私たちの環境

今地球の環境がどうなっているかを
学んでいきます。

管理人 まりあっち

古城

2006-02-13 19:26:59 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 563号 05年02月12日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           沖縄の化学兵器(第16回)        
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 沖縄の化学兵器                      原田 和明

第16回(最終回) 古城

沖縄・読谷村にある古城・座喜味(ざきみ)城跡は、美しい沖縄の海を眺めるに
は素晴らしい所にあります。丘陵にがっしりと石組みされた城壁が浮かび上がり

切石で組んだアーチ型の石門が美しい。石垣の上からは通称「ゾウの檻」と呼ば
れる米軍通信施設も間近に見えます。

化学兵器と沖縄の海・・。昭和20年4月1日、米軍はここ読谷村の海岸を一斉に艦
砲射撃して上陸しました。座喜味城の石垣にも当時の艦砲射撃の跡を留めていま
す。読谷村が上陸ポイントに選ばれた理由は沖縄本島の最もくびれた部分を占拠
して南北を分断することの他に、城の後方にある日本軍の地下弾薬庫が目的だっ
たとも言われています。その弾薬庫は嘉手納基地に隣接する目の前の森のように
見える一帯、羽田空港の6倍ある嘉手納基地のさらに1.5倍もの広さがあり、今で
も米軍が弾薬庫として利用しています。この丘陵こそが毒ガス兵器を貯蔵してい
た知花弾薬庫でした。国道を挟んで住宅密集地に取り囲まれるというよりも、基
地と弾薬庫が民家を押しのけて広がっているように見えます。一見のどかに見え
る里山に膨大な量の化学兵器が密かに配備され、撤去後も残っていたのか新たに
配備されたのか今でも民家に隣接して置かれていることには違和感を感じずには
いられません。

座喜味城から嘉手納基地と知花弾薬庫の間の国道を抜け、コザ事件があった繁華
街を通り、普天間基地の移転先として候補にあがった辺野古崎に向かいました。
この美しい海岸を普天間基地の代替として埋め立てようというのです。美しいと
いっても背後の丘にはキャンプ・シュワブがあり、隣接する辺野古弾薬庫には催
涙弾と白リン弾という化学兵器が貯蔵されています。さらに、報道では米軍の沖
合い埋立て案を日本政府が修正させ、環境影響が少ないキャンプ・シュワブ沿岸
移設案で合意できたと聞いていましたが、それは欺瞞でした。

米海兵隊は 辺野古埋立て飛行場計画図を1966年1月に描いていました。遠浅の辺
野古の海を埋め、3000m の滑走路を作る計画でした。北に隣接する大浦湾は水深
が深いので、海兵隊が描いた飛行場計画にかぶせて、海軍は軍港を計画、その計
画書が残っていたのです。当時の計画図を共同通信がスクープし、2001年6月2日
に配信しています。

日本政府が米軍を説得したという今回の合意案は何のことはない、40年も前に米
軍が計画していた基地構想そのものであり、国民を納得させるために日本政府が
米軍を説得したという形にしただけでした。

辺野古崎から金武湾を迂回して勝連城へ。この城も高台にあり、金武湾が一望で
きます。金武湾には化学兵器が持ち込まれたホワイトビーチ、運び出し港となっ
た天願桟橋があります。そして古い化学兵器が投棄されたと見られるのもこの金
武湾でした。

科学技術が人類の豊かさの追求に大きく貢献してきたことは誰もが認めるところ
でしょう。しかしながら、人類を破滅に導く大量破壊兵器の製造に応用される側
面も併せもっています。沖縄に密かに配備されていた化学兵器はそのことを教え
ているように思えます。20世紀初頭、化学工業勃興のきっかけとなった窒素固
定化技術は化学肥料を誕生させ食糧の大増産に貢献しましたが、一方で爆薬製造
にも応用され第一次世界大戦長期化の原因となりました。第二次世界大戦では人
造石油の工業化がヒトラーを開戦へ決意させたとも言われています。工業の進歩

