10月23日(金)
一週間前の診察では抗がん剤をお休みして「体力が復活したらまた続ける。」という母の意向だったが
抗がん剤後の2週目も食欲、体力とも戻ることはなく今日の診察日を迎えた。
腹部CTを撮って癌の状態を調べることになっているので母は朝食抜きで車に乗り病院までの道のりの途中でお腹が空いて気持ちが悪いと言う。
病院に着き待合室に入ると病院で知り合った60代の眼鏡の女性や、同じすい臓がんでも元気だ、と母がいつもうらやましがるおじさんが来ていた。
眼鏡の女性は待合室に置いてある血圧計で血圧を測り
「いやだわ。179もある!これじゃ今日抗がん剤ができなくなる。」と何度も測り直していた。
彼女は母がトイレに行っている間に私に話しかける。
「お母さん、見違えちゃって挨拶されるまでわからなかったのよ。だって、すごく綺麗にしてらっしゃったのに…」
そうだ。母がこの女性と初めて会ったときは2回目に抗がん剤を受けた日だ。
「今後治療が始まったらあまり行けなくなるかも知れない」といって1回目の直前に美容院に行った。
看護士さんにも「77歳には見えませんよ。60代かと思いました。」と言われたように抗がん剤治療を受ける前は若々しい母だった。
1回目の抗がん剤は副作用が軽かったので最初にこの女性が見た母はまだ容貌に変化がなかったのかもしれない。
この日が9月18日。たった1ヶ月と5日で母は別人のように老け込んでしまった。
頬がこけて皺が深くなり目がしょぼしょぼして力がない。
口は母曰く「締りが悪く」なり、話すテンポも遅い。久しぶりに見た人にとっては衝撃を受けるくらいの変わりようなのだろう。
もうひとりのおじさんの方も、私には母が言うほど元気そうに見えない。顔色も悪く痩せている。
母が話しかけて体調を訊くと「食べられるが食欲は全然ない」とか「すぐに疲れてしまう」と言っているのが聞こえてくる。
しかし会話している相手の声が小さかったり早かったりすると補聴器を着けていても母には聞き取れない。
聞き直すのが相手に失礼と思うときの母の癖で、聞こえているふりをして微笑みながらうなずいている。
母は「いつもニコニコしている」とか「Iさん(母)の笑顔に癒されるのよ」と友達から言われるというのが自慢だった。
病気前のふっくらしていた母の笑顔は確かに癒し系だったのかもしれないが今の母の愛想笑いはむしろ怖い顔になってしまう。
しかも笑うような話ではないのに聞こえないのをごまかして微笑を作ろうとするので余計に不気味に思われるのではないかとハラハラしてしまう。
診察室に呼ばれ担当の女医、M先生にどうですかと訊かれると、相変わらず食べられないですと答え、
今朝弟からパソコンにメールで送られプリントアウトしたM先生への手紙を手渡す。
手紙には母の1週間の様子、薬の効果などについて詳細に書かれている。その他にまた母の質問を箇条書きにびっしり書いたメモを先生のデスクに置く。
先生は忙しそうに弟の手紙を読み母のメモはちらりと見て
「『抗がん剤を止めたら、抗がん剤を始める前の体調に戻れるか』とありますが、
今の『食べられない』という症状は抗がん剤の副作用にしては長すぎるのでこれは薬ではなく癌本体の症状が強く出てきたのではないか、という気がします。
まずCTを撮って癌の今の状態を見てから、また今後のことを考えましょう。」と言い、すぐにCT検査に回るように促される。
CT検査室は混んでいて終わると1時を回ってしまった。
精神腫瘍科が1時半からの予約になっていたがそちらも混んでいるので結局水分点滴を先に受けることになった。
いつも点滴をする部屋は満員に近い状態だがこちは今日は何故かガラガラに空いていた。
これまで他に点滴の電動椅子のそばに付き添っているひとは見かけないので、点滴が始まると私はカフェに行って終わるまで待っていた。
しかし今日は私に椅子を持って来ようとした看護士さんに「始まったら他へ行きますから」と断ると
看護士さんは「でも、先生からお話があるかも知れないので…」とちょっと困ったような顔をする。
この看護士さんはM先生から母の話を聞いてやるようにと言われたらしく先週から点滴の際に担当として何かと声かけをしてくれている。
あっ、それならここにいます、と私は椅子に座って持ってきた文庫本を開く。
母は最初はテレビを見ていたが、お腹が痛いと言いだす。
痛いときに飲む鎮痛剤のオキノームを飲むが、すぐに効くわけでもないので痛みは徐々に増し目をぎゅっとつむってこらえている。
