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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

妖艶な吉沢亮 映画「キングダム」

2019年05月06日 | 映画

しばらく映画を観ていず、酸欠状態だったのだがラインアップを見ても
「これ、観たい」と即決出来る作品がなく、駄目で
元々と出かけた「キングダム」がめっぽう面白かった。

アクションや中国史劇のコスチュームプレイが苦手で、
冒頭うつらうつらしていたのだが、だんだん目がさめて
映画を堪能出来たのは、山崎賢人と吉沢亮両君の存在が大きい。
山崎くんは、毒のないすこやかな青年のイメージで
役者としてはさしたる印象を抱いてはいなかったのだが、この作品では
野卑で喧嘩っ早い青年を頑張って演じている。演じながら
彼の地であろう穏やかな品の良さがちらちら垣間見えるのだが、
欠点ではない。

特筆すべきは吉沢亮くんの美しさと妖艶さでスクリーンに
大写しになった時は驚いた。
「銀魂」を観た時は出ていることも今回知ったくらいで
印象になく、映画の宣伝のためにテレビに出ていた時も
顔も憶えていなかったぐらいだから、今回の吉沢くんは
作り上げた役柄を通しての優美で色っぽさなのであろう。
役者のオーラというものは、ついたり消えたりすることも
あるのだが、あるいはそれかもしれない。

 

中国の春秋時代を舞台にしたフィクションであり、史実を
詮索しても意味がないようだ。スクリーンには
男ばかりで珍しいなあと思っていたら、男だと思わせていた
山の民の首領が長澤まさみさんで、この人のアクションと
存在感も楽しかった。男しか出ないので、史実に敢えてそむいて
女性として置き換えたのだろう。

高嶋政宏くんは重厚な武将役で、成熟した演技を見せてくれたのだが
友達付き合いの人が(CMもそうなのだが)実生活の顔を知り過ぎている人が
別人になって演じていると、なんだかムズムズして落ち着かない。
三田さんがしきりにコマーシャルに出ていらした頃、やはり照れくさかった。
と、御本人に申し上げたら「家族が出ているような、身内意識なのよ」
とお返事で、そういうことなのだろう。

「キングダム」でもう1人印象が強烈だったのは、大沢たかおさんが
演じる将軍で、これが口紅でもつけているのではないかと思われるくらい
メークバッチリで、何とも不思議な人物造詣。原作コミックが
そのように描いているのかと思ったのだが、後に調べた所によると
映画独自の人物造形だったようで、監督の指示なのか
大沢さんのオリジナルなのか知らぬけれど、とても気味が悪く
(褒め言葉である)厚化粧の顔で「んふ」と笑うのである。
そして武に長けていて人をあっさり殺す。そして「んふ」と笑う。
夢に出てきそうである。大沢たかおさんも、只者ではないなあ。
病みつきになりそうな人物像を作り上げた腕前。

中華統一をもくろむ若い王(吉沢)と、その王を助ける青年(山崎)の
物語だが、もし中国で上映されたら反応がどうであろう。
思いもよらぬ観点から上映禁止にしたり、シーンをカット
する国なので、予想がつかない。

それにしても、劇中の王が存命なら天安門から現在に至る中国を見て、
どう思うであろう。中華統一は果たして実現しているのだろうか。
多言語数カ国の集合体のように現在でも見えるのだが。
表から見えるほど、盤石の統一国家ではないように思う。

 


ゴジラと和太鼓

2019年04月27日 | 映画

10連休の初日、東京からは車の数が減り心なしか
空気が澄んだ気がする。盆や正月の空の青さには
及ばないが、連休も半ばになる頃には、もっときれいに
なるかと思われる。

鬱陶しい話題が続くので閑話休題。
アメリカ製「ゴジラ」のテーマ音楽が、和太鼓と日本の
お祭りの掛け声が使用されていて面白かったので
ご紹介。

曲の来歴については、海外ファンの人たちがもろもろ
述べているが、私はそれほどのファンではないので
曲の成り立ちにまつわる逸話は斜め読みした程度。

といってもゴジラはほぼ、幼児体験に近いぐらい
少年期の記憶にあるし、「シン・ゴジラ」は思わぬことに
政治的会話劇としてたいそう面白かった。

 

Godzilla (feat. Serj Tankian) - Bear McCreary (Official Video)

 

 


生命力とは色気の別名である

2019年03月10日 | 映画

奥山和由さんに薦められてクリント・イーストウッド主演の「運び屋」を観てきた。
よく出来た映画だが、私は自分でも思わぬところでモラリストであり、
家庭を
放置したまま、仕事と遊びに没頭して人生を過ごした男を好きには
なれず、だから終盤で男が悔いてもなお感情移入するまでには
至らなかった。

