井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

「君の名前で僕を呼んで」

2018年06月28日 | 映画

「日の名残り」の脚本家がアカデミー賞で脚色賞を得、
俳優他さまざまな賞を得たりノミネートされていて、
アメリカで大ヒットとか。(2018.4.10現在92受賞308ノミネート)
それに加え北イタリアの田舎と、この間訪れたばかりの
ローマが舞台だということで、何気なくAmazonから
取り寄せた映画が「Call me by your name」(君の名前で僕を呼んで)でした。

取り寄せたはいいが、字幕が広東語の選択があるのに
日本語字幕はなし。
イタリア語になったときだけ、英語の字幕が出る、という
難儀な見方をしたのですが、内容は解りました。

幸い、原作小説の翻訳版を合わせて求めていたので、
観終わった後、ついていけなかった箇所を小説版で
補強したのでした。それでも、ネットにある専門サイトで
予告編を観ただけで、とりこぼしたセリフがあります。

http://cmbyn-movie.jp/

 

4月27日(金)公開『君の名前で僕を呼んで』日本版本予告

 

以下、少し内容に触れるので観ようと思う人は
読まぬほうがよいと思うけれど。

1983年、北イタリアの果樹園に囲まれたヴィラで大学教授の父を持つ17歳の
少年は、
ガールフレンドもいて、それなりの経験を持つそういう意味では
普通の少年なのですが、その夏ヴィラを訪れたアメリカの
若い研究者の男に強く惹かれてしまうのです。

男は少年を冷たく避けながら、その実彼もひと目見たときから
少年に恋しているのですが、その感情に正直に
向かい合えず、二人の仲はぎくしゃくとします。

そして結ばれる・・・・という話の運びなのですが、
アメリカに戻った男から電話で、結婚すると聞き、
祝意を伝える少年なのですが、電話を切った後、
暖炉の前で泣く。ひと夏の終わりです。セリフもないまま、延々と少年の
さまざまな感情が交差する表情をカメラは映します。延々と。
そして画面から少年の姿が消えてからなお、暖炉の薪の爆ぜる音が
残っている。というごとき余韻の残る結びでした。
映画のこういう終わり方を観るのは初めてかもしれません。
集中度の低い、画面の小さなテレビでは使えない手法です。
(後述 調べたら少年の表情だけを移し続けるラストは3分30秒だそう。
それでも、飽きないのです)

「日の名残り」のベテラン脚本家ジェームズ・アイヴォリー(90歳)の
脚本ですが、原作の
末尾はごそっとカットして、しかし小説で描いた世界を
映像としてみずみずしく繊細に再現していて、鮮やかでした。

英国アカデミー賞 脚色賞および 第90回アカデミー賞 脚色賞 を初受賞、全米脚本家組合賞脚色賞、放送映画批評家協会賞脚色賞、サンフランシスコ映画批評家協会脚色賞、シカゴ映画批評家協会脚色賞、フロリダ映画批評家協会脚色賞、オースティン映画批評家協会脚色賞

小説はシノプシスにすれば、原稿用紙2枚もあれば
足る態度の展開なのですが、少年の繊細な心理を
呆れるくらい細やかに描写して、これは白人作家の
いい意味における執拗さで、学びたい点です。分野は
全く異なりますが、スティーブン・キングの、これでもか
と細部を描き尽くす作風を連想したのでした。

なぜ、男があれほど強く少年に恋しながら、間を置かず女性と結婚するのか、そこに疑問が残りましたが、おそらく彼は常識のほうを
選んだのだろうし、あるいはヘイターの父親を恐れたのかもしれないし、
またひと夏つかの間の恋が、永遠に続くものではないことを知っていたのかもしれません。

少年の両親は、少年と青年の恋に気づきながら
無言で見守っています。

父親のせりふが、原作でも映像でも図抜けて優れていました。

「炎があるなら吹き消すな。乱暴に扱うな」

「放っておけば自然に治るものを、もっと早く治すために心の一部を
むしり取ってしまえば、三十歳になる頃には心が空っぽになり、新しい相手と
関係を始めようとしても相手に与えられるものが何もないことになる」

「建前と本音。その中間にも多くの生き方がある。しかし本当の人生は
ひとつしかない。気がつけば心はくたびれ果て、体はいずれ誰も見てくれない」

(オークラ出版 マグノリアブックス アンドレ・アシマン著 高岡薫・訳)