肥大化が新たな市場を要求し、あわよくば戦争さえ大量消費(消耗)につながる
が故に期待され、誘導してきたことさえあったかもしれません。それが資本主義
の実相ではなかったかとも思えてきます。その過程で化学兵器が登場してきまし
た。

911以降、文明の衝突などという言い方がされていますが、ならば人類の智恵
の中に解決策はないものでしょうか。釈迦は「小欲知足」「中道」を説きました

欲を少なくして足ることを知る。足ることを知らない者は宮殿のようなところに
住んでも満足できないと諭されたのです。「もっと欲しい」が資本主義の原動力
だとしたら釈迦は2500年の昔に既にその限界を教えていたのかもしれません。儒
教には「中庸」があり、人間の行為や感情の超過と不足を調整する徳と示されて
います。そして中道・中庸を国是として日本とも中国とも適当な距離を保ちつつ
平和に暮らしてきたのが他ならぬ沖縄の人々でした。日米安保体制もいつしか日
米同盟と呼ばれるようになり、日本外交の基軸として当然であるかのように言わ
れますが、日本・沖縄とも諸外国とは付かず離れずの「中庸」を保ってきた歴史
の方が遥かに長いのです。

1810年代に沖縄を訪れた中国の使節団が「小国の大勢弱ければ久しく存し、強け
ればすなわち速やかに敗らる。琉球の俗すこぶる兵を言うを忌む」と述べている
ことからも、沖縄が歴史上平和友好を基本としてきたことがわかります。明治時
代の「琉球処分」の際、大久保利通が欧米列強の侵攻を口実に沖縄への日本軍駐
留を強行しようとしましたが、沖縄の使節団は「沖縄は列強から遠い一貧乏国に
過ぎないから軍隊は不要」と大久保の申し出を断っています。とくに数百年来、
他国との友好関係のみに頼って諸外国と取引することに成功してきた実績を指摘
し、「軍備により逆に列強の注目を浴び、武力を行使させる危険が高まるのが心
配だ」と主張したといいます。

沖縄に残る古城群の美しい石垣はかつて沖縄にも騒乱に明け暮れた時代があった
証でしょう。その結果、軍備では国を守れないことに気付いたのでしょうか。江
戸時代の日本も同様でした。私たちは、秀吉の時代に世界一の軍事大国でありな
がら徳川の御世になると自ら武装解除して天下泰平の世を開いた稀有の経験をも
つ民族の末裔なのです。(ノエルペリン『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫1991)
ですから、憲法9条もあながち「押し付け」と言い切れない歴史をもっているの
です。

そんなことを考えながら美しい海を眺めていると迷彩色の米軍輸送機が爆音を轟
かせながら列をなして普天間基地方面へ通り過ぎて行きました。(終わり)

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変わらぬ基地の島

2006-02-13 19:25:30 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 562号 05年02月10日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           沖縄の化学兵器(第15回)        
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 沖縄の化学兵器                      原田 和明

第15回 変わらぬ基地の島

1971年夏に沖縄の化学兵器は撤去されたことになっていました。このとき、日本
政府と琉球政府は沖縄に化学兵器が残存していないか確認したいと、米軍に知花
弾薬庫以外の立入検査も求めました。しかし、米政府は知花弾薬庫への立入を認
めただけで、他の地区への立入検査はみとめませんでした。このためランバート
高等弁務官は「沖縄から毒ガスは一掃された」と語ったにも拘わらず、他の地区
に化学兵器が残っているのではないかとの疑念は晴れませんでした。

