maidoの”やたけた”(ブログ版)

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喜愛香港-031 新界巡り-10 沙田~大圍

2004-01-29 10:19:58 | 虚々実々-喜愛香港

【地図】
廣福橋や大埔墟(太和)の街とサヨナラして、又もや幼稚園の運動場、マンションの通路経由で大埔火車站(駅)へ。
どうやらこれが、廣福橋から駅へ向かう一番の近道らしく、他にも結構人が通ってます。
KCRは地下鉄とプリペイド・カードが共通なので便利ですね。

ホームで待っていると小雨がぱらぱらと降り出した。
駅の直ぐ前の錦山(カムシャン)その奥の大帽山(タイモシャン)に続く鬱蒼とした亜熱帯の木立が小雨に煙って、風情があるねぇ。
大帽山は標高958Mで九龍半島最高峰、いや香港特別区の中でも最高峰の筈ですね。
山の周辺は大帽山、城門(シンムン)、大欖(タイラム)と3つの郊野公園(カントリー・パーク)で取り囲まれて保護されてるんですよ。
意外なことに、香港人にはハイキング好きが多くて、それも中々スパルタンなんですね。
とにもかくにも歩けや歩けで、香港島縦断とかかなりの長丁場をワッセワッセと歩くんですよ。
健康に良いとなると、何でもブームになるのは日本と一緒かなぁ?

KCRは大埔から大学までは吐露灣、火炭(ホータン)から沙田までは城門河(シンムンホー)に沿って走ります。
沙田火車站に着いて、想像はしていたとはいうものの、街の余りの変わりように胆を潰しました。
鴿紅焼の屋台なんかトンでもない。
客家の集合住宅の曽大屋は大体の方角は判るものの、道の様子が一変してるんですわ。
とにかく、難民住宅の有ったのは城門河の向こう岸、その横を獅子山(シツッシャン)へ向かって少し行った所やねんけど、駅前のビルにさえぎられて獅子山も望夫岩も見えへん・・・。
駅の位置も微妙に変わってるような気もするなぁ。

地図で大体の見当をつけて、広い通りを進んでゆくと、新しく出来た大きな道の下を潜る地下道があった。
道の反対側に渡って、城門河目指して真っ直ぐ歩いていた積りやのに、河に行き着かん。
オンヤ?行く手に陸橋があるがな?
左手はるか向うに獅子山のカケラらしきものが見える。
どうも、この陸橋を渡るとあらぬ方に行ってしまいそう。
道端でタバコを一ッ服して、落着いて地図を眺めると、地下道の出口を間違えたみたい。
逆戻りして、多分こっちらしいと歩いてゆくと、ウワァ、良かった!獅子橋に出たがな。
こんなところで道に迷ったんでは、面目丸潰れ、半潰れ位にはなってしもたけれど、河にさえ出りゃもう安心。
城門河を渡ってしばらく歩いて、左側の公園の中を通る道へ入ります。

右手方向には、さっき間違えて行きかけた道が、頭上を走ってます、危なかったなぁ・・。
公園で学生らしき連中がバスケットをしてますね。
英国の統治が長かったせいか、草野球をしているのにお目にかかったことが無いね。
ところで、香港の公園は大抵舗装してあるんですよ。
脚には良う無いやろうと思うけどなぁ?

客家の集合住宅公園のフェンス沿いに歩いて行くと、曽大屋がやっと見えた。
このまんまフェンスに邪魔されて、又もや変な方向に行かされるんとちゃうかいな?と少々不安やったけど良かった良かった。
貴州省では円形の客家住宅が有名で、元郎の近くや錦田辺りでは、城壁のような4~5Mの頑丈な塀に囲まれた客家の村が多いんですが、此処のは一寸異色。
それもその筈、元々は大金持ちの鉱山主の住まいやったのが、何時の頃からか客家の一族が住みついたんやそうです。
堂々とした建物で、両翼に望楼が立ってます。

全面に広い草地、背後に風水林を背負って、如何にも客家の住まいですなぁ。
入り口が3箇所。
内部で人の動きが見えますが、いくら私でも知り合いでもない客家の家に「ごめんやっしゃ」と中へは入れません。
後ろに見えるマンションが無かったら、もっとエエのになぁ。
しかし、その内マンションに埋まってしまうかも知れん、ひょっとしたら見納めかも?等と勝手なことを言いながら、心ゆくまで眺めて、さて行くか。
沙田に戻るよりも、一駅次の大圍(タイワイ)まで行く方が近そうなので川沿いに歩く事にしました。
途中で車公廟(チェクンミゥ)にも寄れるしね。

