
本能寺で織田信長を討った明智光秀は、なぜ数日で勝者から敗者へ転落したのか―歴史小説界の旗手・伊東潤が、古代から戦国、幕末・明治まで、日本史上に燦然と輝きを放ち、敗れ去った英雄たち25人の「敗因」に焦点を当て、真の人物像、歴史の真相に迫る歴史エッセイ。源頼朝、徳川家康ら、最後まで勝ち抜いた歴史の勝者を語る「勝者烈伝」併録。
~~一瞬の油断が命取りになった海道一の弓取り今川義元~~
当時の禅寺は学問の中心であり、種々雑多な学問が禅門をくぐっていた。
それゆえ有力武家の子弟は皆、少年時代を禅寺で過ごすのが常だった。
渡来した書物の中には、「論語」「孟子」などの四書五型のみならず、「孫子」「呉子」といった武経七書も含まれていた。
義元にとって、上洛時に邪魔になるのは尾張国の織田氏だけであり、織田氏さえ屠(ほふ)れば、幕府に一朝事(いっちょうこと)ある時、すぐに上洛の途に就ける。
桶狭間とは、知多半島の付け根にあたる一帯のことで、その間を縫うようにして、北から鎌倉往還、東海道、大高道という3本の街道が、ほぼ東西に走っている。
信長の父である信秀は、尾張半国を制していたにすぎないが、伊勢湾交易網を掌握したことで、その経済力は途方もないものとなり、伊勢神宮に700貫文を寄進したり、禁裏修理料として朝廷に4,000貫文を上納したりするほどだった。
1貫文を現在価値の10万円とすれば、4,000貫文は4億円に相当し、とても尾張半国の大名が出せる額ではない。義元の食指が動くのも、むべなるかなである。
義元が手にしたかったのは、織田家の財源となっている伊勢湾交易網だが、その交易によって最も手にしたかったのは、焔硝(硝石)ではなかったか。
すなわち、このころから合戦における鉄砲の重要性が高まり、東国の大名たちも、鉄砲や弾丸を求め始めている。問題は内製できない焔硝である。義元は伊勢湾を押さえることで、堺を経由して流入する焔硝を入手したかったのではないだろうか。
この時、今川軍の先手大将の一人として徳川家康も参陣している。
家康が生涯を通じて、「慢心」「油断」「焦り」の3点を戒めとしていたのは、その後の戦いぶりからして歴然である。
つまり義元は後の天下人を生んだことになり、家康はその恩義に報いるべき、没落した義元の息子である氏真(うじざね)を厚遇したのも当然だったのだ。江戸幕府によって今川本家は高家(こうけ)として遇され、明治の世まで続くことになる。
~~人間洞察力に欠けた最強の侍大将、武田勝頼~~
「戦国時代最強の大名は北条氏康(うじやす)」と答えている。
「戦国時代の最強の武将は武田勝頼」と答えている。
勝頼は勇敢果敢な侍大将だったが、優秀な戦国大名ではなかった。
つまり優秀な営業は、必ずしも優秀な経営者とはなり得ないのだ。
~~己を克服できなかった史上最強の英傑、織田信長~~
歴史上、敗者という称号が最も似合わない敗者こそ、織田信長だろう。
それでも信長は敗者だと筆者は主張したい。
信長は、光秀など足元にも及ばない敵に敗れたからだ。それは己自身である。
海上交易の要所に強い関心を示したのも、幼い頃から、交易と運上金(関税)の生み出す富の大きさを知っていたからだろう。
おそらく信長は、義元が「その時」どこにいるのか正確な情報を掴んでおり、一直線でそこを突くことにより、一気に勝敗を決したのだ。義元の心理的隙を突いたのは、見事の一語に尽きる。
よく裏切られているのも信長の特徴のひとつ。
つまり、本能寺の変は、経験から学んでいれば防げた可能性が高いのだ。
これはひとえに信長の外交戦略に一貫性がなかったからで、後の秀吉や家康が備えていた外交手腕が、欠けていたと断じるを得ない。
なかでも最大の欠点は、人間洞察力の不足だろう。とにかく他人の気持ちを考えようとしない。
~~白と黒の二面性を併せ持った謀反人、明智光秀~~
宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。
