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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

「ゴクドルズ」

2019年02月20日 | 映画

ジンジンこと白洲迅くんが主演している「ゴクドルズ」を
観に新宿の映画館に出かけた。

昨夜テレビで一部を観て笑ったので、映画に出かける気になった。
こちらも面白かった。「外科医 有森冴子」で長いこと仕事を
一緒にし、無論ご本人も存じ上げている岩城滉一さんが組長役で
(いい味だった)いつ、タイに性転換に出かけ、また韓国で
どんな整形をして来るのだろうと楽しみにしていたのだが、
映画ではそれは描かないまま終わった。
シリーズになるのか、ならないのかよく解らない終わり方だったが、
退屈しなかった。

アイドルになった極道3人が、「指切り」と小指詰めに
ひっかけて愛らしく歌って踊るのも笑えた。

評判のアニメ版は未見である。


思わぬ拾い物

2019年02月19日 | 映画

ジンジンこと白洲迅くんが出ているドラマ「ゴクドルズ」の
オンエア日が関西と関東圏では違うので、今夜だなと
眠いのを無理に起きて楽しみにしていたら、
いっこうに始まらない。午前0時を過ぎた深夜ドラマの
常で、広報された当日の日付なのか翌日になってからの
放送なのか、判断が付きかねるのだ。

放送を待っている間に、各局をザッピングしていたら、
黒人が多く出ている映画をやっていて、何やら
「人種問題」ふうのテーマらしく、苦手で
すぐ他へ切り替えたのだが、「ゴクドルズ」がいっこうに
始まらず、他に見たい番組もなく目が冴えてしまっていたので
黒人俳優が多く出ているその映画を苦手だなあ、と何となく
見始めたのだが、10分もたたぬうちのめり込んでいた。

タイトルが「大統領執事の涙」という(涙は余計だと思うが)映画だった。

米国の第34代大統領アイゼンハワーにはじまり、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、 フォード、カーター、そしてレーガンまで、7人の大統領にホワイトハウスで仕えた黒人執事の半生を描いた映画というのが触れ込みで、実話に基づくらしい。

息子二人のうち長男は、黒人差別反対運動の騎手となり次男はヴェトナム戦争で死亡。長男はホワイトハウスで白人の代表格である大統領に仕え、長男は
国に盾をつき、次男は愛国心で戦地に命を散らす。

極めて政治的意図が明確な構図だが、映画は上手く昇華していて構図が気にならない。

そして妻との葛藤、愛情。妻の急死とドラマは息継ぐ間もなく展開し、ラストはホワイトハウスをリタイアした父親が息子の率いるデモに参加、息子との和解で終わる。

最初のほうを見ていないので、会員制の映画サイトで見るつもりだ。期待もせず、また積極的に見ようとは思わないたぐいの映画なのだが、深夜の
ザッピングで思わぬ拾い物をした。

 

昨日述べた内館牧子の小説「すぐ死ぬんだから」で、書き漏らしたが
老いるままに緩んでいくことの醜さは、無論男にも言及されていて、
手厳しい。気をつけねば男は女よりもなお臭く汚くなるのである。
身なりへの気の張りは人生への気の張りであろう。

男は老けると婆さん顔になり女は爺さん顔になるという、小説の一くだりにも噴いた。
それも事実だが、しかし美貌の女が年を重ねても美貌の原型を留めていることが多いのに、男の劣化の凄まじいこと。かつて、爽やかな美青年としてチョコレートのCMをやっていた俳優の凋落の凄さ・・・などを見ていると、今絶頂期にいるあの彼もこの彼も、とつい40年後の顔を想像してみたりして、実はそれがある種、興が深くもある。
花は瞬きの間に枯れるのだ。
枯れるからつかの間のきれいが、胸を打つ。

顔が爺さん顔、婆さん顔なのに髪の毛が(染めて)カラスの濡れ羽色、と小説は辛辣だが、確かにテレビで見かける。染めにも気を配らないと、かえって老いの侘しさと滑稽さがにじみ出てしまう。

小説は、ある女優さんが電話での会話の折に
話題にしたのでふと読んでみたのであり
映画は他のドラマを見るつもりが、成り行きでなにげなく見た、
いわば「拾い物」である。

映画の中で、どの大統領であったか便秘に苦しみ、トイレの
ドアを開け放したまま、ドアの前には側近数名と執事がいる、
という描写も多分、事実であり面白かった。その大統領は
黒人執事に「出ない。プルーンジュースをくれ」と、
ズボンをずり落とし便座に座ったまま頼むのだ。

