魯露西亜夢酔談

何でも話そう、ロシア状況のあれこれ
未来、芸術、多様な社会

比較言語は面白い!

2006-04-15 18:44:30 | コミュニケーション

比較言語は面白い。そこでちょっと普段皆さんが思ってもいないであろう問題を提起!
わたし自身は普段英語を主要言語としていて、家だとロシア語と日本語が半分ぐらい。マックのノートは英語ヴァージョンでこれに向かうときは英語モード、他にロシア語XPのデスクトップと日本語XPのデスクトップとでそれぞ頭の言語モードを使い分けているのですが。

>英語は...入り口は広いが内側は多方向に分岐している
これはヒロさんの、ブログでの発言なのですが、おっしゃるとおりですね、これは古代ゲルマン語起源の言語はこの構造を持つようです。広義から狭義へと展開していく。この仕組みを理解してしまえば、英語学習者はずいぶん楽になるだろうと思うのですが。それと特徴的なのは、言葉の入り口の段階で抽象的概念と具象的概念が言語により厳然と区別されていることでしょうか。

例えば、
「BOOk」と言う言葉(今はテキストですが、音でもかまいません)でなにを考えますか。英語圏の人々はそれを今回のようにテキストならばBOOkという文字の固まりとして、それが音ならばbukという音の固まりとして捉えます。つまりこれは、非常に抽象的な物ですよね。つまり、チェブラーシカの絵本でであれ医学書であれ具体的に言わばイメージをもたらすためには、必ず冠詞もしくは複数形が必要なのです。a book, the book, booksではじめて本のイメージが出てくるのです。MYYOUR等の所有代名詞は定冠詞と同じ役目ですので、冠詞は付きませんが。英語圏(古代ゲルマン語起源の言語の中でその影響が強い言語ほど厳格です、例えばドイツ語)以外の方はこれが苦手、良く冠詞を落としますよね。日本人も同じですね、本と言う言葉はテキストもイメージも兼ねますよね。この点ではロシア語も同じ。今度皆さん奥方に聞いてください。そして機会があったら、英語圏の方ににもどうぞ質問して確認してください。ことほど左様に古代ゲルマン語起源の言語をもつ人々の頭脳は論理的思考に即していると言えますでしょうか。日本人の言語学者はこのあたり理解できているのかな....ぼそり。


ロシア人論から

2006-03-02 16:57:24 | コミュニケーション

たまたま前稿「ロシア人は頑固者が多い、その2」を書いている際に、知人であるロシア人の日本文学者から電話がきた。

ロシア人論の話題の中、知人の文学者は、彼の知り合いの袴田茂樹氏の著作にロシア人の優れた分析が見られるとの話に及んだ。わたしは、予てから氏の旧政権時代の著作に関して、ロシア人的な思考が色濃く反映している点に興味を抱いていたのだが、その点に関して逆に質問してみた。

「袴田氏の著作はあなた達ロシア人にとり、分かり易いのではないですか。なぜならば、著述を裏打ちしている思考がどうもロシア人的だと感じられるのだが、つまり日本人の学者的ではないのだけれど」と、わたし。

「ほほう、確かに彼の著作は少なくともわたしには分かり易い。そういう観点から読んだことはありませんでした。それでは彼と反対の立場に立つ、日本人のロシア学の研究者がいるのですか」と、知人のロシア人。

「ロシア学で反対の立場とは言えないにしても、袴田氏の著作に反論している学者がいますよ、○○○先生です。」と、わたし。

氏のインタービュウーを拝見していても、その断定的で直裁的な言及は深くかつ幅広い知識の裏付けと、感性に富んだ直感力の両方兼ね備えた学者であることを思わせる。その意味では妹である、イリーナ・ハカマダの方がロシア人には珍しいと言って差し支えないほど、切れのあるロジックを展開するタイプの政治家だ。

お断りしておきますが、わたしはここで氏を誹謗中傷する、何らの意図もございませんのでご了承下さい。それどころか、こと崩壊前の著作に関して、各所の指摘の中に未だ秀逸なものがあると、敬愛しております。お気に障りましたらごめんなさい、袴田先生。

参考までに「文化のリアリティ」」袴田茂樹著-筑摩書房


ロシア人は頑固者が多い?

2006-03-01 22:42:57 | コミュニケーション

わたしの身近な人たちを含め、知り合いのロシア人を見渡してみると、確かに頑固者が多い。

その頑固さを考えてみると、ごく大まかですけど二つの理由に起因するように思われる。その1は教条的であること、原理原則の信奉者だ。教科書で学習したところのものから、抜け出ることがない。これは長かった共産党支配の後遺症かしらと、思ったりする。ソヴィエト崩壊後に出生し、教育を受け成人した人たちも変わらない。最もこれは、親の世代のフィロソフィが変わっていないのだから、旧時代を引きずっているということでしょうか。

その2は、非論理的な思考構造をしていることによるかもしれない。その点では日本人も決して論理的思考ををする民族ではなく、論理的な思考構造を、その言語、しいては文化の中に構築しているとは言い難いのだが。

こんな笑えないような話がある。あるとき、ロシア人と論争の末、相手の論旨があまりにも非論理的なので「あなたの言ってることは、かくかくしかじかの点でロジカルではない、従ってかくかくしかじかの誤謬がある」と、わたし。

「それはあなたのロジックである。わたしのロジックはそうではない」と、ロシア人。

「..........しかし、ロジックとは普遍的であるがゆえロジックであるはず。あなたのロジックやわたしのロジックなどと言う存在は有り得ない」と、わたし。

「それはあなたの意見で、わたしの見解は違う。あなたは異なる見解の人を容認しないのか」と、ロシア人。

だいたいこのパターンが多い。決して教育程度が低いわけではない、それどころかかの国でも有数の高等教育を受けた人との会話である。このことは、ロシア人は現実を認識して、自己の置かれている状況を分析することを嫌う性格によるのかもしれない。それは計画的でないと言えるかもしれないしまた、保守的であるといえるかもしれない。

あるいはまた、彼らのロジックが直線的でないことによるのかもしれない。論理ではなしに現実社会では、行き着く先が、彼らと同じ場合が他多々ある。数学で言う”エレガントな解”ではないところを、思考していると言うことなのか。

いずれにせよ、現実社会で弁証法的思考にドップリつかり生活している我々にとり、彼らロシア人の頑固さは特筆すべきものがある。次回この話を発展的に、もう少し書き込みたいと思います。