「光秀は裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては諜略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」
信長のことかと勘違いしてしまうほどの描写だが、伝聞の上、光秀がキリスト教に冷淡だったことを差し引いても、かなり事実に近いことを言っているような気がする。
これまでの定説にあるような慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚(りりょう)として優れていても、信長家臣団の首座を獲得できるはずがないからだ。
つまりフロイスの言う黒光秀は、かなり実像に近いものではなかったか。
その裏付けとして、比叡山焼き討ちを率先して進めたり、皇族・寺社・幕府関係者の所領を押領したり、あこぎなことも平気でやっている。つまり黒光秀は、白光秀に勝っていると断じざるを得ない。
武田家の遺領は、功を挙げた者たちに分け与えられることになった。
このとき、家康は駿河一国を拝領する。
武田家滅亡からの甲斐国からの帰途、徳川領を通った信長は、家康を安土城に招きたいとでも言ったのだろう。駿河一国拝領の御礼言上(ごんじょう)もあり、その誘いを断ることができない。実は、武田家が滅亡することで、信長にとって家康は不要な存在となっていた。それを知ってか知らずか5月15日、家康は少ない供回りだけで安土を訪れる。
この時、家康の饗応役に指名されたのが光秀である。
ここからは仮説だが、この時、自己肥大化の極みにあった信長は、安土で家康を殺せと光秀に命じたのではないだろうか。しかし、光秀は拒否した。当然である。信長なら光秀に家康を討たせた後、光秀を殺すことも十分に考えられるからである。
この時、光秀は代替え案を提示したのだろう。これにより矛を収めた信長は、光秀に備中高松城行きを命じる。むろん、示し合わせてのことである。
実はこの頃、秀吉が高松城を攻撃しており、苦戦を強いられていた。
その救援要請が安土に届いたのは、家康が安土に到着したと同じ5月15日である。
それでは、本能寺の変に至るまでの光秀の足跡を整理してみよう。
5月17日;備中への援軍を命じられ、安土から坂本城へ
26日;坂本城を発し、丹波亀山城へ
27日;愛宕山に参詣し、一晩籠る。
28日;連歌を興行し、発句(はっく)を詠む。その後、亀山に帰る。
(天正10年5月は「小の月」なので29日まで)
6月1日;亀山城を出陣、山陰道を進む
2日;未明に桂川を渡り、本能寺を襲撃
一方、信長の関心は、少ない供回りで安土にやってきた家康を、どこで殺すかである。
忠実な同盟者を安土に呼び出した上で殺しては、天下の威信を失う。
光秀は、この点を指摘したのではないだろうか。
それゆえ信長は、出陣支度で大わらわの安土では、饗応が十分に尽くせないことを理由に、家康に京都行きを勧める。この勧めを家康は拒絶できない。
この頃の家康の行動を整理すると、以下のようになる。
5月15日;安土入り
17日;安土での饗応
19日;安土そう見寺(そうけんじ)で能興行
21日;京都入り
22日~27日;京都見物
28日;京都出発、その日のうちに大坂入り
29日;大坂出発、堺入り
6月1日;堺で一日3回の茶会
2日;信長の命により京都に向けて出発
信長の命により、家康は畿内を行き来させられた。
しかもこの日程は、信長の指示によって頻繁に変えられていた。
家康としては、一刻も早く帰国したかったに違いない。
新たに領国となった駿河の統治は、緒に就いたばかりであり、その東には、信長の論功行賞に不満を持つ北条氏が健在である。
家康は、なぜ安土、京、大坂、堺と行き来させられたのか。
信長は家康を殺したいのだが、天下の耳目があるので、露骨に討ち取るわけにはいかない。