車公と言うのは宋の将軍やそうですが、疫病から新界の民衆を救ったとかで神さんになったんですて。
旧正月三日は車公さんの誕生日やというので、凄い人出やそうです。
今は言わばシーズンオフで外回りの修理工事中。
それでも中へ入ると結構参拝者がいてるし、お土産屋、線香やお供えの屋台が出てます。
神前には豚さんの丸ごとがデンと供えてあって、これはインパクト有りますねぇ。
どういう謂れか知らんけれど、船のスクリューみたいな、大きい金属製のプロペラを回すと御利益があるそうな。
風車と称してますが、相当力を入れんと廻せません、台風でもこれは廻らんで。
そう言えば、石塘咀(セットンチュイ)と西営盤(サイインブン)の間の辺りにも真鍮のスクリュー廻す小さい廟が有ったねぇ。
青松観で貰った銀練の実を7~8個だけ残して、全部お供えにしました。
捨てたんとちゃいまっせ、お供え!

水丘楽園(遊園地)を通りぬけたら大圍火車站に行ける筈やけど、道が複雑に分かれててよう判らん。
列車は直ぐ目の前を走ってるねんけどなぁ!
公園の傍に電話機があったので、香港の友人に電話して明日の打ち合わせをすることにしました。
「今何処?」
「大圍」
「エ~ッ、何故そんな所に居る?」
「カミさんに新界を見せたろ思うてね」
「新界みたいな田舎の何が面白い?」
「何となく好きやねん」
アホかいなと思うたやろねぇ。

香港では域内通話料が基本的に1ヶ月定額なんです。
いくらかけても料金は一緒。
そやから、超級市場(スーパーマーケット)、購物中心(ショッピングアーケード)やら駅に、「どうぞご自由にお使いください」とポイっと電話機が置いてあるんです。
中には壊れていたり、音質が妙なのもあるけど、無料サービスやから文句は言えません。
一般の店や食堂でも「電話を貸して」といえばいくらでも使わせてくれます。
国際電話はどうなってるんでしょうなぁ?
ビジネス街等には有料の公衆電話もあるんです。
結構使っているのを見ますが、私は使ったことが無いんですわ。
地下鉄や九広鉄路の駅ではレンタルの携帯電話のコーナーがありますし、通信面は日本より遥かに進んでますねぇ。

電話が済んでカミさんはと見ると、若い娘さんと何やらお話中。
「どないしたん?」と聞くと、
「…站邊度呀?(駅は何処ですか?)」と聞かれて、
「わたしも解れへんねん。あそこに列車が見えるからあの辺りやと思うけど」とお話してたんやて。
「オイオイ、広東語それだけ喋れたら立派なもんやんか!」
よくよく話を聞くと、「わたしも解れへんねん。」の後は日本語で手振りしたんやて。
ほんなら相手が「ありがとう!」
「日本語、話せるの?」
「少し」
「我識講広東話少々(私も広東語は少し知ってるだけ)」
と日本語と広東語混ぜこぜで話してたそうな。
上等上等。
電車が走っているのが見えているから、何とかなるやろ、と連れ立って歩いてゆくと、駅へ通じる道と言うか駅前にポコンと出た。
此処からは九龍塘で地下鉄に乗り変えたら佐敦に着いて「新界巡り」は予定終了。

さすがに1日で新界を大回りしたら忙しいねぇ。
「新界巡り」の記事は、カミさんの詳細なメモに相当助けられましたわ。

一服したら香港島の場末を散歩するかなぁ。

2004/01/29

喜愛香港-032 寄り道-002 元宵節

喜愛香港-目次


喜愛香港-030 新界巡り-9 大埔

2004-01-25 08:04:12 | 虚々実々-喜愛香港

橋を渡ると一帯は商店街と露店で埋め尽くされています。
こういうのを見るとウキウキしますねぇ。
露店と言っても、九龍では雑貨、下着、スナック系が主流ですが、ここは何でも売っていてカシワ屋の露店まで有ります。
こんな亜熱帯で生のカシワを、大丈夫かいな?と思いますが、屋台の傍らで生きたのがコケ、コケと騒いでます。
締めたての新鮮さを売り物にせんと客がソッポを向くんですなぁ。

