前回のお祭り話の続きですが、その翌日はそこから10数キロ行った小さな町の盆踊りに行ってきました。そこは本当に小さな町で、前日に行ったお祭りとは雰囲気は大違い。前回のお祭りは最近なにやら有名になってしまい、観光客も増え、町としてはお祭りシーズンは踊りに来てくれるなら歓迎というスタンスをとっており、今年は昨年より踊りこの数は格段に増えていました。ところがあれだけの踊り子だとある意味町のキャパシティーを越えており、楽しく踊るにはやや狭く窮屈でもあったのです。今回の町に来たときそのことを痛感しました。この小さな町ではもちろん観光客などほとんど見当たらず、地元の人たちがのびのびと踊っているのです。足並みのそろい方も前回の踊りとは比較にならないくらいいいです。それだけ地元民の一致団結が感じられます。私も途中で輪に混ぜてもらい楽しく踊りましたが、こちらの踊りはテンポも速く非常にタフな踊りでした。わっかもあちらこちらで好き勝手に作っては踊っておりその自由さもすばらしいものがあります。
そのなかで10代後半くらいの3人娘達がはしゃぎながら踊っていたのですが、あまりの上手さに釘づけになってしまいました。一人はピョンピョン飛び跳ねるような躍動感のある踊り、一人はなまめかしいつやのある踊り、一人はその中間をとったような踊りをするこたちで、これがあまりにいい動きをするのです。この子達を見たときにここの伝統のすばらしき継承を感じずにはいられません。それどころかその踊り姿には惚れ込むべきものがあるのです。惚れ込むというのはその他のあらゆる価値を無力化してしまいます。少々顔が好みでなかろうが、性格が合わなさそうであろうが、趣味がどうであろうがそんなものはどうでもいいが、とにかく惚れ込んだもののためなら何でも投げ出してやりたいと思わせるほどです。さらにそのわっかは誰かがアドリブを効かして踊りだすと回りも次々と伝染してあわせて行くような自由な流れがあるのです。これは前の踊りの規模では不可能な現象だと思います。
そうです。何か「いい具合」なものは、それなりに「いい規模」があって、その規模を逸脱した瞬間いい具合は保てません。おいしいプリンは欲張ってサイズが大きくなるとその重量に耐え切れず崩れてしまいます。前回の祭りと今回の祭りでその対比が明瞭となりました。しかしながらその規模を崩しているのは実際我々観光客(というと語弊がありますが、いわゆる外者です)なのです。いくらよいものが見れ、よい体験ができるからとその場所に人が集中した時、そのよいものは崩壊の道をたどることになります。ここには2つの悲しみがあります。1つはそこの地元民で、本来自分たちのすばらしさに理解してきてくれていたなじみの客、ということで小さい規模で招待していた(つまりよき祭りが維持できる程度で客を呼び、自分たちでコントロールできていた)ものがマスコミやツアーによって崩されてしまうこと。そしてもうひとつは客のほうで、わざわざその様な土地まで出向いていかなければならないという事実なのです。
本来その土地に住む人はその祭りに全力を注いでいます。つまり逆にいえばお盆は他の土地へ行く余裕はない、ということになります。そこへやってくる客、魅了されている客はつまり自分たちの地元にその様なものがないから、枯渇した欲求を満たしにそこへ来るわけです。これは悲しい事実です。日本全国で地元で欲求を完結できる場所はほとんどないのではないかと思います。そしてそれは私だって同じなのです。そしてその欲求とは前回述べている「感覚の共有」であろうと考えるわけです。我々はその感覚の共有をオープンにしてくれている数少ない街に甘えているわけです。言い訳としてお金をそこに落としていっているんだから、と。そしてその甘えが感覚の共有の場を壊しているわけで、そうなると意識できていない地元民はお金を落としてもらう場所として舞台として扱いだすのです。舞台を見にいって感動する時に、果たして演者と客が感動を共有しているでしょうか?ほとんどの場合、その感動は共有なき感動です。何度見に行ってもそこに感覚の共有はありません。多くのすばらしい場所が、メディアやツアーによって舞台化し共有の感覚が失われているように感じます。
