父の日記 昭和17年

昭和17年の日記 
ようやく召集解除 神武屯を発ち東京へ向う

昭和17年7月24日

2005-07-24 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
24日 (金) 小雨 涼

今日は、聯隊紀念祭の命令案を作るのと、各中隊○出し
の下士官兵の人選等に各隊を巡って歩く。一日がゝりで
忙しい事。
今日は最后の日直で、僕の番に当ってゐるのだが明日からの
週番が僕なので今日の日直は新井中尉にやって貰ふ。
夜、腹が減って、岩本と崎山と三人で山を下る。一富士へ行って、
ヤキメシを食って帰る。ウドンを食べたかったがない。
十二時頃寝る。

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昭和17年7月23日

2005-07-24 | 昭和 (父の日記 昭和17年) 
23日 (木) 晴れ 涼し

午前に聯隊本部、森田少佐の所へ行って紀念祭の連絡
今度の紀念祭は委員が我々招集将校ばかりで現役将
校や中隊長連中は一人も加はらぬ。青木大尉等は自分
がやりたくて仕方がないらしいが、やらせないので気嫌悪いらしい。
森田少サに言ったが、中隊将は忙しいからお前たちでやれと
言はれてしまふ。飯田中尉にも連絡する。委員及助手の任
命の命令を早く出さねばならない。計画委員も忙しい。
午后は二時間許り昼寝する。その后各隊へ廻って隊長から
委員助手の下士官の撰室を頼んで廻る。途中でやめる。
四時頃入浴する。
夜、密着印画をやったが印画紙が古くてカブッてゐるため
皆真黒になってしまい駄目。途中でやめる。大連の旅館
の娘さんに送るのもうまく出来ないので駄目だ。
九時頃、フィリピンから持って来たラヂオを始めて聞いてみる。
徴発のラヂオでフィルコの優秀なもの。始めてロシアのデマ放送
を聞く。九州ナマリの日本語でモスコーから短波放送をやっ
てゐた。独ソ戦の戦況をソ聯が大勝してゐるやうに
報じてゐる。1942年中にはソ聯はドイツを壊滅して
しまふ予定だと。大したデマだ。
もう手紙は出せるのだがまだ家へ手紙を出さぬ。もう二ヶ月
か、三ヶ月位家へ手紙を出さぬ、家でさぞ心配してゐる事だ
らう。明日は是非書かねばならぬ。
十時半頃寝る。

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