さすがに豚や牛は生かしては売っていませんが、魚介類、鳥、カエル、亀、ヘビ、トカゲ類は生きているのが主力、さもなければ塩干物、調理済み等の加工品。
魚でも生きたのと死んだのでは2~3割値が違います。
「女人、四十」でも遣り繰り上手なメイが、魚屋の目を盗んで生簀の魚を一撃しといて「この死んだので良いから安くまけてよ!」というシ-ンがありましたねぇ。
店のお兄さんお姉さんが威勢のよい呼び声で勧めてくれるんですが
いくらなんでも下手に買ったら始末に困る。
野菜や、地場で取れる魚は確かに安いようですねぇ。
ところが、何でもかんでも安いかと思えばそうでもないんです。
台所用品や調理器具は九龍の上海街の方がズーッと安い。
意味はわからんけれども、売り手と買い手の廣東語の応酬を聞いているだけでも、なにやら元気が移って来そう。

キョロキョロしながら歩いていると、富善街の真中辺りに二帝廟がありました。
二帝というのは、文昌帝君、関聖帝君(三国志の関羽)の文武のセット。
場所によっては文武廟(マンモゥミュゥ)と呼ばれてます。
境内では爺さん連中の象棋(チェンケィ)の勝負、商売をサボって来ているに違い無いオッサン連中がそれを取り囲んで、周りであ~でも無いこ~でも無いと岡目八目の煩い事。

この象棋というのは駒に象や砲などと言うのが有るんです。
象は田を歩くと称して田の字の対角線を進むんです。
その代わり敵陣との間に横たわる漢界楚河という線を越えられません。
馬は日を歩くと言うて、いわゆる桂馬飛び、ところが横にも桂馬飛びをするんです。
横から蹴られたらたまりませんで、最初これにどれだけ悩まされたか!
砲は名の通り、途中の駒を飛び越して攻撃出来るんですわ。

駒は取られたら取られっ放しで二度と盤上には出てきません。
この辺はチェスと一緒ですね。
今まで味方やと思っていたのに、敵に捕獲されるや、矛を逆しまにして、かっての主君を追いかけるような信義に欠ける没義道な日本の将棋とは一味違う。
将や師(王、玉)は情け無いことに、自陣の真ん中の城の区域から出られんのです。
「最早これまで」と大将が単身敵陣に躍りこんで、縦横無尽に逃げ回る積りが、雑兵に取り囲まれて嬲り殺し、てな日本風の見苦しい負け方は無し。

将棋に余り掛かずらわって居ては、前に進まんのでこのくらいにして、商店街を進むと安富道に出ます。
右に鉄路博物館、左に目指す「女人、四十」に使われた建物が有るんですねぇ。
陸屋根の極普通の建物ですが、この屋上から元空軍の勇者だった舅がコウモリ傘を持って跳んだんですよ。
どうやら改装か建替えの工事中?一寸遅かったら様子が変わってしまうところでしたねぇ!危うかったなぁ。
鉄路博物館は昔九広鉄路が地べたを走っていた頃の大和站の跡なんです。
今は整備されているかも知れませんが、この頃は鄙びた博物館でしたわ。

一本東の靖遠街を通って橋の方へ帰ります。
オ~、大目ヤモリを売ってるがな!
コイツはタイでは「トッケー」と呼ばれて、身体に似合わない突拍子も無いデカイ声で「クェ~ッ!」と鳴くんですよ。
滋養強壮、ヤモリとヘビスープの専門店ですねぇ。
客はしょぼたれたオッサンばっかり。
嬶天下が多い香港のオッサンは疲れてるんですなぁ・・。
店のオヤジが出て来て勧めてくれるけれど、このオヤジの様子を見ると、効果の程は甚だ疑問やなぁ。

