この稿、掲示板に書き込みしたものを一部加筆訂正の上、重複掲載しました。
まず、「人格を形成する芯は宗教である」これを前提条件とさせてください。モラルは宗教からもたらされ、人格形成の柱となります。ですから、もし仮に他民族の人に、「私は無神論者である」と話すならば非常に不思議に思われるでしょう。なぜならば、その意味は「アナキスト」か「野蛮人」ですと、いうことに他ならないからです。
ここでさらに仏教をお復習いさせてください。
三大宗教があるのですがその中で実は仏教が一番日常の生活に律していない宗教であるといえますし、その反対にイスラム教はいわば箸の上げ下ろしまで戒律の中で厳しく生活を規律している。これは仏教が本来生活宗教として発生、伝播したわけでなく哲学としての学問であったことによります。いわばプロフェッショナルな学者のための解脱の哲学、これが小乗仏教と呼ばれるものでした。そこから派生したのが大乗仏教で、お釈迦さんは学者だけが救われると言っとらん、一般の人々も救うはずだと、いうもの。日本に渡来した仏教はすべてこの大乗仏教系。鎌倉時代に庶民のレベルまで普及した、いわゆる鎌倉仏教が今日の日本の仏教の基礎となつて以後日本の歴史に深く関係してきますよね。
しかし面白いのは日本の仏教、そもそも日本人の性格なのか、それとも哲学としての仏教がそうであるのか、日本で神も仏も渾然一体となってしまう。それどころか儒教までも仏教に組み込まれてしまう。お仏壇に位牌、法事など、先祖供養に関する様々な習慣、実はこれ元を質せば皆儒教、もともと先祖霊などは仏教哲学と大矛盾、お釈迦様でもご存じあるまいと言うことか!
ここで、じゃあ儒教とはいったい何なのさ、と言う質問もおありでしょう。宗教の一種と考えている人も多いはずですね。正解は思想です。ですが、この思想というのがまた、やっかいです。民主主義思想とか社会主義思想とか言葉として使われますよね。儒教とは儒教思想なのでして、思想とは必ずその思想を具現化するための社会体制を持ちます。従って三権分立や自由選挙、婦人参政権のない民主主義思想の国家はあり得ないわけです。その儒教思想にもとずく国家を律令国家と呼ぶのですが、日本では飛鳥時代から10世紀の中頃まで成立しておりました。社会体制としては、耕作地を班給する土地制度(班田収授法)、個人を課税対象とする租税制度(租庸調)、人民に一律的に兵役が課せられる軍事制度(兵役、防人)、人民を把握するための地方行政制度(国郡里、戸籍、計帳)があり中央集権国家思想でした。世界の中で戸籍制度を持たない国家が多いのは、これでご理解いただけるでしょう。戸籍制度とは、儒教体制の一制度なのですから。しかし日本は厳密な意味での儒教国家ではあり得ませんでした。終始社会体制が伴っていなかったのです。その意味ではお隣の韓国は、いや歴史的に言うなら朝鮮民族は実にこの儒教思想に基づく国家経営の優等生、このあたりが日本民族を卑下する所以でしょうけれども。かつてもつとも進んだ儒教思想国家を形成していた朝鮮民族そして、それより劣った社会体制しか持たなかった日本民族がその国家を侵略した。日韓問題の根の深さは。このあたりが起因の一つでもあるかもしれません。いずれにせよ、後述するように儒教思想が、中国周縁国家に与えた影響は絶大なもの、夷(野蛮人)の地域を教化し文明を与え、国家と人民という概念を教えた。
儒教の中で日本人に一番深く影響を与えたものと言えば、誰でも知っているいわゆる四書五経中の「論語」実はこれは教育論でして、しかも進士のための教育論。現代風に言えば国家公務員上級試験合格者のための教育論でしょうか。いわば天子に代わり人民を統治するための教育論、これは懐が深いはずですよ。この論語が中世から明治に至るまで実際に庶民の隅々にまで浸透していった。特に江戸期の「寺子屋」と呼ばれる制度の果たした役割は大きいものでした。
結論的にこれが日本人の性格を形成するバックボーンとなった。教義を持たない神道でもなく、生活に根ざした宗教たり得なかった仏教でもありませんでした。宗教を持たない日本人とはこのことで、もちろん何らかの宗教に関係してはいるのだけど、その教義を受け入れ己の生活信条としているかというと別問題。では最初の命題からすると、宗教心無しで、モラルからなる人格を形成している、きわめて珍しい民族と言うことになります。そして日本人の言う道徳とは、ことごとく儒教、特に論語からきています。
