うちの教会は、金曜日のミサの後、その二日後の日曜日にミサで読まれる福音の分かち合いがある。
先月末の福音の大きなテーマは「仕える者になりなさい」
私はキリスト者になったけれど、どうも引っかかっていることがずっとあった。
障害があって教会組織に存在していると、教会の外の社会よりも、なまじ隣人愛の教えがあるがために、間違った声かけがあったり、関わり方がパターナリスティックであったり、
すっと自分の存在価値が、教会にくると低くなっている気分になっていた。
私は優しくされたくて教会に行ったのではないし(冷たくされても困るが。撫で撫でみたいな)
むしろ力を得るために行ったのに、
優しくされすぎて(配慮されすぎて)小さく小さくなった。
組織の価値観がinclusionではないのね。
そこに持ってきて「遣えるものになりなさい」
私、なんにもできないやん。つかえられて、やさしくしてもらってばっかりやん。
この話になると、
リジューのテレジアの話になる。
リジューのテレジアはすごい人かもしれないよ、だけど私はリジューのテレジアじゃない。
存在そのもので遣えてる、って言われても、特に存在が必要とされていると思えていない、
どう存在そのもので遣えればいいのか、ずっとわからないから答えがなかった。
そしてくやしくて泣いたの。私はこんな小さくない。
このパターナリズムには真剣に悩んでいて、あちこちの司祭や牧師先生に質問した。
でも聖職者からは、納得する答えは得られなかった。
補佐司教さまにお手紙を書いて、メールでお返事を頂いたときには、
司教さまは、日本の社会の障害者への関わり方の成熟度の遅れを認めて、
「その一部である教会も問題を抱えながらも内外に働きかけていき、
私は今の日本に足りない社会学とジェンダーの視点を持っているから、
その意味でも必要とされている」って書いてくださっていた。
でも、私自身は組織には必要とされているなんてまったく思えてなかったし、
むしろお荷物だろうと思っていたし、
・・・それが自分の純粋なカトリックの信仰とぶつかって苦しんだ。
信仰を持って教会の外では元気に生きていけるようになったのに、・・・なんか違う。
教会は罪人の集まりだから、社会の縮図。一歩入れば差別と偏見に満ちている。
わかってはいても、特に私はニュージーランドを知ってしまったから、苦しんで苦しんだ。
教会に来たら障害を感じ、できない自分、申し訳ない、そんな思いに縛られて怖かった。
いろんな対立もあった。
そして英語のミサに出たり、ネットで英語圏のクリスチャンと繋がったり信仰を保とうとしたし、
いろんな本も読んで混沌とした世界を理解しようとした。
どうして障害をもって生まれてきたのか、この先の困難に対してどう立ち向かっていくか、
そういう信仰上の自分自身の答えは得られたのだけど、人との関わりについては悩んで悩んで。
分かち合いの次の日曜日。
どんなお説教になるのか楽しみであり、怖くもあった。
どうせ答えは得られないだろうという諦めもあった。
でも、答えが出た。
その神父様のお説教が
こちら
私が金曜日から思い巡らしていたように、きっと神父さまもいろいろ考えてくださったのだろうな。。。
さ、、元気に生きましょう。
司教さまがおっしゃるように、もしかしたら、私の「行動はプレゼンテーション」っていうのが、私の使命かもしれないしね。