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月扇堂手帖

観能備忘録
あの頃は、番組の読み方さえ知らなかったのに…。
今じゃいっぱしのお能中毒。怖。

アガタ

2010年11月21日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
KYOTO EXPERIMENT 2010(京都・京都造形大学春秋座)

デュラスは尊敬する作家。『愛人(ラマン)』が代表作だとポストトークでも盛んに言われていたけれど、20年くらい前、むしろ『エミリー・L』や『夏の雨』にいたく感銘を受けた記憶がある。

『アガタ』は、1981に書かれた戯曲。

会場は春秋座なので大ホールを想像していたのだけれども、行ってみると、舞台も客席も暗幕で覆われた狭い空間の中にあったので意表をつかれた。

舞台の上には、天井から波打つような布が吊され、ブルーに照らされている。舞台は能舞台ほどの広さだろうか、正方形で、各辺に向かって客席が40~50席ずつ並ぶ四方正面の造り。(格闘技のリングみたいな)。

床の中央に下からの明かりを通す板があり、これが鏡になったり池になったりといった仕掛け。

登場人物は、〈男〉と〈女〉のふたりきり。どちらも極めてシンプルな装いで、小道具は〈女〉の日傘と鞄とサンダルだけ。

戯曲なのに、二人の台詞はすべて語り役がひとりで滔々と読み流してしまう。特段に感情を込めたり抑揚をつけたりするわけでもない。最低限の〈意味〉だけが伝わるような。

舞台上では男女が極めて抽象的な動きをしている。台詞に合っているような合っていないような、むしろ台詞の奥を表現しているような、いや台詞の嘘を暴くような。

二人は兄妹であり、妹アガタは明日旅立とうとしており、兄はそれを引き留めようとしている。語られているのは昔ふたりの間にあった(にちがいない)危険な恋愛関係、あるいは今現在分かちがたく結びついている魂の関係。

けれど、筋はさほど問題ではなくて、きわどい場面が語られているときでさえ記憶はただ美しい。ちょうど「禁じられた遊び」に邪気が感じられないのと同じように、ここにエロスは感じられない。

公演には「――ダンスの臨界/語りの臨界――」という副題があって、その意味がとてもよくわかる。跳んだり跳ねたりせずにどこまで踊れるかとか、吊り糸なしにどこまで身体を床から離せるかとか、どこまで演技を抽象化できるかとか、あるいはどこまで語りを裏切れるかとか、さまざまな意味でたしかに〈臨界〉を試している風。

人間の身体というのは、使おうと思えばこんなふうにも使えるのだなぁと感心させられるのは、シルヴィ・ギエムのモダンを見たときと同様だ。



デュラス同様、若き日のヒーローだった浅田彰が登場するというので公演後のポストトークも拝聴。

『構造と力』とか『スキゾ・キッツ』とか、理解できたとは思えないのに夢中になったなぁ。いつの間に造形大学大学院長になったのだろう。知らなかった。

なんだか、ぐぐっと頭を学生時代に引き戻されて、懐かしいような切ないような体験でした。

*****

作:マルグリット・デュラス
訳・演出・語り:渡邊守章
振付・出演:白井剛、寺田みさ子

通し狂言 義経千本桜(忠信篇) 

2010年09月03日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
九月大歌舞伎 訪欧凱旋公演(京都・南座)


6月にロンドンとローマで公演してきた海老蔵が、凱旋公演と銘打って東京に続き京都でも公演。

ノーマルプログラムは、
昼:「鳥居前」「渡海屋/大物浦」「道行初音旅」
夜:「木の実/小金吾討死」「すし屋」「川連法眼館/蔵王堂」
だけれども、日によって《忠信篇》と称し、海外公演と同じダイジェスト版
「鳥居前」「道行初音旅」「川連法眼館/蔵王堂」という番組になる。

今日は、その《忠信篇》。海老蔵が主役とはいえ、静御前を玉三郎が演じるので、そちら目当てで出かけた。

歌舞伎は久々だし、さすがに華やかで目に楽しかった。
玉三郎は美しく、交替で静を演じた壱太郎というひともなかなか綺麗だ。

しかし、「千本桜」というのは、つくづくわかりにくいストーリーである。
安徳天皇は生きてるし。。。義経は月代剃ってるし。。。主役は狐だし。。。

狐が〈初音の鼓〉に未練を残すくだりは長くてくどい。半分くらいに削れないものか。

全体にけれん味たっぷりの舞台。面白いといえば面白いけれども、雑といえば雑。
まあ、歌舞伎というのはこういう芸能なのかもしれない。

海老蔵の存在感はさすがで、このひとは現代劇やテレビドラマに手を出して周囲を困らせるのはやめ(だって下手すぎましょう?)、ぜひとも歌舞伎に専念してほしいと思う。

一度、宙吊りのワイヤーを掛けるのに失敗して腰から吊られあっぷあっぷしてしまい、やりなおし。
そういうこともあるだろうさ。事故がなくてなにより。

しかし、これを27日までお休みなしで、体力が持つのだろうか。海老蔵さんも、若い衆たちも。

追)出口に立つ海老蔵夫人が人気の的だった。とても痩せていて、たくさん補正してそうだった。

坂東玉三郎特別舞踊公演

2010年06月27日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
(京都・南座)

「地唄 由縁の月(ゆかりのつき)」

身請けされて恋人に会えなくなった遊女夕霧のやるせなさを玉三郎がひとりで舞う。
黒の打掛にも舞の振付にも派手さはなくて、ひととこに立ったままゆっくり唄や弦の音を噛みしめるように動く。
派手に動くよりずっと体力がいりそうだ。いつか見たシルヴィ・ギエムを思う。

「長唄 義太夫 重恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」

獅童のための演目のよう。彼ひとりがほとんど出ずっぱりで関守関兵衛(実は大伴黒主)を演じる。

歌舞伎の通にはよいのかもれないけれども、前半と後半がどうつながっているのかよくわからないのと、三人しか登場せず、派手な立ち回りもなく一時間半の長丁場で、素人的には若干飽きました。

外国人ツーリストが客席に目立ち、座席が狭い(なにしろ南座だ)のとわからないのとで辛そうに見えた。特にわたしのお隣さんが。

獅童君は、関守役のときには演技が平板に感じられたけれども、時間が経つにつれて重心がのってきて、黒主に変じるとノリノリでとてもよかった。

隼人君は、地顔のほうがハンサムな感じで、お化粧にまだまだ工夫の余地ありか。

墨染の桜の衣装は、どこかで見たことがあるような気がしてならない。
もしかしたら呉服屋さんだろうか。誰か知人が着ていた?
似た小紋の着物がありそうだ。

*****

地唄「由縁の月」
 遊女:玉三郎 三弦:富山清琴 箏:富山清仁
長唄義太夫「重恋雪関扉」
 小野小町姫/傾城墨染(実は小町桜の精):玉三郎
 良峯少将宗貞:隼人
 関守関兵衛(実は大伴黒主):獅童
 浄瑠璃:竹本幹太夫、竹本愛太夫、竹本蔵太夫
 三味線:豊澤淳一郎、豊澤長一郎、鶴澤翔也
 唄:杵屋直吉他 三味線:杵屋勝国他

顔見世 夜の部

2009年12月04日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
當る寅歳吉例顔見世興行東西合同大歌舞伎(京都・南座)



今年も仁左玉揃いなので、いそいそでかける。

昼の部の玉三郎は老け役みたいだから、今年は夜の部だけ。

今年は、通な方は昼へ、初心な方は夜へというような番組構成に見える。
夜の部、綺麗でバラエティに富んでいて楽しかった。

「天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)時平の七笑」
讒言により流罪となる道真を時平が親切そうに慰めているのが不思議だったけれど、それは時平のお芝居で、全ての登場人物が去った後、ひとり時平が本心を明かして高笑いする。

「あはは」とか「うおっほっほ」とか「ぐわっぐわっ」とかよほど嬉しいと見えて何種類もの笑いを聞かせる。

幕が下りても、まだその向こうから不敵な笑いが聞こえるのだった。

「土蜘」
菊五郎の土蜘蛛。隈取りがとてもおどろどろしくて怖かった(>_<)

お能と違い、間に小芝居が挟まって、蜘蛛退治の場になるまでにけっこう間がある。

しゅわーしゅわーっと糸を吐くのは、やっぱり見ていて楽しい。お能に比べて控えめに見えたのは、舞台全体が広いからだろうか。まあ、前半からあんまり大盤振る舞いしても、あとで困るのかも。

投げられた糸を即座に回収する後見さんの技は見事だった。

太刀持役の梅丸君、凛々しい若武者ぶりでファンになりそう。

「助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)-三浦屋格子先の場」
長い演目なので、一部分だけを切り取って上演。浅葱色の幕が切って落とされると、すでにそこには玉三郎(揚巻)と菊之助(白玉)が大勢を従えて座っており、華やかなことこの上もない。

派手な道中こそなかったけれども、やはり玉三郎を見るなら花魁姿でと思う期待は満たされた。仁左衛門もかっこよさ全開。

意休は悪役とはいえ、若いふたりにさんざんコケにされてもじっと動じない様子が大人物らしくて単純には憎めない。味のある役柄だ。これも我當さん。

驚いたのは朝顔仙平で、ピエロみたいな役柄だ。これが愛之助らしいのだけれど、「土蜘蛛」ではあれほどカッコよかった渡辺綱が、扮装次第でここまでカッコ悪くなれるとは。
番組表の間違いではないかと思ったほど。役者というのは、芸の幅が広くないといけないのだな。

