井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

長所と欠点

2014年03月30日 | 日記

一度書き上げた脚本に延々と手を入れ続けている。
見る人はにとっては、電波の波の一瞬に浮かんで消えるセリフなので
さほどこだわらなくても、というレベルの直しを延々と
やっている。

我ながら執拗である。粘着質でもある。こういう気質がストーカーに
なるのかもしれない。私はなりはしないが、それはプライドと理性があるからだが、
気質としては、まことにしつこい、と思う。

といえば、欠点なのだが、しかし脚本の向上を目指し、延々と直し続ける根気や
訴えたい政治上のことなど、倦まずたゆまず発信し続ける根気として
活かせば、即ち長所である。

概ね、長所と短所は背中合わせなのであり、教育というものは
基本的に短所を切り捨てることではなく、長所に変えるよう導くこと
なのではないか、と思っている。

私は、科目により出来不出来の激しい学生であり、いい科目は全国レベルで
トップクラス、反面悪いのは全校で下から数えたほうが早い、という秀才と
落ちこぼれを両面持つ子であった。だから両方の生徒の気持ちが判る。
脚本と小説を書くようになってみると、むしろありがたいことではある。

私がへしゃげずに来られたのは、その都度私のいい方の面に着目してくださる
先生が小中高といたからで、いまだにありがたいことに思っている。

今思うと、私の場合は「これが、なぜ自分に必要なのか」と納得しない科目は
頭からぶん投げてやらない、生意気な生徒でもあったと思う。
それは無論、浅薄な判断であり、数学などという当時の私からしてみれば、
不必要な学問も、実はすべて有機的に結びついているのであり、それぞれの
科目が単独で存在しているわけではない、と今なら理解できる。

日本史は大変点のいい科目であったが、内容を理解していたわけではない。
暗記は得意だったので、一夜づけてしのいでいただけで、身にはついていない。
今なら現代の事象、それから世界史と結びつけつつ学んだろうから、
もっと、実質的な勉強が出来たかと思うが、残念ながらそれに気づくほど
頭のいい子でもなかったのだろう。

あと、密かに思っていたことがあって、何かに突出したければ
他がバカであるくらいで、ちょうどいいので、まんべんなくできるという事は
即ち、何か抜きん出て鮮やかな才能は持ち得ないということと
同義ではないかと、そう思い込んでいた。一面正しいのかもしれない。

一面正しいが、しかし中高で教わる程度のこと、まんべんなく学習した
ほうがよかったなと、これも今ならそう思う。

脚本で数字や年代を書く箇所は必ずと言っていいほど計算違いするので
前もってスタッフにお願いしている。「数字、だめなんで必ず間違うから、
よろしく」と。実は慎重に計算して、今回は大丈夫だと渡した脚本に
「せんせー。計算違いですーーー」と言われるのが毎度で、そこで萎えて、なんで
間違えたのかの検証もせず、直して不始末は忘れたことにして、
次の脚本でまた間違えるのである。

言い訳すると、書いている最中に年齢、年代を計算しないとセリフが書けない
ことがあり、しかし、それを正確に計算していると
動き始めた「ドラマ脳」が停止するようで、どうもいい加減な計算で
済ませているような気がする。ドラマ脳と計算脳は相反するのかもしれない。
・・・・・・と勝手に、ほざいている。

「朝まで生テレビ!」で、安倍内閣の教育再生論をやっていて、ぼーっと
眺めていたきりなので、それなりのまとまった意見も出せぬけれど、
戦後の歴史教育が歪められてきたその理由について、ある論者が
「ステレオタイプ」と何度も侮蔑的に言い棄てていたが、いや、
事実は・・・・真実は一つきりで、それは解釈の相違という次元ではないので、
同じ内容のことがずーっと言い続けられるだけのことである。

ステレオタイプというなら、その論者こそがそうなので、もう長年政界に
いる人なので、思考法も発想もこちら知悉していて、何を次に言うのか
すべて予知出来て、表情や語彙まで察知、これをこそ紋切り型というのだよ、
と内心呟きながら見ていたのだが。

