goo blog サービス終了のお知らせ 

まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

危ない!

2012年08月22日 | Weblog


夕方、牛乳を飲もうとしたら、ヨーグルトにようにとろとろになっていました。
賞味期限を見ると、8月19日でしたが、3日でこんなになってしまうのですね。
危ない危ない
結局捨てましたが、食中毒には気をつけたいものですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川銀行2

2012年08月22日 | 歴史


前に、徳川銀行のお話を書きましたが、幕府が瓦解した時、勝海舟は旧大名からお金を献金させました。
それとともに、豪商大黒屋・榎本六兵衛から、16代将軍になるはずだった亀之助(後の徳川家達)に、3万円の献金をさせます。
明治30年の1円は、今の2万円くらいだそうで、単純計算すると6億円です。
それより、20年以上前のことなので、もっと高額かもしれません。
この大黒屋は、小野組と協力して繁栄しましたが、明治5年に三井組・島田組とともに三井小野組合銀行を設立しました。
翌年、第一国立銀行に合併されましたが、その後も拡大して行きました。
しかし、明治7年に、小野組と島田組は、倒産し三井組だけが残り、大黒屋も連鎖倒産してしまいましたが、徳川銀行は残ったのです。
勝海舟は、貸し付け係りで、彼の判断で低金利で貸し付けがなされました。
もともと、細かいに日記を付けている人でしたから、お金の貸し出しも細かく書き込んでありました。
それとともに、住む者のいなくなった土地や建物や、売り出された書画骨董を買いあさりました。
それで、徳川の財産を増やしつづけて行ったわけです。
勝は、若い頃、当時としては当たり前の賄賂を絶対に取らないことで有名になった人です。
自分が、明治政府から、報奨金をもらってもまとめて徳川銀行に入れていたのです。
ところで、勝の住んでいた赤坂氷川の2500坪の家は、津田仙の薦めで500円で買いました。
今の金額だと1000万円です。
考えられない、金額ですね

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川村清雄の人生

2012年08月22日 | Weblog

                                     
2日間かけて、川村清雄の本を読みながら、ダイジエストを資料に書きこみました。
川村は、長崎奉行をしていた方の孫にあたり、おじいさんは勝海舟から誠実な正直でよい侍であったと褒められています。
清雄が、16才の時、幕府が崩壊し、16代将軍になるはずの7才の亀之助のお小姓になります。
そして、亀之助と一緒に、静岡に行きますが、将軍だった徳川家が、一大名に落とされたわけです。
田安のお城に住んでいた亀之助は、静岡では神社の神主の家に住むことになりました。
20才前後の家来たちが、身の回りの世話をしていました。
そして、将来役立つ人材を育てるために、徳川藩から5人の若者をアメリカに留学させたのです。
その中に、大久保三郎と川村清雄がいました。
後に、大久保は、クララと両想いだった時がありましたが、植物学者になります。
川村は、絵がうまかったので、パリに移動しました。
イタリアに住んでいた事もあり、そこで、日本の絵の素晴らしさを再発見したのです。
帰国してからは、大蔵省の印刷局で、紙幣や証書のイラストを彫刻する指導をしましたが、1年でやめてしまいました。
食べることもできないので、困っていた時、勝海舟が屋敷内にアトリエを作ってくれてそこに住むようになり、勝の家で食事もしていました。
また、勝の紹介で、徳川の将軍たちの肖像画や、海軍の戦争画などの仕事をしていました。
勝夫妻は、子供のように面倒を見ましたが、回りから苦情がたくさん出て約10年後、勝に悪いからと言って去ってしまいました。
明治の中ごろ、洋画は排斥され、油絵で、日本画のように表現しようとした川村は、受けいれられませんでした。
黒田清隆が主流の時代、彼の息のかかった者しか評価されませんでした。
それを批判した時、世間は川村の味方をしましたが、美術会からは、抹殺されてしまいました。
ある時、黒田の関係者たちが集まり、それぞれが留学していた時の師匠や大家の作品を持ち寄る会がありました。
タレント教授第一号の東大の和田垣謙三が、持って行った絵が一位になりました。
それは、川村が若い頃にイタリアで描いた作品だったのです。
ちなみに、この和田垣は、キリスト教の自由神学を日本に持ち込んだ人です。
川村は、勝海舟が亡くなった時は、号泣して弟子と共にお墓まで行っています。
徳川の息のかかった川村は、美術の世界で排斥されていましたが、大正になってから、フランス学士院会員で、文部大臣代理・美術局長が日本に来て、川村の絵に感動してパリの美術館が買い上げることになりました。
それは、若い頃に書いたものなので、川村は新しい日本的な作品を描いて送りました。
大正11年に、絵画館の壁面に明治天皇の偉業をたたえるために、80題の絵を飾ることになった時、会の会長をしていた徳川家達は、一番最初に川村の名前をあげて、一番難しい、建物だけの作品を描くように依頼しました。
これは、日清戦争の戦利品を入れた倉庫のようなものです。
一番絵にならないテーマでした
この川村とテーマを選んだ徳川家達こそ、川村が10代の時に仕えていた亀之助でした
そして、他のテーマでは、明治政府の要人を書かなければならないのに、これだけはそれを書かないで済む作品でした。
翌年の関東大震災後、70代の川村はその絵を描き上げたのです。
他の方々は、あまり個性を出さないように描いているのに比べて、川村は自分の世界をはっきり打ち出して描いています。時代の影響で、あまり評価されませんでしたが、それでも一念を貫いた感動的な人生だと思いました。
写真は、徳富蘇峰や徳冨蘆花の住んでいた横にあった銀杏の木です。
その側に、柿の木がありそこに川村のアトリエがありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする