大分重複していることもありますが、新しいウェンディのインタビューが載りました。
雑誌側の脚色文を飛ばしつつ、発言だけに絞ってUPしてみます。
「私がロニーに会ったのは1975年、レインボーにいたときだったわ。私たちたちはリッチー・ブラックモアに紹介されたの。リッチーのことは何年か前から知っていたから。彼と奥さんを知っていたわ。彼らはその晩のパーティに私を招待してくれたの。リッチーはレインボーを作ったばかり。そんなわわけで私はロニーに紹介されたの。ロニーはミュージシャンとしてリッチーをものすごく尊敬していたわ。彼はリッチーからたくさんのことを学んだ。何をすべきか、何をすべきでないか。私は彼らは一緒に素晴らしい音楽活動をしたと思うわ」
「ロニーの曲作りは独特だった。ラブソングは書きたがらなかった。彼は人々の体験や夢や希望、未来への望みについて書きたいと思っていた。当時の作品は素晴らしくて、二度と作れないような大作だと思うわ。信じられないような曲だった - ‘Stargazer’や ‘Gates of Babylon’ ‘Catch the Rainbow’ - みんなすごい曲ね。
ロニーはSFや魔法とか神秘的な本ばかり読んでいたわ。一日に一冊読んでいた。そしていつもスポーツを見ながら曲を書いていたわ。彼はバッハやベートーヴェンなんかのクラシックに大きな影響を受けていて、もちろんDeep PurpleやLed ZeppelinやBeatlesの影響もね。それに当時出てきた新しいバンドでは多分Aerosmithや後になってからはIron Maidenなんかの影響もあったでしょうね」
「彼は商業的な曲を書きたがらなかったから、リッチーからクビにされたのよ。
私たちはコネチカットに住んでいたけど、色んな人と交流するためにロサンジェルスに戻ることに決めたの。当時私はオズボーンと結婚する前のシャロン・アーデンと知り合いで、電話で話をしたら彼女はサバスのメンバーに会わせたいからってロニーを招いてくれたの。あの頃は彼女のお父さんのドン・アーデンがマネージメントをやっていた」
「彼らは(サバスのメンバーとロニーは)素晴らしい友人同士だったわ」当時のことを思い出しながらウェンディは呟く。「それに彼らはいつでも素晴らしいミュージシャンで、伝説だった。私はギーザ・バトラーの奥さんのグロリア・バトラーと仲が良くて、あの頃は本当に楽しいことがたくさんあったわ。私たちには何もかもが新しかった。人生で初めてロニーと私はいくらかのお金を手にしたの。レインボーの時はお金がなかった。でも私たちは突然お金を手にして、最初の家を買って人生を楽しんだわ。
音楽の面でロニーはサバスで仕事をすることを本当に楽しんでいた。なぜってやっと彼はよりダークな世界を描いて追求することができたのだから。彼とトニーは作曲において素晴らしい関係を築いた。そして他のメンバーとはプレイの上でね。彼らは全員が音楽の天才だった。Heaven and HellはマイアミのBee Gees'のスタジオでレコーディングされたんだけど、全てが私たちにとって新しい体験だったわ。私は曲が信じられないほど凄い出来だと思っていたわ。発売されるまでバンドのみんなは自信を持てないでいたわ。バンドが素晴らしい作品を作った時って、本人たちは本当に確信が持てないのね(笑)。外側にいる人間は曲を聴いてなんて素晴らしいの、って分かるんだけど。
曲の方の'Mob Rules'は元々映画Heavy Metalのために書かれたものだった。私たちはイングランドへ行ったの。そこでHeavy Metalの映画版のこの曲をレコーデイングしたわ。あれは信じられないような冒険で楽しい時期だった。3枚目のアルバムだと思うけど、ライブアルバムの頃はそうはいかなかった。その頃には色々な問題が起きていた」
その頃ソロで爆発的な成功を収めていたオジーとサバスは関係があるかと聞かれて、ウェンディは、「いいえ、ないわ、そうじゃないのよ。リンゴとオレンジだと思うの。そのくらい全く違うバンドなのよ。つまりオジーのブラックサバスは素晴らしいバンドよ。彼らはヘヴィメタルの革新者。でもオジーは偉大なショーマンだった。ロニーは信じられない程素晴らしいミュージシャンでシンガーだったわ。比べられるものじゃないと思うのよ」