毒ガス撤去から10年後の1981年5月21日、米海兵隊辺野古 弾薬庫内にヤギ及び牛
が放牧されているのが確認されました。このことは、当該弾薬庫に毒ガスや細菌
兵器等が貯蔵されているのではないかという疑惑を抱かせるものでした。という
のも、化学兵器が沖縄に配備され始めた1960年代初頭から米軍267化学中隊に
ヤギが飼われているのを地元住民が見かけて、アメリカ人は動物愛護の念に富ん
でいると感心したものでしたが、後にそのヤギは毒ガス漏れ探知用のイケニエだ
ったことがわかったという経験があったからです。(大田昌秀『拒絶する沖縄』
サイマル出版1971)

外務省北米局外務参事官・松田慶文は米軍からの回答として「沖繩辺野古弾薬庫
に置かれております海兵隊第三部隊役務支援軍、第三補給大隊、弾薬中隊、第一
分遣隊は化学兵器ないし核兵器を整備する能力を有する部隊である。ただし、実
際の貯蔵、搭載云々というものは全くないが、能力を保持するということは総合
的な軍の機能維持のために全世界的にやっておりまして、これは従来からいろい
ろな国会の委員会で重ねて政府が申し上げておりますとおり、そういった能力を
各般の段階で保持していることは米軍の体制上あるが、しかしそういう部隊の存
在が、そういった核兵器の存在とは全く別個の問題であるということを申し上げ
たいと存じます。」と述べています。(1981.9.8参院外務委員会)。

化学兵器を扱う部隊はあるが化学兵器はない、そんなことがありうるのでしょう
か? 1971年の撤去時には化学兵器の移送に伴い取り扱い部隊もジョンストン島
に移動するとランバート高等弁務官は述べていましたが、化学部隊があるなら化
学兵器もあるだろうと考えるのが素直な見方でしょう。そして1993年4月8日、市
民グループ「平和資料共同組合」が、米国の情報公開法を駆使して、在日米軍の
基地情報を入手、辺野古弾薬庫にCS毒ガスと白リンを貯蔵しているとの公文書
を入手・発表しました。CSとはベトナム戦争当時使用されていたCNに代わっ
て現在世界で最も広く使われている催涙剤です。白リン弾は、第二次大戦中の米
軍沖縄上陸作戦において、日本軍の地下壕攻撃に使用された化学兵器です。71年
の移送後も沖縄には化学兵器はあったのです。

白リン弾は炸裂と同時に粉末として飛散し、防御マスクのゴムを通過して顔まで
届く。そして、人体(湿気)に触れた途端に発火する。白リンの粉を吸い込んだ場
合は、口・喉・気管・肺(内部には湿気がある)・目・鼻(内部)・耳(内部)で、発
火し焼き尽くして人体を内部から溶かしていく。また、喉と肺に水泡ができて呼
吸できない症状で呼吸困難に陥るという化学兵器です。米国は、イラク戦争で無
差別に使用していると言われていますが、白リン弾やナパーム弾のような焼夷兵
器を一般市民の居住地域で使用することを禁じている国連特定通常兵器禁止条約
に署名していない為、国際条約違反ではないと主張しています。

1988年12月21日の朝日新聞は「沖縄米軍の演習、なぜ激化 米ソは平和ムードな
のに」という見出しで、在沖縄米軍の変化を次のように伝えています。
「今年の沖縄は在沖米軍の演習が激化し、それに対する県民ぐるみの反発が目立
った。もう1つ、県民を不安がらせているのが、在沖米軍のNBC(核、生物、
化学)兵器防護訓練が増えたことだ。米空軍嘉手納基地や読谷飛行場、海兵隊キ
ャンプ・ハンセン基地などで化学防護服を着用しての訓練が日常化している。」

記事の最後に次の会話を紹介しています。
一緒に基地を回ったタクシーの運転手さんに、こう聞かれた。「米ソが平和なム
ードなのに、なぜ沖縄ばかり演習が激化してるんですかね」。本土の人間として