靖遠街の商店街は、食品や家庭荒物屋が多い富善街より少し道幅が広く、電気器具、洋品などの店もあって雰囲気が一寸違いますねぇ。
廣福橋の上で少し休憩して、初めて来たころを思い出すと感慨無量ですわ。
大埔にいてたのは、主に沿岸で操業する、刺し網や小規模な巻き網の比較的小型のジャンクが多かったんです。
あのジャンクの群れは何処へ行ったんでしょうなぁ。
これからは九広鉄路(KCR)に乗って沙田へ向かいます。

九広鉄路が高架になるまで、沙田駅の付近には鴿(ハト)料理の屋台が線路沿いに並んでいたんですが、今はもうそんな物は影も形も無くなって高層住宅が立ち並んでいます。
実は此処にはお城みたいな客家の住居が残ってるんです。
さて、こう開発が急ピッチやと、何時まで残っているか?
いまの内に、カミさんに見せてやりたいと思いましてね。

2004/01/25

喜愛香港-031 新界巡り-10 沙田~大圍

喜愛香港-目次


喜愛香港-029 新界巡り-8 粉嶺~大埔

2004-01-18 08:02:22 | 虚々実々-喜愛香港

【地図】
さぁ、大埔公路をまっしぐらと思ったら、大埔公路に入って1kmくらい走った所のインターチェンジで側道に入ってクルクル廻られて、方角が判らんようになってしもた。
「オイオイ、大埔へは真っ直ぐ行かんとアカンがな」と思いながら窓から外を見ていると、バスは九広鉄路の線路をまたぐ陸橋を渡ってます。
と言うことは、粉嶺の町へ入るんですねぇ。
持ってる地図の路線図を見間違うたか、まさかサービスと言うことは無かろうなぁ?

とにかく最終的に大埔へついたら文句は無いんです。
ロターリーを廻ると目の前に邉境警察総部?なるほど此処は辺境やねんなぁ!
バスが走って行く先の道標を見たら沙頭角(シャタゥコック)公路、まさかそんな東の端っこの国境ギリギリ、密輸の名所の沙頭角までは行かんやろうな?
思いがけず粉嶺観光が出来るのは嬉しいけど、適当なところで大埔に向かうて欲しいねぇ。
なにやら、賑やかな通りを走って、聯和墟(レンウォホイ)まで来てしもた。
此処でかなりの乗り降りがあって、裏道を廻って沙頭角公路を逆戻り。
馬會道で左に折れて、ヤレヤレ大埔公路に戻ってくれました。

この大埔という町は南宋時代に元郎の近くの錦田に居た鄭と言う一族が移ってきて大埔郷という村をつくたのが始まりやそうです。
後年、その大埔郷のど真ん中を九広鉄路が走って西が水圍、東が大埔頭と東西に分断されてしもたんですね。
さてその水圍の横を抜けたところが九広鉄路(KCR)大埔站(駅)、そこが終点でした。
ひょっとしたら、廣福橋の近所か大埔墟の何処かまで行くか?と期待してたけど甘かったねぇ。

九広鉄路(KCR)の高架の西側には、マンションと山以外何も有れへん。
高架になっている線路を越えるには駅ビルの中を通るしかないみたいです。
改札の前を過ぎてドンドン行ったら向こう側の駅隣接のビルに入ってしもた。
地上に降りたいのに階段が見当たらんのです。
やっと階段を見つけて地上に降りたら、マンションの敷地内見たいやなぁ・・。
そのまま廣福橋の方向と思しい方へあるいていったら、保育園か幼稚園の運動場に入り込んでしもたがな!
どうやら、あのまんまビルの中を東へ突っ切ったら良かったみたい。
地図を眺めると大埔頭の7~800mほど東に汀角路という道が有って、そこに天后廟があるんです。
天后廟は海の神さんだけに、必ず海岸近くに有ります。
もとは海がこの辺まであったんですなぁ。
埋め立てられて吐露港の海岸線は遥か2km近く東に行ってしもうて、正に陸に上がった河童ならぬ、媽祖。
汀角路は廣福橋(カンフキィゥ)のところで林村河(ラムツェンホ)の川岸に沿って西へ向かいます。
やっと自動車が走る道に出たら、ウフフ見事に汀角路に出た、廣福橋は目の前やんか。
いまの景色からは想像できませんが、廣福橋は林村河の河口に架かっていて、橋の向こうは海やったんですねぇ。
写真に写っている高層マンションの建っている辺りは、海やったんでっせ・・。

林村河に架かる廣福橋の北側(写真の左手)が大埔旧墟(旧市街)、南側が大埔墟です。

大埔旧墟に鄭一族が1672年に市場を建設して以来、大埔はこの辺りの中心的な墟市(マーケットタウン)として発展を続けてきたんです。
ところが鄭一族は市場を牛耳って一族以外の商人には不利な条件を押し付けました。
1893年太坑の文一族や粉嶺、船湾、林村、汀角などの有力者が、鄭一族に対抗して林村河の南に自由に売買が出来る市場(大埔新墟)を建設したんです。
渡し舟しかなかった林村河に廣福橋が架けられると、新墟は一気に旧墟を凌ぐ発展をしたんですね。

1960~70年代の吐露港は漁船が群がって水上居民の1大集結地でした。
青山湾、沙田、油麻地、銅鑼湾、[竹カンムリ+肖]箕湾、香港仔、長洲等の湾や避風塘(Typhoon Shelter)では色々な戎克(ジャンク)が見られて楽しかったですねぇ。
水上居民は日本では「蛋民」と呼ばれる事が多いようですが、これは蔑称で、下手に言うと海に落とされかねません。
最近はめっきり減ってしまいましたねぇ。
水上居民については、何れ別立てで書くことになると思います。
夜ともなれば、ジョンソンのアウトボード・エンジンを4~6台船尾に並べて付けたとんでもない快速艇が、共産中国との密貿易に大埔の沖を走り回っていたという事です。

橋の右手一帯が「女人、四十」の舞台。
主人公のメイ(蕭芳芳=ジョセフィーン・シャオ)が買い物をし、住んでいた街なんですよ。

「女人、四十」は第十五屆香港電影金像奨(1996年)で
映画会社の嘉禾娯樂事業有限公司が最佳電影(最優秀作品賞)
許鞍華(アン・ホイ)が最佳導演(最優秀監督賞)
陳文強が最佳編劇(最優秀脚本賞)
喬宏(ロイ・チャオ)が最佳男主角(最優秀主演男優賞)
蕭芳芳(ジョセフィーン・シャオ)が最佳女主角(最優秀主演女優賞)
羅家英(ロー・カーイン)が最佳男配角(最優秀助演男優賞)
と賞を総なめにしたんですねぇ。
蕭芳芳(ジョセフィーン・シャオ)はベルリン国際映画祭と台湾金馬奨の最優秀主演女優賞も獲得したんです。

蕭芳芳(ジョセフィーン・シャオ)は1947年、干支は猪で上海の生まれやから、この映画を撮影した時は48~49才やったんですねぇ。
子役から清楚で可愛いアイドルを経て、見事に演技派に成長しましたねぇ。
この映画について書き出すと止まらんようになるので、やめときますが、アルツハイマーに罹った舅を抱えて、時に落ち込みながらも、明るく前向きに生きるメイは素敵でしたねぇ。
日本映画なら救いの無い悲劇になりそうな設定を、見るものを笑わせ、泣かせながら最期には元気づける、老人を抱えている家族は必見の名作でっせ!
ラストシーンで舅の羅家英(ロー・カーイン)が「人生とは何か知ってるか?人生とは歓びなんだ」と言ったセリフが沁みますなぁ・・。

生きる喜びを大事に、欲望を偽善的に隠さずストレートに追求し、自主独立、努力と労働を評価する香港人の生き方が好きですわ(一寸誉めすぎたか?)。

「気力にも目立ったものがあり、男らしく食い、男らしく働き、進取の気性に富み、物事にこだわらず、金遣いも荒く、喧嘩好きで、冒険的、進歩的で気が早い」

と林語堂が「我国民、我国土」で述べている廣東人像は女性にも当てはまりますねぇ。
この映画でメイ1家の住まいとして、ロケに使った建物は橋から200mほど南の富善街の近く。

