨てることにしたのです。

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第18回 日本版枯葉作戦の始まり

2006-09-29 13:39:57 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 603号 05年08月31日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第18回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第18回 日本版枯葉作戦の始まり

1966年になると、林野庁は 6月14日付通達で飛行機(ヘリコプター)による除草
剤散布を認めました。

通達では集落の近くや水源地には散布しない、散布エリアに作業者がいないこと
を飛行前に確認するとなっていますが、全林野新聞には山に入っていた作業員の
頭の上から塩素酸ソーダが降り注いだ、弁当の上にも降ってきた、水源のイワナ
が死んだ、養魚場の魚が 全滅した、放牧していた牛馬が死んだ といった記事が
たびたび掲載されるようになりました。

空中散布は「省力ならびに経費節減」が目的という林野庁の説明でしたが、66年
10月に早くもその理屈は突き崩されています。全林野前橋分会が除草剤は人体へ
の影響がある問題ばかりでなく、人間による下刈りよりも高価につくというデー
タを具体的に示したのです。(1966.10.6 全林野新聞)記事によると除草剤使用
の場合は人間による下刈りの約2倍のコストがかかるとのことです。

事故が続いても、コスト高になっても、住民の生活が脅かされても、反対運動が
各地で起きても、林野庁長官は散布を中止しない、延期するつもりもないと言い
続けました。厚生大臣が「除草剤使用には慎重を期したい」と言っても林野庁長
官・松本守雄は「とりやめる考えはない。」「住民には夜遅く朝早く出かけて行
ってでも説得に努める。」と並々ならぬ執念をみせています。(1970.10.9 衆院
社会労働委員会)そして、実際、営林署と関係深い製材業者である町議をまず切
り崩し(1970.12.8 衆院農林水産委員会)、反対署名した住民に対し、下請業者
や営林署管理職が夜討ち朝駆けで戸別訪問し、署名撤回を要請、住民は地域社会
を分断する行為に困惑しました。

また、林野庁は「除草剤・塩素酸ソーダは食塩と同じ成分で安全」と説明、安全
性を疑問視する住民に問い詰められて営林署管理職が除草剤を飲んで見せるとい
う事件まであって、住民は「営林署はキチガイ同然」と呆れました。(1970.12.
29 全林野新聞)

そのような林野庁の 努力の結果、散布量は年々増加し、67年度52900ヘクタール

68年度6万、69年度 74300ヘクタールに散布(1970.10.9 衆院社会労働委員会)、
種類別では 69年度の実績で、塩素酸ソーダが 面積で 54000ヘクタール(製剤量
5280トン)、245Tが 面積で19200ヘクタール(製剤量で570トン、こ
のうち 245T 原体は7トン)、スルファミン酸系は全体の使用量の1%程度
(1970.10.27参院農林水産委員会 林野庁長官・松本守雄答弁)、民有林で69年
度の使用面積は36000ヘクタールに達しました。(1970.12.8衆院農林水産委員会
林野庁長官・松本守雄答弁)ただし、民有林での除草剤使用は林野庁が強力に要
請した事例もあったことがわかっています。

このように、山林に散布された除草剤は245Tよりも塩素酸ソーダの方がはる
かに多いのです。なぜ林野庁は「キチガイ」呼ばわりされるほどの執念で、林業
試験場も問題だと指摘する塩素酸ソーダの散布にこだわったのでしょうか?

そもそも塩素酸ソーダとは何でしょうか? まず塩素酸ソーダの製法をみてみま
す。塩素に苛性ソーダを反応させると塩素酸ソーダと食塩ができます。この反応
式から、林野庁が「除草剤は食塩と同じ成分」と宣伝していた意味が少し理解で
きます。正しくは「除草剤には(精製していないので)食塩と同じ成分が残った
ままになっている。」というだけの話で安全かどうかとは別問題です。

 3Cl2  +  6NaOH  →  NaClO3  +  5NaCl  +  3H2O
(塩素)  (苛性ソーダ) (塩素酸ソーダ) (食塩)    (水)

ただ、これだけを見ても林野庁と塩素酸ソーダの関係は見えてきません。ところ
が、これに枯葉剤原料245TCPの生産工程(第16回参照)を重ねて表示して
みると、林野庁の執念の理由が見えてきます。