沖縄県民の問いに答えようがなかった。

1990年8月、イラクがクウェートに侵攻、その後 湾岸戦争へと発展しました。11
月に中東から長崎・佐世保港に帰港した米海軍の兵士は「連日船内で生物化学兵
器防御訓練があった。約460人の乗組員すべてが、クウェートに進駐している
イラク軍の化学兵器を最も恐れていた。訓練のときは、みんな真剣で私も本当に
恐ろしかった」と話しました。(1990.11.10朝日新聞)

米国が戦争当事国双方に兵器を売却し、米軍は化学防護訓練を強化する・・・。
沖縄はそんな舞台でもありました。

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月刊誌『世界』記事紹介
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雑誌『世界』につぎの記事が掲載されていますので、ご紹介します。

●05年12月号 「たったひとりの聖戦」ロバート・フィスク 安濃一樹・訳
 オサマ・ビンラディン――アフガンの荒野から孤独の荒野へ
●06年01月号 「法という名の正義」       安濃一樹・宮前ゆかり
 「CIA漏洩事件」の闇に迫るフィッツジェラルド特別検事
●06年02月号 「空に浮かんだ撤退作戦」S・M・ハーシュ 安濃一樹・訳
 ――イラク戦争はどこに行こうとしているのか
 
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米国からイラクへ

2006-02-13 19:23:52 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 561号 05年02月07日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           沖縄の化学兵器(第14回)        
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 沖縄の化学兵器                      原田 和明

第14回 米国からイラクへ

沖縄から撤去された化学兵器はその後どうなったのでしょうか。米国には化学兵
器の持ち込みも米国内での処理費用の支出も認めないグラハム法があります。米
政府は持ち込み禁止範囲である「米国内」を米50州と解釈することでハワイ・ジ
ョンストン島への移送を強行しましたが、処理工場の建設は技術的にも予算的に
も難しかったと思われます。しばらくの間、化学兵器はジョンストン島に放置さ
れたままだったようです。

1984年夏、ジョンストン島を巨大ハリケーンが襲いました。このとき、数千トン
の化学兵器を同島に放置したまま管理要員110人を含め370人の在住者が全員ハワ
イに飛行機で避難しました。沖縄から持ち込まれた分を含む多量の神経ガス、マ
スタードガスが、コンテナ、ロケット、爆弾、機雷、砲弾などの形で置かれてい
て、米議会会計検査院は83年、「ジョンストン島の貯蔵施設は不適切で、化学兵
器の質を低下させている」との報告書を公表しています。(1984.8.21 ワシント
ンポスト)一刻も早い処分が必要な状況であったようです。それに沖縄から移送
された化学兵器は1万3千トンでしたから数量に差異が生じています。

毒ガス撤去後、国際社会で化学兵器の使用が確認されたのは1979年に始まったイ
ラン・イラク戦争です。このとき、イラクがイランに対して使用した毒ガスはマ
スタードガスとタブンでした(鳥井順『イラン・イラク戦争』第三書館、1990年

が、そのイラクに化学兵器を提供していたのは米国でした。1978年のイスラム革
命でイランに反米政権が誕生、テヘランの米大使館が学生に長期間占拠されると
いう事態になっていました。その対抗策として米国はイラクのフセイン大統領を
支援したのです。

83年末に当時民間人だったラムズフェルド・現国防長官がレーガン米大統領の特
使としてフセイン大統領と会談、そして米政府はイラクに生物化学兵器の売却を
許可したのです。売却リストには炭疽菌、ボツリヌス菌、マスタードガス、その
他危険な化学物質が含まれており、ダウケミカル社が化学兵器に転用可能なこと
を知りながら商務省の許可を得て 150万ドルで売却した殺虫剤もあったとのこと
です。(2004.12.30ワシントンポスト)