正座したほうが楽と言い、電動椅子の上に正座してお腹を自分でさする。
私は腰を両手でさする。オキオームが効いてくるといわれる30分以上たっても効いてくる気配がなくずっとさすり続ける。
看護士さんがベッドの方に移動させてくれてベッドに横になろうとするが、寝ると余計に痛くなると言ってまたベッドの上に正座する。
オキノームをもう1包飲み、私はまた腰をさする。
点滴を始めて2時間近くたった頃やっと痛みが治まりはじめ、ちょうどその頃さきほどの看護士さんが来て
「先生がご家族の方と先に話がしたいとおっしゃってるので診察室に行ってください。お母さんは私がみてますから。」と言う。
診察室に入ると先生はCTの映像を前回、今回とパソコンの画面に並べてみせる。
「右が前回、左が今回の映像です。」
私は大きく息を吸い込む。そのあとの言葉が出てこない。
写真は素人でも明らかにわかるほど癌の進行を映し出していた。
肝臓に水玉模様のように点々とあった腫瘍のひとつひとつの大きさが3倍以上になっていて水玉ではなくまだら模様のようになっている。
「すい臓はこちらなんですけど」先生は映像の場所を移動させる。
「これも大きくなっています。」確かにそれも前回の3分の4倍くらいに増長しているのがわかる。
「これは抗がん剤が効かなかった、ということです。
これ以上効かない治療をしてもデメリットしかありませんのでこれからは緩和ケアでなるべく痛みを取り除く治療に移りたいと思います。」
「わかりました。よろしくお願いします。」と言うのがやっとで、覚悟していたこととはいえ動揺がおさまらない。
ちょうどその時、その日は別の病院に出張していた弟が戻り診察室に顔を出した。
先生は弟に同じ写真を見せPDですね、と言う。
弟はあー、間違いなくPDですと言い、私はその専門用語は何のことだろうとぼんやり考える。
「これだと年内だな…」と弟が言うと先生は「年内というより11月もどうかな、という感じですね。」とすらっと答え、私はまた激しく動揺する。
11月内!?あと1ヶ月しかない?そんなばかな。
母は寝たきりでもないし、家では家事もしてそれなりに生活できているのに?
余命1ヶ月の癌患者と聞くと私が想像するイメージはベッドで動けず何本ものチューブにつながれて息も絶え絶えの人だ。
今の母が1ヵ月後にいなくなるなんてどうしても信じられない。
「この結果ををお母さんに告げますか?お母さんはしっかりした方だから知りたいんじゃないかと思うんですけど。」
先生が私の顔を見て訊くが私は自分の動揺もあり、こんな残酷な検査結果を本人に知らせるべきかどうか即答できず弟の顔を見る。
弟はうーん、と少し考え
「本人に知りたいかどうか訊いてみてください。本人はたぶん知りたいと言うと思うのでそうしたら話していいと思います。」
「写真を見せて説明してもいいですかねえ。」
「それも本人に訊いて下さい。きっと見たいと言うと思います。」
「わかりました。ではお母さんの点滴が終わり次第お話ししましょう。」
弟は「僕が一緒にいると先生はやりにくいと思うから」と自分の仕事場に戻る。
ベッドに戻ると点滴が終わり、母はベッドを直しているところだった。
「あら、どこへ行ってたの?」母は痛みがすっかり治まって少し元気を取り戻している。
私はうん、ちょっと…と言葉を濁して母を診察室に向かうように促す。
母が診察室に入り、椅子に座ると先生は言う。
「CT検査の結果ですが…良くないことでも聞きたいですか?」
母ははっ、としたように一瞬息を止めるが聞きたいですと答える。
先生は私たちに説明したのと同じようにCT写真を見せながら癌の進行と抗がん剤の中止を母に告げる。
母の表情は固まり、目はうつろに画面を見る。
「このことに対していま、どう感じられますか?」先生が問うと母は
「なんだか…がっかり…っていう感じ…なんですけど…」母の声は上ずりゆっくり途切れ途切れになっている。
「そう、ごめんね、辛いことを知らせて。でも自分の体のことをまず知っておかないとそこから先に進めないのよ。」先生が言うと
「ええ、そうです。もちろんです。」と母は微笑を浮かべる。
母は気を取り直したように先生に尋ねる。
「K療法、というのがあって義弟が骨髄腫だったのがその治療で9年生きたので義妹からそれを薦められているのですけどやってもいいですか?」
K療法というのはいわゆる民間療法で、光線を患部に当てると免疫力が上がり癌なら縮小するということらしい。