アジアの中では、仏教国というよりは歴史的に儒教国家を形成した民族が、きわめて日本人と近い考え方をしているというか、そのバックボーの中に極めて同質の考えがある思います。本家中国、韓国、日本、台湾、ベトナム、シンガポール、これら皆かって儒教思想国家を形成した地域。思いませんか、この国々皆アジアの優等生。古代に儒教思想はその国の文明の度合いに、深く強い影響を及ぼしましたね。あとは同じ仏教国でもほとんど異質だと思います。民主主義国家として最も古い米国でさえ、その歴史はたかだか200年です。米国が力づくでも伝播させようとしている民主主義思想(歴史的に見て優れた文明とは、必ずこの伝播作用をもたらします)、まだまだ悠久の時間が必要と思われます。西洋民主主義思想にもとづく国々は、 時を経た後に、果たしてその時代で文明を形成する優等生たり得るのでしょうか。この辺、大いに興味がわくところです。
確かに東洋の思想の中には、西欧のそれとは違う大きな美徳があります。それは、他と調和して生きると言うことです。己を知り相手を知る、そして他者もまたよく相手を知る、このことからハーモニーが生まれます。それは一人ではなし得ない素晴らしい関係なのですが、なかなか難しい。このことは儒教思想に感化されている東洋人にとっても難しいこと、ロシア人には通用しません。
本質的に他者を理解するとは、どのようなことでしょうか。論理的にでしょうか、それとも感情的にでしょうか。そしてまた、理解したその先に、何があるのでしょうか。人にはそれが何人であろうとも、理解できないこともたくさんあり、また理解する必要のないこともたくさんあります。つまるところ、本質的に異質な存在であるものを抱き留められるかどうか、もし抱き留められるのならば、理解はもはや必要すらないかもしれない。ただその場合その存在に、不快感がないかどうかですね、それが相性というものでしょうか。ロシア人は非常に個が強い民族なのですが、この点異質な存在をあるがままに、抱き留める懐の深さがある民族でもあります。お互いの相性がよい場合、日本人とロシア人は、理屈抜きにみように合う場合が多々みられます。計画された時間軸の中で万事を進めようとする日本人、しかしそこから一端外れ想定外のことには自己を喪失しかねない日本人。そのときのロシア人の発想力の不思議さ、力強いことこの上ない。再度言わせてください、日本人とロシア人ある意味で相性がとても良い場合があります。
まず、「人格を形成する芯は宗教である」これを前提条件とさせてください。モラルは宗教からもたらされ、人格形成の柱となります。ですから、もし仮に他民族の人に、「私は無神論者である」と話すならば非常に不思議に思われるでしょう。なぜならば、その意味は「アナキスト」か「野蛮人」ですと、いうことに他ならないからです。
ここでさらに仏教をお復習いさせてください。
三大宗教があるのですがその中で実は仏教が一番日常の生活に律していない宗教であるといえますし、その反対にイスラム教はいわば箸の上げ下ろしまで戒律の中で厳しく生活を規律している。これは仏教が本来生活宗教として発生、伝播したわけでなく哲学としての学問であったことによります。いわばプロフェッショナルな学者のための解脱の哲学、これが小乗仏教と呼ばれるものでした。そこから派生したのが大乗仏教で、お釈迦さんは学者だけが救われると言っとらん、一般の人々も救うはずだと、いうもの。日本に渡来した仏教はすべてこの大乗仏教系。鎌倉時代に庶民のレベルまで普及した、いわゆる鎌倉仏教が今日の日本の仏教の基礎となつて以後日本の歴史に深く関係してきますよね。
しかし面白いのは日本の仏教、そもそも日本人の性格なのか、それとも哲学としての仏教がそうであるのか、日本で神も仏も渾然一体となってしまう。それどころか儒教までも仏教に組み込まれてしまう。お仏壇に位牌、法事など、先祖供養に関する様々な習慣、実はこれ元を質せば皆儒教、もともと先祖霊などは仏教哲学と大矛盾、お釈迦様でもご存じあるまいと言うことか!