「DIOの時期は私たちにとって新鮮だった。ロニーは思うとおりのことが何でもできたのだから」1983年にロニーのマネージングを始めたウェンディは語る。「恐ろしくもあったわ。だって大きな責任が彼に掛かっていたのだもの。最初は少しはお金もあったのだけど、たくさんあったわけじゃなかった。実際には巨額の抵当を設定して、私たちの家に二重抵当をかけて、ツアーを始めたのよ(笑)。サバスで楽しくできたようにできるはずだって確認するためにね。新しくてエキサイティングな時期だった。バンドにも火が着いたわ。私たちはHoly Diverがあんな風に成功するとは思っていなかったのよ。でもそうなって信じられなかったわ。信じられないほど波に乗った」
DIOの数ある曲目の中で彼女の一番好きな曲を聞かれると、ウェンディはこう答えた。「もちろんHoly Diverに決まってるわ。あれだけ成功したんですもの。Holy Diverは素晴らしい曲よ。同じようにRainbow in the DarkもThe Last in Lineも好きな曲。その後のSacred Heartのショーも素晴らしいステージだった。80年代にはショーがどんどん華々しくなっていたから。私たちは18フィートもある火を吹くドラゴンやレーザーなんかを作ったわ、まるでディズニーランドのようだった。それが90年代になると、どのレコード会社も、大きなレーベルはみんなを解雇したわ。もちろん私がバンドをマネージしていたから、独立した小さなレコード会社を探しに出かけなくちゃならなかった。怖かった。でもヨーロッパへ渡って色々な人たちと話をして、実際には小さい会社の方がメジャーなところよりいいってことが分かったの(笑)。自分でたくさんのことを決められるし、彼らに魂を売らなくていいもの。私にはいい勉強になったわ。でも私たちには楽しいことがたくさんあった。いつでも、ロニーと一緒の旅は美しい時間だった」
DIOのバンドの中でウェンディの親友は誰だったのか?
「それは当然ヴィニー・アピスよ。サイモン・ライトは本当にロニーの親友だった。ルーディ・サーゾは素敵な人だった。クレイグ・ゴールディはいい友人だったし、スコット・ウォーレンは17年もロニーと一緒にいてくれてH&Hになってからもそうだった。‘Lock Up the Wolvesでギタリストに17歳の若いローワン・ロバートソンを採用したわ。これもいい経験だったけど、楽しい時間だった。音楽的には私が一番好きじゃないアルバムは‘Angry Machines’。ロニーがもっと商業的に成功するために無理矢理押し込まれたように感じたから。彼のファンもあまり気に入っていなかったし、私は彼が方向性を変えていつもの曲作りに戻ってくれたときは嬉しかった」
'Lock up the Wolves'でガソリンの切れたDIOを後にロニーはサバスに戻る。Dehumanizerの時代についてウェンディは、「様々な話し合いや法律的な事柄や、互いに対する不信感があった。仕方がなかったんだと思うわ。アルバムは素晴らしいし、ロニーのサバスで一番見過ごされているアルバムじゃないかしら。でも以前のことがあったから、みんなが疑心暗鬼だった」
Dehumanizerの後、DIOは5つのアルバムをリリースする。その後三度のサバスの再結成が待っていた。
「トニーのマネージメントから私に電話があったの。最初はトニーのソロアルバムを一緒にやってくれないかっていうものだったわ。私たちはDIOに満足していたから実現しなかった。するともう一度電話がかかってきて、トニーとロニーと一緒に何か他のプロジェクトをやりたいようなことを言ってきたわ。この時点ではサバス、H&Hの話にはなっていなくて、依然として何も起こらなかった。それからレコード会社が連絡してきて、Black Sabbath – The Dio Yearsを出したいが、どこかに未発表の作品はないかって聞いてきたの。私はないと答えたわ。その時はロニーは、「まあ、それなら俺達が作らなきゃな」って言ってたわ。だから一度きりの収録の予定でロニーとトニーは集まって、2曲を作るつもりだったんだけど、結局3曲が出来上がった。その頃に私たちはグロリア・バトラーとギーザと話をするようになっていたの。そこへビルがやってきたのだけど、ビルとじゃうまくいかなかった。彼はツアーをやりたがっていなかったし、私には分からないけど何か - 音楽的な問題があった。それで私はヴィニーに電話をしたの。そしたらヴィニーは戻ってきてくれた」
