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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

幸せな病気

2018年12月24日 | 映画
 
ロック嫌いの私がなぜ、クィーンの音楽だけはまっすぐ心に届くのか
考え続けていたのだが、畢竟彼らの教養から来る品のいい佇まいと
知性、美意識の裏打ちがあるからではないか、と思い至った。
 
いささか偏見の嫌いは認めるが、ロック=粗野=無教養という
思い込みが私にはある。
 
音楽的完成度で言えば、メンバー4人全てが作詞作曲が
できるだけの才能の集合体であること。
 
フレディ・マーキュリーの基礎唱法がオペラのそれであり、
野卑ではないこと。加えて4オクターブの声域。
 
先に述べたように、TEO TORIATTE(手をとりあって)という
日本語の歌詞が入る曲の、ヨナ抜きや津軽三味線の奏法を取り入れた
ギターも日本人である私の琴線に触れる。
 
教養で言うなら、ギターのブライアン・メイが天文学の博士号取得。
ドラムの金髪ブルーアイの美形、ロジャー・テイラーは読書家で、生物学の専攻。
ベースのジョンディーコンは電子工学科で、大学は首席で卒業。

さながら知識者集団というのは、過褒だろうか。

フレディに上記のごとき、突出した学歴はないが大学には行っていて、
陶芸、デザインなどに秀でグループの美意識領域の担当者だろう。
また語彙も知識も広範で、彼の作詞作曲による「ボヘミアン・ラプソディ」には
スカラムーシュ、セビリアなどのオペラ言語、ゾビスミッラー=「アッラーの名のもとに」というイスラム教の言葉まで使われている。
 
映画の中で、フレディは「ボヘミアン・ラプソディ」のリリースを渋る
プロデューサーにシェークスピアまで持ち出して迫り、見ているほうは
なぜ突然のシェークスピアかきょとんとするのだが、この天才の
脳裏には、さまざまな世界の言葉が多彩に明滅していたのであろう。
ガリレオ・ガリレイというイタリアの天文学者まで登場する。
そして、きれいな発音で日本語を歌い、聴覚も優れていたのであろう。
「TEO TORRIATTE(手をとりあって)」では、おそらく
多くの日本人が涙ぐむ。聴いていただきたい。
 
というわけで、いまだフレディ・マーキュリーとメンバーの
音楽が脳裏に住み着き、不意に鳴り響く。どうやら私は
幸せな病気にかかってしまったようである。

胸熱くすることの快感

2018年12月23日 | 映画

昔から、他人と何かの感動を共有、おおっぴらに表現することが
不得手で、これは幼児期体験(インナーチャイルド)による、
と修行に出かけたインドで僧侶に言われたが、そうかもしれない。

だから、サッカーや野球に打って一丸、声をからし応援、ごひいきチームが
勝てば抱き合って喜ぶというごとき光景がずっと解らずに来た。

しかし、生まれて初めて人々と感動を共有、連帯する喜びを教えてくれたのが
「ボヘミアン・ラプソディ」であった。映画館にかかってから、もう
2ヶ月近くになろうというのに、さっき他の映画の演目を漁りに
公開中のサイトを眺めていたら
同じビル内数館で上映されているのにもかかわらず
「胸アツ応援上映」を
含めて残席わずか、の表示。

昨夜、やはり日本びいきの女性シンガーが主演している映画を
見に出かけたのだが、これが退屈で・・・・。そのシンガーを
私は好きだし、彫刻的な意味での美貌の持ち主なのだが、
アップの顔を観ているだけで満足というのは、古い古い話で
恐縮だが、マリリン・モンロー、エリザベス・テイラー、
オードリーヘップバーンで、私は過去完了形なのだ。

そして、ロック。TCXの巨大画面で観たのだが、音響もドルビー・サウンドで
のっけに流れる巨大音声のロックに耳を塞ぎたかった。

なにごとによらず、いったんは胸の内に無批判に取り入れるだけの
柔軟さを持ちたいと願っているのだが、ロックはやはりダメだった。

なぜクィーンの楽曲がまっすぐ胸に届くのか、解らない。
強いて分析すれば、オペラという古典にその基盤を置いたり、
ギターの奏法に津軽三味線を取り入れたりのダイナミックな
曲想だからかもしれない。日本独自のヨナ抜き音階を使用した曲には
日本人としての郷愁さえそそられる。
女性シンガーも歌唱力が圧倒的なのだが、フレディ・マーキュリーの
歌声が私の耳には残響で住み着いてしまっていて、いまだ不意に鳴り響き、
動画で追いかけては、初めて聴く曲に涙している有様である。