黒人執事たちの黙々たる働きが、やがてバラク・オバマを産んだ、という
観点から映画は綴られ、リタイアしていた主人公はオバマから
ホワイトハウスにゲストとして招かれる。
ここがアメリカ的だと思う。代々の大統領に仕えた執事を
顕彰する感性は、アメリカのいい部分であろう。


映画で考えた日本人の清潔感

2019年02月17日 | 映画

しばらく、のんきな暮らしなので出来るだけ映画を観ておこうと
思っていたのだが、気に入って行きつけの映画館がメインテナンスで
クローズしたまま、いつまでも開かない。

初めてTOHOシネマズのシャンテに出かけた。日比谷である。
演物は「女王陛下のお気に入り」で、たいそう面白かった。
観ながら、こりゃあ英国宮廷版「大奥」だなぁと
思ったのだが帰りに見たらポスターにもそのように
刷られていた。

が、日本の大奥ものより品格を備え重厚感があり、
心理劇としての深い側面もあり、傑作の部類であろう。
品格と言ってもダーティワードが飛び交い、おつに澄ました
上辺の品の良さではない。

冒頭、「ラ・ラ・ランド」の女優さんが馬車から突き落とされ
泥道に這いつくばるのだが、それが糞尿にまみれた汚泥の
道である。

といえば、日本が併合する前の李氏朝鮮時代の道を
想起する人もいるだろう。
18世紀のイギリスも似たりよったりであった。
違うのはイギリスのほうは、一方に宮廷文化が
きらびやかに花開いていたことで、ファッションも華美を競い、
男も美しくあらねばならぬということで化粧をし、
華やかな衣装をまとい、だが朝鮮では染料もなく、
白一色であった。馬車もなく、両班という貴族は
石炭を運ぶような二輪車での移動である。まともな車輪を作る
技術がなかった。

日本では江戸中期から後期にあたるが、無論厠はあった。
内厠は富裕層にのみであるが、どんな長屋暮らしの者たちも、
屋外に厠はあったのだ。
ロンドンもソウルも、糞尿で道と河が悪臭を
放っている頃、日本人が清潔を保ち入浴を好んでいたのは、
精進潔斎に見られる、不浄を厭う特有の神道的感性かも
しれない。

衣装もむろんカラフルで、とりわけ歌舞伎における衣装は、
色彩の意想外の組み合わせが現代に通じるアーティスティックな
感性で、民間でも茶とグレーそれぞれの明度に応じて、
幾通りもの名称が与えられていた。
もともと色彩感覚に秀で、美意識も高い民族なのだと思われる。

我が国びいきも度が過ぎるとみっともないが、以上は
単に事実を述べたまでのことである。
この文化を失いたくない、後世に能う限り伝えたく
思うものである。

 


笑いのち、怒り

2019年01月29日 | 映画

ヘビーなことを書き続けたので、閑話休題。

若い友人が、「とんでもなくぶっ飛んで面白いコミックを
読みふけりました」と言う。

『Back Street Girls』というコミックで、組長が
組員3人に指を詰めさせる代わりに、タイで性転換をさせ
アイドルとして売出し、大人気を得るというなんと
マッドな発想(褒め言葉である)の漫画家がいるのだろう。

「それ、オチはきっと組長自身も性転換ってことだよね」と
訊いたら、そのとおりだった。

「映画にしたら、面白そうだね」と言ったら
「映画化されています」と、そのサイトをスマホで
開いて見せてくれた。

『Back Street Girls -ゴクドルズ-』というタイトルで
『ゴクドルズ』というネーミングも上手いし、下品だと
お叱りを受けるかもしれないが、「壮絶にチン◯が消える」
「オレたちのチン◯を返せ!!」という惹句にも噴いた。

誰が出るのだろうと、配役を見てびっくりした。白洲迅くんの
名がトップにあるではないか。

白洲くんに早速メールしたのは、いうまでもない。
「ジンジン、女になるんだって!?」

すると「女になるまでの男役ですよー」と
返事が来た。「見てもらえたら嬉しいです!」

なんだ・・・・ジンジンの女役ではなかったのか、
と思ったが、映画は面白そうなので見る。
仕事で長く組んで御本人も存じ上げている岩城滉一さんが
組長なのだそうで、これにもウケたがもちろん転換前の
男までの出演であろう。生前ブログを通じてやりとりのあった
大杉漣さんも出演なさっているようだ。(ちなみに大杉さんにご出演
いただいた、私が原作とシナリオを書いた
『つま恋』の一部使用許可願いがNHKから来た。
アーカイブで放送とのことだった)