ここで、じゃあ儒教とはいったい何なのさ、と言う質問もおありでしょう。宗教の一種と考えている人も多いはずですね。正解は思想です。ですが、この思想というのがまた、やっかいです。民主主義思想とか社会主義思想とか言葉として使われますよね。儒教とは儒教思想なのでして、思想とは必ずその思想を具現化するための社会体制を持ちます。従って三権分立や自由選挙、婦人参政権のない民主主義思想の国家はあり得ないわけです。その儒教思想にもとずく国家を律令国家と呼ぶのですが、日本では飛鳥時代から10世紀の中頃まで成立しておりました。社会体制としては、耕作地を班給する土地制度(班田収授法)、個人を課税対象とする租税制度(租庸調)、人民に一律的に兵役が課せられる軍事制度(兵役、防人)、人民を把握するための地方行政制度(国郡里、戸籍、計帳)があり中央集権国家思想でした。世界の中で戸籍制度を持たない国家が多いのは、これでご理解いただけるでしょう。戸籍制度とは、儒教体制の一制度なのですから。しかし日本は厳密な意味での儒教国家ではあり得ませんでした。終始社会体制が伴っていなかったのです。その意味ではお隣の韓国は、いや歴史的に言うなら朝鮮民族は実にこの儒教思想に基づく国家経営の優等生、このあたりが日本民族を卑下する所以でしょうけれども。かつてもつとも進んだ儒教思想国家を形成していた朝鮮民族そして、それより劣った社会体制しか持たなかった日本民族がその国家を侵略した。日韓問題の根の深さは。このあたりが起因の一つでもあるかもしれません。いずれにせよ、後述するように儒教思想が、中国周縁国家に与えた影響は絶大なもの、夷(野蛮人)の地域を教化し文明を与え、国家と人民という概念を教えた。
儒教の中で日本人に一番深く影響を与えたものと言えば、誰でも知っているいわゆる四書五経中の「論語」実はこれは教育論でして、しかも進士のための教育論。現代風に言えば国家公務員上級試験合格者のための教育論でしょうか。いわば天子に代わり人民を統治するための教育論、これは懐が深いはずですよ。この論語が中世から明治に至るまで実際に庶民の隅々にまで浸透していった。特に江戸期の「寺子屋」と呼ばれる制度の果たした役割は大きいものでした。
結論的にこれが日本人の性格を形成するバックボーンとなった。教義を持たない神道でもなく、生活に根ざした宗教たり得なかった仏教でもありませんでした。宗教を持たない日本人とはこのことで、もちろん何らかの宗教に関係してはいるのだけど、その教義を受け入れ己の生活信条としているかというと別問題。では最初の命題からすると、宗教心無しで、モラルからなる人格を形成している、きわめて珍しい民族と言うことになります。そして日本人の言う道徳とは、ことごとく儒教、特に論語からきています。
アジアの中では、仏教国というよりは歴史的に儒教国家を形成した民族が、きわめて日本人と近い考え方をしているというか、そのバックボーの中に極めて同質の考えがある思います。本家中国、韓国、日本、台湾、ベトナム、シンガポール、これら皆かって儒教思想国家を形成した地域。思いませんか、この国々皆アジアの優等生。古代に儒教思想はその国の文明の度合いに、深く強い影響を及ぼしましたね。あとは同じ仏教国でもほとんど異質だと思います。民主主義国家として最も古い米国でさえ、その歴史はたかだか200年です。米国が力づくでも伝播させようとしている民主主義思想(歴史的に見て優れた文明とは、必ずこの伝播作用をもたらします)、まだまだ悠久の時間が必要と思われます。西洋民主主義思想にもとづく国々は、 時を経た後に、果たしてその時代で文明を形成する優等生たり得るのでしょうか。この辺、大いに興味がわくところです。
確かに東洋の思想の中には、西欧のそれとは違う大きな美徳があります。それは、他と調和して生きると言うことです。己を知り相手を知る、そして他者もまたよく相手を知る、このことからハーモニーが生まれます。それは一人ではなし得ない素晴らしい関係なのですが、なかなか難しい。このことは儒教思想に感化されている東洋人にとっても難しいこと、ロシア人には通用しません。