クリント・イーストウッドは90歳という設定だが、色っぽい。
だから、若い女とダンスに興じても麻薬の運び屋で得た大金で
女二人を買ってベッドインしても、不自然さは感じない。
90歳では、おそらく無理だと思うのだが、
直接的な行為だけが性ではないのだし、もっと
淫靡に濃密な世界がある。

私はそのシーンを観ながら川端康成の「眠れる美女」を
思い出していた。すでに「男」ではなくなった老人が
秘密クラブに入り、全裸で眠らされた女に添い寝して、
肉体を仔細に点検、妻から母に及ぶ女への想念を
巡らすというごとき、退廃的な物語であり
それを谷崎ではなく、川端が書いたことが面白い。

もっとも、クリント・イーストウッドのベッドインは
ハリウッド的描写であっけらかんとしていて、
耽美も、官能もない。スポーツのように、若い女
二人とのあれこれを楽しむだけだ。そこは
描かれてはいないが容易に想像できる。指で
舌で目で陽気に味わう情景が。イーストウッド扮する
老人は戸外でも好みの若い女を見てセクシュアルな
高揚感を抱き、要するに「視姦」の達人なのだ。
目で犯したことのない男はそういないだろうが、
年を重ねるほどに、見ただけで女の体の成り立ちが
解かるようになる。肌触りも、うごめきも潤いも。老年期の
性の世界のほうが、ひょっとして豊穣であるかもしれない。

それにしてもイーストウッドの実年齢は90歳の手前だが
あの色気は恋心を見失っていず、その意味では現役
だからだと思われる。心まで枯れることの放棄。命は
果てるまで燃やし尽くすべきだが、燃やす手立てとして恋は
格好であろう。

世阿弥の「風姿花伝」には「時分の花」と「まことの花」として
若いだけで美しい時期があるが、年を重ねて備わる美しさが
まことである、と書かれている。
しかしそれでもいずれ花は枯れると、死を直視した上での言葉である。

岡本かの子の「老妓抄」にある歌、


 年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

 
「もう思いつめたり、ときめいたりの色恋沙汰は勘弁だよ」と言いつつ、
老いた芸妓は離れを若い男に貸し、その男の気配の火明りを
浴びながら、心をみずみずしく保つのである。

社会学者、鶴見和子はこう詠んだ。

 萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を

女の場合は、どこかなまなましい。男女の存在の
差であろうか。女は具象だが、男はどこか抽象なのだ。

 

佐賀藩士、山本常朝が武士の心得をしたためた「葉隠」の一節だが、

「恋の至極は忍恋と見立て候。逢いてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ本意なれ」

は至言である。恋は成就した瞬間、刻々と別の何かに変質して行くが、
遂げられぬ思いはいよいよたけを増し、深まるのである。
恋愛の要素は錯覚と誤解、エゴであるが、片恋の場合にはそれは欠点ではなく、思いの純度は日増しに澄んで輝きを増す。
若者の「告る(こくる)」世界にはない、むしろ成熟期から
老年に至る恋愛論が葉隠にある。片思いの対語として
作られた若者言葉「両思い」の何という軽薄さ、安っぽさ。
スマホに打ち込まれる語彙の乏しさ。恋の醍醐味は
実は年を重ねて後のことである。
片恋の美学はおそらく、概念としては西欧にも理解可能だろうが
日本語のように「恋」と「愛」を分ける厳密さがないと
翻訳も隔靴掻痒であろう。

映画の話に戻るが、作品中イーストウッド扮する老人に
「ジェームス・スチュアートに似ている」というセリフが
2度もあり、さほど似ているとも思えず首を傾げたのだが、
帰宅してイーストウッドの年譜を見て、その謎が解けた。
「翼よあれが巴里の灯だ」という往年の映画の主演が
ジェームス・スチュワートだったのだが、その役を
争ったのがクリント・イーストウッドだという。
その逸話はおそらくハリウッドでは有名なのだろう。脚本家が
アメリカ人のユーモア感覚で遊んだセリフなのだ。2度は
過剰であったけれど。

「翼よあれが巴里の灯だ」を観たのは中学か高校生の時で
あったが、何を思ったのか私は作品の感想を書いて
ワーナー・ブラザースに送ったのだった。すると随分時間が経ってから
思いがけないことに万年筆のブルーのインクで書かれた
直筆のサインを添えて、モノクロのポートレートが
送られて来て中学生だったか、高校生の私を有頂天にさせた。