その後H&Hのボックスセットのリリース、フルアルバムのリリースから過酷なツアーが続いた。ロニーが亡くなった後、ウェンディはロニーの巨大な遺産が忘れられないようにする、と誓っている。その第一弾は既にリリースされたDIOのライブアルバム“Dio At Donington UK: Live 1983 & 1987” である。
「これはロニーと私がやりたかったことなの。私たちは自分たちのレーベルを作りたかったから、ロニーが病気になる前から始めていたのよ。私たちは色んなテープを聴いてみて、これは素晴らしいんじゃないかって言ったわ。BBC録音の83年と87年だった。それで彼はそのテープをエンジニアでロニーの作品のマスターなんかをやってくれているウィン・デイヴィスの処へ持って行って、リマスターしたのよ。ロニーはとても喜んでいたわ。私はBBCに連絡して許可を取った。原盤だったからそうしないといけなかったの。海賊版じゃなく、BBCのオリジナル録音のテープだったのよ。それからロニーが病気になって、しばらく保留にしていたの。でも私は発表したかった。ロニーが心から大切に思っている貴重なものだと分かっていたから。彼が事実上のプロデューサーだったけれど、残念なことに完成品を見ることはなかった」
ロニーが執筆していたという自伝については、「ロニーは亡くなる数日前まで自伝を書いていたわ。3/4ぐらいは彼が書き終えていた。彼は全部手書きだったから、それを私に渡して、私のアシスタントがタイプで打ったの。作業はそんな具合だったわ。そうして私たちは章ごとにもちろん最後まで読んだわ。私は彼のために出版社を手配していた。彼らは私に最後まで仕上げて欲しいというので、私が仕上げることになっていて、2012年には出版の予定よ。実際には私は手をつけていなくて最後の部分も読んでいないの。まだ私には時期が早すぎてね - あまりにも大切な思い出だから。でもやるわ」
記事はこちら。
☆★☆
このウェンディの一番好きじゃないアルバムがAngry Machineであるという発言について、すぐさまトレーシーGが反応してコメントを出しています。
「もしウェンディやロニーやファンが俺のことを好きじゃなかったとしても、俺にはどうしようもない。俺のことや、ギタープレイを気に入らなかったのだとしても、変えようが無いしね。
彼女がAngry Machineや俺達の方向性を気に入らなかったのだとしても、全部が俺のせいじゃない。彼女の夫がレコーディングについて最後の決断をしたんだし。そう思うファンもいるしそう感じないファンもいる。だから彼女が当時の俺達がやっていたことを気に入らなかったとしても別に構わない。俺には変えようがないからね。変えられるとしても、俺は変えないね。だってあれが当時ロニーと俺が感じていたことなんだから。
俺は当時のことや誰かを悪く言ったりしていないことを彼女にはわかってもらいたい。
この発言が誰かを怒らせたら謝るよ。だけど俺のことを気に入ってくれたファンが大勢いたし、彼らには感謝してるよ。ロニーとウェンディのことはずっと尊敬しているよ。
だけど俺はわが道を行くよ」
(1999年にバンドを辞めたトレーシーはDIO側から「ギター二本体制で行くから」と言われたという。DIOは"もっとリッチー・ブラックモアスタイルのプレイヤーを探している・・トレーシーには後ろに下がってリズムギターをやって欲しいと彼らは望んだ。今が辞め時だと思った)
まあね、結局誰の責任てロニーの責任よね。
DIOだから。
ただ別にウェンディはトレーシーを責める発言はしてないんだけどね・・・汗。
雑誌側の脚色文を飛ばしつつ、発言だけに絞ってUPしてみます。