本質的に他者を理解するとは、どのようなことでしょうか。論理的にでしょうか、それとも感情的にでしょうか。そしてまた、理解したその先に、何があるのでしょうか。人にはそれが何人であろうとも、理解できないこともたくさんあり、また理解する必要のないこともたくさんあります。つまるところ、本質的に異質な存在であるものを抱き留められるかどうか、もし抱き留められるのならば、理解はもはや必要すらないかもしれない。ただその場合その存在に、不快感がないかどうかですね、それが相性というものでしょうか。ロシア人は非常に個が強い民族なのですが、この点異質な存在をあるがままに、抱き留める懐の深さがある民族でもあります。お互いの相性がよい場合、日本人とロシア人は、理屈抜きにみように合う場合が多々みられます。計画された時間軸の中で万事を進めようとする日本人、しかしそこから一端外れ想定外のことには自己を喪失しかねない日本人。そのときのロシア人の発想力の不思議さ、力強いことこの上ない。再度言わせてください、日本人とロシア人ある意味で相性がとても良い場合があります。
結局葬式仏教、結婚式はキリスト教、クリスマスを祝い、年の初めには神社に行くというわけのわからない状態になっています。日本人には宗教紛争というのは根本的には理解できないのかもしれません(一部には優秀で理解できるかたもいるかもしれません)。
人格のバックボーンをなすものはモラルです。モラルは宗教が規定します。そして民族を超えて伝播する宗教は必ず教義を持ちます。教義があるが故に徳を積め、かつ普遍化するわけです。その意味ではシャーマニズムやアニミズムと言った原始宗教ではモラルに基づいた人格を形成することはできません。であるが故に古来から教義を持つ宗教はその文明とともに、未開の地を教化すべく伝播させていったのです。
日本人が神道による自然崇拝を伝統としていることは事実です。芥川龍之介が、「釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神の一人に過ぎない」とかつて述べたように、日本が古来から「八百万の神」を崇める神道を中心とした独特の宗教観を持つからでしょう。がしかしそのことが日本人の人格を形成するバックボーンとなっていると言えないのは上記の理由からです。
では日本人は無秩序な無道徳な民族なのかと言えば、かえつてその逆で世界の中でも、最も安全で秩序だった国家を形成している民族です。ではそのモラルはどこから来て、かつまたその教義は何であるかと言えばそれは儒教なのです。宗教の教義を思想の教義で代潜させ、モラルを形成している。しかもそれがうまく機能している(機能していた?)不思議な民族なのです。
結論的に繰り返させてください、日本人の言う道徳的観念とは、ことごとく儒教からきています
次に「論語」のことですが、ご存知のことと思いますが、儒教=論語ではないですよね。儒教はかなりの広がりがあります。その昔江戸時代までは武士階級は論語の勉強が必須だったので、書見台に向かい子供が音読して憶えていたようです。いま、日本が「道徳的」崩壊に向かいつつあるのは確かにいままで遺産として残っていた儒教的なるものが不足してきて、代替となるものがないのかもしれません。文部科学省とかが子供の道徳教育なるものを打ち出していますが、国が考える道徳というのはろくなものでないのは歴史が証明しているので、先行きくらいでしょう。
ところで、関連があるので質問なのですが、ロシア人の場合、宗教はロシア正教会ですよね。ですが、ロシア人の若者は宗教はあまり意識していないようです。毎週教会に行く習慣があるということも少ないと聞きますが、その場合も親からの伝達あるいはいままで社会で培われたキリスト教からの影響が残っているのでしょうか?
>儒教は宗教でしょうか?
おっしゃるように宗教ではありません、思想です。その思想を裏打ちする社会体制が律令制であり律令国家でした。
>「人格を形成する芯は宗教である」という前提は確実でしょうか。
確実です。西洋文明圏やイスラム社会も含めて彼らの中では疑うことの出来ない命題です。ですから人格形成の芯に宗教を持たない、世界では珍しい民族が日本人なのです。そもそも人格であれ、宗教であれ道徳であれこれらの概念はみな明治期に西洋近代文明とともに移入されたものです。その翻訳語に他なりません。
>儒教=論語ではないですよね
違います、論語は儒教思想を具現化するための教育論です。
>遺産として残っていた儒教的なるものが不足してきて、代替となるものがないのかもしれません...