示唆に富んだ言葉がもっと長くあるのですが、脚本家もやはりこの部分に
感応して、父親に延々と長台詞を言わせています。

 

『君の名前で僕を呼んで』インタビュー特別映像

 

映画への疑問はもう一つ、なぜ男性同士なのか、男女ではないのか、と
いうことでした。しかしながら、愛の本質を描くには世間一般の
誰もが受け入れる関係ではなく、一種の極限に二人を置くことを
作家は選んだのでしょう。

少年と青年がユダヤ人同士であるということが
キーだと思うのですが、ここは日本人である私には
実感では分かりづらい部分です。全く解らぬというほどではないのですが、
想像の域内です。同じ国内にいて「異邦人である」という民族意識を
日本人は持たず、おおむね周囲は同胞です。

映画に現れるローマが、旅行嫌いの私が当初はあれほどうんざりしていたローマが、
今は恋しく勝手なものです。美しい街です。
イタリア人の美意識は天性なのでしょう、田舎の建物の
一つ一つさえアートなのです。風雪に漆喰が剥げ落ち、レンガが露わになった
塀さえあたかも絵画。

日本の美意識は特有で卓越しているところもあるのですが、こと建物と
町並みに関しては美のかけらとてなく殺風景です。

イタリアの田舎で数日間を過ごすことは積年の夢ですが、
映画を観て、なおさらその思いが募りました。

ローマのホテルに日替わりで置かれるタオル地のスリッパです。
デザインがいいので、鞄に放り込んで来ました。

 

誤変換、他の地ほど。


9 コメント

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ジェームズ·アイヴォリー (大熊猫)
2018-06-29 09:14:37
「君の名前で僕を呼んで」は、新聞の夕刊で紹介されていたのを読んで、いつか観てみたいなぁ、と思っていたのですが、井沢先生も言及してくださるとは、嬉しいことです。
イタリアに行っていらしたんですものね。

ジェームズ·アイヴォリーで、イタリアと云うと、「眺めのいい部屋」が思い起こされます。
実は、この作品も観たことはなくて、いつか縁があれば、観る機会があるだろう、と思っているのです。
というのも、同じアイヴォリーの「モーリス」を、全く偶然にTV放送で観たからで、気にかけていれば、いずれ出会いがある、と思うようになりました。

「モーリス」は、原作者のE·M·フォースターの小説も読みました。
アイヴォリーは、フォースターの小説の映画化が多いですね。

みずみずしさは、年齢に関係ない、ということでしょうか。
井沢先生の若々しさを見習って、日々過ごしたいと思います。
大熊猫さん (井沢満)
2018-06-29 12:29:16
「モーリス」も私は観ています。評判を聞きつけ、映画化の遥か後に、私のドラマのファンである米国人の大学教授に米国からヴィデオテープだったか、送ってもらったのでした。よかったので、こちらも原作を読んでみました。
最後の花の散る・・・? くだりが印象に残っていますが、モーリスに関しては小説版より映像が優れていました。しかし、モーリスとジェームズ·アイヴォリーの名が結びついたのは、今回が初めてです。

監督までやる能力のある人に、すごい脚本を書かれると私など書くしか能のない人間はがっかりですが、天に授けられたものがあるだけましか・・・・と思い直して今日もまた。
モーリス (大熊猫)
2018-06-29 23:10:34
映画のラスト近くで、世間を恐れ、モーリスを拒んで女性と結婚したクライブが、若き日々を回想するシーンがあります。
ケンブリッジ大学で、部屋の中にいるクライブを、光が降り注ぐ外庭から、モーリスが呼び掛けます。
“Come on!”
そのモーリスの笑顔を思い出すクライブの姿を見ていると、胸が締め付けられるような気がするのです。
誰しもが失ってしまう青春の輝かしさ、愛する人と過ごした日々への哀惜の念は、人にとって普遍的なものなのでしょう。

クライブを演じたヒュー・グラントの美しさも印象的でした。

「君の名前で僕を呼んで」の主演の二人も、美しいですね。
美しい風景の中に、美しい人間を置く。
何と幸せなことでしょうか。
君の名前で僕を呼んで (総太郎)
2018-06-30 22:45:45
先生、皆様方、こんばんは。