「私がロニーに会ったのは1975年、レインボーにいたときだったわ。私たちたちはリッチー・ブラックモアに紹介されたの。リッチーのことは何年か前から知っていたから。彼と奥さんを知っていたわ。彼らはその晩のパーティに私を招待してくれたの。リッチーはレインボーを作ったばかり。そんなわわけで私はロニーに紹介されたの。ロニーはミュージシャンとしてリッチーをものすごく尊敬していたわ。彼はリッチーからたくさんのことを学んだ。何をすべきか、何をすべきでないか。私は彼らは一緒に素晴らしい音楽活動をしたと思うわ」
「ロニーの曲作りは独特だった。ラブソングは書きたがらなかった。彼は人々の体験や夢や希望、未来への望みについて書きたいと思っていた。当時の作品は素晴らしくて、二度と作れないような大作だと思うわ。信じられないような曲だった - ‘Stargazer’や ‘Gates of Babylon’ ‘Catch the Rainbow’ - みんなすごい曲ね。
ロニーはSFや魔法とか神秘的な本ばかり読んでいたわ。一日に一冊読んでいた。そしていつもスポーツを見ながら曲を書いていたわ。彼はバッハやベートーヴェンなんかのクラシックに大きな影響を受けていて、もちろんDeep PurpleやLed ZeppelinやBeatlesの影響もね。それに当時出てきた新しいバンドでは多分Aerosmithや後になってからはIron Maidenなんかの影響もあったでしょうね」
「彼は商業的な曲を書きたがらなかったから、リッチーからクビにされたのよ。
私たちはコネチカットに住んでいたけど、色んな人と交流するためにロサンジェルスに戻ることに決めたの。当時私はオズボーンと結婚する前のシャロン・アーデンと知り合いで、電話で話をしたら彼女はサバスのメンバーに会わせたいからってロニーを招いてくれたの。あの頃は彼女のお父さんのドン・アーデンがマネージメントをやっていた」
「彼らは(サバスのメンバーとロニーは)素晴らしい友人同士だったわ」当時のことを思い出しながらウェンディは呟く。「それに彼らはいつでも素晴らしいミュージシャンで、伝説だった。私はギーザ・バトラーの奥さんのグロリア・バトラーと仲が良くて、あの頃は本当に楽しいことがたくさんあったわ。私たちには何もかもが新しかった。人生で初めてロニーと私はいくらかのお金を手にしたの。レインボーの時はお金がなかった。でも私たちは突然お金を手にして、最初の家を買って人生を楽しんだわ。
音楽の面でロニーはサバスで仕事をすることを本当に楽しんでいた。なぜってやっと彼はよりダークな世界を描いて追求することができたのだから。彼とトニーは作曲において素晴らしい関係を築いた。そして他のメンバーとはプレイの上でね。彼らは全員が音楽の天才だった。Heaven and HellはマイアミのBee Gees'のスタジオでレコーディングされたんだけど、全てが私たちにとって新しい体験だったわ。私は曲が信じられないほど凄い出来だと思っていたわ。発売されるまでバンドのみんなは自信を持てないでいたわ。バンドが素晴らしい作品を作った時って、本人たちは本当に確信が持てないのね(笑)。外側にいる人間は曲を聴いてなんて素晴らしいの、って分かるんだけど。
曲の方の'Mob Rules'は元々映画Heavy Metalのために書かれたものだった。私たちはイングランドへ行ったの。そこでHeavy Metalの映画版のこの曲をレコーデイングしたわ。あれは信じられないような冒険で楽しい時期だった。3枚目のアルバムだと思うけど、ライブアルバムの頃はそうはいかなかった。その頃には色々な問題が起きていた」
その頃ソロで爆発的な成功を収めていたオジーとサバスは関係があるかと聞かれて、ウェンディは、「いいえ、ないわ、そうじゃないのよ。リンゴとオレンジだと思うの。そのくらい全く違うバンドなのよ。つまりオジーのブラックサバスは素晴らしいバンドよ。彼らはヘヴィメタルの革新者。でもオジーは偉大なショーマンだった。ロニーは信じられない程素晴らしいミュージシャンでシンガーだったわ。比べられるものじゃないと思うのよ」