他にも、仁左衛門と藤十郎が股くぐりのコメディを繰り広げたり、さまざまな要素が詰まっている。
お話的には、悪役を仕留める寸前までで今日は幕。

「石橋」
仙界の橋の舞台が清々しく、これでもかと降る雪の美しさにぼーっとした。

獅子の毛振りも見られて、なかなかお得だった。



歌舞伎のことなど何も知らなくても楽しめるので、初心者に今年の夜の部はお勧めだ。

*****

「天満宮菜種御供-時平の七笑」
  藤原時平:片岡我當 菅原道真:彦三郎
  判官代輝国:片岡進之介 春藤玄蕃:中村亀鶴
  左中弁希世:坂東竹三郎 頭の定岡:坂東亀三郎 他
「土蜘」
  土蜘の精:尾上菊五郎 源頼光:中村時蔵
  胡蝶:尾上菊之助 渡辺源次綱:片岡愛之助
  坂田公時:河原崎権十郎 碓井貞光:市川男女蔵
  卜部季武:坂東亀三郎 太刀持音若:中村梅丸 他
「助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)-三浦屋格子先の場」
  花川戸助六(曽我五郎):片岡仁左衛門 揚巻:坂東玉三郎
  白酒屋新兵衛(曽我十郎):坂田藤十郎 曽我満江:中村東蔵
  髭の意休(伊賀平内左衛門):片岡我當
  くわんぺら門兵衛:市川左團次 通人里暁:中村翫雀
  白玉:尾上菊之助 朝顔仙平:片岡愛之助 他 
「石橋」
  獅子の精:中村翫雀、片岡愛之助 他

顔見世 昼の部

2008年12月21日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
當る丑歳吉例顔見世興行東西合同大歌舞伎(京都・南座)

今日は友人と示し合わせて和装で鑑賞。お能だと、この長丁場を着物では耐えられないのだけれども歌舞伎だと平気なのはなぜなのだろう。

「正札附根元草摺(しょうふだつきこんげんくさずり)」
男女の力比べという風変わりな主題を愛之助と孝太郎がコミカルに演じる。かつて孝夫と秀太郎が演じたおりの写真がプログラムに載っていて、なんとも美しい。片岡家のさらなる繁栄を祈りつつ。

「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう) 湖水御座船の場」
どどーんと大きな船のスケール感がよい。劇場に来ました!という満足感が得られます。書き割りの水面が綺麗で、どこまでが床でどこから壁なのかわからないだまし絵のようになっている。

加藤清正暗殺伝説をもとにしたお話。我當扮する砂糖肥田守正清が毒を盛られて死ぬまで。脇腹を向けていた船が、最後にはぐるりと正面を向く。

この船に乗っているのが、これまた我當、秀太郎、進之介、愛之助と、全員片岡一門。なので、初番に続きここでも掛け声は「よっ、松嶋屋!」のみ。

どうやら昼の部は、片岡一門の担当のようだ。

「藤娘」
なんとなくもっさりした印象。早替わりがあまり早くなくお囃子を待たせたりもして。しかしながら、通の方には別の感慨があるらしい。

「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり) 鶴ヶ岡八幡社頭の場」
ここでも我當さん、活躍。大忙しです。その分、夜は遊べるのだろうか。
黙って座っていただけの梶原方大名役、中村種太郎君が綺麗だった。

「ぢいさんばあさん」
本日のメイン、仁左玉のお芝居。やっぱり新作や能風歌舞伎よりも、このような世話物というか人情物というか、歌舞伎らしい歌舞伎がいいなと思う。

とはいうものの、実はこれも昭和26年初演の新作には違いなく、原作は森鷗外の短編なのだそうだ。作・演出は宇野信夫。
東京、大阪で同時に初演され、東京方は二代目猿之助&三代目時蔵、大阪は十三代目仁左衛門&二代目鴈治郎(と書かれてもわたしにはさっぱりわかりません)。

友人曰く、仁左衛門がおじいさんになって出てきたとき、「十三代目かと思った」。そっくりだったらしい。

先が予想され、わかっている結末に向けて話は進んでいくのに、それでもほろりと涙が出てしまう。とってもとってもよかった。

お能の公演はたいてい一日限りのもので、歌舞伎は何日間も同じ公演をする。お能の集中力も大変なものだと思うけれども、何日も同じことをやっていてきちんと気持ちを入れるというのも生半可なことではないだろう。プロってすごいな、これで夜の部では鬼になったり六条になったりするのだし。

夜の部では貴公子の海老蔵が、ここでは完璧に悪役。似合います。ぴったりです。上手です。

じいさんばあさんの再会に際して、相似形のように若く仲睦まじい甥夫婦を愛之助と孝太郎が演じる。いろいろな世代のひとが、それぞれに自分を重ねて楽しめる演目。特に既婚者には思いあたる箇所が数々あり。

「これからのわたしたちの人生は余生ではない」という台詞は、年配の方にはぐっときそう。みんな頑張って生きていこう、みたいな。



今年の顔見世、昼の部は関西勢主体の歌舞伎らしい歌舞伎、夜の部には源氏物語千年紀も意識しての新作や玉三郎好みの新しい試みをまとめ、いろいろ考え尽くされた番組構成になっていた模様。個人的には、昼の部のほうが満足度高し。