次回は富善街を散歩しながら、その建物を見に行きます。

2004/01/18

喜愛香港-030 新界巡り-9 大埔

喜愛香港-目次


喜愛香港-028 新界巡り-7 元郎~粉嶺

2004-01-11 07:59:24 | 虚々実々-喜愛香港

【地図】
青山公路を走る70番系統で行けば早いのですが、別に急ぐでなし、いっそ思いっきり田舎を走る路線に乗ろうと地図の小さな字を眺めてたら、目がシバシバして来た。
どうやら64K系統のバスが良さそう。
青山公路から凹頭(アゥタゥ)で別れて錦田(カムティン)公路、粉錦(ファンカム)公路経由で桂角山と林村郊野公園の大刀屶、北大刀屶の山間を抜けて、上水、粉嶺から大埔火車站まで。
ヨシこれで行ってやろうと、LRTが真中を走っている青山公路をぶらぶらと豊年路站の元郎廣場傍のバスターミナルへ向かいました。

人通りが多くて、店の看板が気持泥臭いし、ガサガサしているんですが、妙に馴染める街ですねぇ。
観光客目当ての客引きが居ないのが嬉しいなぁ。
元郎瀝の橋の上から見ると、川底でブルドーザーとバックホーが川底の泥をアチへやったりコッチへやったり、何してるんでしょうね?
そんなことよりも、バスの時間を確かめんと、そうそう本数が無い筈。
バスターミナルに着くと、上手い具合に30分程後に出るバスが既に居てた。
発車時間まで近所をウロウロすると、直ぐ西側に幼稚園その隣が病院と盲人安老院、もう一つ西に病院、その南側には青山公路に面して元郎政務處(市役所?)。
青山公路の向側には警察署と中学校。
もともとの元郎舊墟(ガゥホイ=旧市街)の西側に新市街が出来て、その新市街も元郎瀝の本流を挟んで西側が文教官公庁地区、東が商業娯楽地区のようですね。
そして錦田河と東から流れて来る支流に囲まれた一帯が工業団地になっているんですね。

元郎瀝(山貝河)は青山公路の300mほど北で東西からの支流と合流、そこから900mほど北で錦田河と合流しています。

合流点の北側は一面のアヒル養殖場。
家鴨を開いて団扇みたいにしたラップガゥ(月+鼡、鴨)が名物なのも頷けます。
ラップガゥは春節前になると、街市(市場)やシュゥラップポ(焼、月+鼡、舗=叉焼、中国風ソーセージ類屋)に溢れるのは勿論、九龍や香港島の下町に専門の屋台が並びます。
きれいに並べてあるとまるで団扇屋。
初めて見た時は一体何か見当も付きませんでしたねぇ。
薄茶色の渋団扇の大きなのを売っているけど、縁起物かいな?と近寄って良く見たら、柄と見えたのは無念そうな顔が付いた家鴨の首。
一寸食べる気になりませんねぇ・・。
ところが一度食うと病み付きになるんです。
適当に切って炊き上がったご飯の上に置いて蒸したり、ネギなどの野菜と炒めたり、食べ方は様々なんですが、なんともいえないコクが有って美味い!
イカン!食い物の話になるとツイ取り乱してしまった・・・。

これから向かう錦田一帯はアヘン戦争の時、傍若無人に進んできたイギリス軍を農民が鳥銃、はては鍬や天秤棒、石ころを武器に襲撃したところなんです。
廣東人の村に混じって客家(ハッカ)の村も多いからさもありなんと思いますなぁ。
客家(ハッカ)については何れ書く積りですが、誇高く積極的で向上心が強い魅力的なグループですねぇ。
やりたい放題で山賊みたいに戦利品を抱えて、規律がだらけきっていた英軍が一度はコテンパンにやられたんですね。
もっとも相手は正規軍ですから、本気になられると農民はボロカスに蹴散らかされてしまったんですけどね。
それでも英軍にとっては、清朝の正規軍より錦田の農民の方が手強かったという記録が有ります
香港島や九龍半島でも南端の部分は開発が進んで、アヘン戦争当時の情景は想像し辛いんですが、新界は開発が進んだとはいえ、まだまだその頃をしのばせる風景が残っているように思います。

清朝末期の中国が西欧諸国にワヤ苦茶にされた情報が日本の危機意識を高めて、明治維新の起爆剤の一部となったと思うんです。
言っちゃぁ何ですが、新界の畑の眺めは何の変哲も無いように見えても、アジアと西欧の鬩ぎ合いの歴史が埋まっているだけに、観光の為にでっち上げた某グァム島の恋人岬などという、ミーちゃんハーちゃん向け、書き割りのバッタ物の観光地とは重みが違いまっせ。