       四塩素化以外の塩素化ベンゼン→除草剤PCP(農林省が推進)
           ↑
ベンゼン+塩素→塩素化ベンゼン→四塩素化ベンゼン→245TCP→245T
     ↓(余剰の塩素)苛性ソーダで吸収   (豪・ニュージーランドへ)
    [塩素酸ソーダ+食塩](林野庁が散布していた除草剤)
 
枯葉剤原料を含む有機塩素系農薬の製造には塩素ガスが使われます。化学反応で
使われなかった余分の塩素ガスは有毒なのでそのまま排気するわけにはいかず、
苛性ソーダなどのアルカリ剤で中和・吸収して塩素ガスを処理するのです。この
とき、副生してしまうのが塩素酸ソーダです。

枯葉剤原料を作ろうとすると、その製造段階でできてしまう副産物(産業廃棄物

を処分しなければなりません。副産物の処分ができなければ製品も作ることがで
きなくなります。そのような重責を担って、ベンゼン由来の副産物は農林省の担
当で「除草剤」として水田に、塩素由来の副産物は林野庁担当でこれも「除草剤

として山林で「処分」することにしたのでしょう。日本の国土は枯葉剤の産業廃
棄物処分場となったのです。林野庁が何と言われようと除草剤散布をやめなかっ
た理由がここにあったと考える以外に、林野庁の執念を説明できません。

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第17回 林野庁からの委託研究

2006-09-29 13:39:17 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 602号 05年08月26日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第17回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第17回 林野庁からの委託研究

枯葉剤国産化に林野庁も一役買っていたという疑惑についても触れなければなり
ません。米軍がベトナムで枯葉剤を散布していた時期に、日本では林野庁が国有
林に塩素酸ソーダを中心とする除草剤を散布していました。そして三井東圧化学
が枯葉剤245Tを生産しはじめると、林野庁もまた245Tを国有林に散布し
はじめたのです。林野庁の一連の行動は「日本版枯葉作戦」と呼ばれ、林野庁は
省力化を口実に労働組合を敵視し、住民を欺き、大臣の発言を無視して散布を強
行しました。そのような暴走はベトナムでの枯葉作戦が中止された後も続き、林
野庁が残した負の遺産はあまりにも大きなものでした。

ミミズ研究で有名な中央大学名誉教授・中村方子の「ミミズに魅せられて半世紀

(新日本出版社2001)の中に「人間として許せない出来事」という項目があり、
ここに林野庁からの「委託研究」に関する記載があります。(以下引用)

  その出来事は、アメリカのベトナム侵略戦争のさいの枯葉作戦との関わりで
 あった。「枯葉剤は人畜無害であって、これを用いるのは敵の隠れ場所をなく
 して友軍の安全をはかるだけの作戦であり、非常に人道的な作戦である。」と
 報道しながら米軍は連日多量の枯葉剤をベトナムで散布し、その結果がもたら
 した人命や自然に対する計り知れない破壊行為は今では弁明の余地はない。
 
  こうした中で、日本でも多量の枯葉剤が森林の下草管理を目的として散布さ
 れ、東北に住んでいる分布北限のニホンザルに多くの奇形児が生まれ問題にな
 った。この散布が実施される前に、この枯葉剤散布を是とするための「研究」
 が求められたのである。それはかつて水俣において有機水銀中毒患者が発生し
 たとき、工場排水に原因があることの真相追及をはぐらかすために複数の御用
 学者が関わったこととも類似していた。東北のブナ林の下草管理を人手に代わ
 って、枯葉剤散布に切り替えようとした営林署が、事前に枯葉剤散布は環境に
 悪影響を及ぼさないというデータを出してくれることをK先生に頼んできたの
 である。そのデータを学会誌等に発表しないことも含めてK先生は引き受けら
 れたのである。私は当然協力を拒否して批判した。(引用終わり)

K先生の怒りはいかばかりだったでしょう。中村は幸い教育公務員特例法によっ
て解雇を免れたものの、15年間研究者として「干された」状態にされました。文
中に「出来事」の時期は明示されていませんが彼女の経歴から逆算すると1963年
のことと推定されます。当時 林野庁が国有林に散布していた除草剤は ほとんど
塩素酸ソーダでしたから、林野庁が委託した試験は枯葉剤以外にも複数の薬剤が
リストアップされていたと思われます。