おそらく光秀の提案により、野盗か野伏(のぶせり)を装って家康を襲撃し、自らの信用を落とさないようにして、葬りさりたかったのではないだろうか。
ちなみに、同行していた武田旧臣の穴山梅雪は、家康と別行動を取ったため、野盗の襲撃に遭って命を落としている。この時期の家康と梅雪は体形が似ており、誤認された可能性もある。
しかし家康とて馬鹿ではない。ある程度、信長の思惑に気づいていたはずである。それゆえ、なかなか隙を見せない。しかも家康には茶屋四郎次郎という諜報機関があり、信長の行動は逐一、家康の耳に入っていた。
~~独裁者に操られた悲劇の後継者、豊臣秀次~~
史上、最も悲惨な敗者という点では、彼の右に出る者はいないだろう。
しかも冤罪犠牲者でもある。
本来であれば、秀次は労働に明け暮れ、生きるだけで精一杯の生涯を送るはずだった。
しかし幸か不幸か、母親が羽柴秀吉の姉だったことから、その運命は、よくも悪くも大きく変転していく。
秀次はその死後、ありもしない話を捏造されたことから、馬鹿殿の一人と見られがちだが、その文化・芸術面での功績や、本拠となる近江八幡での為政者としての業績は、彼が凡庸でなかったことの証であろう。
彼は古典籍や古人の墨跡の収集、足利学校の保護や五山文学の復興などに取り組み、学問に対する造詣の深さは、他大名の比ではないほどだった。
自らも王朝古典文学に親しみ、和歌もよく詠んだ。腕前もなかなかのもので、いくつか残るものは、気取った公家の歌などよりも、よほど味わい深い。
小牧・長久手の戦い
三河攻撃隊16,000の主将に任命された秀次は、家康の巧妙な駆け引きに翻弄され、惨敗を喫する。この戦いに負けた秀吉方は2,500もの将兵の命を失った。秀吉の戦歴の中でも、これほどひどい敗戦はない。
「秀吉の甥であることを鼻にかけ、傲慢な態度が見られる」から始まり、
「進退の儀を取り上げる(勘当する)」
「今後、行いを改めないなら首を斬る」
といった警告を発することで、奮起を促している。
しかし心のどこかで「鶴松の死によって幸運が舞い込んだ男」として秀次を見ていたのは間違いない。秀吉は関白職を秀次に譲ったものの、万が一に備えて軍事指揮権を渡すつもちはなかった。
そんな折。側室・淀殿が懐妊し、文禄2年;1593年8月、後の秀頼を生んだ。
秀吉は57歳であり、その反面、自らの死後、秀頼の行く末を案じたはずである。
要は千利休の賜死(しし)と同様、さしたる理由などないのだ。
秀次の死後、秀吉は秀次の妻子ら39人を処刑し、住居や八幡山城を徹底的に破却している。
彼の辞世の歌
「月花を心のままに見つくしぬ なにか浮世に思ひ残さむ」
(月や花を心のままに見てきたのだから 浮世に何の未練もない)
秀次は「殺生関白」として闇の中に消えていった。
そして豊臣家は、秀頼の代で滅びることになる。
彼の人生は秀吉に操られ、秀吉によって終わりを迎えさせられた。
「なんと馬鹿馬鹿しい人生だったか」と嘆いたに違いない。
~~有能でありながら狭量の困った人、石田三成~~
このまま何も起こらなければ、辣腕(らつわん)を振るい、直江兼継のように名声に包まれたまま、その生涯を閉じていたことだろう。
天正15年、九州の島津氏討伐にあたって兵站を担当した三成は、8万にも及ぶ兵の兵糧や武器弾薬を切らすことなく戦場へ送り込むという難事業を成功に導く。しかも戦後処理にも手腕を発揮し、秀吉をなだめて島津氏を滅亡の淵から救うと、兵火によって焼亡した博多の町奉行に就き、瞬く間に復興させ、豊臣家の経済基盤を整えていく。
~~時代の波に押し流された賢き人、豊臣秀頼~~
~~将軍に利用されて捨てられたお殿様、松平容保~~
会津藩は、三代将軍家光の弟・保科正之を祖とする親藩大名である。
家光は早くから正之の才を見抜き、死に際して4代将軍家綱の後見を託すほど信頼した。
これにより家光を神のごとく尊崇した正之は、その死に際し、