★今日の当惑:歌舞伎の番組表、下の名前だけで書かれても、見慣れていないので誰が誰やらわからない(T-T)

*****

『正札附根元草摺』
 曽我五郎:片岡愛之助 舞鶴:片岡孝太郎
『八陣守護城 湖水御座船の場』
 正清:片岡我當 雛衣(ひなぎぬ):片岡秀太郎
 家臣斑鳩平次:片岡進之介 家臣正木大介:片岡愛之助 他
『藤娘』
 藤の精:坂田藤十郎
『梶原平三誉石切 鶴ヶ岡八幡社頭の場』
 梶原平三:中村吉右衛門 六郎太夫:中村歌六 梢:中村芝雀
 大場三郎景親:片岡我當 俣野五郎景久:中村歌昇 他
『ぢいさんばあさん』
 美濃部伊織:片岡仁左衛門 るん:坂東玉三郎 弟:中村翫雀
 甥宮島久弥:片岡愛之助 久弥妻きく:片岡孝太郎
 下嶋甚右衛門:市川海老蔵 他

顔見世 夜の部

2008年12月02日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
當る丑歳吉例顔見世興行東西合同大歌舞伎(京都・南座)


歌舞伎を見るのは、だいたい仁左衛門と玉三郎が揃うときだけ。南座の顔見世については5年ぶりだった。

昼の部は後半に見ることにして、今日は夜の部。

相変わらず始まりが慌ただしい。開場が遅れようがどうしようが、時間になると拍子木が高らかになって幕が開く。プログラムを買って、イヤホンガイドを借りて、化粧室へ行って、荷物はどこかへ預けてなど、悠長に準備する暇はほとんどない。とりあえず、座席を見つけたら荷物を抱えたまま座ってただ舞台を見るのみ。

「傾城反魂香 土佐将監閑居の場」
 又平のどもりの演技がくどくて、あまり好きになれないのだけれども、あれがないと後半のハッピーエンドも際だたないのだろうか。

手水鉢の石を絵が擦り抜ける仕掛けはどうなっているのだろうかと、そういえば以前見たときも思ったのだった(五年前の顔見世、同じ又平夫婦の配役だった)。

この又平さんと、〈傾城反魂香〉という題目の関係がよくわからなくて、調べたらこんなことだった。
→参考

「元禄忠臣蔵 大石内蔵助最後の一日」
内蔵助以下赤穂の義士たちに裁断が下り、いよいよ覚悟して死に臨むという男たちのシリアスなストーリーの脇から、ただ〈私の恋の真実〉にしか興味のない娘おみのが男装までして潜り込んでくるというちぐはぐさが奇妙で、けれども娘の必死の訴えを聞くうちに、義士たちの大義も娘の恋の真実も等価なのだと思われてくる。

義士たちは死に、吉良家もお家断絶、おみのも自害して、みな滅ぶのに、それこそがハッピーエンドだというところが実に日本的。かなり楽しめた演目。

「信濃路紅葉鬼揃」
お能「紅葉狩」の詞章をそのまま用い、杵屋巳吉が曲を付け、田中傳左衞門が作調、藤間勘十郎が振付をしたとのこと。昨年の歌舞伎座が初演。

舞台の書き割りは能舞台を模した鏡の松。さりげなく蔦紅葉が巻き付けてある。能舞台の屋根も書き割りで吊されている。こうしたお能由来の曲を〈松羽目もの〉と呼ぶらしい。囃子方が舞台後方にずらりと並ぶ。小鼓は傳左衞門、太鼓は傳次郎。

冒頭、玉三郎を筆頭に唐織壺折姿の上臈が六名、花道から登場。玉三郎を除くと、後ろから二番目に出てきた春猿が一番綺麗だった。皆、面をつけたつもりの無表情。

海老蔵は個人的にはあまり好きではないのだけれども、さすがに歌舞伎メイクをして装束をつけると美男子ぶりが堂に入る。「岩木ではないので」上臈たちに誘われてクラッとするあたり、真に迫っていて、芸の肥やしの豊富さを思わせます。

玉三郎が中の舞から急の舞へと進みつつ、酩酊して眠る維茂の様子を何度もうかがい確かめる仕種がユーモラスで笑える。彼の眠りを確認すると、上臈たちは怪しいムードを漂わせていったん消えて中入り。

ここへ仁左衛門扮する山神がやってきて、さかんに維茂をゆすり起こそうとするも、彼はいっこうに起きない。山神は呆れ果てて、太刀だけ置いてその場を去る。

後場、お能ならば般若の面をかけてくるところ、歌舞伎なので隈取り。玉三郎は黒頭、他の五名は赤頭。連獅子のように毛を振って威嚇する。維茂は山神にもらった太刀で鬼たちをばったばったとなぎ倒してめでたしめでたし。