昨夜は、実はその「胸アツ」に再び浸りたく、上映スケジュールを
チェックしたら、思い立った時間に上映されていず、それで
予告編で興味がなくもなかった、女性シンガー主演作を
観に行ったしだい。退屈だったが、しかし技術的なことで
学ぶ点はあった。この間の化け物映画とは違い。
要所要所でうたた寝することもなく、しかしかえってそれがしんどかった
のだが。上映中の暗がりで席を立つ勇気がない。ひょっとしたら、
感動しているお客さんもいるかもしれないし、そこへ水を差すのも
気が引けるので。館内の空気は、ボヘミアン・ラプソディの時のように
熱気で密度が高くなるということもなかったように思うが、
映画に浸れなかった私の偏見かもしれない。

映画は見始めると癖になる。この際、お勉強も兼ねて2作品ほど観ておこうと
思い立ち、上映中の映画を調べたらマリア・カラスを取り上げたものと、
若者向けのコミカルなラブストーリーの2作品がアンテナに
引っかかった。どちらかというとマリア・カラスに針は触れているのだが。
まだ決めてはいない。時間の組み合わせが上手く行けば2作品を
連続で観るというてもある。
3作品を続けて観たこともあるから、2作品なら軽い。
楽しみが勉強にもなるという職種でよかった。

 


ホラー映画で笑うのもなんだけど

2018年12月15日 | 映画

何か観ておくべき映画はないかと探したのだが、
これといってないので、予告編で見たホラー映画を
観に出かけたのだが・・・・。

これが、ちっとも怖くなく眠気じわじわ。
退屈でも、何か一つ学べる点を持って帰ろうと
いう主義なので、目を皿にそこを探すのだが・・・・
ない。

ただ、一箇所思わず吹き出したところがあって、これだけが
めっけもの。
怨敵退散の除霊の大々的儀式があり、この映画のクライマックスでも
あるのだが、その儀式が神道、仏教混合でそこに韓国の除霊儀式まで
加わって、皆が祈り狂い踊り狂うのであり、そこが妙に私のツボで楽しかった。
誰も笑っている人はいなかったが。

現代の陰陽師みたいな女性(好演だったが)の、光明真言のアクセントが
微妙に変で、印(ムドラー)の組み方が違うのも、少し笑えた。
どういうふうに唱えるのか、実地訓練は受けられなかったのかも
しれない。
同じそのてのシーンでも「陰陽師」におけるそれは、いかにもそれらしかったのだが。

しかし私が恐がれなくなっているのかも知れず、それを作品の出来にするのは
不公平かもしれない。思えば映画で恐い思いをしたのは「ミザリー」
「シャイニング」で、随分昔のことだ。もっと遡れば子供時代に
観た化け猫シリーズ。しかし、化け猫に操られて踊る腰元が
逆立ちした瞬間、パンツが見えて指差しアハハと言っているような子だったので、
まあ、どういうものか。
なぜ祟られるのか因果関係が不明なので、そこも恐くなかった原因かも
しれない。ただ時々うつらうつらしていたので、私が見逃したのかもしれない。
救いが片鱗もなく、登場人物全員が悲惨に死ぬというは新鮮だったかも
しれない。ひょっとして、それが狙いの映画だったのか?だったら成功。

日本橋の東宝シネマで観たのだが、ここは同一ビルの中に何箇所も上映の客席があり、
要するに単館がいくつも、ビル内に入っている状態。
驚いたことに「ボヘミアン・ラプソディー」に、3つの客席が割り振られていたことで、都内には他にも複数東宝シネマがあり、全国の上映館を含めればどれだけの日本人が今日一日、この映画に押しかけているのだろう。
封切りからもうひと月以上経っているのに、まだ勢いは落ちていないのであろう。

