今日の関東地方は夏のようです。
日差しの暑さが、今年の猛暑を暗示しているようです。
昨日は、一歩も外に出ませんでしたが、今日は神学校があるので、電車に乗っています。
ところで、津田塾の津田梅子のお父さんさんである津田仙は、幕末時代福沢諭吉たちと共に、通訳としてアメリカに渡っています。
明治になってからは、ホテルで働らいていました。
その時、これからの日本には西洋野菜が必要だと感じたのです。
ウィーンの万国博覧会に行った時、オランダ人から、農業を学びました。
帰国後、クリスチャンになり大手町に、東京初の街路樹を植え、農業学校の学農社を作ったのです。
そこに、明治天皇も見学に行かれました。
また敷地に、学校だけで無く教会も作ったのです。
亡くなった時、内村鑑三たちから偉大な平民だと言われました。
親子揃って、クリスチャンとして大きな働きをされたのです。
うらやましいですね。
写真は、野菜がいっぱいの冷やし中華です。
1845年(弘化2)上海に、イギリス人でサイルというアメリカ監督教会(聖公会)の宣教師がいました。
病期療養のため、1858年(安政5)に長崎に来たとき、アメリカに日本伝道の必要を訴えました。
1870年(明治3)には、自分自身が横浜に来てイギリス領事館付き仮牧師となりました。
そして、横浜クライスト・チャートの牧師になったのです。
この、サイルは、日本アジア協会の設立に尽力し、開成学校と東大で哲学を教えました。
彼の奥さんは、再婚でしたが、なんと、アメリカの初代大統領ワシントンの直系だと言うことです。
前夫との間にできた娘は、クララの日記では、ミス・ワシントンとして出てきます。
ところで、ワシントンを調べたら、彼の奥さんのマーサは、大金持ちの未亡人で連れ子が二人いました。
ワシントンは、2回会っただけでプロポーズして、結婚によって財産を増やし、社会的地位も増したのです。
ワシントンとの間には、子供はできませんでした。
彼は、天然痘にかかり、その後に結核にかかったので子供ができなかったと言われています。
二人の連れ子をかわいがり、その子供たちもかわいがったのです。
ですから、血がつながっていないので、彼の直系はいないわけです。
クララは、ミス・ワシントンのことを大統領に似ていないと書いていますが、それは当たり前の話ですね。
そのミス・ワシントンは、東大で機械工学と物理学を教えていたユーイングと結婚しました。
ユーイングは、スコットランド出身で、大学校内に観測所を設け、実測地震学の基礎を築きました。
1883年(明治16)に、帰国しましたが、後にケンブリッジ大学の教授となったのです。
血が繋がってはいませんでしたが、ワシントン大統領の子孫が宣教師の義理の娘となり、おまけにご主人は日本の地震学のために基礎を築いたなんて面白い話ですよね。
先ほどは、山本覚馬と勝海舟の話を書きましたが、面白いことに二人とも明治になってクリスチャンになります。
覚馬は、後に新島襄と知り合い、信仰に導かれ住んでいた元薩摩邸を同志社に差出します。
覚馬の写真は、一般には晩年の目が見えなくなってからのものしかありません。
また妹の八重は、大河ドラマでもご存じのように新島襄と結婚しますが、最先端を行くかなり激しい性格だったようです。
勝海舟は、このブログでも書きましたが、亡くなる1週間前に信仰告白しています。
勝さんは、多くのカトリックの人々やプロテスタントの宣教師を助けたこともありましたが、彼が渡航費用を援助したことにより木村熊二や大儀見(おおぎみ)元一郎は、クリスチャンになって帰ってきました。
彼らは、森有礼に付いてアメリカに行きますが、学ぶ学校が見つからずに困っていました。
その時、ニューヨークで出会ったホープ大学の学長をしている牧師が引き取って、面倒を見てくれたのです。
木村熊二は、ラトガース神学校を出て、伝道者となり帰国して、明治女学校の創設者になりました。
大儀見元一郎は、いくつもの神学校を出て牧師として帰国しました、麹町日本基督一致(高輪)教会を牧会しながら、教育家としても活躍したのです。勝家の敷地内では、毎晩祈祷会が持たれ、当時有名だった牧師たちが出入りしていました。
三男の梅太郎が、長崎やアメリカで勉強して宣教師として日本に帰って来たいと言うので、牧師たちに相談して、木村熊二の教会兼家に通わせました。
残念ながら、梅太郎は牧師にはなりませんでしたが、お孫さんは、有名な女医さんになりました。
人と人とのつながりは面白いですね。
写真は、今も残っている勝家の門です。
埼玉は、3時頃から雨が降り出しましたが、小降りです。
嵐にならなくて良かったです。
私は、今年花粉症がひどくなったので、のどが詰まったようになりますが、それがバロメーターのようです。
今日は、マスクをして掃除機とお布団専用の機械で埃を徹底的に吸い取りました。
そして、空気清浄機を使っています。
この時期には、新田次郎の「アラスカ物語」を思い出します。
1868年(明治元)宮城県石巻市に生まれた日系1世フランク安田は、寒波で船が動かなくなりアラスカにたどり着き、イヌイット(エスキモー)に助けられます。
そして、イヌイットの女性と結婚します。しかし、村は麻疹の影響で壊滅的になるのでフランク安田は、彼らを引き連れて旅立ちます。
新天地にたどり着く前に森の中を通過しますが、イヌイットの人々は次々と倒れてしまいます。
何の木か忘れましたが、木に慣れていないイヌイットの人々が、突然アレルギーになったのではないかと思っています。
何しろ30年以上前にアシスタントをしていた時、先生がマンガにされたので覚えていますが、精しいお話は忘れました。
しかし、その部分は印象に残っています。
今で言う、花粉症のようなものでしょうね。
フランク安田は「ジャパニーズ・モーゼ」「アラスカのサンタクロース」と呼ばれた方です。
1836年(天保7)ジョージ・ミュラーは、31歳で、孤児院を始めました。
その影響を受けた石井十次は、1887年(明治20)22歳で、孤児院を始めました。
また、二人の影響を受けいた金子尚雄は、1892年(明治25)で、孤児院を始めました。
みんな若いですね。
これらの人々は、信仰によって神の働きに従事したのです。
写真は、今は大学になっているジョージの孤児院です。