「君の名前で僕を呼んで」興味深いですね。

小生の地元では上映がないようで、
ネットで調べますと、東北では岩手・山形県のみ、
関西では、京都・兵庫・滋賀では上映されても要の大阪府内ではなし、
四国は愛媛県のみ、
九州では福岡・大分県のみのようです。

後のDVD 化があるとは申せ、良い映画でも、中々配給網に恵まれない場合は残念ですね。

先生が仰る通り、主人公のお二人がユダヤ人同士という設定が、現地の方々には奥深い背景・意味合いを感じさせるポイントなのかも知れませんが、日本人には深い背景・意図を自然に掴みにくいかも・・。

お世辞抜きで、日本でも、こういったテーマを美しくも切なく、自然に描いてくださったのは井沢先生が第一人者だと御尊敬しております。

以前、ピピ様らにも感銘の声を寄せて頂いた
古谷一行さん主演・フジテレビ「87分署シリーズ・裸の街」の場合、

原作がアメリカの巨匠・エドマクベインさんだった訳ですが、アメリカ国内の人種問題や歴史的背景、社会情勢を含むだけに、日本を舞台に翻案するには、池田一朗先生らも御苦労されたよう・・。

本作も観賞させて頂かなければ分かりませんが、イタリアの文化や社会背景を理解していれば、より一層楽しめるのかも知れませんね・・。

私事で恐れ入りますが、ここ一月程、仕事が一段落致しまして、漸く仕事帰りに映画鑑賞を再開。

洋画では「ピーターラビット」を、

役所広司さん主演・ハードボイルドファン待望の「孤狼の血」
山田洋次監督の「家族はつらいよⅢ」
大泉洋さんに好感を感じるので「恋は雨上がりのように」

「羊と鋼の森」「50回目のファーストキス」

ネット上を中心に、保守派の方々から非難されている「万引き家族」も含め、色々と鑑賞させて頂きましたが、
個人的に一番満足したのは「孤狼の血」

山田監督の「妻よバラのように」は橋爪功さん、吉行和子さんの息の合ったお芝居を拝見したいのも目的ですが
「鎌倉物語」でもお二人が御夫妻で登場されたのも嬉しく(^^)

内容に関してはいつもながらの山田監督作品ですが・・。

まぁ、昭和の作品愛好・基準の立場としては、
基本的に「お若い方々は、こういった作品が好みなのか・・」
「今の時代はこういった流行なのか・・」
「現在人気があるタレントさんやアイドルがこの方々なのか・・」
と冷めた気持ちで鑑賞する事が大半です・・。

近年は、上記作品含め、鑑賞していても、感情移入しにくかったり、脚本や設定に疑問を感じる事もしばしば・・。

余談ですが「万引き家族」
保守派の方々のお怒りも分からない事はありませんが、世間一般の方々は殊更、気にならないでしょうね・・(殊更保守でない無党派層の方々はソフトバンクさんのCMが何ら気にならないのと同じで・・)

作品・表現の自由もあり、井筒和幸氏や若松孝二氏レベルの酷い内容でもない限り、小生はどのような作品でも殊更非難するつもりはなく、皮肉抜きで、感心する部分もあったのですが、

問題は是枝監督が村上春樹さんのように偏った政治思想をアピールなさったり、
反日活動のような事をなさらないで欲しいと心より願うばかりですm(__)m

私的な映画談義含め、失礼致しましたm(__)m

そして井沢先生にも、90歳代まで、まだまだお元気で新たなるお仕事を頑張って頂きたく(^_^)!
総太郎さん (井沢満)
2018-07-01 03:45:54
今度、奥山さんとお会いするときに「ソナチネ」に続く自信作「銃」を持って来てくださるそうで、楽しみにしています。
改めて奥山さんにエールを!(^_^) (総太郎)
2018-07-01 10:33:34
先生、皆様方、おはようございます。

「銃」は今秋公開予定のようですので、先生が先行して御覧になられるんですね(^_^)

奥山さんには改めて今後の御活躍を心からお祈りしております!