非常に逆説的なことですが、多数の我々客が、あの魅力的な場所に行かずともすむようになれば本来一番なのです。そのために地元の魅力的な環境をできるだけ早急につくれるよう努力したいものです。あちこちで若いみんなが頑張っています。年配者や行政とぶつかって頑張っています。心から応援していますし、私もこの田舎都市で盛り上げていけるよう少しでも力を貸したいと思います。そうはいっても来年もあの場所で、あの輪に入ってみんなと踊れれば幸せだろうなと心から思ってしまいます。
そのなかで10代後半くらいの3人娘達がはしゃぎながら踊っていたのですが、あまりの上手さに釘づけになってしまいました。一人はピョンピョン飛び跳ねるような躍動感のある踊り、一人はなまめかしいつやのある踊り、一人はその中間をとったような踊りをするこたちで、これがあまりにいい動きをするのです。この子達を見たときにここの伝統のすばらしき継承を感じずにはいられません。それどころかその踊り姿には惚れ込むべきものがあるのです。惚れ込むというのはその他のあらゆる価値を無力化してしまいます。少々顔が好みでなかろうが、性格が合わなさそうであろうが、趣味がどうであろうがそんなものはどうでもいいが、とにかく惚れ込んだもののためなら何でも投げ出してやりたいと思わせるほどです。さらにそのわっかは誰かがアドリブを効かして踊りだすと回りも次々と伝染してあわせて行くような自由な流れがあるのです。これは前の踊りの規模では不可能な現象だと思います。
そうです。何か「いい具合」なものは、それなりに「いい規模」があって、その規模を逸脱した瞬間いい具合は保てません。おいしいプリンは欲張ってサイズが大きくなるとその重量に耐え切れず崩れてしまいます。前回の祭りと今回の祭りでその対比が明瞭となりました。しかしながらその規模を崩しているのは実際我々観光客(というと語弊がありますが、いわゆる外者です)なのです。いくらよいものが見れ、よい体験ができるからとその場所に人が集中した時、そのよいものは崩壊の道をたどることになります。ここには2つの悲しみがあります。1つはそこの地元民で、本来自分たちのすばらしさに理解してきてくれていたなじみの客、ということで小さい規模で招待していた(つまりよき祭りが維持できる程度で客を呼び、自分たちでコントロールできていた)ものがマスコミやツアーによって崩されてしまうこと。そしてもうひとつは客のほうで、わざわざその様な土地まで出向いていかなければならないという事実なのです。
本来その土地に住む人はその祭りに全力を注いでいます。つまり逆にいえばお盆は他の土地へ行く余裕はない、ということになります。そこへやってくる客、魅了されている客はつまり自分たちの地元にその様なものがないから、枯渇した欲求を満たしにそこへ来るわけです。これは悲しい事実です。日本全国で地元で欲求を完結できる場所はほとんどないのではないかと思います。そしてそれは私だって同じなのです。そしてその欲求とは前回述べている「感覚の共有」であろうと考えるわけです。我々はその感覚の共有をオープンにしてくれている数少ない街に甘えているわけです。言い訳としてお金をそこに落としていっているんだから、と。そしてその甘えが感覚の共有の場を壊しているわけで、そうなると意識できていない地元民はお金を落としてもらう場所として舞台として扱いだすのです。舞台を見にいって感動する時に、果たして演者と客が感動を共有しているでしょうか?ほとんどの場合、その感動は共有なき感動です。何度見に行ってもそこに感覚の共有はありません。多くのすばらしい場所が、メディアやツアーによって舞台化し共有の感覚が失われているように感じます。
非常に逆説的なことですが、多数の我々客が、あの魅力的な場所に行かずともすむようになれば本来一番なのです。そのために地元の魅力的な環境をできるだけ早急につくれるよう努力したいものです。あちこちで若いみんなが頑張っています。年配者や行政とぶつかって頑張っています。心から応援していますし、私もこの田舎都市で盛り上げていけるよう少しでも力を貸したいと思います。そうはいっても来年もあの場所で、あの輪に入ってみんなと踊れれば幸せだろうなと心から思ってしまいます。