そろそろ時間なのでバス停へ行くと、乗客は我々二人だけ?
初めてのバス停「大棠」で2~3人乗ってきたけどそれっきり乗り降り無し。
途中のバス停でも乗る客、降りる客は無く次々にバス停を通過。
あれあれと言っている間に城壁で囲まれた錦田村の南を走り抜けて山の中へ突入してしもた。
左右の山は標高5~600Mの低い山なんですが、道は小さな峠を幾つも越えてジェットコースターみたい。
亜熱帯の濃密な緑が嬉しいなぁ。
これなら、レッサーパンダ、センザンコウ、コブラ等が棲んでいても不思議は有りませんね。
全く人家が見当たらない山の中を、小学生くらいの学校帰りらしい子供が、2~3人で歩いているんですが、一体家と学校とどれだけ離れているんでしょうねぇ?

やっと山間を抜けて蓮塘尾(リントンメイ)の辺りまで来ると、一面の桃畑。
何年か前の春節前に桃の花を買いに来たのはこの辺りだったんでしょうか?
蜜柑、キンカンと桃の花の大枝は廣東の春節には欠かせないんですね。
切花等とは到底呼べない、人間の背丈程も有る太さ5cm以上の枝を買って、車の屋根にフン縛って持って返るんです。
縁起物は余り値切ったりはしないんだそうですが、桃の花は例外らしく、只でさえ値段交渉の激しい香港人同士が、歯切れの良い広東語で丁々発止とやりあうのは見物(ミモノ)でっせ。

売るほうは年に一度の商売で今稼がんと稼ぐ時が無い、見敵必殺ボッタクリの構え、この桃は花桃で実は苦渋く美味しくない。(実は以前盗み食いをして舌が麻痺したようになったんです。)
あんまり欲を掻いて売れ残ったら丸損やしね。
「春節が来てから桃の花を買う」というのは、私でさえ書くのも憚るほどの男女関係絡みの、極めつけの悪口なんですよ。

買い手は買い手で交渉力と目利きを発揮する正念場、へんな枝を高値で買うたんでは家族親戚、近所、取引先に侮られる。
はては嫁さんに愛想をつかされて、蹴り出されんとも限らん。
いかに立派な枝を安く買うかが商売に生きる香港人の正念場。
会社なら経営状態の尺度にされるから、下手にみすぼらしい桃を飾ると信用不安の火種になる。
会心の交渉で見事な枝を安く手に入れると鼻高々で自慢なんですなぁ。

上水の手前の呉屋村(グウックショォン)で粉錦公路は青山公路と合流して大埔公路となります。
ここから5kmほど北には返還前の国境が走っています。

さて、次回は香港映画の名作「女人四十」の舞台、大埔へと向かいます。

2004/01/11

喜愛香港-029 新界巡り-8 粉嶺~大埔

喜愛香港-目次


2004/01/09

2004-01-09 21:10:44 | Today's maido(日記)

8時になるのを待ちかねて、一寸早いかなぁ、と思いながら営業所に行ったら、誰~れも来てない。
定時は8時半やからしょうがないんやけど、サブかったでっせ。
今朝の岡山県は零下、車凍ってました。
今日は造船所やから、今までと違ってかなり楽でしたわ。
車の中は温いし、海はキラキラ、瀬戸大橋見ながら玉野、塩生と2軒回って、ついでに関連業者さんをこれも2軒。
今年から2~3年の間は、ウチお得意さんの造船所で建造するのは、ほとんどバルクキャリヤー。
撒(バラ)積み貨物船いうて、穀物や、鉱石なんかをバラで積むタイプですねん。
パナマ運河を通れる最大の船型(パナマックス)とスエズ運河を通れる最大の船型(スエズマックス)。困った事にこの型の船はウチの出る幕が少ないんです。
言うたらハシケのお化け、ややこしい物が何んにも付いてないドンガラだけの船。
陰で「バカバルク」と言うてるんですが、1隻当たりの納入金額が2~3割通常型の商船よりも少ないんです。
それでも無いよりはましですねんけどね・・。

戦争は嫌いやけど、D.D.(護衛艦)、補給艦、巡視船、練習船が嬉しいんですわ。
客船はあかんのです、あれはセンスを要求されますねん。
そんなもんおまへんがな・・。

フェ~・・、やっぱり家がよろしいなぁ!