ワイドショーがあちこちで取り上げて、コメンテーターの皆さんが涙まで浮かべて語るので、それも拍車をかけているのかもしれない。

今日のホラー映画に岡田准一くんが出ていた。昔、東山紀之くんから鍋をするからと誘われて部屋に行ったことがあるが、そこに挨拶に来てくれたうちの一人がまだ無名に近い岡田くんだった。
ここまで大きい役者になるとは思わなかった。
出る人は出るべくして出るものだなあ、と思う。

背丈がないのを心配していたのは山口達也くんで、大丈夫だよ、ハリウッドの
あの何とかいう俳優は、と言ったら山口くんが即座にその名を
挙げたので、意識はし励みにもしていたのかもしれない。
私に未来が見えるなら「大丈夫、岡田くんだって」と
励ましたかもしれない。

まだ入院中だという山口くんの記事を見た。
なんで、こうなったかなあ、とこれもまた私に未来が見えたなら
忠告してあげられたものを。
ロケ地の西伊豆の温泉宿の一室で、国分太一くんもいた。
駿河湾が見える大浴場の温泉に3人でとぷんと
つかってらちもないことを話しては笑った、あの
のどかな時間はついこの間のような気がするのだが。
朝起きるのが苦手だと、何だか消防車みたいな
形のすさまじい音を立てる目覚まし時計持参で、お蔭で
撮影の朝、私まで叩き起こされた。

そう言えば、背丈の低いそのハリウッド俳優のその後を
知らない。彼も病を得てスクリーンから去って久しい。

恐いのは映画より人生なのかもしれない。


夢と現の間にボヘミアンラプソディー

2018年12月14日 | 映画

夢とも現(うつつ)とも知れぬ間(あわい)に聴き覚えたばかりで
しかし耳朶(じだ)に刻印された旋律と声が聞こえてきて、
ぼんやり目を開けたら55インチのテレビ画面に映し出されて
いたのはQUEENだった。

テレビをつけっぱなしで、ベッドでうつらうつらする悪癖があり、
この時もそうだった。しかし、悪癖のお蔭でQUEENの
ドキュメントを見逃さずに済んだ。放送があることすら
知らなかったのだ。これもご縁というものであろうか。

映画的効果のために脚色した箇所を除いては、映画が比較的
現実を忠実に写し取ったものであることをドキュメントの
お蔭で知った。

楽曲の並びが映画では時系列に沿ったものではない、という
ご指摘をコメント欄に頂戴したが、それも映画的効果のための
意図的作為であり、私も脚本家であればそうする。
かつて杉田久女という俳人を田辺聖子さん原作でNHKの
ドラマ「台所の聖女」で描いたことがあり、(樹木希林さんの
主役であり、この作品を機として希林さんとの長くはなかったお付き合いも
始まったのだが)、作品では久女のモノローグの代わりに
久女の俳句を使った。しかし作品の生まれた順番は意図的に無視、
シーンに最もそぐわしい俳句を用いたのだった。

時系列の乱れを指摘されたのは、鈴木清順先生の奥様であり
清順先生の口からそれをお聞きした。
確信犯であったので、それで揺らぎはしなかったが、詳しい
ファンには気になる点であろうことは、理解できる。

映画ではフレディの日本への思いは、時々羽織る華やかな
女物のキモノによって表現されていたが、ドキュメントによれば
陶器への関心も深く、また自宅の庭は日本人に
作らせた庭園があった。

GUEENの楽曲にいち早く感応したのは本国イギリスではなく、
日本の若い女性たちであったという。
曲に込められた精神性が、日本人の心を揺さぶるのであろうし、
ゲイとしてのフレディの感性の繊細さが、まず訴えかけたのが
敏感な若い女性たちであったことも頷ける。

フレディは巧みに絵を描き、陶芸を学びそしてファッションのクリエイターとして
美の領域を渡り歩き、音楽にたどり着いた。

映画で演じたメンバーの一人が、旭日旗のシャツを着ていたとかで
韓国の人々が騒いでいて、怒るより物悲しくなる。
いつまでこの人たちは、旭日旗狩りをして憂さを晴らす
つもりなのか。ボヘミアン・ラプソディという人類が
生み出したこの豊穣な映画を前に、何という貧相。