後場の玉三郎の装束はモダンな感じもして可愛らしい色柄だった。

でも、結局のところ、わたしは玉三郎に隈取りしてガオーッと唸ったりしてほしくない。普通の歌舞伎がよいし、普通の舞踊がいい。昼の部に期待。

「源氏物語 夕顔」
これも舞踊劇らしい。源氏物語千年紀を記念して作られた新作で、作者はだいたい「信濃路紅葉鬼揃」と同じ。

舞踊というわりには、それらしいのは第二場の御息所(玉三郎)だけで、それ以外は何なのかな、中途半端なお芝居といったような。もともと、歌舞伎の源氏物は、平安朝の姫君の振るまいが軽すぎてピンとこない。いくら中流の女性とは言っても、夕顔自身が草履を引っかけて外に出て来るというのは馴染めない。

御息所が登場する場面ではぐっと照明が落とされ、暗い青い光の中で生霊の雰囲気満点。ただあまりに暗すぎて、連れの老母にはあまり見えなかった様子。

夕顔は元気で丈夫そうだったけれども、いつの間にか死んだらしい。第三場は、なんだか付け足しのようで存在意義がよくわからない。ちょっと尻切れトンボというか、ひょっとして海老蔵の光源氏姿を見せるためだけの演目なのか。

★今日の豆知識:お能由来の演目は〈松羽目もの〉と呼ぶ。

*****

『傾城反魂香 土佐将監閑居の場』
  又平女房おとく:坂田藤十郎 又平:中村翫雀 他 
『元禄忠臣蔵 大石内蔵助最後の一日』
  内蔵助:中村吉右衛門 十郎左衛門:中村錦之助 
  おみの:中村芝雀 他
『信濃路紅葉鬼揃』
  鬼女:坂東玉三郎 平維茂:市川海老蔵 山神:片岡仁左衛門
  鬼女:市川門之助、上村吉弥、市川笑也、市川春猿、市川笑三郎 他
『源氏物語 夕顔』
  光の君:市川海老蔵 六条御息所:坂東玉三郎 
  夕顔:中村扇雀 惟光:市川猿弥 他 

澪の会

2008年06月07日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
京舞〈澪の会〉第100回記念公演(京都・二条城二の丸御殿台所)

〈澪の会〉は、京舞井上流家元の舞をお稽古場で一般人にも気軽に見せてもらえるありがたい会。一度行ってみたいと思いながら、これまでなかなかチャンスがなかった。定員が先着70名で、開始2時間前に整理券が配られ、その整理券を得るためにさらに早くから並ぶひともいるとのことで、かなり時間とエネルギーにゆとりがないと無理だと思っていた。

今回は、100回記念ということで場所は二条城、定員も200名と聞き、それならとちょっと頑張ってみる。整理券配布の1時間ほど前に到着したら、すでに150人くらい並んでいたので焦った。早いひとは朝の開城と同時に並び始めたそうだ。遠来のファンも多かったもよう。

常の回は着流しで、音楽は録音テープのところ、今回は記念公演ということで、装束付き、お囃子も生演奏と贅沢。こんなものを二条城の入場料だけで見せてもらってよいのか。



あまりに素人すぎて、舞について語る言葉は持ち合わせない。なんというか、本物は凄いなぁとただただ思う。

先だってマイヤ・プリセツカヤを観たときも思ったことなのだけれど、舞というのは、何を舞うとかどう舞うとかいうこととは別のところで、そのひとの生きざまを映し出すなぁと、そんなこと。うっとりするより前に、己を顧みて恥じ入ってしまうような。

今回の「葵の上」は、井上八千代ひとり、つまり六条御息所ひとりの舞で、小袖を正先に置くところなどお能の「葵上」ととてもよく似ている。

それでどうしてもお能と比べながら観てしまうのだけれども、袖から登場するところなどは肩がちらとも揺るがない完璧な摺り足で、この方はきっと能を舞うこともできるのだろうという気がした。

御息所の嫉妬を表現する、女性が表現するのだからリアルにしようとすればいくらでもできるところを、これはあくまでも舞であって芝居ではないという位置取りが見事。御息所の暗さ、怖ろしさは伝わってきても、それが舞い手を飲み込まない。うまく言えないけれども、舞の品位にかかわる大事なことではないだろうか。

二曲通してさまざまな型や技巧を目にすると、京舞というものは、想像していたよりもずっと広くて大きなものらしいと感じた。え、そんなこともするの? というような仕種やポーズが次々と現れるのだ。とにかく、堪能いたしました。

京都新聞の記事&フォトはこちら



冒頭に京都市長の挨拶もあり、それによれば前日、市職員と「京都掃除に学ぶ会」メンバーとが薄めた牛乳やぬか袋で舞台を拭き浄めたのだそうだ。見やすい席をゲットしたいとばかり考えていた自分のエゴが無性に恥ずかしくなる。どなたに言えばよいのかわかりませんが、ほんとうにありがとうございました <(_ _)>