安倍内閣の教育改革に私は賛成である。

そう言えば文科省の下村大臣も出ていらして、この方の名刺が手元にあって
大臣になられる前、どこかで名刺交換したのだろうが、これがさっぱり
思い出さないのだ。
たぶん、政治に全く関心のない時にお目にかかっているのだろう。

下村大臣のお考えは、いたって温和で順当なもので、私は
安倍自民の教育改革の中身は知らないながら、賛成と書いたのは
そういう理由である。内容を精読しての賛成ではないので無責任なのだが。

しかし、道徳許育の本がきれいごとという論者がいるのには驚いた。
きれいごとでない道徳教育なんてあり得るのか。
誰も自らを顧みれば、道徳など教えられはしない。
世界に一人として、いはしない。

でも、「これを目指そうね」と問いかけるのが教育なんであって
「夫婦相和し」がなんで、文句のやり玉に上がるのか。

現実は、夫婦げんかあり、不倫あり、離婚ありでそれはそれでいいのだ。
「夫婦相和し」は目標設定レベルなのであって、ではそこに近づくには
どうしたらいいのだろう、と考えるのが教育なのだと思う。

それとこれは、かねがね私の持論だが現代に不倫はない。
なぜなら、不倫というほど倫理がないからだ。
昔は、不義密通はお手打ち、処刑。
文字通り、倫理に背く覚悟での恋であったから、それなりの
美意識があった。

現代は男女間の倫理がないのだから、不倫はない。

「夫婦相和し」などと教えこむとと離婚が悪いことと刷り込まれるなどと
おっしゃる論者もいらしたが、そんなことはない。避けたいと思いつつ
そこへ向かう人間の弱さを考えるのも道徳教育であろう。

そこから敷衍して、一夫一婦制がなぜ採用されているのか。
男はなぜ浮気に走りがちなのか、それには女性はどう対処すべきかとか
ディスカッション形式で授業をすればいい。
結論はひと色でなくてもいい。

印象的であったのは「いじめはなくならない」と言ったある方の一言で、
それはそうかもしれない。時代時代の病巣としての、いじめは
様相を異にしていて、昔は現代のそれほど過酷ではなかったが。

私は、「いじめは犯罪である」と規定して、罰則を相手が子供にかかわらず
課するのがいいのではないかと思う。現実どうその「犯罪」を実証するかなど
難しい問題は派生するが、一人の子を自殺に追い込むほどの
陰湿で過酷ないじめは、道徳教育ではなくならない。
端的に犯罪である、と規定してそれなりの縛りをかけることは
可能である。度を越したら少年院に放り込むべし。

いじめを含むあらゆる犯罪の原因は相手の痛みを思いやる「想像力の欠如」から
来るのであり、それには小説を読んで、じっくり考えるなどという迂遠な
学び方しかない。犯罪は、優しさという情緒の欠如でもあるので、情緒の
スイッチを押す如き教育があらまほしい。

私は、政治家になろうとも思わぬしその能力もないが、一つだけ
どうしてもやらねばならぬというなら、10年はまかせてもらえるという条件で
文科相である。幾つか考えていることもあり、なんでまた下村さんという
打ってつけのお話し相手にいったん接触していながら、逃したのだろうと
今になって思うが、その時は関心外だったのだから致し方ない。

今の子がすぐキレるのは、感情と思考を表現するだけの語彙を持たぬからだと
いう説があるが、私もそう思う。まずは国語力のアップから取り組みたい。

 

 


1 コメント

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Unknown (たか)
2014-03-30 11:42:44
>>「これを目指そうね」と問いかけるのが教育なんであって

その通りだと思います。理想の型を叩き込むのが大事というか。今の教育は、自由・個性・平等という言葉に惑わされてる気がします。
石原慎太郎さんや曽野綾子さんのような、ちょっと厳しいけどまともな意見を持っている人の言葉にもっと耳を傾けるべきです。
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