営林署が塩素酸ソーダの散布を始めてから、この薬剤に由来する事故が多発、青
森では死亡事故まで起きていて、国会でも塩素酸ソーダ散布の是非が問われてい
ます。(1962年10月30日参院決算委員会)

 北村暢(社会党)「除草剤は市販品をそのままいきなり事業化して使っている
 のですか?」

 林野庁長官・吉村清英 「そうでございます。」

 北村 「軽率ではないか?20年近く林業試験場で研究されている除草剤と市販
 の除草剤とどんな比較検討をして市販品を選択したのか?」

 林野庁長官 「いろいろな試験をして塩素酸ソーダが適当だということになっ
 た。」

 北村暢 「農薬検査所や、林業試験場に確認したところ、塩素酸ソーダを使う
 のは危険であるとの意見があった。枯れ草に付着すると引火の危険が高いとい
 う。山林除草剤に使うなら引火性のない塩素酸石灰を奨励するのが普通だ、こ
 ういう意見があることを承知しているか?」

 林野庁長官 「塩素酸石灰があることは承知しているが、その方が適当だとの
 意見までは聞いていない。」

 北村 「林業試験場の長年の研究成果がどう生かされて塩素酸ソーダを使うこ
 とになったのか?経済効果はあるのか?」

 林野庁長官 「一度の散布で比較すると除草剤使用の方が高くつくが、一度散
 布すると2年間は草がはえないという前提で考えている。効果の確認には試験
 面積を広げる必要がある。」

 北村 「植栽木には害はないのか? 実際には植栽木のまわりは鎌で草きりを
 してから散布していると聞いた。それで合理化効果はあるのか? 試験なのに
 技術的にそのやり方でいいのか? 鉄道沿線では5m離れた桑の木が散布で葉
 が落ちたということがあった。」
 
 (この件については回答なし)

 北村 「試験散布といいながら、死者が出た青森では、監督もいない、使い方
 の指示もない、ただ作業員に撒けというだけで、彼らに手で撒かせている。試
 験の体制でもない。いったいどういうことか?」

 林野庁長官 「予め十分な注意をしたと報告を受けている。事故があったので
 さらに厳重に注意をした。」

 北村 「林野庁は昭和電工の塩素酸ソーダを使っているが、青森営林局の経営
 部長の指示を書いたプリントを見ると、メーカーの昭和電工が出した宣伝ビラ
 を文書にしただけではないか? 林業試験場の結果に基づいて使用方法を決め

 その方法ならばこんな効果がでるというものがなければならないのに、市販で
 あるというだけで林野庁は使っている。使うことになったから、しゃにむに使
 うというやり方は軽率ではないか? 私には理解できない。」

ここで委員長が速記を止めさせていて その後どのようなやり取りが あったかは
わかりません。質疑もここで終わっています。営林署が都立大学K先生に「散布
薬剤は安全だとの試験結果」を要請したのはこの後まもなくのことと見られます


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第15回 最も悪質な薬品

2006-09-29 13:38:34 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 600号 05年08月17日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第15回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第15回 最も悪質な薬品

三光化学は 1963年9月に 三西化学と名称を換え、三井東圧化学の 下請けとして
様々な有機塩素系農薬の生産を続けていますが、裁判記録の中に次の証言があり
ます。

「昭和45(1970)年3月、ぴかりパーマ屋の表にあった二本のエノキ杉や 河内さ
ん宅の松ノ木が枯れたそうです。そのことを話しに来られましたので「工場は何
を製造しているのか?」と電話で尋ね、この数日間での木が枯れる様子などを話
したところ、深町工場長代理は事務の大津さんを連れて説明がてらお詫びに来ま
した。(中略)深町工場長代理は「もうあなたにはウソはいえません。本当のこ
とを言います。実は『本社命令で東南アジア向けに最も悪質の薬品』を再ねりし
て作っています。もうあと1週間で終わります。次回からは幹部全員土下座して
も断ります。」と大変緊張した面持ちで話し、「実は私もいやでなりません。で
も工員の給料等のため、やむを得ず承知しました。本当にすまないと思っていま
す。」と深々と頭を下げて詫びました。大津さんは「そんなこと言っていいです
か」と工場長代理のひざをそっと、つついていました。が、工場長代理は強い決
意の面持ちで「自分が責任はとる」とはっきり言い切ってありました。」