「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え、他藩を見て身の振り方を判断するな。
もし二心を抱く藩主がいれば、わが子孫ではない。家臣たちは従うな」
という遺訓を残した。
この遺訓が仇になるとは、このとき正之は考えもしなかっただろう。
それから200余年の歳月が流れる。
容保は財政難を理由に固辞するが、慶喜に執拗に要請され、遂に京都守護職を受けてしまう。
この時、慶喜は保科正之の遺訓を持ち出し、説得に当たったという。
これを聞いて驚いた西郷頼母や田中土佐は、江戸藩邸に馳せ参じ、辞退するように懇願するが、容保の意思は変わらなかった。
~~思いつきで動き回って自滅した小才子(こざいし)、徳川慶喜~~
当初、慶喜は筑波山で挙兵した水戸藩尊攘派の天狗党の扱いをめぐり、寛大な沙汰を下すつもりでいた。ところが、江戸から天狗党を追ってきた田沼に引き渡しを要求されると、その場ですんなり了解してしまった。維新後、慶喜は史談会の席上でこう語っている。
「どうせ何と言っても助からぬのだ。助からぬ者を救おうと言い出しても何もならぬ。
それをやると自分自身がやられる。降伏した者は今日受け取ります。お渡しします。
さようなら。それっきりだ。それですぐに首を斬った」
その思いやりのなさや、自己保身しか考えない無責任さは呆れるばかりだが、これが実像だ。
その結果、天狗党352人の斬首刑が執行された。
これにより彼は、諸国の尊攘派志士たちの信望を失うことになる。
この時、天狗党を投降先の加賀藩預かりにするなどして時を過ごさせてしまえば、後に天狗党は、慶喜の強力な旗本になったはずである。
薩摩藩の大久保利通は、その日記に、
「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以(もつ)て幕府滅亡のしるしと察せられ候」
と記している。
朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢」「二心殿」などと呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治的基盤は危ういものとなっていった。
こうした最中、土佐藩の後藤象二郎が慶喜に大政奉還を勧めてきた。
立場がなくなっていた彼は、この話に乗った。
あえて政権を放り出すことで徳川家の領土と権益を守るつもりでいた。
これにより鳥羽・伏見の戦いが勃発し、この戦いに敗れた慶喜は江戸で謹慎恭順を貫くことになる。結局、430万石あった徳川家の家禄は、駿河70万石に減らされ、6万人いた幕臣とその家族の8割方が食えなくなった。
何不自由ない隠居生活を満喫し、馬齢(ばれい)を重ねた末、大正2年(1913)、77歳という歴代将軍最高齢で死去する。
その長い晩年において、趣味の狩猟や写真撮影を楽しむこと以外、何もしなかった。
全くと言っていいほど、維新の犠牲者たちを追悼する姿勢を見せなかった。
史談会に招かれても自己弁護に終始し、己の名誉を守ることに終始した。
~~最後まであきらめない理系指揮官、大鳥圭介~~
幕末における「もう一人の龍馬」である。
母成峠の防衛陣地は、堡塁砲台(大砲陣地)と胸壁を組み合わせた堅固なものだったが、
大鳥軍400を加えても、せいぜい800ほどでは守りようもない。
致し方なく大鳥らは仙台に向かったが、すでに仙台藩は恭順に傾いていた。
万事休した大鳥だったが、ここで榎本武揚(たけあき)と出会う。
榎本は蝦夷地に逃れることを提案し、大鳥も同意した。
大鳥という男の本質は学者であり、極めて合理的かつ科学的な発想を持つ。
外国の文物に興味を示し、よいと思えば何の偏見もなく取り入れる姿勢は、坂本龍馬に匹敵する。それゆえ冒頭で「もう一人の龍馬」と書いた。
しかも、陽気で快活な性格で誰からも好かれた。
何事にも率先垂範(すいはん)を旨とするので、兵の信望も厚かった。
