先ほどかすかに、揺れているかなと思ったら、やはり地震でした。
大きな地震が来ないように祈らなければなりません。
明治24年(1891年)、愛知県と岐阜県にまたがる所でマグニチュード8.4の濃尾震災があり、7300人が亡くなりました。
この時、東洋救世軍が名古屋に事務所を置き、93人を収容して名古屋震災孤児院を作りました。
石井十次は、岡山孤児院に130名の孤児たちがいましたが、名古屋震災孤児院から40名をを引き取りました。
数ヵ月後には、名古屋震災孤児院が閉じられたので、全員を引き取り228名になりました。
職員は、14名でしたが、石井十次は若干28歳でした。まだ、孤児院に対する関心が薄い時代でしたから、「ヤソが、大勢の乞食を集めて、一体何をしょうとしているのだ。」と、陰口をたたかれたこともありました。
食べる物がないと言うところをたくさん通りましたが、神さまが多くの人々を動かされ、助けが与えられ続けたのです。
ジョージ・ミュラーと同じで、祈りが土台ですね。
写真は、ジョージが最初に孤児院を作ったウィルソン通りです。
前回のジョージ、・ミュラーのマンガ「ブリストルの風」では、新島襄から山室軍平や石井十次が出てきました。
今回は、石井十次と金子尚雄(ひさお)が出てきます。
石井十次は、22歳でジョージから影響を受けて、岡山孤児院を始めました。
数年経って石井のところに、金子が訪ねてきました。金子も、20代前半でしたが、やはりジョージの影響を受けて孤児院をしたいので、運営方法を聞きに来たのです。
金子は、群馬県前橋市で上毛孤児院を始めました。
金子のお父さんは、埼玉川通村の村長でした。
この村には、宮内省御狩場があり、村長はそれの監守もしていたのです。
そこに、狩猟のため勝海舟が訪れたので、金子家には、勝の書が残っています。
「経署経寒不否不其苦逢飢病不退其業」というものです。
意味がわかるでしょうか?
漢字から、それとなく察していますが・・・・
勝海舟には、二人の妹がいました。
一人は、お順さんで佐久間象山の奥さんでしたが、象山が暗殺される前に里帰りしていましたが、そのまま勝家に居残ります。
もう一人、はなという妹がいましたが、この方は全く資料がありません。
やはり、勝家の敷地に住んでいましたが、あまり母屋には出入りしていなかったようで、勝の孫たちとも付き合いがなかったようです。
強烈な兄と妹の間で、影の薄い存在だったようです。
海舟の長男の小鹿(ころく)も病弱で影の薄い存在で、早死にしました。
代わりに、妾の子である三女の逸子が、目賀田種太郎男爵の夫人となり、大活躍します。
彼女が一番父親の性格を受け継いでいるのではないかと思いますが、同じ人の子供でもずいぶん違うものですね。
夏目漱石には、4人の兄がいましたが、漱石が「吾輩は猫である」を書いたときには、3人はすでに死んでいました。
長男からは、英語を習いましたが、体が弱く若くして亡くなりました。
二男は、放蕩三昧で、こちらも早くに亡くなったのです。
四男は、子供の頃、夭折しているので、三男の和三郎だけが長生きしました。
彼も病弱でしたが、二度も養子に出され、電子技師として普通に暮らしていたそうです。
和三郎は、漱石の結婚の世話もしています。
ところで、漱石が48歳で亡くなった時、友人が和三郎に「社会的に見れば、弟さんの代わりに、君が死んだ方が良かったね。」と言ったそうです。
こんなことを言うのが、友人かと思いますよね。
どんな人でも、一人一人は「高価で尊い。」と聖書は言っています。
社会的に、地位がなくても、お金がなくても私たちは皆、高価で尊い存在で、神さまから愛されているのです。
写真は、夏目漱石や森鴎外が住んだことのある家です。
勝海舟の三女の目賀田逸子は、少女のころ、馬にまたがって庭の柿をとっているときに、馬が走り出して町の中を疾走したことがあったそうです。
また、クララたちが遊びに行ったとき、後を追っかけて行きましたが、人力車がぬかるみにはまったとき車を後ろから押していたそうです。
夫が、韓国で働いていた時、やはりスタッフのために、ぬかるみの中、差し入れを持って行ったそうです。
本妻の子ではないのですが、活動的で、ものおじしないで勝海舟の性格や顔を一番うけつでいると思います。