「東南アジア向けに最も悪質の薬品」とは何でしょうか。この庭木枯れ死事件は

第1回でとりあげた、楢崎弥之助が 三井東圧化学の枯葉剤製造疑惑を告発してか
らまだ1年も 過ぎていません。「ベトナム向けの枯葉剤」以外にありうるでしょ
うか。ニクソン政権は枯葉剤の使用は毒ガス兵器の使用を禁じたジュネーブ条約
には含まれないとの立場をとっていましたが、人体に有害であることが報告され

国際的非難や、米議会からも批判が強まっていました。米政府がベトナム戦争に
おける 枯葉作戦は「段階的に 縮小し、来年春には 全面的に 廃止する計画であ
る。」と発表したのは1970年12月26日のことでした。(1970.12.28朝日新聞)

厚生省の調査団として三光化学(後に三西化学と改称)に入った上田喜一は工場
をどのように見ていたのでしょうか。94年2月10日・福岡高裁 第11回口頭弁論の
議事録の中に、工場周辺住民で原告・清川正三子への本人尋問の記録があります


 弁護士・有馬 (1961年の三光化学創業以来、住民たちは福岡県に何度も抗議
 の申し入れをした。)その結果、昭和37(1962)年10月に上田喜一教授(東京
 歯科大)がきて、厚生省の調査がありましたね。

 正三子 私をちょっと体をみて、清川さんはPCPに暴露されて、アレルギー
 になっているので病院に行ったら、これから先は真っ先にアレルギーであると
 いうことを言わないと、命にかかわりますからね、とおっしゃいました。

 有馬 その後上田教授と会ったことがありますか?

 正三子 はい、3回ほど会いました。それで 一番最後の、東京に上京したとき
 に、先生とお会いしましたら、大変だったなあ、自分があの時点でもう少し勇
 気を奮って工場を止めておけばよかったと、あなたには随分ご迷惑をかけたん
 だなあと、反省していると、そうおっしゃいました。

 有馬 それは昭和46年(1971年)頃、再び問題が大きくなって、東京に行った
 ときのことですね。

 正三子 そうです。

 有馬 工場のことについて何か言っておりましたか。

 正三子 あそこは始まりから工場といえる代物ではないんだよって、そうおっ
 しゃってました。

 有馬 工場を止めておけばよかったというふうな表現をされたわけですね。

 正三子 そうです。

 有馬 農薬のことについては何も言っていませんでしたか。

 正三子 いや、PCPなどは大変なものだから、あの時点であなたが言ってい
 たのはよくわかっていたんだけどということで、それで反省をされたわけで、
 こんなふうに結膜とかなんとかで、いろいろありましたと言ったら、いや結膜
 をやられるのは当たり前だとおっしゃいました。
 昭和49(1974)年6月 上京の折、上田先生にお会いしましたら、先生は「あの
 ような杜撰な工場は始めて見たなあ。工場に入ったとき私も卒倒しそうだった
 なあ」といいながら、14年の君の戦いには本当に済まないと思っているよと当
 時を話されました。

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第14回 PCP汚染工場

2006-09-29 13:37:51 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 599号 05年08月09日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第14回)     
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第14回 PCP汚染工場

「除草剤PCP」が実は製造段階から「ペンタクロロフェノール」ではないこと
も発覚しています。1960 年代 前半に日本でPCPを製造していたのは三光化学
(福岡県荒木町=現・久留米市)です。同名の化学会社はかつて毒ガスを製造し
ていた神奈川県の相模原海軍工廠のスタッフと工場を利用して操業していた会社
がありますが、資本関係や人事関係のつながりはわかりません。

三光化学は福岡県久留米市郊外の国鉄(現JR)荒木駅に隣接するレンガ工場跡
地に建設されました。三井化学(後に三井東圧化学を経て現・三井化学)と地元
資本家の提携により設立、三井化学が経営及び技術指導を全面的に担当し、除草
剤PCP25%粒剤専門工場として出発しました。久留米市郊外の田園地帯と言っ
ても住宅が建て込んできたところに突然農薬工場が進出してきたのです。操業開
始から一ヶ月経つと悪臭がひどくて住民の工場移転要求の署名運動が起こるほど
でした。PCPをただ粒剤にするだけとして、毒物劇物取り締まり法に基づく登
録もしていませんでした。