追)この新市長さん、ご自身が「掃除に学ぶ会」に所属していたのですね。

*****

長唄「一人椀久」井上八千代
  唄:杵屋禄三、杵屋禄丈 三味線:杵屋禄宣、杵屋禄山 笛:藤舎名生 
お話「源氏物語と芸能」森西真弓
長唄「葵の上」井上八千代
  唄:杵屋禄三、杵屋禄丈 三味線:杵屋禄宣、杵屋禄山 笛:藤舎名生
  鳴物:藤舎呂英(小鼓)、藤舎悦芳(大鼓)、中川秀亮(太鼓)

ボレロ・幻想桜

2008年05月04日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
芸術劇場 ―永遠に咲く花の如く~梅若六郎とプリセツカヤ 世界遺産に舞う―
(NHK教育TV 07/5/2放映)

この公演は、桜のちょうど綺麗な頃に、自宅から散歩圏内で行われるというので、行こうか行くまいかさんざん迷って、結局やめておいたもの。もしも普通のお能だったら絶対でかけたはずなのだが、パンフレットをいくら読んでも内容が判然とせず、よくわからないけどとりあえず行っといてみるかと思うほどには暇ではなかったし、チケットもお安くなかったし、出演者の熱いファンでもなかった。

それでも、中味には興味があったので、TV放映があったのはありがたかった。

番組には、当日の舞台だけでなく、その準備段階の模様や出演者のインタビューなども含まれており、それを見て、パンフレットでは詳細がわからなかったのも当然だと納得。

本人たちにもわからなかったのだ。

即興のコラボレーションであり、そのときになるまでどういうことになるのか誰も約束できなかった。まあ、一流の舞手が三人揃って何かするのだから、どうにかなるざんしょという、そのような企画だったと思われる。

番組では本公演のテーマを〈老い木の花〉としていたようだけれども、それはあまりピンとこない(だって、みんな歳を感じさせない動きをするから)。むしろ〈バレエと能と日舞のコラボレーション〉というテーマのほうが強くアピールする。

多分、ひとつの作品として見ようとすれば、この舞台は完成していない。場所が世界遺産の細殿だったことを思えば舞台装置の貧弱なことはいたしかたないとしても、プリセツカヤと勘十郎はそれぞれタイツや着物の上に能装束の長絹を引っかけただけだし、六郎は素顔で鳥の羽を肩にかけただけ、ほとんど袴能といった格好で、一見すると手抜きっぽい。

でも、ならばどのような装束がふさわしかったのかと問われると、あれ以外なかったような気もする。お能のきっちりした着付けをしてしまえば、コラボの中で〈能〉だけが強くなってしまうし、バレエや日舞の動きは制限されるだろう。といって、バレリーナがチュチュを着て、舞踊家が着流しで出て来たら、いかにコラボとはいえまとまりがなさすぎるだろう。

能役者があえて面も装束もつけず、バレリーナと舞踊家が少しだけ能っぽい衣装をまとう。そのあたりでバランスをとったということか。

面白かったのはプリセツカヤが、長絹をいたく気にいって、参考に六郎がロシアまで持参した古い衣装をいきなり纏って踊り出したことで、踊りやめたときには明らかに肩の裂地の弱ったところがぱっくり裂けてしまっていた。

当日の舞台でプリセツカヤが羽織ったのは、おそらく新しい長絹だったと思う(激しい動きに負けないよう、きっと縫いもしっかりしてたかも)。ただ、肩に掛けてひらひら袖を翻しながら舞うものだから、しまいには腕が袖から抜けて腋の空いたところからにょきっと出てしまい、踊りながら直そうとするけれどもどんどん肩位置がずれて修正不能になり(後見はいないし)、最後はめんどくさくなったのか一枚のマントのように首に巻いてしまったのは笑えた。

同じ条件下でも、勘十郎の襟元は最後まで乱れなかったのとは対照的だ。

そして、そのような中途半端な、まかり間違えばおかしなひとたちが舞台をばたばた跳ね回っていると評されかねない即興だったにもかかわらず、この舞台は魅力的だった。特に、長絹と風呂敷の違いもわからなそうなプリセツカヤから目が離せない。

勘十郎もよかった。日舞の技量において、その役割をまっとうに果たしているという意味においてよかった。

プリセツカヤのよさは、バレエの技量ではなく、情熱でもなく、なんだろう、強いて言えば〈存在感〉だろうか。わたしはこのひとのことはまったく知らないのに、そこには彼女の歩いてきた人生が〈形〉としてよりも〈密度〉として表現されているような、そんな気がして目を凝らしてしまう。

音楽もとてもよかった。〈ボレロ〉に和楽器を合わせているのがなかなかセンスよくて、舞なしで音だけ聴いていても楽しめそう。囃子方もなかなかやるなぁと感心してしまったのだけれど、調べたところ、この方たちは能楽専門の囃子方ではなくて、もっと広い意味での和楽器奏者らしい。こんなことは、まさにお手のもののようだ。

テレビで見た限り、この舞台が一般客向けの優れたエンターテインメントだったとは思えないけれども、意味のある前衛的な試み、試作品だったとは思う。そして、粗削りな試作品にしか出せないパワーみなぎる1シーンだったと思う。