父の弟は多発性骨髄腫の患者にしては異例の余命を得られたのをその民間治療のおかげと信じ親戚や友達にも薦めていた。
腰痛や胃弱、何にでも効くということで伯父の死後いくつもあったその光線を出す機械のひとつをうちに分けてくれた。
「抗がん剤治療をやっているときはそれはできませんが、中止したのでもうなんでも試してみていいですよ。」と先生は言う。
次回は1週間後でも2週間後でもいいですがどうしますか、と先生に訊かれ
一週間後がいいです、先生の顔も見たいからと言う母はいつもの笑顔-愛想笑いではない-に戻っていた。
薬局を出て自宅へ向かう頃にはもう日はすっかり暮れていた。
初めてこの病院に来て教授から「手術はできない」と言い渡されたときの帰り道は
母は険しい表情をして無言で何かを思いつめ、話しかけても上の空だった。
けれど今日はむしろ吹っ切れたように病気以外のことをよく喋り、病気のことに関しても普通の調子で話す。
「もう辛いことや嫌なことはしなくていいのよね。」
「そうよ。これからは楽なことや楽しいことだけしてればいいのよ。」
そうよね、と言う母はおだやかな声だ。
車の中では二人とも前を向いていて車内は暗い。母に涙を見られないですむと思うと涙が止まらなくなる。
いつも拙ブログにご訪問くださる皆様、ありがとうございます。
このように個人的であまり明るい内容ではないブログに連日500人を超える方が見に来てくださり嬉しく思うとともに
きっと癌と何らかの形で闘っている方が世の中にはとても多いのだと気づかされます。
母の癌はとうとう余命1ヶ月と医者に言われるまでにきてしまいました。
(本人には余命については明言していません)
でも、私にはどうしても信じられないし信じたくない。世の中には1ヶ月と言われて半年、1年、それ以上生きている人もいます。
母ができるだけ長く今の状態を維持して楽しい思い出をより多く作ってくれるよう祈らずにはいられません。
見に来てくださった皆様にはどうか、祈りの念を少しだけ母に分けていただけたらとてもありがたいです。
ランキングに参加しています
クリックで応援いただけると嬉しいです
↓
同じ娘の立場で、まったりく同じ苦しみの人が居るんだな、ひとりじゃないんだと思いました。
不安で不安で、どうしようもないですよね。
どうか、ご自分を大事にされて下さい。
年齢も高齢だからということで、手術も放射線治療もできないと言われてので、
抗ガン剤治療をしていました。
それを受ければ受けるほど、母は衰弱していき
治療する前は自分の足で歩いていたのに、歩けなくなり、ひどいときは車椅子、今は歩行機か杖がないと歩けない状態です。
がん発症して、1年が経つと肝臓に転移していることがわかりまた、抗ガン剤を続行していましたが、その後リンパにも転移。
医師からはもう抗ガン剤は効かないから
治療しても意味がないと言われ愕然としました。
ちょうどその頃、知人から
近藤先生の
「抗ガン剤だけはやめなさい」という本を勧められ、どんなにこの治療が無意味でかつ体に悪いのかわかったので、母や兄と話し合った結果、緩和治療を選びました。
抗ガン剤を辞めてからは、食欲が全くなかった母は食欲も旺盛で、段々と元気を取り戻してきています。
九大を退院して、今は小さな診療所に通院しています。そこの先生からは
お年寄りでがんになられても長生きしている患者さんはたくさんいます。一緒に頑張りましょう
と励まされ、母も私も元気づけられました。
がん発症当時は、
「後1年か2年」とか言われていましたが、1年半が過ぎようとしています。
後どれくらい生きられるか、毎日不安ですが、
母の好きな物をたくさん食べさせて、調子がいいときは、色んな所に連れていこうかと思います。
お互い、大変かも入れませんが前向きに頑張っていきましょうようね。
義母に膵臓がんが見つかり、入院して一ヶ月が経とうとしています。血管を巻き込んでいるために手術ができませんでした。病理検査を受けた後、高熱が続いて体調が悪化し、続いて抗がん剤を始めたのですが、発熱と慣れない入院生活ですっかり食欲が無くなり、体力の消耗が激しいです。このまま病院にいて改善するとは思えず、つらい局面を向かえています。またお邪魔して情報をいただけたらと思っています。
よろしくお願いします
励ましのコメントありがとうございます。
最後の最後まで…そうでした。がんばらねば!
