*六四天安門事件1989年6月4日の記録は中共国内では今も封印されたままのようです。
目が覚めたのは3時55分、朝の定期便の気配が全く無いので、先にWebをサラッと巡回して朝食、そうこうする内に新聞も来ましてね。
読み掛けたら遅ればせながら催し、並の成果が上がり、無事に朝の諸行事を終え、自転車を漕ぎ出したのが5時35分。
NTT西日本三国ビル前を6時に通過、十三大橋、淀川左岸線で毛馬橋西詰6時30分、桜ノ宮公園、片町、大阪城を経由し馬場町交差点7時。
上本町4、熊野街道、生玉南から谷町筋、阿倍野橋で上町台を下りJR新今宮駅7時30分、大国町、芦原橋、汐見橋を経て会社着7時45分。
書類チェックを終えて休憩してると訃報が入りまして、取引先造船所の創業者一族の当主で、50年来のお付き合いいただいた方でしてね。
私にとって最後の自動車となったJeepも、ニッサンの自動車にほぼ決め掛けてたのを、此の方との関係で乗るようになったんですわ。
直接造船所にタッチはされてないんですが、何かと同席する事が多かったのが、色々な事情で最近はご無沙汰になってましてん。
享年82歳、私と7つ違い、子供の頃と違い、70歳を過ぎると7年何かあっという間でっせ・・・。
さて、今日は六四天安門事件が起きた日、今も中共内では”六四”をキーワードにWebを検索してもブロックされてしまうそうな。
インターネットの時代に情報を遮断するというのは、並大抵のことや無いやろうに、それでも敢えてせざるを得んのでしょうね。
政府の公式見解は「1989年6月3日、ごく少数の者が北京で作った動乱(中国共産党新聞)」、都合良く作られた真実が歴史になるのかなぁ。
古来、中国は記録を大変重要視し、正確な記録を後代に残す為に、歴代王朝の歴史を記録する独特のシステムを作ったそうです。
時の王朝の記録官が、毎日記録していた「実録」、民間で記録された「野史・稗史」、それらを基に次の王朝が書いたのが「正史」。
「正史に名を残す」というのは自分ひとりのみならず子々孫々大変な誉で「生まれたからには、」と万人が思うてるそうな。
今の中共に「太史令(王朝時代の記録官)」に相当する官職があるのかは不明ですが、記録への執念を思うと無いという事は考えられませんなぁ。
若しも、「実録」に相当する公式な記録が有るなら、其処には六四天安門事件がどのように記録されてるんでしょうね。
午後になると気温が相当上がったようで、今迄になく暑い、ただ止まって風に吹かれてると汗が直ぐ引くので、不快感はそう無かったね。
そうはいうても帰宅したら汗まみれ、シャワーを浴びて、一息入れたら早目に夕食を食べ、長男の運転でお通夜へ。
つい先程帰ってきたら、何やらドッと疲れた気分なんで、不取敢更新して、今宵はもう寝ますわ。