~~薩長政府に徹底抗戦した気骨の人、榎本武揚~~
日本人の美意識からすると、敗者は壮絶な最期を遂げねばならない。
ところが敗者の持つ知識や技術が、敗者の命を救うという珍しい時代があった。
明治維新である。
榎本の転機となったのは安政元年(1854)、19歳の時、従者として蝦夷地を探検したことである。この時、榎本は蝦夷地の無限の可能性を知ることになり、それが、後に箱館戦争を起こす遠因となる。
学究旺盛な彼は、オランダで航海術、蒸気機関学、機械工学、電信技術、国際法、化学、数学など多くの分野を取得した。
一方の榎本は、このとき、幕府海軍を率いて大坂湾にいた。
彼は停船命令を無視した薩摩藩の春日丸と翔ほう丸に砲撃を加えた。
これにより、わが国初の洋式艦船による砲撃戦が勃発する。阿波沖海戦である。
双方合わせて40発以上の砲弾を撃ち合ったが、互いに命中弾はなかった。
致し方なく敗残兵をまとめた榎本は、富士山丸で江戸に帰り着く。
この時、大阪城の金蔵にあった金銀財宝を富士山丸に移想する作業を指揮した。
その中には、18万両もの慶長小判が含まれていたという。
これが後に、榎本艦隊の燃料費や蝦夷共和国の建国資金となる。
蝦夷地開拓という大きな夢である。
蝦夷地の無限のような資源を財源として、新政府に対抗しようとしたのだ。
駿府70万石に減らされた徳川家の幕臣や家族を救済する手立てとして、蝦夷地開拓を思いついたに違いない。折りしもロシアの南下が重大な懸案となっており、いざという場合には、旧幕臣を屯田兵として使える。
~~
長州藩の一流の志士たちは、維新の曙光を見ずに舞台から去り、残ったのは二流以下の者だった。木戸孝允と伊藤博文は、まだしも一流半で通るが、山県有朋と井上馨に至っては、三流どころか単なる貪官汚吏(たんかんおり)である。
こうした連中を、稀代の正義感・江藤新平が許しておくはずがない。
西郷より7つ、生涯のライバルになる大久保利通より4つ、木戸より1つ年下である。
34歳のとき、大政奉還があり、江藤は佐賀藩を代表して新政府軍に参加する。
公家や志士上がりの素人政治家が多い中、江藤のように万巻の書物に通じ、論理的思考を持ち、なおかつそれを法規として確立できる人材は貴重だった。
しかも単なる論客というだけではなく、鉄の意志と実行力を持つ「知行合一(ちこうごういつ)」を地で行くような男だった。
人は、物事を先達の教えや書物から学ぶ。しかし、それだけでは知識のままである。
それを自らのフィルターを通して仮説として構築し、それを具現化できる人間は少ない。
幕末の諸藩にも学者のような人物は多かったが、それを日本の国情に合わせた思想に昇華し、なおかつ敷衍(ふえん)しようとした者は少ない。
(藤田東湖、橋本佐内、佐久間象山、横井小楠(しょうなん)など)
それゆえ吉田松陰や宮部てい蔵ら実践派は「知行合一」を唱え、志士という人種を生み出したのだ。
維新後、まず江藤は文部大輔(たゆう)として文教行政に取り組み、短期間で省内の官制と職掌を定め、「国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行う」という方針に従い、「学制」の原型を作り出す。続いて左院に転じ、副議長として、立法府の義務や職掌を定義した。
近代民主主義国家の根本である法治国家こそ、国家安定のために必須と説いた江藤は、公正にして迅速・簡易な裁判と社会主義の実現を目指した。
尾去沢銅山事件
明治7年(1874)1月、官を辞した江藤は板垣退助らと共に「民選議院設立建白書」に著名、
自由民権運動に邁進しようとする。司法制度の整備を行い、民権を拡張した上で議会政治を導入し、法治国家を築こうとした江藤の理想と合致していた。
ところがそんな時、佐賀士族の不穏な動きが、東京の江藤の許に伝わってくる。
