井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

大杉漣さんと拙作「つま恋」

2018年05月08日 | ドラマ

NHKから電話。

大杉漣さんにご出演頂いた拙作(原作・脚本)「つま恋」を一部だか全部だか
オンエアしたい由。

というわけで、大杉さんが私のブログのコメント欄に書き入れていた頃のことをふいに
思い出したりした。

「つま恋」は地名ではなく、夫(つま)や妻を恋い慕う意であり、鹿などが
伴侶を求めて呼ぶさまにも使い、確か私は万葉か何かの歌集に
「つま恋」の一分野があることから、名付けた。

若年性アルツハイマーの妻が失踪、それを追い求めて夫が訪れる土地が
原作ではインドとしたが、映像のほうではセキュリテイの観点からだったと思うが
ネパールにしてくれ、という要請で私も急遽、ネパールに取材に飛んだ。

そこで初めて、川岸で遺体を焼く所を見た。組み上げた薪から、両足がにょっきり
突き出ていたが、淡々とした光景だった。
近くには、次に焼く御遺体がごろんと横たわっていた。
空気が違うせいか、焼いている間も臭いはなかった。
魂の抜け出した肉体は、単なる肉体で風景の一部になっていて、禍々しさは
微塵もなかった。部屋に置けば、また印象が変わるのかもしれない。
抜けるような青空のもと、ただ死は単なる事実として、淡々とそこにあった。
死を仰々しくしたくない。

王族も同じく河べりで焼くのだが、庶民よりはやや上流にあった。それだけの
違い。

王族は知らぬが、庶民は仰々しい葬式もなければたぶん戒名もないと思う。
焼いたあとの灰を箒で河にぱっぱっと掃いて棄てる。いや、棄てるは
語弊があるかもしれない。聖なるガンジスに連なる河に「戻す」のだろう。

そのすがすがしさに、打たれた。私は自分の死後にあれこれ指示するようなことは
しないけれど、葬儀は不要、戒名も要らない。ということだけは伝えておこうと思う。
墓も要らぬが、そんな「わがまま」を言い残すと遺されたほうが困惑しよう。

今日という一日が、ひょっとして最後かもしれぬと、腹をくくり淡々と真剣に
生きよう。いつも書いているが、私にとって死はこの世からのめでたい卒業なのであり、
とてもとても楽しみ。指折り数えて待ちながら、今日という日を精一杯。

といって、親しい人の死には悲しみが伴うのだが。だがしばらく会えなくなるのが寂しいだけで、
まったき消滅とは思ってはいない。

またね。いつか・どこかで。

 

誤変換他、後ほど