井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

生命力とは色気の別名である

2019年03月10日 | 映画

奥山和由さんに薦められてクリント・イーストウッド主演の「運び屋」を観てきた。
よく出来た映画だが、私は自分でも思わぬところでモラリストであり、
家庭を
放置したまま、仕事と遊びに没頭して人生を過ごした男を好きには
なれず、だから終盤で男が悔いてもなお感情移入するまでには
至らなかった。

クリント・イーストウッドは90歳という設定だが、色っぽい。
だから、若い女とダンスに興じても麻薬の運び屋で得た大金で
女二人を買ってベッドインしても、不自然さは感じない。
90歳では、おそらく無理だと思うのだが、
直接的な行為だけが性ではないのだし、もっと
淫靡に濃密な世界がある。

私はそのシーンを観ながら川端康成の「眠れる美女」を
思い出していた。すでに「男」ではなくなった老人が
秘密クラブに入り、全裸で眠らされた女に添い寝して、
肉体を仔細に点検、妻から母に及ぶ女への想念を
巡らすというごとき、退廃的な物語であり
それを谷崎ではなく、川端が書いたことが面白い。

もっとも、クリント・イーストウッドのベッドインは
ハリウッド的描写であっけらかんとしていて、
耽美も、官能もない。スポーツのように、若い女
二人とのあれこれを楽しむだけだ。そこは
描かれてはいないが容易に想像できる。指で
舌で目で陽気に味わう情景が。イーストウッド扮する
老人は戸外でも好みの若い女を見てセクシュアルな
高揚感を抱き、要するに「視姦」の達人なのだ。
目で犯したことのない男はそういないだろうが、
年を重ねるほどに、見ただけで女の体の成り立ちが
解かるようになる。肌触りも、うごめきも潤いも。老年期の
性の世界のほうが、ひょっとして豊穣であるかもしれない。

それにしてもイーストウッドの実年齢は90歳の手前だが
あの色気は恋心を見失っていず、その意味では現役
だからだと思われる。心まで枯れることの放棄。命は
果てるまで燃やし尽くすべきだが、燃やす手立てとして恋は
格好であろう。

世阿弥の「風姿花伝」には「時分の花」と「まことの花」として
若いだけで美しい時期があるが、年を重ねて備わる美しさが
まことである、と書かれている。
しかしそれでもいずれ花は枯れると、死を直視した上での言葉である。

岡本かの子の「老妓抄」にある歌、


 年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

 
「もう思いつめたり、ときめいたりの色恋沙汰は勘弁だよ」と言いつつ、
老いた芸妓は離れを若い男に貸し、その男の気配の火明りを
浴びながら、心をみずみずしく保つのである。

社会学者、鶴見和子はこう詠んだ。

 萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を

女の場合は、どこかなまなましい。男女の存在の
差であろうか。女は具象だが、男はどこか抽象なのだ。

 

佐賀藩士、山本常朝が武士の心得をしたためた「葉隠」の一節だが、

「恋の至極は忍恋と見立て候。逢いてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ本意なれ」

は至言である。恋は成就した瞬間、刻々と別の何かに変質して行くが、
遂げられぬ思いはいよいよたけを増し、深まるのである。
恋愛の要素は錯覚と誤解、エゴであるが、片恋の場合にはそれは欠点ではなく、思いの純度は日増しに澄んで輝きを増す。
若者の「告る(こくる)」世界にはない、むしろ成熟期から
老年に至る恋愛論が葉隠にある。片思いの対語として
作られた若者言葉「両思い」の何という軽薄さ、安っぽさ。
スマホに打ち込まれる語彙の乏しさ。恋の醍醐味は
実は年を重ねて後のことである。
片恋の美学はおそらく、概念としては西欧にも理解可能だろうが
日本語のように「恋」と「愛」を分ける厳密さがないと
翻訳も隔靴掻痒であろう。

映画の話に戻るが、作品中イーストウッド扮する老人に
「ジェームス・スチュアートに似ている」というセリフが
2度もあり、さほど似ているとも思えず首を傾げたのだが、
帰宅してイーストウッドの年譜を見て、その謎が解けた。
「翼よあれが巴里の灯だ」という往年の映画の主演が
ジェームス・スチュワートだったのだが、その役を
争ったのがクリント・イーストウッドだという。
その逸話はおそらくハリウッドでは有名なのだろう。脚本家が
アメリカ人のユーモア感覚で遊んだセリフなのだ。2度は
過剰であったけれど。

「翼よあれが巴里の灯だ」を観たのは中学か高校生の時で
あったが、何を思ったのか私は作品の感想を書いて
ワーナー・ブラザースに送ったのだった。すると随分時間が経ってから
思いがけないことに万年筆のブルーのインクで書かれた
直筆のサインを添えて、モノクロのポートレートが
送られて来て中学生だったか、高校生の私を有頂天にさせた。

後年、アカデミー賞の式典にゲスト枠で参列したとき、忙しい最中で
映画をまったく観ていず、だから近くにいるスターも誰が
誰だか解らない状態で、識別できたのがダスティン・ホフマンと
誰だったか、その時オスカーを得た女優さんだったのだが・・・・
ああ、ジョディ・フォスターで「羊たちの沈黙」は
たまたま観ていたので彼女だと判ったのだった。

高校生、大学生の時に銀幕に仰いだスターが会場にいたら私は
至福を味わったと思うのだが、時代はすでにエリザベス・テイラー、
マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーンを
過去の星にしてしまっていた。

だから昨年、私の原作をミュージカル化し上演したローマの
システィナ劇場を訪れた時、そこをかつてエリザベス・テイラーが
訪れたことを知り、このフロアをテイラーの足が
踏んだのかと感慨深かった。

 


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (うるる)
2019-03-12 20:53:23
運び屋見に行きました。

クリントイーストウッドさんだから皺も佇まいも綺麗だな思いながら見ていました。

ジェームス・スチュアートのくだりは全く解らずアメリカンジョークなのかと流していましたが、先生のブログでそういう背景があったのかと気付けて腑に落ちました。

日本のお年よりとはまったく違う(映画だから、クリントイーストウッドさんだから)描かれ方に魅かれながら、日本ではこういう生き方しているお年を召したかたは思い浮かばずクリントイーストウッドさんの素敵さが際立っていた映画でした。
性愛の先生の表現が自分には思いつかず同じ映画を観ても感じ方、表現など当たり前ですが全然違って凡人ぶりを痛感し致しました。
返信する
うるるさん (井沢満)
2019-03-13 02:40:52
>日本ではこういう生き方しているお年を召したかたは思い浮かばず

「こういう生き方をしている」老人を私がNHKの連ドラ「とっておきの青春」で書いたのが、30年以上も前のことです。
小沢栄太郎さんに演って頂きました。
その当時から私は老人が精神的にも枯れる、ということに疑義を持っていた、そのことを思い出しました。

生きるということは命のスパークです。恋心なくして人生なし。老人が枯れるということは一面生々しい野心や見栄からの開放でもありますが、そこに傾きすぎると命を置き去りにします。
返信する