魯露西亜夢酔談

何でも話そう、ロシア状況のあれこれ
未来、芸術、多様な社会

ロシア人論から

2006-03-02 16:57:24 | コミュニケーション

たまたま前稿「ロシア人は頑固者が多い、その2」を書いている際に、知人であるロシア人の日本文学者から電話がきた。

ロシア人論の話題の中、知人の文学者は、彼の知り合いの袴田茂樹氏の著作にロシア人の優れた分析が見られるとの話に及んだ。わたしは、予てから氏の旧政権時代の著作に関して、ロシア人的な思考が色濃く反映している点に興味を抱いていたのだが、その点に関して逆に質問してみた。

「袴田氏の著作はあなた達ロシア人にとり、分かり易いのではないですか。なぜならば、著述を裏打ちしている思考がどうもロシア人的だと感じられるのだが、つまり日本人の学者的ではないのだけれど」と、わたし。

「ほほう、確かに彼の著作は少なくともわたしには分かり易い。そういう観点から読んだことはありませんでした。それでは彼と反対の立場に立つ、日本人のロシア学の研究者がいるのですか」と、知人のロシア人。

「ロシア学で反対の立場とは言えないにしても、袴田氏の著作に反論している学者がいますよ、○○○先生です。」と、わたし。

氏のインタービュウーを拝見していても、その断定的で直裁的な言及は深くかつ幅広い知識の裏付けと、感性に富んだ直感力の両方兼ね備えた学者であることを思わせる。その意味では妹である、イリーナ・ハカマダの方がロシア人には珍しいと言って差し支えないほど、切れのあるロジックを展開するタイプの政治家だ。

お断りしておきますが、わたしはここで氏を誹謗中傷する、何らの意図もございませんのでご了承下さい。それどころか、こと崩壊前の著作に関して、各所の指摘の中に未だ秀逸なものがあると、敬愛しております。お気に障りましたらごめんなさい、袴田先生。

参考までに「文化のリアリティ」」袴田茂樹著-筑摩書房


ロシア人は頑固者が多い?その2

2006-03-02 15:36:25 | 日常生活

頑固と言えば、自分の非を認めないことにかけてはロシア人の右に出る人種は無いのかもしれない。

「過ちては、改むるを憚ることなかれ」 という儒教の影響を強く受けて育っている日本人は、幼少の頃から自己の誤りをを認めそして、謝罪することをよしとして奨励される。

最も近頃はそうでもないらしいが、とくにこの国のリーダーと呼ばれる人々にその傾向が強いみたいだ。ライブドアをめぐるメール事件の国会議員もそうであるが、その党の指導者にしても大同小異。政治家ならずとも、事件を起こすたびにに見聞きする、大会社の経営責任者の言動のあり方、その非を認めることにかけては極めて歯切れが悪い。

とすれば、この国のリーダーたる資質の条件とは非を認めないことで、それを巧みに糊塗出来る能力に長けている人たちが、その階層のヒエラルキーを登り詰めると言うことでしょうか。

話を元に戻すと、ヨーロッパ人と議論すると非常に疲れる。彼らの哲学の根底にあるのは”物事は対立する存在の連続である”というものだ。彼らと議論するときには、ぐうの音も出ないように徹底して相手を論破する必要が多々ある。中庸は有り得ない。自分より優れていると認めたときに初めて、意見を聞くようになる。どちらがより整合性があるかで、勝つか負けるかの勝負をしているみたいで実にそのことで疲労するのだけど、そうまでしなければヨーロッパ人を動かす際に機能しないことが多い。だがしかし、一度この課程を経た後はわりと尊重もしてくれるし、意に適う動きをしてくれる。

さて、ロシア人である。かれらにヨーロッパ人に対するこの手法は通用しない。その意味では明らかに、ロシア人はヨーロッパ人の一員ではない。合理性、整合性はみなロジックの問題なのだが、このことがストレートに通用しないならば、他に残るものは感情と言うことになる。日本人はこちらの部分に、ウェイトを置く民族ではあるのだが。果たしてロシア人は、その思考が感情で左右される民族性なのでしょうか。

確かにロシア人にその面は、色濃くあるのかもしれない。自己の外的規範、たとえば社会に存在する法律やルールと言ったものよりも、自己の内的規範つまり己を支配する感情や宗教というようなものに、重きを置いているように見受けられる。このことがロシア人を、個として頑固にさせているのかもしれない。しかし、ロシア人同士でさえ、その内面的規範を誰もが互いに、共有でき無いのだから社会的に個を適合させていく方法に、独特のスタイルがあると思われる。このことは、実はロシア人を理解するキーポイントかもしれないので別稿で述べたい。

それでも日本人にはかなりの部分、理解できるものがある。だがしかし、アメリカ人にとってこのことは、ロシア人を非常にわかりづらくしている点だし、そのわかりづらさは日本人を理解する以上に困難のようだ。これはまた、別の話題になるので機会を改めましょう。

わたしが述べていることは、勿論極めて粗雑な論議の展開であって、一般論といえども当てはまる場合もあるし、異なる場合もあることは至極当然のことであることを、ご了承下さい。