後年、アカデミー賞の式典にゲスト枠で参列したとき、忙しい最中で
映画をまったく観ていず、だから近くにいるスターも誰が
誰だか解らない状態で、識別できたのがダスティン・ホフマンと
誰だったか、その時オスカーを得た女優さんだったのだが・・・・
ああ、ジョディ・フォスターで「羊たちの沈黙」は
たまたま観ていたので彼女だと判ったのだった。

高校生、大学生の時に銀幕に仰いだスターが会場にいたら私は
至福を味わったと思うのだが、時代はすでにエリザベス・テイラー、
マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーンを
過去の星にしてしまっていた。

だから昨年、私の原作をミュージカル化し上演したローマの
システィナ劇場を訪れた時、そこをかつてエリザベス・テイラーが
訪れたことを知り、このフロアをテイラーの足が
踏んだのかと感慨深かった。

 


映画と喫煙

2019年03月06日 | 映画

「七つの会議」と「ギルティ」と立て続けに2本の
映画を同日に観た。

「七つの会議」は、心に響くというたぐいの作品ではなく
娯楽に徹している映画だが原作を含めて上手なので、飽きない。
俳優が豪華で、こんな役にこの人を使う? というのが随所に。
制作陣のヒットを見込んでの豪華なキャスティングなのだろうが、
あては外れなかったようだ。

「ギルティ」は珍しくデンマーク映画で、言うところのone situation drama
であり、映画には緊急取調室の室内にカメラを据えっぱなしで、出演者も
ほぼ1人、と言っていいくらい他の人物は同僚として時々出てくるだけ。
ひたすら主人公の肌のブツブツや産毛まで見えるアップの表情と、
電話から漏れてくる緊急出動依頼の声のみで構成されているという、息苦しい映画であり、脚本はこういう限定状況でよくここまで作り上げたと感心させられるが、好きな人はどっぷりはまり、受け付けない人はまるでだめ、という
たぐいの映画である。

「七つの会議」だか、野村萬斎さん扮する主人公が煙草を吸う。
ということで、また昨日触れたNHKの大河ドラマに来ているという
喫煙シーンへの抗議についてであるが、野村萬斎さんが
喫煙するからと言って別に喫煙の許容でもなければ、お勧めでも
ありはしない。大企業の中で、1人浮いている存在を表すための
今どき、大企業内では珍しい社内喫煙者としての描き方である。
これをしも、大河ドラマにクレームを寄せる人は許容
できないのか、それとも副流煙の害さえなければいいのか、
そこが分からないのだがいずれにしても、映画やドラマに
おける喫煙シーンに目くじらを立て、「謝罪しろ」とまで
詰め寄るのはヒステリックに過ぎないか。

たまたま深夜のテレビで「あの日のように抱きしめて」という
ドイツ映画を再見したのだが、時代はナチスドイツの崩壊直後で
ここでも、男たちのみならず女たちがひっきりなしに
煙草をふかす。そういう時代だったのだ。
このての映画から喫煙を除け、と迫るのは歴史改竄を迫るに
等しくはないか。いささか大仰ではあるけれど。

私は日に数本吸うが、許された戸外か室内のみで
人と会うときはいっさい吸わない。3,4年間吸わなかった
時期もあり、だから狭い場所で吸われる苦痛も知っているし、
会う相手が喫煙者である場合、高価な着物は避けるなどの
煩わしさも承知、歩き煙草をしている人の
煙が風で鼻先に来ると、顔をそむける。
一時期、散歩のついでに路上の吸い殻を拾っていた
こともある。

だから、喫煙への嫌悪感は重々解かる。が、映画やドラマで
「時代風俗」や人物のキャラクターを表現するシーンに
文句をつけ、あまつさえ謝罪しろというのは極端過ぎないだろうか。

東京五輪に向け、喫煙に関してはいよいよ締め付けが厳しく
なろうだろうが、個人的には不可のエリアで吸わねばいいだけのこと、
痛痒を感じないし反対もないのだが、ただ魔女狩りふうの
監視社会になるのは避けたい。(喫煙擁護論ではない)
どころか街から煙草の煙が消えれば清々しいだろうな、
とさえ思っている。

昨日も書いたことだが、喫煙という日常些事表現に謝罪を迫る
人達は、番組それ自体が日本を貶め傷つける意図を持った
番組に、敏感に声を上げる人達だろうか?そちらのほうに、
抗議が寄せられたという話は、余り聞かない。

余談だが・・・・ヴェトナムを訪れた際、駅のホームに
降り立った金正恩委員長の喫煙の仕草が、格好いいという
評価に絶句した。・・・・格好はいいのかもしれないが、
わざわざ褒める神経が解らない、という私がこの場合は
偏狭で人のことを言えぬのか? 昔ながら、マッチをする
その仕草にふと郷愁を覚えたのも、事実ではあるけれど。