1961年1月から10月にかけてパイロット運転を実施しましたが、先ず、ミツバチ、
鯉、金魚などが死に、廃水が流れ込んだ川では魚が全滅しました。

住民の苦情を無視して操業を続ける三光化学に対して、住民は次に地元選出の国
会議員を通じて厚生省に働きかけ、厚生省調査団が1962年10月にやってきました

このとき調査団として工場に立ち入った上田喜一(東京歯科大教授)はそのとき
の印象を報告書の中で次のように語っています。

 ――本工場中 最も臭気の強いのは 2階の 圧延ローラー室で、毒ガスマスクを
 着用しなくては 滞在できない。入室の瞬間に 結膜に著しい刺激感があるのは
 PCPが粉塵としてではなく、蒸気として(およびテトラクロロフェノール蒸
 気も)室内に充満しているとの印象を受けた。これは化学定量からも裏書きさ
 れた。――

調査団が行なった化学定量は、この工場で製造されていたPCPなるものが本来
のPCP(ペンタクロロフェノール)ではないことを示しています。

厚生省調査団が工場の排気設備の付着物を分析したところ、付着物は本来主成分
であるべきPCP(5塩素化フェノール)が少なく、4塩素化フェノールを主とす
る様々な塩素化フェノールの混合物であることが判明しました。奇異に感じた上
田は製品のPCPを分析したところ、製品PCPすらもテトラクロロフェノール
(4塩素化フェノール)が6割もあり、とてもPCP(ペンタクロロフェノール=
5塩素化フェノール)と呼べる 代物ではないことがわかったのです。上田はさら
に他社(保土谷化学)のPCPを取り寄せ、他社品はペンタクロロフェノールで
あることを確かめています。つまり、保土谷化学のPCPはペンタクロロフェノ
ール(5塩素化フェノール)だったけれども、三光化学への 原体提供者である三
井東圧化学のPCPはポリクロロフェノール(塩素数の異なるフェノールの混合
物)だったのです。三井東圧化学と保土谷化学に技術の差があるとは思えません


工場の 操業 状況 もひどいものでした。工場近くの 荒木駅の駅長の残した記録
(1962年 8月20日から10月14日までの 56日間の状況が具体的に記録されている)
が生々しく当時の状況を伝えています。たとえば、8月12日7時50分から8時30分
までの40分間駅員全員がくしゃみ、喉の痛み、流涙、頭痛を訴えています。その
他に全員がくしゃみを訴えたのが16回(延べ715分)、鼻腔を刺激する悪臭は 25回
(1,710分)、悪臭のみが17回(2,485分)、電話での抗議が16回、出かけての抗議5
回となっています。PCPは粘膜刺激性があるのでそれが飛散していたことは間
違いありません。このような具体的な記録はまさに科学的な証拠にあるにもかか
わらず後に住民が起した裁判でもこのような記録は無視されています。(「三西
化学農薬被害事件裁判資料集」葦書房)

被害は住民だけではありません。工場従業員にも被害が発生していました(同上)

1978年9月11日福岡地裁第19回口頭弁論に次の「原告証言」があります。

 「工場はですね。もう 36年(1961 年)頃でしたか。技師の方が朝出勤して、
 タクシーで運ばれる途中で死んだとか、女工さんたちは、いつも皮膚炎でたま
 らないとか、袋詰めのところにおると喘息になって困るんだというようなふう
 で・・・。」

 「1962年2月に 4階建ての工場ができた。三瀦(みづま)保健所の 松田技師が
 <工場があんなに聳えるような建て方をするなんて、あれは間違っている。住
 民がこんなに苦しんで訴えるのは当然ですよ。再三に亘って自分は忠告したが

 (三光化学は)本社命令で生産が間に合わない、それはわかっているんですけ
 れども、本社命令で間に合わないと、ただ繰り返していた>。」

「本社命令で生産が間に合わない」とは何を意味しているのでしょうか? 1962
年にはPCPが水田除草剤として需要が急増していて、「生産が間に合わない」
のはわかります。しかし、漁業被害対策の柱となる肥料取締法改正案は間に合っ
ていないし、工場も不具合があるのなら 1年待つべきでしょう。農林省も漁業被
害がでても仕方ない、人が死んでも経済成長だとは水俣病事件で散々聞かされた
理屈です。しかし、水俣病事件が止められなかったホントの理由は米軍用のジェ
ット燃料添加剤を作るためではなかったか? と前回のシリーズ「水俣秘密工場」
で述べました。通産省の力技で水俣病放置が事実上決まった1959年に続く1960年
代初頭、農林省や三光化学は何を焦って「PCPもどき」の生産を急いだのでし
ょうか?