「DIOの時期は私たちにとって新鮮だった。ロニーは思うとおりのことが何でもできたのだから」1983年にロニーのマネージングを始めたウェンディは語る。「恐ろしくもあったわ。だって大きな責任が彼に掛かっていたのだもの。最初は少しはお金もあったのだけど、たくさんあったわけじゃなかった。実際には巨額の抵当を設定して、私たちの家に二重抵当をかけて、ツアーを始めたのよ(笑)。サバスで楽しくできたようにできるはずだって確認するためにね。新しくてエキサイティングな時期だった。バンドにも火が着いたわ。私たちはHoly Diverがあんな風に成功するとは思っていなかったのよ。でもそうなって信じられなかったわ。信じられないほど波に乗った」
DIOの数ある曲目の中で彼女の一番好きな曲を聞かれると、ウェンディはこう答えた。「もちろんHoly Diverに決まってるわ。あれだけ成功したんですもの。Holy Diverは素晴らしい曲よ。同じようにRainbow in the DarkもThe Last in Lineも好きな曲。その後のSacred Heartのショーも素晴らしいステージだった。80年代にはショーがどんどん華々しくなっていたから。私たちは18フィートもある火を吹くドラゴンやレーザーなんかを作ったわ、まるでディズニーランドのようだった。それが90年代になると、どのレコード会社も、大きなレーベルはみんなを解雇したわ。もちろん私がバンドをマネージしていたから、独立した小さなレコード会社を探しに出かけなくちゃならなかった。怖かった。でもヨーロッパへ渡って色々な人たちと話をして、実際には小さい会社の方がメジャーなところよりいいってことが分かったの(笑)。自分でたくさんのことを決められるし、彼らに魂を売らなくていいもの。私にはいい勉強になったわ。でも私たちには楽しいことがたくさんあった。いつでも、ロニーと一緒の旅は美しい時間だった」
DIOのバンドの中でウェンディの親友は誰だったのか?
「それは当然ヴィニー・アピスよ。サイモン・ライトは本当にロニーの親友だった。ルーディ・サーゾは素敵な人だった。クレイグ・ゴールディはいい友人だったし、スコット・ウォーレンは17年もロニーと一緒にいてくれてH&Hになってからもそうだった。‘Lock Up the Wolvesでギタリストに17歳の若いローワン・ロバートソンを採用したわ。これもいい経験だったけど、楽しい時間だった。音楽的には私が一番好きじゃないアルバムは‘Angry Machines’。ロニーがもっと商業的に成功するために無理矢理押し込まれたように感じたから。彼のファンもあまり気に入っていなかったし、私は彼が方向性を変えていつもの曲作りに戻ってくれたときは嬉しかった」
'Lock up the Wolves'でガソリンの切れたDIOを後にロニーはサバスに戻る。Dehumanizerの時代についてウェンディは、「様々な話し合いや法律的な事柄や、互いに対する不信感があった。仕方がなかったんだと思うわ。アルバムは素晴らしいし、ロニーのサバスで一番見過ごされているアルバムじゃないかしら。でも以前のことがあったから、みんなが疑心暗鬼だった」
Dehumanizerの後、DIOは5つのアルバムをリリースする。その後三度のサバスの再結成が待っていた。
「トニーのマネージメントから私に電話があったの。最初はトニーのソロアルバムを一緒にやってくれないかっていうものだったわ。私たちはDIOに満足していたから実現しなかった。するともう一度電話がかかってきて、トニーとロニーと一緒に何か他のプロジェクトをやりたいようなことを言ってきたわ。この時点ではサバス、H&Hの話にはなっていなくて、依然として何も起こらなかった。それからレコード会社が連絡してきて、Black Sabbath – The Dio Yearsを出したいが、どこかに未発表の作品はないかって聞いてきたの。私はないと答えたわ。その時はロニーは、「まあ、それなら俺達が作らなきゃな」って言ってたわ。だから一度きりの収録の予定でロニーとトニーは集まって、2曲を作るつもりだったんだけど、結局3曲が出来上がった。その頃に私たちはグロリア・バトラーとギーザと話をするようになっていたの。そこへビルがやってきたのだけど、ビルとじゃうまくいかなかった。彼はツアーをやりたがっていなかったし、私には分からないけど何か - 音楽的な問題があった。それで私はヴィニーに電話をしたの。そしたらヴィニーは戻ってきてくれた」