お父様を亡くされてお辛いときなのに
励ましのコメントをありがとうございます。
母は抗がん剤のために「廃人になった気がする。」と言うくらい生きる意欲を奪われていました。
止めた今は一時的かもしれませんが元気を取り戻し生き生きしています。
まさに両刃の剣なのですね。
うちの父は口腔癌で2週間前に亡くなりました。
かなり直前まで抗がん剤治療を受けていて、
自宅で過ごすこともままならなかったことを
私たち家族は後悔しています。
抗がん剤なんてあまり当てにできるものでは
ないですから、すっぱり緩和ケアにシフトして
少しでも気分よく過ごせることを追及してほしいです。
それでとっても長生きされる方もいらっしゃいますし。
御家族は今がいちばんたいへんな時かと思いますが
がんばってください。
今、母は小康状態を得て比較的気分良く過ごせています。
Hikaruさんのように心から祈ってくださる方達のおかげだと信じています。
本当に感謝感激です。
お母さまの痛みが減り
食欲も復活して美味しい物が食べられるようになって
K療法が効果を発揮してくれること
心からお祈りしてます。
悲しくて悲しくて.....可哀相で.....
何かできる事はって思うんですけど
毎日心からお祈りします。
そうだったのですか…
母のために祈っていただいてありがとうございます。
私もお父様が少しでも辛いことがなく穏やかに過ごせるようお祈りしています。
ももさくらさん
10ヶ月は短くてもきっと濃密な時間だったのでしょうね。うらやましいです^^
私の母もせめて10ヶ月もってくれればいろいろなことができるのですが…
ちゃはさん
最初から全部読んでくださってありがとうございます。
なんと!同じ病院に通院中でいらっしゃるのですか。
すれ違っているかもしれませんね。
42歳は若いしまだまだこれから楽しまなくちゃですよね。
ちゃはさんが癌がやっつけられるようお祈りしています。
かつこさん
膵臓癌はやっかいですね…
私は母が膵臓癌になるまで全然そのことを知りませんでした。
本当に一口に癌と言っても千差万別ですよね。
なぜよりによって膵臓癌…と思ってしまいます。
手術も出来て、まだ、50代で、抗ガン剤もクリアしたのですが、膵臓癌は、再発のリスクが大変高いそうです。
いつか、私の夫も、お母様と同じ道を辿るような気がしています。
私の義父も、昨年、肺ガンから胃への転移で、亡くなりました。でも、高齢だったので、特別の治療もせず、穏やかに暮らして、最後を迎えました。
人それぞれの癌治療なのだど、思っています。
お母様も、少し気持ちが落ち着かれたらと、願っています。
義母が7年前に膵臓がんで他界、そしておととし自分も42歳という若さ(!?)でがん患者になってしまったちゃはといいます。
お母様と同じ病院に通院中です。
お母様が少しでも良い時間を過ごされることを
心から願っています。
私の母は胆管がんでした。体力の低下から抗がん剤治療ができなくなり、緩和ケア(ホスピス)に入院しました。残念ながら、7月に亡くなりましたが、闘病は10ヶ月と短いもので、私にとっても辛く、でも母との時間を多く過ごせた大切な時間となりました。
お母様の回復と、ご家族との幸せに満ちた時間をたくさん過ごされる事を心から心からお祈りしております。
私の父も抗がん剤治療をやめて緩和ケアに入っています。10月を越せるか..と言われてます。もう自宅には帰れません。ベッドから動けず車椅子すら不要になりました。
お母様ご自宅で好きな事をして楽しくお過ごしくださいね。