日本の教育界で今、高校の履修単位不足が大問題となっています。
ことの発端は、富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長、生徒数557人)で必修単位の科目の履修漏れが発覚したことで、文部科学省が調査に乗り出した結果、5408校中540校(調査未了校2校を含む)、生徒数にして8万3743人が必修科目の履修漏れがあったことが判明(11月1日、衆議院教育基本法特別委員会における伊吹文明文部科学大臣答弁による)。中には、学校長自らが履修漏れがありながら一旦は「ない」と虚偽の報告や説明したケースもあり、日本における高校教育者の権威と信頼は地に落ちた観があります。問題の発覚後、関係する高校2校の校長が自殺するという事件も発生しました。
学習指導要領(正確には、高校について適用されるのは「高等学校学習指導要領」)は、「学校教育法施行規則」(昭和22年文部省令第11号)第57条の2の「高等学校の教育課程については、この章に定めるもののほか、教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとする。」との規定を根拠とする文部科学省告示の一種で、法的拘束力を持つ文書です。自動車運転免許の講義と同様、本来であれば、要領に定める課程を修了しなければ高等学校卒業資格は与えられないはずであり、法令を厳格に解釈すれば、多くの高校卒業生が高校、更には大学の卒業資格を剥奪されてしかるべき性質のものです。確かに、学習指導要領の内容そのものが果たして現実の教育と合っているのかといった問題もあるにはありますが、そうした問題を論じる以前に、要領が法的文書であり、高校教育は最低限これを基にして行われなければならぬと決まっている以上、これを無視して受験指導を行う等というのは、自己の便宜のために法令を無視してよいと生徒に訓育するのと同等に悪質な行為、という他ありません。
ところで、今回の問題の直接の責任者は、生徒の必修科目の履修を不法にさせなかった教職員及び学校長であり、ましてや文部科学省の調査や報道機関の取材に対して虚偽の回答をするような教職員・学校長は、その教員としての資格を根本的に疑われても致し方がないと言えるでしょう。
しかしながら、それに加えて、「受験戦争」に象徴される試験成績評価にあまりにも偏重した日本の教育システムが、今回の問題の発生に重要な役割を担ったことは、もはや何人も否定できないのではないでしょうか。そもそも問題となった高校が必修単位の「操作」に踏み切ったのは、結局のところ保護者らによる高校の評価が進路状況、即ち「受験戦争の成績」に偏りすぎ、優秀な生徒を集めて大学に進学させるには受験科目に絞った授業を展開する必要が出てきたからに他なりません。無論、そうした「学校経営」のための目先の利益のために、法的拘束力を持つ学習指導要領を不法にも逸脱し、「受験に出る科目だけ勉強させる」という安易極まりない態度をとった学校長・教員の姿勢は極めて問題であり、厳しく弾劾されるべきものであることは論を待ちません。しかし、それに加えて、こうした受験指導のみを求めた生徒・保護者の側にもまた、構造的な問題があったのではないでしょうか。
振り返れば、そもそも日本における学校教育は、「大学受験」更には「就職」という最終目標によって、各教育段階で著しく空洞化しています。
例えば、私自身が通学していた私立高校では、独自のカリキュラムと教育方針を学校の特色としており、授業編成は勿論、授業内容についても学習指導要領に囚われないものとなっていました。かといって、私の出身高校は(一応は進学校という評価になっていましたが)必ずしも大学受験指導には熱心ではなく(いや、全くと言っていいほど熱心ではなかった)、夏休み期間中の補修や受験指導の類は一切ありませんでした。自由な校風を謳うこの高校は生活スタイルも大学に近く、自学自習を奨励し、例えば地理の授業にしても何故か「ニュージーランドの地理」を教える教員も居たりしました。数学は一般高校よりも進度が速く、これまた独自の教科書を使用して授業が進められ、いわゆる市販の教科書は一度も使いませんでした。それでも有名国公立大学を含めて多数の大学進学者を出していた(進学率は9割5分以上だった)のは、生徒が学校での授業以外にそれぞれ予備校通いをしていたからで、私も高校3年のときは、得意科目の授業中にこっそり予備校の予習を「内職」し、昼休みは食事もせずに図書室で勉強、午後の授業が終わってから予備校に出向き、近くの食堂やハンバーガー店で遅い昼食をとった後、5時半から8時半まで予備校の授業を受け、自宅に帰り着くのは10時近くという生活を送っていました。こうして生徒自身が受験対策を講じることで、この高校ははじめて高い大学進学率を維持できていたのですが、そうした実情は教員の側もよく知っており、授業中に「内職」をしていていも咎められることはあまりありませんでした。
思うに、「進学校」と言われている多くの学校は、多かれ少なかれ、また小中高校・私立公立を問わず、私の出身校のように、学習指導要領を無視した独自のカリキュラムを展開しているのではないでしょうか。特に、予備校産業が発達していない地方においては、東京以上に高校が大学受験指導に大きな役割を果たしており、それだけに保護者の寄せる期待も大きいものがあります。しかし、こうした学習指導要領からの逸脱が、特に受験指導を名目として行われるとき、高校教育本来の意義が失われ、ひたすら小手先の受験テクニック指導への堕落を意味することになります(幸い、私の出身高校は、学習指導要領は逸脱気味であったものの、受験テクニック指導には堕落していませんでした)。
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