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 枯葉剤機密カルテル(第13回) 

2006-09-29 13:37:04 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 597号 05年08月07日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第13回)     
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暑中お見舞い申し上げます。今年はまだヒグラシもツクツクホウシも聞きません

明日が立秋ですから、明日だったら「残暑」とするところですね。お見舞い状を
頂戴した方にはお礼を申しあげます。私は、暑いのに強いのかどうか、ともかく
暑いとますます元気になりますので、どうぞご心配なく。      編集者
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第13回  PCPではなかった「除草剤PCP」

秋の臨時国会でも、PCPを肥料に混入することを合法化するための肥料取締法
改正案が上程され、1961年10月13日に衆院、25日に再び参院を通過して成立する
や否や翌26日に公布、施行令の一部を改正してPCPの混入を認めるとの政令は
30日、施行規則の一部を改正する省令は11月25日にそれぞれ公布(1961.12.8 農
林水産委員会)という超スピードで実施されることになりました。この慌しさに
は農林省の焦りさえ感じます。

6月の通常国会で PCP混合肥料を 合法化できなかった農林省にとって 62年の
「集中豪雨」は誤算だったことでしょう。肥料取締法改正案は成立したものの、
遅れを取り戻すことはできず、PCP混合肥料の製品化は62年春の「田起こし」
に間に合わなかったと思われます。それでも農林省は、梅雨時の水田で10日間排
水しないという実現不可能な「対策」を設けてまで「PCPの使用」を強行しま
した。

農林省は空梅雨となることを祈っていたかもしれません。しかし、集中豪雨とい
う「天災」により巨額の漁業被害をだしてしまったのです。農林省は「知ってい
てやったこと」であり、さすがにPCPは無関係と強弁することは不可能だった
ようで、「大雨で海水が淡水化し、貝などが弱っていたときに流れ込んだPCP
がさらに作用して被害をだした」(1962.8.11 朝日新聞)という苦しい解釈をだ
しています。

そのように農林省の全面的支援を受けて、PCPの需要は急拡大しました。農薬
全体の生産も1952年からの十か年間に 金額にして91億円から338億円へ急増しま
したが、特に除草剤は農薬のうちで一番伸び率が高く、全農薬に対する除草剤の
割合は4.7%から20%に増加、金額にして4億円から67億円に増加という成長ぶり
を示しています。さらに、除草剤の中でもとりわけPCPは1961年度の除草剤の
登録件数 78件中 82%にあたる64件を占め、PCPの国内生産量は59年148トン、
60年2441トン、61年8763トン、62年には2万5百トン(1963.3.29 参院農林水産委
員会)と60年以降のPCPの突出ぶりが目立ちます。しかし、その需要急増も実
現不可能な「対策」を設けてまで強行した農林省の「国策」のお陰という印象は
否めません。

このように 超ベストセラーとなったPCPですが、藤野 繁雄(二院クラブ)は
PCPの意外な問題点を指摘しています。除草剤PCPの成分がPCP(ペンタ
クロロフェノール)ではないというのです。(1963.3.29参院農林水産委員会)

 「農薬の抜き取り検査状況を調べてみると、昭和36(1961)年度の検査件数が
 PCP除草剤は 5件であって、全部不合格になっている。全部不合格という理
 由はどこにあろうか? 全部不合格だったらば、これに対して、政府はいかな
 る対策をとったか?」

農薬も種類が増えて・・・と逃げる農林省農政局長・齋藤誠に藤野は「いろんな
種類じゃない、PCPだけに限っている。」と一喝して答弁を迫りました。齋藤


 「不合格になりましたその主要な内容は、大体は経時変化――時間がたつにつ
 れまして成分が変わってくるというようなことで、つまり有効成分が表示当時
 の成分と異って参るというようなことが主要な原因になっておると承知いたし
 ております。」
 
と回答、「除草剤PCP」は本来の成分「ペンタクロロフェノール」から変化し
ていることを認めたのです。それにしても抜き取り検査ですべて不合格とはどう
いうことでしょうか? 齋藤は成分変化の理由に「時間」をあげましたが、保管
中に成分が変化してしまうようでは効能も失われるのではないかと思われますし