その後H&Hのボックスセットのリリース、フルアルバムのリリースから過酷なツアーが続いた。ロニーが亡くなった後、ウェンディはロニーの巨大な遺産が忘れられないようにする、と誓っている。その第一弾は既にリリースされたDIOのライブアルバム“Dio At Donington UK: Live 1983 & 1987” である。
「これはロニーと私がやりたかったことなの。私たちは自分たちのレーベルを作りたかったから、ロニーが病気になる前から始めていたのよ。私たちは色んなテープを聴いてみて、これは素晴らしいんじゃないかって言ったわ。BBC録音の83年と87年だった。それで彼はそのテープをエンジニアでロニーの作品のマスターなんかをやってくれているウィン・デイヴィスの処へ持って行って、リマスターしたのよ。ロニーはとても喜んでいたわ。私はBBCに連絡して許可を取った。原盤だったからそうしないといけなかったの。海賊版じゃなく、BBCのオリジナル録音のテープだったのよ。それからロニーが病気になって、しばらく保留にしていたの。でも私は発表したかった。ロニーが心から大切に思っている貴重なものだと分かっていたから。彼が事実上のプロデューサーだったけれど、残念なことに完成品を見ることはなかった」
ロニーが執筆していたという自伝については、「ロニーは亡くなる数日前まで自伝を書いていたわ。3/4ぐらいは彼が書き終えていた。彼は全部手書きだったから、それを私に渡して、私のアシスタントがタイプで打ったの。作業はそんな具合だったわ。そうして私たちは章ごとにもちろん最後まで読んだわ。私は彼のために出版社を手配していた。彼らは私に最後まで仕上げて欲しいというので、私が仕上げることになっていて、2012年には出版の予定よ。実際には私は手をつけていなくて最後の部分も読んでいないの。まだ私には時期が早すぎてね - あまりにも大切な思い出だから。でもやるわ」
記事はこちら。
☆★☆
このウェンディの一番好きじゃないアルバムがAngry Machineであるという発言について、すぐさまトレーシーGが反応してコメントを出しています。
「もしウェンディやロニーやファンが俺のことを好きじゃなかったとしても、俺にはどうしようもない。俺のことや、ギタープレイを気に入らなかったのだとしても、変えようが無いしね。
彼女がAngry Machineや俺達の方向性を気に入らなかったのだとしても、全部が俺のせいじゃない。彼女の夫がレコーディングについて最後の決断をしたんだし。そう思うファンもいるしそう感じないファンもいる。だから彼女が当時の俺達がやっていたことを気に入らなかったとしても別に構わない。俺には変えようがないからね。変えられるとしても、俺は変えないね。だってあれが当時ロニーと俺が感じていたことなんだから。
俺は当時のことや誰かを悪く言ったりしていないことを彼女にはわかってもらいたい。
この発言が誰かを怒らせたら謝るよ。だけど俺のことを気に入ってくれたファンが大勢いたし、彼らには感謝してるよ。ロニーとウェンディのことはずっと尊敬しているよ。
だけど俺はわが道を行くよ」
(1999年にバンドを辞めたトレーシーはDIO側から「ギター二本体制で行くから」と言われたという。DIOは"もっとリッチー・ブラックモアスタイルのプレイヤーを探している・・トレーシーには後ろに下がってリズムギターをやって欲しいと彼らは望んだ。今が辞め時だと思った)
まあね、結局誰の責任てロニーの責任よね。
DIOだから。
ただ別にウェンディはトレーシーを責める発言はしてないんだけどね・・・汗。
ロニーのウェンディに対する思いが伝わってくる。
自分でもなんだかよくわからないけど。
長い翻訳ありがとう。
でもロニーを一番理解してたのは、ウェンディに違いないよね。仕事でもプライベートでも一番長くて深いつきあいのパートナーなんだから。