もう一つ余談・・・・映画を観終えて廊下に出たら、もう一つの
映写室から「ボヘミアン・ラプソディ」のクライマックスシーンの
音声と拍手の音声が漏れて来ていた。封切りが確か昨年11月だったか?
4ヶ月のロングランは稀有だろう。この映画にも受動喫煙お構いなしの
煙草シーンがあった。

なんだか旭日旗を目の敵にする韓国人みたいな人達だと
いう気もする。大河ドラマの喫煙シーンに謝罪しろと
詰め寄る人達。そのメンタリティに於いて、であり旭日旗と
煙草を同列に並べる意図はない。

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以下はパーソナルな伝達事項。
食事会参加の方は、専用掲示板をご確認頂きたし。


偏狭な正義感

2019年03月05日 | 映画

グラミー賞とアカデミー賞の作品賞を得た「グリーン・ブック」を
観てきた。
黒人ヘイトのイタリア系アメリカ男が、黒人のピアニストに
雇われ、南部のコンサートを巡るうち、自らも
その出自のせいで侮辱を受けたりなどしながら
差別の不当に目覚め、その黒人ピアニストと
終生の友情を結ぶ、というごとき物語で
実話をベースに脚色された話である。
besed on true story ではなくinspired by true storyと
表記されている。

ユーモアも適宜に施され、脚本も巧みで(脚本賞も得ている)
退屈はしないのだが、内心(しかし、なぜボヘミアン・ラプソディが
作品賞ではなかったのか・・・・)と思いながら観ていた。
ところが、ラストの1分が鮮やかで、これは先の作品賞受賞作
「ムーンライト」でも同じ。こちらも黒人差別に加えゲイヘイトが
かぶさっての物語だったが(あ、いや、そう書いて思い出したのだが、
グリーン・ブックのピアニストも人種差別に加え、ゲイヘイトの
中を生きているのだった)。ムーンライトも退屈はしないが、なんだかなぁ、
「ラ・ラ・ランド」を押さえて受賞するほどかなあ、と思いつつ
観ていたのだが、ラストの数分間のキレのよさに、ああこの
ラストに向けての作品は作られたのだな、ということが
よく解り、なるほど「ラ・ラ・ランド」よりこちらが
深みに於いて勝る、と思ったのだった。ムーンライトは
結局、屈折した二人ながら、純愛物語だった。ラストの
1分間でそれが痛切に迫る。

ところで、グリーン・ブックの主人公はのべつ煙草を吸う。
幼い子供を腕に抱いたまま、喫煙する。
それを観ながら脳裏をよぎったのは、大河ドラマの喫煙シーンに
抗議を寄せた人々は、この映画にもクレームをつけるのか、
ということだった。

私は大河ドラマのほうは観てないが、明治から始まり1960年台で
終わるなら、喫煙は当時の日常である。国際線の飛行機内でも
ナイトショーの映画館でも紫煙が立ち込め、大人は赤ん坊の
前でも吸っていた。そのことの良し悪しではなく、単に事実として
その時代にあった。映画もドラマも喫煙の薦めでもなければ
受動喫煙の害を否定するものでもなく時代の「表現」として
描いているだけのことだ。

私も「母。わが子へ」というドラマで、喫煙シーンを書いた。
それに対してもクレームが来て、たまげた。
そのドラマ内における喫煙者は路上喫煙を注意され、
生まれて来る子供のために禁煙するという運びなのだが
喫煙シーン自体がいけないという。喫煙肯定で
書いたのでもなければ否定で書いたのでもない。

ドラマに保健の教科書や、道徳読本を求める人達がいる。

NHKに抗議を寄せた人達は、流血シーンのようなものは
画面で規制をかけるのに、喫煙シーンを控えないとは
何事か、というのだが流血などという「非日常」と、その時代においては
単なる生活風景であった「日常描写」と同じ俎上に上げるのは
ロジックの混同であろう。

大河ドラマは明治期に始まり、1960年台で終わるらしいが
「グリーン・ブック」も1960年台が舞台である。だから
当時の風俗を描くのに、煙草はひっきりなしに現れる。

戦時中、時局柄、晴れ着の袂がけしからんと人の着物に
ハサミを入れるごとき極端なことがあったらしいが、
「正義」というゴールを目指して、視野を狭めるブリンカー (ブラインダー) をつけられた競争馬みたいな人達だな、と思う。

喫煙などという時代のリアリティの細部表現に謝罪せよと詰め寄る人達は、
捏造史観に基づく、とんでもない日本毀損番組(少なくはない)に
声を上げる人達だろうか?