そもそもペンタクロロフェノールは通常の保管中に変化してしまうような不安定
な物質ではありません。ということはひとつの仮説として「除草剤PCPはもと
もと 本来の成分であるはずの ペンタクロロフェノールではなかったのではない
か」と考えることができます。

それを裏書きするように、農林省が「除草剤PCP」は本来の成分とは異なるこ
とを認めたのはこれが初めてではありません。「漁業被害はPCPが原因である
と農林省は認めたのか?」との稲富稜人(民主社会党)の質問に対する答弁の中
で、農林省振興局長・斎藤誠は

 「現実にPCPがどのようにその海水面にあったであろうかということで、こ
 れもまた調査いたしました結果、PCPだと言うことは必ずしもできませんけ
 れども、いわゆるPCPに包含されるところのフェノールの薬剤がやはり有明
 海から検出されておるということもございます。」
 
と答えています。(1962.8.28衆院農林水産委員会)「PCPではないけれども、
いわゆるPCPの概念に含まれるフェノール」とは何でしょうか? 斎藤誠の答
弁の意味するところは、「PCPは抜き取り検査で不合格になった検体だけでは
なく、水田から流出した、つまり水田にまかれたほとんどの『除草剤PCP』が
ペンタクロロフェノールではないが、全く別物というわけでもない。(というこ
とはおそらく、塩素の数が異なるクロロフェノール類である)」ことを農林省が
白状したということです。

小規模ながら枯葉作戦が既にベトナムで始まっていたこの時期、農林省が「国策
として需要拡大を図り、PCP混合肥料が合法化できなくても敢えて漁業被害の
発生リスクを犯してまで拙速に売りさばこうとした「除草剤PCP」の正体とは
いったい何だったのでしょうか?

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読者から
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こんにちは、山形の荒木と申します。いま山形県で「森林環境税」という負担を
全県民に課そうとしています。「環境を守るため」という錦の御旗のもと、個人
の里山や公有林など、戦後の営利主義に走った林野行政の失敗のつけである荒廃
した森林を復活・保護するためといいつつ、「年間数億円」に上る「特別会計」
をものにしょうと、全県民に負担を課そうとしています。

しかしこのような「小手先」のことで「地球規模」の環境破壊が止められるとは
思いません。原田和明さんの「枯葉剤機密カルテル」を毎回読ませてもらう内に
一つの疑問が湧きまして、御迷惑とは思いましたが、メールを致しました。

日本の林野庁は、ベトナムで使われるはずだった「枯葉剤」を、人員不足を理由
に「山奥にヘリコプター」で無差別に散布したのではないか? ということです

近年「くま」「さる」「いのしし」等が山郷どころか街中へまで進出している原
因は、「えさ」となる木々の「循環作用」が、枯葉剤散布によって極端に阻害さ
れているからではないか?

また「酸性雨」の高濃度化による「耐性植物」、特に「つる系」植物の繁殖が目
に付きます。広葉樹の林に行きますと特に目立ちます。近所の空き地等も得体の
知れない「つる系植物」が、立ち木に覆いかぶさっています。枯葉剤散布と高濃
度酸性雨によって「日本の山は、死の山」となっているのでは無いでしょうか?
ヨーロッパのアルカリ土壌と違い、もともと酸性土壌の日本では、気が付くのが
遅れてしまったのでしょうか。それとも?!!

現在・山奥の土壌は、どうなっているのでしょうか? 以前、「ツバメの巣」が
粘着度を失い、子ツバメの成長に耐えられなくなって、途中で壊れる。これがツ
バメが激減している要因の一つだと読みました。同じような事が、「微生物の減
少した」「死の土壌」と成っているのでしょうか? 少しずつ環境破壊が起きる
のではなく・何時の日か突然に・一気に壊滅するのかも知れません。

私たちの知らない所で、環境破壊が、国策の名の下に進んでいくことは実に恐ろ
しいことです。(北朝鮮のミサイルよりも)!!