公式発表を拝読した印象では、かつての
「永山則夫事件」をモデルにした新藤兼人監督・原田大二郎さん主演の「裸の19才」(近代映画協会)
を思い浮かべますね・・。

二谷英明さん主演の名作・テレビ朝日「特捜最前線」では
長坂秀佳先生脚本・佐藤肇監督の(新宿・ナイトイン・フィーバー)という傑作も存在。

ファン投票でも圧倒的支持でDVD 化されましたが、赤塚真人さん扮する平凡なサラリーマンが
ふとした事で偶然、拳銃を手にして歯止めの効かない大量殺人に突き進み、破滅する展開・・。

本作も、奥山さんなりに独自の切り口、原作の魅力も活かした内容になると期待しておりますが、小生の地元では配給されるのか・・(-_-;)

吉本興業さんも、近年、映画・文化事業に大変力を注いでくださり、奥山さんや中島貞夫先生らを全力でバックアップして下さっているのですが、どうしても(東宝・東映・松竹・ワーナーブラザース)さんらの配給網に乗らないと中々、地方では目に触れにくいんですよね・・(^_^;)

何とか大勢の方々に鑑賞される事を願ってやみません!

それにしても「モーリス」等、先生や大熊猫様らの博識・やり取りには勉強させられるばかりm(__)m

小生、どうしても海外の素晴らしい作品・文化について不勉強(^_^;)
降旗康男先生はゴダールの「勝手にしやがれ」に影響を受けたと仰っていましたが、
イタリアやフランス等の古今東西の作品に学ぶべき物は沢山ある筈ですから、これからもこちらで勉強させて頂きますm(__)m

では、皆様も良い休日を(^_^)
モーリス (チッチョ)
2018-07-05 13:23:02
4kデジタル修復板となって春からリバイバル上映されています。同じ館で「君の名前で僕を呼んで」を続けて鑑賞しました。
時代の差と国の差が重くのし掛かって「モーリス」には悲壮感が漂いますね。あの時代でも、フランスとイタリアでは犯罪にはならなかったと、今回知りました。前回は記憶に残らず、改めて感じるシーンも多かったです。30年も経ったのですよね・・。

1983年のイタリア。カトリックの国ですからホモセクシャルやユダヤ人への差別意識はまだ強くありましたね。その頃、イタリア人(中部出身)から「彼はジューだよ」とか「彼は女に興味がないんだよ」と声を潜めて言われたことがあり、日本人の私は「それが何?」と返事して、呆れたような顔をされました。あの少しコスモポリタンな家庭環境も、その差別から距離を置くために必要だったのかなと思いました。

フランスやイタリアはヴァカンスが長いせいか(?)ひと夏の出来事を描いた映画で素敵なのが多いですね。
チッチョさん (井沢満)
2018-07-05 14:36:33
「モーリス」はもうそんな昔になりますか・・・・。

映画におけるユダヤ人同士であるという、最初からバリアを共有する者同士としてのバリアのなさで、説得力を出していました。

映画でわからなかったことの一つが、なぜビジュアル的に美しい、男二人の放尿シーンを描くのか、ということがあったのですが、おそらくきれいごとの(日本流に言えば)BLではないよ、というごとき宣言みたいなものだったのかもしれません。
小説では、もっと突っ込んだ排泄の描写があります。
ほとんど一体化した二人の関係性を表すのに、お互いの排泄行為を意図的に見る、という形でこれは西洋人の強さといおうか、ごまかさずあくまでも描くぞという気迫のように受け止めました。日本人の作家なら、流して触れないくだりだと思います。ラブストーリーに排泄を持ち込むのも、同性同士だから、だということもありそうです。
男女のラブストーリーにおける、このたぐいのお互いの排泄行為は、描くと妙な意味付けが生じそうです。

小説で感心したのは、美しい謳い上げるような詠嘆調で綴られている中に、ひょいっと無造作にある程度の卑猥な言い回しが出てきて、これも狙いでしょう。
上手くいっていると思います。

映画では、少年の両性にまたがる性指向を端的に表すのに、関係のある少女と一緒のところから始めていて、これは原作にはないくだりですが、脚本家の意図は解りました。

小説では、長い歳月の後に再会する二人が描かれていて、映像ではこれは不要ですが、小説では必要だったと思います。
Unknown (チッチョ)
2018-07-05 15:04:40
>男二人の放尿シーン
少年同士の放尿なら仲間意識を表現するシーンでしょうが、恋愛関係となると・・・・>西洋人の強さ、確かに肉体的なものも含めて感じます。

>映像ではこれは不要ですが、小説では必要だったと思います。
映像なら、蛇足になってしまうでしょうね。「あ〜、見たくなかったのに!」とかw
小説も読んでみます。俄然興味が湧いてきました。ご紹介くださり、ありがとうございます。