旭日旗にしろ、慰安婦にしろ徴用工にしろ、ある時期までは
話題にすら上っていなかったのであり、明らかに後追いで
人工的に盛り上げられた日本撃ちである。

日本を戦争犯罪国として旭日旗をナチスのハーケンクロイツと
同一視するごときは、所詮無理でありその無理をしかし、
韓国の人々は飽きもせず続ける。

クロード・モネの絵画「ラ・ジャポネーズ」における
女の赤いキモノを、もしモネが現代に生きていたら
キモノではなく、BTSや他の韓流を画材に取り上げていたであろう、
と大真面目に書いているのが、これが韓国の大学教授であり、
ほとほと、何という人たちか、そこまで日本文化に
羨望と劣等感を抱くのか、と吐息が漏れる。
ゴッホも浮世絵を絵のモチーフに用いているが、同じことを
言うのだろうか。

「日流」か韓流かというごとき狭隘な次元に画材はなく、
欧州のアーチストたちが感応したのは、日本の絵師たちの
遠近法に制限されぬ闊達な感性に対してである。
それは日本のアニメの隆盛にも連なっているのであり、
韓国アニメが日本に追いつかないのは、伝統の
裏打ちがないからだ。悲しい民族、いや言ってしまえば
哀れな民族だと思う。むろん、一部に卓越した感性の
アーチストはいる。紙芝居的な面白さでは、上手な作品も
幾つかあるが映画において芸術の高みに上り詰めた韓国映画を
私は1本しか知らない。韓国における実在の殺人犯を
取り上げた作品で、タイトルはとっさには思い出さないのだが
これは秀逸だった。

話題が一転して飛ぶが、基礎科学研究の学徒たちに日本はお金を使わない。
日本文化がこれほど花開いたのも、当時の権力者や豪商がスポンサーとして
いたからだ。
科学とて同じことであろう。
このところ、日本は立て続けにノーベル賞の受賞者を輩出しているが、
現状では先細りになるかもしれぬ。
受賞者を一人も出していない韓国の研究費より大幅に安いと聞けば
愕然とせざるを得ない。

国は中国人の若者たちを呼び寄せ学ばせるお金があるなら、なぜ
日本人の学徒たちに回さぬのか。将来、親日的な中国人を
養成するためなのだそうだが、日本にたかだか数年いて
日本で学んだらといって親日になりはしない。あの、韓国という祖国への
熾烈な愛国心を持っていた呉善花さんも、日韓の歴史の真実を悟るまで
延々と時間を費やしている。
それも、主体的に日本文化を理解しようと務めた上でのことである。
中国政府の号令一下、五星紅旗を振りたて長野に参集して
怒声を上げたのが中国人留学生であったことを忘れまい。
ターゲットは中国のチベット弾圧に抗議する人々であった。
政府の偽りの義のもとに、本物の義は打ち据えられた。

国費を用いての留学生受け入れは単に一例として上げたまでのことで、
要は不要の冗費使用を止めて、日本人の若者、つまりは
日本の未来に投資せよという主張である。

たとえば「戦略的広報」とやらで立ち上げられた「ジャパン・ハウス」、この
クソくだらない(失礼)施設に費やす予算が500億円なのだ。
500億を、日本の基礎科学の学びの場に回すほうが100倍も
日本のためである。

QUEENを語ればなぜか日本文化に行き着く。
何かがきっと通底しているからであろう。ロックを毛嫌いしてきた
私の胸にさえ、QUEENの楽曲は素直に染み入る。
根っこがオペラという古典と通底しているのではないか、という
私の直感も外れてはいなかったようで、彼はオペラの
プリマドンナと共にオペラも歌っている。
タキシードに威儀をただしてフレディが歌い上げるオペラに私は
ひれ伏す思いであった。
直感と言えば「ボヘミアン・ラプソディ」はフレディのゲイとしての
苦悩から生まれたものではないかと薄々映画で感じたことも、間違っては
いなかったようだ。
一人の女性に一生の愛を捧げながら、晩年は同性の恋人と穏やかに寄り添い
生を終えたフレディは多面体で、幾つもの複雑な光を見せる。

というごときことを考えながら拙文を綴り、途中で調べ物があり
いったんブログを閉ざして、ついでにコメント欄を覗いたら、
まさしく、私が本稿で書こうとしていたと同じテーマの
投稿があり、シンクロに不思議な思いをした。