では、またの機会に!!   2006/7/30

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枯葉剤機密カルテル(第12回) 

2006-09-29 13:35:01 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 596号 05年07月30日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第12回)     
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第12回  PCP需要拡大政策


日本国内でPCPが水田除草剤として使われるようになったのは1960年代に入っ
てからです。1958年に農林省(現・農水省)が全国試験を実施、翌59年の試験販
売を経て、1960年から実用段階に入り、1962年には早くもPCPの総販売量は2
万トン以上、散布面積でいくと 全国の水田面積の3分の1にあたる100万ヘクタ
ールで使われる見込みという超ヒット商品となりました。

PCPがそれまでの除草剤と違う点はあらゆる植物の種子の発芽を止めてしまう
「無選択性」で、田植え前に 散布すると、苗床で成長している稲だけは 抵抗力
があって大丈夫ですが、他の雑草は 根こそぎやられてしまう という強烈なもの
で、人手不足に 悩む 農民に「農業 近代化の 新兵器」として迎えられました。
(1962.8.11朝日新聞)

しかし、その毒性は雑草に対するものだけにとどまりませんでした。1962年7月、
琵琶湖や九州の有明海で大規模な魚毒事件が起きたのです。わずか1、2日の間に
何万匹もの魚が死に、地域によっては貝が全滅という惨状で、被害は両地区の他

山形、群馬、埼玉、京都、愛知、岡山など計14府県、被害総額は20億円以上に及
びました。

ところが、農林省は このような被害を 予測できなかったわけではありませんで
した。魚毒性があることは 最初から知っていた のです。実験の結果、PCPは
水田の土中の金属と化合して固定化したり、太陽光線で分解したりして毒性が弱
まり、10日過ぎれば排水しても害はないことを把握していました。そこで農林省
は「(1)PCP散布後10日間は排水しない、(2)水のあふれる危険のある田、近く
に養魚施設がある所は避ける」などの条件付で実用に踏み切ったわけですが、初
年度に琵琶湖で被害発生した後も、翌61年に有明海沿岸で4億円、62年には有明
海で18億円、琵琶湖で4億円の被害を出しながら、農林省は「大雨による海の淡
水化が原因」だという根拠のない理由を持ち出しPCPの使用禁止措置をとりま
せんでした。

それに、そもそも梅雨時期に行なわれる田植えの頃に、10日間も排水しないとい
う「対策」が実現可能だとはとても思えません。水田に雨が降れば水があふれる
のは当然です。それでも農林省は「PCPの魚毒は使用上の誤りによる例外的な
もの」との立場をとっていました。しかし、頻発する「例外」に対し、被害の大
きい県や漁業団体は「天災融資法」の適用や巨額の補償を求めました。

PCPが水田除草剤として優れた効果を発揮することは1956年に宇都宮大学農学
部の 竹松哲夫らの「思いつき 実験」でたまたま発見されたとのことです。その
いきさつについて竹松は「色々な薬をまいた後、まだ試験田が余ったので、PC
Pなんか毒性が強すぎてダメだろうが、とそれほど期待せずにぶちこんでみた。
それが当たったんです。」と語っています。その竹松は水産被害に対して農林省
の対応を批判しています。

 「今盛んにやっている田植え後、表面にまくやり方をやめ、田植え前に元肥と
 一緒にいれて土とまぜるやり方に限定すれば雨期ともずれて雨でPCPが外に
 出る心配がまずないので十分に通用すると思う。こんなことになったのも農林
 省のやり方に原因がありはしないか。PCPで死んだ魚の解剖学的特徴ぐらい
 はしっかり掴んでおくべきだし、不意の洪水で下流の魚や貝が受ける影響を調
 べる本格的な実験はぜひ必要と思うがこうしたことは実際はほとんどされてこ
 なかった。」
 
と指摘しています。(1962.8.11朝日新聞)

竹松によると対策は既にあったのです。しかも、肥料とPCPを一緒に土と混ぜ
るという「対策」は農林省も承知していました。農林省は1961年春に肥料取締法
を改正して、それまで異物混入を禁止していた肥料にPCPを混合する製品を合
法化しようとしていたのです。改正案の目的はPCP混入肥料の合法化であるこ
とを農林省自ら認めています。(1961.4.7参院農林水産委員会)

ところが既に何が混入しているかわからない「いかがわしい肥料」が巷に溢れて
いる現状(1958.2.17 衆院予算委員会第三分科会)を容認することになりかねな
いことを危惧する国会議員が多数いて、農林経済局長・板村吉正はしばしば答弁
に窮しています。参院では問題点を指摘されながらも21日に通過しましたが、衆
院で再び紛糾、審議未了で廃案になってしまいました。このとき、農業関係だけ
で18もの法案が同時に廃案になっています。(1961.6.30衆院農林水産委員会)

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