ここ数年、版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵を目指した徴兵制、散髪脱刀令など、士族の神経を逆なでするような政策が相次ぎ、士族階級の不満は積もりに積もっていた。
士族たちは徒党を組み、派閥抗争を繰り広げるようになる。
それが最も盛んな地の1つが佐賀だった。
江藤は佐賀士族を慰撫すべく、佐賀に帰ることにした。
大久保の待っていた時が到来した。
大久保としては、自らが築こうとしている「有司専制」体制を邪魔しようとする江藤を抹殺したかったのだ。この点について、仲の悪い木戸を大久保も一致していた。
大久保は、佐賀県権令(ごんれい)に土佐藩出身の岩村高俊を指名し、佐賀に送った。
岩村は戊辰戦争の折、傲慢な態度で長岡藩の河井継之助を怒らせ、長岡戦争を勃発させた張本人である。そのようないわくつきの人物を送れば、結果は、火を見るより明らかである。
この時の法廷には、大久保も同席していたが、結審した際、発言の機会が与えられないと知った江藤は取り乱し、法廷と大久保を口汚く罵ったという。
大久保は4月13日の日記に、
「江藤、島以下12人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜態笑止なり」と記した。
さらに大久保は、斬罪となった江藤の晒し首の写真を撮らせ、江藤の妾に送り付け、彼女が芸者をしていた新橋の色町にもばらまかせた。よほど江藤が憎かったのだろう。
ところがこの時、政府顕官の暗殺を企てていた島田一郎ら石川県士族6名が、この写真を見て憤激し、大久保は暗殺される(それだけが理由ではないが).
かくして江藤は敗者となったが、彼の精神は受け継がれ、司法省の権限は強化され、以後、貪官汚吏(たんかんおり)のはびこる余地はなくなった。
江藤のおかげで、日本は真の近代国家となった。
~~肥大化した人望にのみ込まれた人格者、西郷隆盛~~
~~西郷への敬愛に殉じた最後の志士、桐野利秋~~
今日に至るまで桐野が誤解されている第一の原因は、「人斬り半次郎」という異名を世間から賜ったことにほかならない。(桐野の元の名は中村半次郎という)。
これにより桐野は、志士や軍人というよりも殺し屋という印象が強くなり、さらに出自が低く、ろくに学問も修めていなかったことから、野蛮な男と目された。
まず人斬りという誤解だが、史実と認定できるもので、彼が斬ったのは、信州上田藩士で洋式軍学者の赤松小三郎の一例だけである。
その事件は慶応3年(1867)9月に起こった。
薩摩藩が公武合体から倒幕に転換しようとしていた時期で、赤松を幕府か会津藩のスパイだと、桐野は思い込んだらしい。つまり、人を斬ったことはあっても、それを専らとしていたわけではない。
桐野は薩摩藩家老の小松帯刀に、勝海舟の神戸海軍操練所に入所したいとも言っている。
もし実現していたら、坂本龍馬同様、勝の弁舌に取り込まれ、その熱烈な弟子になっていたかもしれない。
桐野は直情径行で涙もろく、頼られれば嫌とは言えない性格だった。
水戸天狗党を救うべき単身、美濃の山中に急行し、討伐軍の情報を伝えたり、新撰組に追われている御陵衛士(えじ)の残党をかくまったり、佐賀の乱で逃げてきた元佐賀藩士を隠したりと、情の厚さは西郷譲りである。
鳥羽・伏見の戦いでは薩軍一番隊を指揮し、40名中28名の部下を失うという奮戦をする。
会津城降伏の儀では、軍監として受け取り役の大任を全うした。
この時、松平容保父子の落魄(らくはく)した姿を見て涙したことで、桐野の名はさらに騰がる。
「最近は飢民が多いと聞くので、もし道路で餓死しかかっている者を見かけたら、与えたいと思ってね」
最後に西郷の桐野説を記しておく。
「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾々の及ぶ所にあらず」
つまり、若いときに学問をする機会があれば、桐野は自分など及びもつかない逸物になっていたというのだ。