フレディが生きていれば、私の一歳下である。
凡才は天才の倍生きねば、この世の真実も美も掴めぬ。
恥多く生きながらえてしまったこの身を浅ましく感じていたが、
生きてあることの必然をこの頃やっとしぶしぶ感じ始めている。

人生は、悲しみと苦しみを湛えながらしかし祝祭である。


ボヘミアン・ラプソディ“胸アツ”応援上映

2018年12月05日 | 映画

いかに感銘を受けたとて、2度続けて同じ映画を
観ることは私はない。

ところが、何か観るべき映画がないかとラインアップを
眺めていたら目に飛び込んで来たのが「ボヘミアン・ラプソディ“胸アツ”応援上映」の
文字だ。

即座に行こうと思いたち、パソコン操作に難儀しながら
座席を確保した、というのも映画より今度は観客席を
見てみたかった。

観客席でQueenファンたちがペンライトを揺らし歓声を上げている
特別上映の様子をテレビで観ていて、あれを体験してみたかった。

映画それ自体は、1回目で見逃した細部を確かめつつ、後はなるべく
字幕に頼らず英語のヒアリングの勉強のつもりで出かけたのだった。

ところが、映画は1回目の時より更に胸に迫り、
観客席を観るより、スクリーンに釘づけで2時間が
一瞬に過ぎた。Queenの楽曲に支えられながら、
しかし映画それ自体としての質が高いのだ。

見逃していた細部はほぼなかった。唯一、最初流れる
楽曲で「真実の愛を探し求める孤独な流浪者」であったフレディ・マーキュリーの
心象、それは映画のテーマでもあるのだがのっけに
提示されていたことに気づいたぐらいだ。
彼の音楽の根っこに実はオペラという古典がないか、と
これは1回目にも感じたことだ。

1回目は、字幕を見ることに追われてじっくり
観察することが出来なかった役者の表情が
更に見えた。役者もなべて、いい。実在の人物たちを
よく外見にも写し、まるでドキュメントのように
実在していた。

観客席にテレビで観たほどの賑わいはなかったが、
それでもスクリーンの歌に合わせて歌い、手を振り
打ち鳴らす若者グループが隣にいた。
フレディは日本を愛し、日本もまた彼を愛した。

巷間絶賛されているラストの20分間、最初私は
涙が出るほどでもなくただ圧倒され息を呑んでいたのだが、
今回は涙が滲み、それは2度観たことの余裕であったのかもしれない。

客席の若者たちは間もなく終わる命と知ったフレディの絶唱に
手を振り私も、最初は真似して手を叩いていたのだがその手が自然に
合掌の形になっていた。供養のつもりであった。
しかし、感じたのは光である。フレディ・マーキュリーは光の
中にいた。

ゲイとしての差別と浴びせられる侮辱にのた打ちながら、しかしこの人生は
苦しむことにも意義がある。負けなければ、それは人の心を深くする。
魂を絞り出すような楽曲も、だから生まれた。
音楽で彼は背負わされた負を乗り越えた。
富と名声を得てそのことに感謝しつつ、しかしそこに
至り維持することの艱難辛苦を彼は歌った。
得ても得ても満たされず、何と寂しい苦しい虚しい人生。
愛したい愛されたい父親は、憎悪の対象でしかない。
アルコールで苦しみを麻痺させながら、フレディは生き続ける。
世界中から愛されながら、しかしたった一人の人の愛に飢(かつ)えていた
フレディは、しかしこの世を去る間際にその愛を得た。
彼がこの世に生まれ来た意味と役目、つまり音楽を達成するかたわら、
最後になって父との抱擁、そして渇仰していた
一人の人の愛をも得て、思えば彼は勝者であった。
そしてこの世での旅人であることを、突然止めて去った。

早逝は悲劇ではない。人生は長さではなく質だからだ。彼の魂は
燃焼の頂点でこの世を去ることを選んだ。供養しながら
感知したのは、だから光だった。

その星の名もろくに知らぬまま、半世紀を経て東洋の日本の
片隅に住む私という人間の胸に、その星はまっすぐな光を届けてくれたのだった。