番組の最後に、82歳のプリセツカヤがインタビューに答えていた。
「何度も背中を故障して、ふくらはぎは切れて、ここには手術の痕もある。くるぶしは二年間ずっとずれていて、全身傷だらけ。それでも踊り続けるのは何のため? 答は皆さんが出してください」

60歳の梅若六郎が言っていた。
「本当の自由とは、どこにあるのだろう」

舞台を見終わった後に聞くと、その重さがずしりと感じられる。

*****

能・バレエ・舞「ボレロ・幻想桜」(ラヴェル作曲「ボレロ」より)
        07/3/30京都・上賀茂神社細殿にて収録
        梅若六郎、マイヤ・プリセツカヤ、藤間勘十郎
        小鼓:仙波清彦 笛・尺八:竹井誠 大鼓:望月秀幸
 

坂東玉三郎 中国・昆劇合同公演

2008年03月25日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
(京都・南座 08/3/6-3/25)

京劇のミャオミャオした声やジャンジャカジャンジャンという銅鑼の音があまり好きではないのでどうしようかなと思いつつ、どんなものか一応は拝見しておかねばと千秋楽にでかける。

どうやら、昆劇は京劇とはかなり趣の異なるもののようだった。日本人から見ればその違いなどはなかなかわからないけれども、数ある(現在でも三百種以上あるそうだ)中国の伝統演劇の中で、京劇とは対照的な存在ということができるらしい。より流麗で雅やかな音曲は「水磨調(すいまちょう)」と呼ばれ、周恩来は昆劇のたおやかさを蘭の花にたとえたとか。

曲目にもよるだろうから一概には言えないけれども、少なくとも今日「牡丹亭」を観たかぎりでは、なるほどなと何となくわかったような気はした。

「牡丹亭」
深窓の令嬢が夢の中で出会った男性に恋い焦がれて死んでしまうというお話。後段、当の男性がやってきて彼女の魂を呼び戻しハッピーエンドとなるらしいのだが、今公演では彼女が亡くなるところまで。

この杜麗娘(とれいじょう)、恋の病に倒れてしまう美女ということで観客の同情を一身に買う役どころだけれども、「自分が死んだらこんなに美しい娘がいたことを世間は知らずに終わってしまうだろうから今のうちに絵に描いておこう」と自ら鏡を覗き込んで自画像を描くあたり、相当ナルシストだし、夢に観た男性に焦がれて慕情を詩にして書き付けるあたりはかなり感傷的だし、それでも一心に思い詰めて死んでしまうのは哀れだけれども、強力な愛の力で復活するなんて凄まじい執念の持ち主だ。

お能の世界だったら間違いなく地獄落ちキャラクターだと思う。

杜麗娘役を三人の男性、董飛、劉錚、玉三郎が演じた。

董飛から玉三郎に切り替わる場面が見事だった。花道に恋人柳夢梅が現れて、誰もがそちらに気を取られている間に舞台中央では紗幕の後ろでそっと杜麗娘役が交替していた。やられた!

「写真」の段、病み窶れた杜麗娘を演じた劉錚が三人の中で一番ごつい顔立ちだったのはちょっと皮肉か。

中国演劇も女性を男性が演じるのだと思い込んでいたけれども、どうやら中国では女方(男旦というそうだ)は減っているらしい(絶滅危惧種的に)。この公演にも女性が多数出演していたし、22年前に「牡丹亭」東京公演で杜麗娘を演じ玉三郎を感動させたのも女優だった。

日本人の玉三郎が発音も正確にマスターして女方を演じたというところに意味があるのかもしれない。けれど、その成否はわたしには判断できないことで、お芝居全体を観てどうだったかと言われると、お能を初めて観たひとにはその良し悪しを判断するのが難しいのと同様、まあ、とりあえず昆劇とはこういうものなんだなと思った、というところか。

それでもいろいろ楽しかった。面白かったのは、夢の神とか花の神とかが出てくるのだけれども、その長いお髭がかぶり物と一体になっていて、両耳のあたりから口の前に渡した針金にぶら下がっていたこと。前から見るとすごく豊かなお髭に見えるのだが、役者はその髭の後ろで大きく口を開いて台詞が言えるのだ。

音楽も素晴らしかった。舞台右手に紗幕で囲われたオーケストラ・ピット(?)がありその中で奏でられていた。聞いたこともない楽器もあるので、書き出しておくと、笛、司鼓、笙、琵琶、三弦、楊琴、古筝、中阮、大阮、提琴、二胡、革胡、銅鑼。

で、わたしが一番拍手をしたい相手は、侍女春香を演じた朱瓔媛。いつもお嬢様のことを思ってちゃかちゃかと働いている姿がとても愛らしかった。小さい身体で大きな椅子を運んでいるところなど、手伝ってあげたいくらいけなげ。それでいて動きがバタバタせずに滑らか。主役よりよかったのではないかしら。