明治5年に熊本鎮台司令長官、そして陸軍裁判所長と、軍人として出世街道をひた走っていた彼は、明治6年の政変によって下野(げや)した西郷を追うように官を辞し、鹿児島に帰る。
桐野は帰郷後、篠原国幹や村田新八が中心となって設立した私学校党とは距離を置き、士族授産の道を開こうとした。すなわち、元近衛兵と共に原野を開墾し、粟・唐・芋・大根等の農作物を作り、そのかたわら学業を修めるという吉野開墾社を設立する。
私学校党の若者たちは政府のやることなすこと(地租改正、秩禄(ちつろく)処分、徴兵制、帯刀禁止令)に悲憤慷慨(ひふんこうがい)し、西郷と桐野に決起を促すが、この時期の2人は、こうした動きを懸命に抑えていた。
これを聞いた私学校党の若者たちは怒り狂い、弾薬庫を襲撃して武器弾薬を奪ってしまう。
このとき、西郷は狩猟に出ており、桐野は吉野台地で開墾に精を出していた。
つまり2人とも、このタイミングで暴発が起こるなど考えていなかったのだ。
「もはや矢は弦(つる)を放たれ、剣が鞘から抜かれたも同じであり、断の一字あるのみ」と桐野は言ったとされる。
一方の西郷は「おいの体は皆に預けもんそ」と決断を投げてしまっている。
「西南戦争は桐野の戦争」
桐野は熊本鎮台司令長官だったこともあり、熊本城攻略に固執する。
いよいよ最後の時、西郷だけでも投降させようという意見が出たが、桐野はこれに猛反対し、
「潔く散華(さんげ)されてこそ西郷先生(せいごせんせ)である」と言ったとされる。
桐野は、西郷を「日本の西郷隆盛」ではなく、「おいたちの西郷先生」としておきたかったのだ。
城山の戦いで西郷が死を選んだ後も、桐野は自ら銃を取って戦い続け、最期は眉間を撃ち抜かれて死んだ。その遺骸からは、陸軍時代に付けていたものと同じ香水が匂っていたという。
~~そして誰もいなくなった、大久保利通~~
大久保は堅忍不抜(けんにんふばつ)の精神で、日本という後進国を西欧諸国に伍していけるだけの一流国に育て上げた。
大久保が賢いのは、廃藩置県後の混乱を収めるには、西郷一人の方がいいと判断し、岩倉や木戸と共に使節団の一員となって洋行したことである。その結果、西郷は見事に不平士族を抑えきり、廃藩置県を成功に導く。
ところが帰国してみると、新政府は西郷と佐賀藩出身の江藤新平が牛耳っており、徴兵制の施行、法治主義の導入、地租改正、学制公布、鉄道と電信の開通、太陽暦の採用など新政策を次々と打ち出し、新たな国家像を描き始めていた。
大久保は、自分の作った政府が盗まれたと感じたのだろう。
最終的には2人を抹殺する。
かくして不満分子を一掃した大久保は、有司専制という独裁体制を築くことに成功する。
それを支えたのが長州藩出身の伊藤博文と佐賀藩出身の大隈重信の2人で、手足となって働いたのが警視庁トップで同郷の川路利良である。
大久保は最も頼りにすべき西郷とその与党を葬り去ることで、薩閥の力を弱めてしまい、自らの死後、長閥に敗れ去った。西郷あっての大久保であることを忘れ、自ら陣頭に立ったことで命を失い、維新の果実を伊藤ら長閥に持ち去られたのだ。
常のナンバー2なら、担ぐ相手を殺すようなことはしない。
しかし大久保は明治政府を自分の作品のように考えており、その白いキャンバスに勝手に絵を描いた西郷を許せなかったのだ。もしくは、西郷の新たな相棒となった江藤に嫉妬したのかもしれない。
マイケル・ピルズベリー著『China2049秘密裏に遂行される「世界派遣100年戦略』
中国は世界の覇権を握るための「100年マラソン(構想)を進めており、中国が経済力と軍事力でアメリカを凌駕できると確信した時、それまで隠していた牙を剥くというのだ(もう剥いているが)。
そこには、さしたる理由などない。
ただ単に、かつて味わわされた恨みや屈辱を晴らすために、西欧諸国や日本を威圧し、民族の誇りを取り戻したいのである。仮に中国が尖閣諸島を奪取すれば、大衆は快哉を叫び、そして「次は沖縄だ」と叫び始めるのだ。