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管理人 まりあっち

第16回 国策としてのオクタノール生産計画

2006-04-19 11:55:12 | Weblog
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     世界の環境ホットニュース[GEN] 581号 05年04月19日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場(第16回)       
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 水俣秘密工場                       原田 和明

第16回 国策としてのオクタノール生産計画

通産省の目論見では、オクタノール生産は1950年代をチッソと日豊化学、1960年
代を三菱化成(現在の三菱化学)など「第一期石油化」企業に分担させる計画だっ
たと思われます。

この頃、化学業界とそれを指導する通産省の最大の課題は、従来の電気化学方式
(石炭原料)から石油化学方式(石油原料)に いかに早く転換するかでした。こ
れがいわゆる「石油化」です。

通産省は 1955年に「石油化学工業 育成対策」を作成し、旧財閥系を中心とする
13社を結集して第一期石油化計画を進めていました。大規模な石油化学コンビナ
ートが各地に出現したのはこの計画のためです。第一期計画は1959(昭和34)年
に完了する見込みとなり(水俣病事件の山場だった時期と一致)、通産省は第二
期石油化計画を策定し始めていました。第一期に旧財閥系、第二期に(ともに水
俣病を発症させた)チッソや昭和電工といった旧・新興財閥系企業が多いのは偶
然とは思えません。

よく、水俣病事件について、チッソを「石油化(つまり近代化)に乗り遅れた」
企業との表現が散見されます。宮澤も「水俣病事件四十年」の中で「当初石油化
をためらっていたチッソなど電気化学系の企業は、乗り遅れに気付き第二期計画
への参画を急いだ」と記載しています。しかし、以上見てきただけでも通産省の
化学業界に対する指導力は絶大であることがわかります。チッソが自らの意思で
「石油化をためらう」ことは考えられません。「新興財閥系だったが故に石油化
を後回しにされ」「旧財閥系企業の石油化による供給体制が整うまで石炭由来の
製品供給を担わされた」と考える方が自然ではないかと思われます。

1951年頃、三井物産は日豊化学、興亜石油と連携してオクタノールなどの企業化
を計画、通産省は国会で旧陸軍岩国燃料廠の跡地利用について「何も決まってい
ない」との答弁を繰り返す一方、1952年6月、岩国の跡地を 日豊化学に払い下げ
ることに内定しました。しかし、1953年夏、中核と期待した日豊化学が経営破た
ん、計画は実現しませんでした。(三井東圧化学社史)

石油化計画に一度挫折した三井物産は改めて三井化学、東洋高圧、三池合成(後
に合併して 三井東圧化学、現在の 三井化学)に要請、後に 興亜石油とも 提携
(1954 年 6 月)して、岩国の 石油化学コンビナート建設を 実現させたのです。
(三井東圧化学社史)

通産省軽工業局長・中村辰五郎が「先般三井化学が特に関係会社の低級炭をもと
にしてこの事業(オクタノールなど高級アルコールの生産)をいたしたいという
ことで計画もし、検討も進めておる」と公表したのもこの頃で(1954.5.14 衆院
通産委員会)、三池合成が三池炭の液化、液化油からの各種化学品の製造研究な
どを通産省の研究補助を受けて行なっていた(三井東圧化学社史)という状況で
は、三井物産は新計画にオクタノールの企業化を明記できず、結果としてチッソ
が当分の間オクタノールを独占する形となり、水俣病の原因である有機水銀廃水
の垂れ流しを容認せざるをえなくなったのです。

一方、「石油化」の先陣・三菱化成は1955年に石油を原料とするオキソ法オクタ
ノールのパイロットプラントを建設していますが、工業化は1960年3月でした。
これで、やっとチッソからバトンタッチできる見込みがたったのです。1959年に
通産省がやっきになって水俣病の有機水銀説を否定しようとしたのは三菱化成の
オキソ法オクタノールが間に合わなかったからでしょう。三菱化成は原料を隣接
する三菱油化からパイプで受け、製品のオクタノールは三菱モンサントに供給、
これによって三菱化成も四日市コンビナート(三重県)に直接加わることになり
ました。

チッソの場合と違い、品質は極めて良好で、いきなりフル生産に入るなど、その
工業化は大成功でした。(三菱化成社史)三菱化成は早くも翌年には生産能力を
増強、その後他社も追随し、1963年に協和油化、64年に東燃石油化学が工業化に
成功しました。こうしてオクタノールの生産が石炭原料から石油原料に転換され
たのです。

チッソのオクタノール生産が激減することとなった「日窒の安賃闘争」をチッソ
が仕掛けた時期(1962年)と石油由来のオクタノール供給体制確立の時期が一致
しているのも偶然とは思えません。