ブッシュ政権がフセイン政権の大量破壊兵器問題でたびたび引用する事件に、イ
ラク軍がクルド人を毒ガス攻撃したという「ハラブジャ事件」(1988年)があり
ます。ただ、当時クルド人被害者を検診したトルコの医者たちが、症状から毒ガ
スの内容をイラン側の所有するシアン化物または青酸ガスだと証言しています。
当時イラク軍はシアン化物を持っていませんでした。イラクのハイララ国防相も
当該地域は峡谷で毒ガスが滞留しやすくイラク軍にも被害がでるとの理由で毒ガ
ス兵器の使用はしなかったと証言しています。(鳥井順『イラン・イラク戦争』
第三書館、1990年)イランはその毒ガスをどこから入手していたのでしょうか。
86年11月、レバノンの新聞アルアシアが「米国が密かに武器をイランに販売して
いた」と報道しました。レーガン米大統領は一旦否定したものの、数日後には武
器販売の事実を認めました。(コントラ事件)

イラク戦争の折、米軍はファルージャ、ナジャフ、モースルなどで化学兵器工場
発見と発表しましたが、その後化学兵器工場ではなかったことが判明しています

その後もイラクに化学兵器工場があったことは確認されていません。結局、ブレ
ア英首相もブッシュ大統領もイラクの大量破壊兵器保有情報は間違いだったこと
を認めました。イラクには米国等が売却した毒ガスがあっただけでした。

その後、ジョンストン島ではワルシャワ条約軍に備えて西ドイツ内に配置してい
た化学兵器10万2千発を、1990 年7月中旬に米軍が搬出、化学兵器処分システム
(JACADS)で廃棄することになりました。早速南太平洋のバヌアツ共和国
で開かれた15カ国・地域の国際機構「南太平洋フォーラム(SPF)」年次総
会は、「米軍が行う化学兵器の廃棄処分について、海洋に依存するオセアニア各
国は、環境悪化につながるので、重大な懸念を表明する」と、対米非難提言を全
会一致で出しました。(1990年8月14日 週刊アエラ)

西ドイツにあった毒ガスをジョンストン島に移すということは、それだけのスペ
ースがジョンストン島にできたということになります。ジョンストン島の保管施
設は72年の沖縄返還までに毒ガス撤去の方針の下、急拵えした経緯があり、最初
から十分な余剰スペースがあったとは考えられません。上記アエラ誌は「毒ガス
弾など、400トンの焼却処理を計画、すでに1億5000万ドルで4基の焼却
炉を造り試験運用している」として、沖縄にあった毒ガスの処分の準備が進みつ
つあることを伝え、「転用」した可能性には言及していません。

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PCPは新枯葉剤?

2006-02-13 19:16:42 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 559号 05年02月03日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           沖縄の化学兵器(第12回)        
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 沖縄の化学兵器                      原田 和明

第12回 PCPは新枯葉剤?

ベトナム戦争で使われた化学兵器のひとつに、ダイオキシンを含む枯葉剤が上げ
られます。ベトナムの人々だけでなく、参戦国の兵士にも発ガン、奇形児誕生と
いった悲劇を生み続けています。その成分は245Tと24Dという有機塩素系
の薬剤ですが、それらが沖縄にあったという証拠は見つかっていません。その代
わり、枯葉剤の別バージョンではないかと思われる薬剤の投棄事件がありました

それはPCP(ペンタクロルフェノール)という、日本でも60年代に水田除草剤
として大量に使われていた薬剤です。

沖プライ商事が琉球政府に相談もしないまま米軍から百トンものPCPの払い下
げを受け、津嘉山に野積みをしていました。70年 6月に穴を掘って埋めたのです
が、国場川を汚染、たちまち魚の大量死という結果を生みました。71年 5月には
北谷村の埋め立て地にドラム缶百本を埋め、5月19日には 具志頭村仲座の第一精
糖のバカス(サトウキビの搾りカス)捨て揚に投棄しました。すると3日後には
たちまち小学校の子供が数人、はき気や下痢を起こし、調査の結果、水源地にP
CPが投棄されていることがわかったのです。