「楊貴妃」
これは、歌舞伎を中国語で演じるという企画。だいたいお能の「楊貴妃」と同じ構成で、これが原作夢枕獏というのはどういう意味なのかなと首を傾げる。

音楽は、長唄の旋律に中国語をのせて唄う。あまり違和感なかった。まあ、長唄でも全部聞き取れているわけではないし。

牡丹の絵柄の大きな扇を両手に持って舞う玉三郎はさすがの貫禄。あんなふうに扇を扱える舞い手は他にいないだろうなと思わされる。

それでも、玉三郎の美しさを表現するには、やはり日本の歌舞伎世界が一番だなとあらためて思った。「牡丹亭」にも言えることだけれども、「楊貴妃」の衣装も中国風で、ひとことでいうと薄手でフォルムが小さいのだ。それでは男性の体格をごまかせない。お姫様の幾重にも重ねて着込んだ袿とか、花魁のどっしりとした装束とか、豪華な鬘などがあって初めて男性の顔が小さく可憐に見えるのではないだろうか。チャイナドレスはちょっと不利でしょう。

★今日の物欲:ウィンドウの中に、玉三郎の隈取りを絹の布に移したものが飾られていて、とても綺麗で表情があって物欲をそそられました。ファンだったら絶対ほしいだろうなぁ。でも、あれを手に入れるには、50万円の写真集『五代目坂東玉三郎 特別愛蔵版』を買わねばなりません。無理デス。

*****

昆劇「牡丹亭」
  杜麗娘:董飛(遊園)、劉錚(写真)、坂東玉三郎(驚夢、推花、離魂)
  春香:朱瓔媛 柳夢梅:兪玖林 杜母:陳玲玲 睡夢神:呂福海 
  大花神:楊暁男 花神:周雪峰 他

歌舞伎「楊貴妃」
  楊貴妃:坂東玉三郎 方士:周雪峰

坂東玉三郎特別舞踊公演

2007年05月21日 | 歌舞伎・舞踊・文楽
(京都・南座)     

10年くらい前に初めて玉三郎の特別舞踊公演を観たとき、こんなことをひと月もやってたらこのひと死ぬんじゃないかなと思うくらい、彼の舞踊の比重が高かった。
今もときどき出かけていくのだけれども、いつも少しがっかりするのは、あの日の感動が忘れられなくて、いつも比べてしまうからなのだろう。

この頃の彼は、若手の育成というか援助に熱心だ。鼓童との共演、染五郎との共演、獅童との共演……それはとても大切なことだし尊い姿勢に違いないのに、得てしてわたしは「ええーい、わたしは玉三郎が観たいのじゃ!」と思ってしまう。わがままである。

そしてこの頃の彼は、かなりお能に傾倒している。ものすごくお能を意識した表現をする。わたしもお能が好きだけど、でも能楽堂ではなく南座に来たのは、お能じゃないものを見たいからだよ。と、つい思ってしまう。分からず屋である。

そんなわけで、今日、「玉三郎、どうだった?」と聞かれるたびに「まぁまぁ」と答えて帰ってきた。いや、玉三郎は期待以上に綺麗だったし、舞踊もほんとに素晴らしかった。ただ、病気療養中の市川猿之助門下が多数出演しているのが、なんというか、どうも……。なにもあんなに大勢いなくてもいいだろう。彼らの演技は、スーパー歌舞伎を観たときから思っていたけど、やっぱり粗い。粗さが玉三郎の脇でなおさら目立ってしまう。

ま、いいや。

「阿国歌舞伎夢華(おくにかぶきゆめのはなやぎ)」
美しかった。玉三郎の手は足は腰は、なぜあんなにしなやかに動くのだろう。たとえば手を上に上げるとき、他のひとの手は空気を切るのに、玉三郎の手は水をくぐるように動く。不思議なものを見ている気がする。

扇をくるくる回したり飛ばしたりする所作が目立って印象的。指の先まで踊っている。

後場の衣裳には、能曲のタイトルが縫いつけてある。「山姥」「藤戸」「松風」「頼政」は読めたけれど、動いているので読み切れなかったものも。前身頃にあるのは、やっぱり「野宮」かなー。上の字のくずしがわからない。

額の飾りがとても素敵(^_^) 紫色の足袋はいかがなものか(^_^;)

「蜘蛛の拍子舞」
「土蜘蛛」の歌舞伎版。玉三郎が女郎蜘蛛役で、前場の白拍子役は美しくてよいのだけれども、後場に怖ろしい隈取りをして出てくるのは、綺麗な玉三郎だけが好きなわたしとしては、してほしい役ではなかったかも。

どうしても演るなら、怖い中にも哀しみを漂わせるような演出にしたらどうだろう。

ひな壇の長唄連中、三味線やお囃子は迫力満点。

ところで、購入した番組附に『愛蔵版写真集五代目坂東玉三郎』のことが載っていて、素晴らしく贅沢な作りらしいので、いったいいくらするのだろうと思って調べたら五〇万円だった。愛蔵版ではない普及版は三万八千円。ため息。