それにしても高倉健さんや富司純子さん、私的にも
お付き合いのある岩下志麻さんの東映極道ものの
何という変遷であろう。

東映極道の全盛期の頃、私は豪州で暮らしていて
それを知らず、帰国してうんと年数が経ってから
友人である三田佳子さんが出ている健さん映画を
皮切りに何本か見て、日本の男の美学に遅ればせながら
しびれたのであった。

健さん、今の韓国に乗り込んでくれないものか。・・・・と、
おっと話がまた剣呑な峠に差し掛かる。
ここらで。また。

と、締めようとしたのだが今朝のテレビで血が逆流したことが2つ。
まず、アジアカップにおける対イラン戦、相手選手のラフプレーの
汚さ、果ては日本人選手の頬を平手打ち。
「世界は汚い」、全部が日本人みたいなのではないぞ、と
改めて気を引き締めたことだった。こっちは日本の圧勝だったから、まだ
気持ちの納めどころがあるが、不快極まりなかったのが
厚生労働省の定塚由美子官房長である。

まず省の建物から出て来る時、報道カメラの羅列を意識、
作り笑顔のまま現れ、笑ってる場合か、と怒鳴りたかった。
取材を受ける間も、あれご本人は「感じ良い」微笑のつもりなのか、
うす気味の悪いニタニタ、というより笑っていてはいけない
場面ではないのか、省のトップ2という本来調べられる側に
いる人間が聞き取りと称して、第三者委員会が仕切るべき
場に居座っていたという恥知らずをやらかした直後のことなのに、
反省の欠片もない。恥を知るという言葉もこの方はきっと知らない。
天下り先を含めた人事権を握る幹部の前で、どの職員が
本当のことを言うものか。要は「まずいこと言うんじゃないよ」
という恫喝女。

この方の「笑顔仮面」をはぎとれば、睨みをきかせた
嫌ぁな素顔が容易に垣間見えるだけに、本当に朝から
気色の悪いものを見てしまった。

明るく終わるつもりが、結局これか・・・・相すまない。


映画浸り

2018年12月25日 | 映画

若者を相手にしたラブコメディと「私はマリア・カラス」を
見てきた。

前者はひょっとしてそうかな、とは半ば予期はしていたのだが
二次元のコミックを三次元の映画に立ち上げるのは、脚本でに相当の手腕がないと
ムリである。その点「銀魂」には感心したのだったが。ひょっとしたら
漫画原作自体が突出していたのだろうか。

ただ、若い役者たちが初々しく、それを救いにとにかく最後まで観た。

「私はマリア・カラス」は劇映画だと思いこんでいたのだが、
この天から声を与えられたディーバ(歌姫)のドキュメントだった。

夫との確執の末に、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと結ばれるのだが、
そのオナシスは、ケネディの未亡人であるジャクリーヌと唐突に結婚をし、
カラスはそれを新聞で知る。
9年間の愛の結末。

映画では、マリアがオナシスの裏切りをまだ知らぬ頃の恋文が
朗読され、画面にはジャクリーヌとオナシスの蜜月が映し出される
残酷さ。

しかし、マリアは崩折れながらも「オナシスはいずれ私をまた
必要とする」と言い放つ。

その言葉通りオナシスはカラスの元に戻ってくる。が、死期がオナシスには
迫っていた。

カラス自身も50代半ばに満たずこの世を去る。
しかし、フレディ・マーキュリーもそうだが、人生は長さではない。
フレディもカラスも人の5倍の速度と密度で人生を駆け終えて
唐突に去った。そして映画で再び蘇った。

カラスの圧倒的なベルカントに聴き入りつつ、私は一方で
フレディの歌声を恋しがっていた。
やはり、病だ。

マリアの公演先が東京を含めて写し出され、ローマでの光景も
あり、人々の歓声とフラッシュが浴びせられる画面で
5月に私が思いがけず体験したあの時の人々の熱狂を
思い出していた。
世界的人気のディーバとは違い、裏方である物書きが
あんな華々しさを体験するケースはレアであろうかと思われる。
それを一瞬でも味あわせてくれたローマと、私の綴った
物語を熱く愛してくださったイタリアの人々に
とても感謝している。

一瞬私が幻のように味わったあの、注目と降り注がれる愛と、
それを日常で繰り返されていたら、そりゃあ人生も
短くなるだろうとも思うのだ。祭りは本来、一瞬のものだ。
日毎に打ち上げられる花火が延々と続くわけもない。