おっしゃる通りです。宗教の教義の代わりに思想である儒教の教義(論語)をして、人格形成の芯にしてきたのですが、典拠(教義=儒教)が明確だった戦前まではまだましだったかもしれませんが、現在の国の道徳とは、何に基づくものかトントわからない不思議なもの。今後の議論が待たれます。
>社会で培われたキリスト教からの影響が残っているのでしょうか?
その通りです。スラブ民族の間でのロシア正教の歴史は1000年以上に及びます。野蛮人が住む未開の地に、宗教と文明をもたらし教化する、これが普遍化する宗教の一貫したスタイルでした。人が人であることを知る、これは何によりますか?スラブの地ではロシア正教によってでした。こうしてスラブ民族といういわば民族そのものの性格が形成されていったものに他なりません。
>>は確実でしょうか。
>確実です。西洋文明圏やイスラム社会も含めて
>彼らの中では疑うことの出来ない命題です。
それはわかるのです。宗教を持ち、宗教を基盤としている民族はそうでしょう。ただ日本を例外とするのかそれとも「宗教あるいは思想」というべきかということです。それと現在でも自然崇拝の少数民族はいますがその辺りはどうでしょう。
こういうことを書いては失礼なのでしょうが、「宗教を持つことがモラルを作る」というのは西欧の押し付けではないかと感じてしまうのです。そうでない形があってもよくはないかと思うのです。宗教は道徳も作ります。一番重要な戒律はどの宗教を取っても人を殺してはいけないなのかもしれません。もちろん信ずる神をあがめよの方が大切かも。宗教を持つことで紛争もずいぶん起こります。最もそれは宗教自体の罪ではなく、宗教を信じている人間の誤りですが。
>ロシア人は非常に個が強い民族なのですが、こ
>の点異質な存在をあるがままに、抱き留める懐
>の深さがある民族でもあります
はい、私も日々実感しています。私式に言うならば「国も人種も関係なし」です。ただ、実際にはそうでもないでしょう。水と油とまではいかなくともなかなかなじめない国とか人種はあるはずです。日本人とロシア人どういうわけか、似た部分があります。似ている可能性はきわめて低そうに見えるのにです。
この文章を書いていらっしゃるのを見るとlisenkaさんが自己を模索するために思索し文章を書いているように見えます。私の息子ももうすでの薄ぼんやりとなやんでいます。自分が、あるときはロシア人ある時は外国人ある時は日本人と答える。さて、どうやって彼を導いたらいいのか。日本人である私にできるのか悩ましいところです。娘も悩むでしょう。ちょうどlisenkaさんと同じ立場です。
>日本を例外とするのかそれとも「宗教あるいは思想」
はい、日本人は完全に例外です。他に類を見ません。
>「宗教を持つことがモラルを作る」というのは西欧の押し付けではないか
はい、ある意味ではその通りです。これらの概念は全て西洋近代思想のもたらした産物。日本固有のものではありません。ですからこれらの言葉を使い論議を進めるとしたら、その定義に他に説明のしようがありません。
>自然崇拝の少数民族はいますがその辺りはどうでしょう
自然に極めて密着して生きる少数民族、たとえばイヌイット、アラスカやアリューシャン列島におりますがロシア圏にもおります。彼らの生活は自然崇拝を抜きにしては、成り立たないと思います。だがしかし、彼らはキリスト教徒として教化されております。
>自己を模索するために思索し文章を書いているように見えます
はい、その通りです。と同時に社会学的に非常に興味が引かれるテーマではあります。
と、このあたりまでに今回はしておきたいのですが。ただ日本人のバックボーンの問題は、モラルや宗教を含めてこれからも皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
何度も読み返し・・・戻って来たら・・・・。
頭が・・・・・・。あまりにもアバウトに生きてきた自分が恥ずかしくなります。
ヒロさんの
>> 私式に言うならば「国も人種も関係なし」です。ただ、実際にはそうでもないでしょう。水と油とまではいかなくともなかなかなじめない国とか人種はあるはずです。日本人とロシア人どういうわけか、似た部分があります。似ている可能性はきわめて低そうに見えるのにです。
に、大いに実感しているのですが、そう言う中でも何か問題が起こると、ロシア人はこうで・・・日本人はこう!と、決め付ける・・・決めたほうが楽?決めてあきらめる?その様な自分がいるのも事実。
う~ん!もう一度プリントアウトして・・・明日・・・読み返してみます・・・。
ついていけるか??