さらに悪いことに、これはどこかで燃やす以外にないということになって、牧港
発電所でこっそり燃やしたとのことでした(1971.12.26沖縄及び北方問題に関す
る特別委員会)。有機塩素系の薬剤を燃やしたのですからきっと大量のダイオキ
シンが発生したことでしょう。

小平芳平(公明党)は「米軍は一体何のためにこのような大量の除草剤に使われ
ているPCPを沖繩へ持ち込んだのか。安保体制下においては日本のどこへでも
こういうものを持ち込むことができるのかどうか。それができるならば、このよ
うな重大事故が次から次へ発生する可能性が沖繩にも本土にも残されているとい
うことになるのですが、いかがでしょう。」と政府に詰め寄りました。

防衛庁長官・江崎真澄は毒ガスではない、基地内の除草に使ったと答弁しました
が、基地が縮小されたわけでもないのになぜ百トンもの除草剤が不要になったの
かと重ねて質問されると、今度は木材防腐剤にも使ったと聞いていると答弁、誰
から説明を受けたのかと聞かれると、大体の見当だと答え、小平に「防衛庁長官
はデタラメを言っているだけだ」と一蹴されています。

小平は次のように畳み掛け、佐藤栄作首相の見解を質しました。「除草や防腐剤
に使う範囲ならともかく、百トンも現に余っている。それを何も知らない民間に
渡して、民間企業も迷惑な話だ。それを受け取ったはいいけれども、缶が腐って
流れ出す、被害が発生する、そんなことが今後日本の基地のどこででも行なわれ
る可能性があるんですか、ないんですか。核兵器はもちろん困るし、毒ガスも困
りますが、現にPCPの場合は、沖繩で、もうこれから、はかり知れない被害、
あとどれだけ被害が発生するか見当もつかないようなことを巻き起こしているわ
けです。将来これに対する沖繩県民はもとより、日本の国全体としてのあり方に
ついてお尋ねしたい。」

このときです。「枯れ葉作戦用としてベトナムで使っておるのだよ、ベトナムで

と野次が飛びました。1960年代の代表的な水田除草剤であるPCPが枯葉剤とし
て使われていたのでしょうか?

この頃アジア最大のPCP生産工場は台湾にあった台湾苛性会社安順工場でした

この会社は1942年日本の鐘淵曹達株式會社が建設、塩酸、苛性ソーダの他、日本
海軍が毒ガスも生産していました。戦後台湾政府が改修して操業を再開したので
す。台湾苛性会社は1964年にPCPの製造に成功、1969年には当時アジア太平洋
地域では最大規模と称された、生産規模 4トン/日の PCP-Na プラントを建設し
たのですが 82年6月に閉鎖されました。工場跡地からは高濃度のダイオキシンが
検出され、地元に被害が広がっています。

佐藤栄作首相は小平の追求に次のように答えました。「先ほど不規則発言ではあ
りますが、「枯葉用だ」とか、「枯葉作戦用だ」とか、こういうような声もいた
しておりましたが、しかし、いずれにしても、米軍自身が使いこなせないものを
民間に払い下げた。いくらアメリカが金があるといっても、そんなむだな使い方
はしないだろうと思いますし、私は基本的な問題が間違っておると、かようなこ
とが 次々に起こるだろうと、かように思います。そういうことが 守られないと
――お互いに信用してこそ初めて同盟条約というものは有効だ、不信を買うよう
な行為があったらこれはもう存続の意義がなくなりますから、そういう点におい
ては忌憚のない意見を当方からも言うが、これに対する応答も十分納得のいくよ
うにしてもらわなければならないと、私はかように思います。われわれがこの米
軍と取り組む態度がどうも国民から見まして日本は弱いじゃないかと、こういう
点を御指摘だろうと思いますので、そういう点については一そうわれわれも当然
要求すべきことは要求する、また納得をすればその範囲において私どもも辛抱す
べきものは辛抱いたしますけれども、しかし、いまのような点はどの点から考え
ましても理解に苦しむものでございます。」

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