母の膵臓癌日記

膵臓癌を宣告された母の毎日を綴る

母の病気経過帳より (9)

2010年01月26日 20時44分01秒 | 日記
「10月18日(土)
相変わらず食事がのどを通らない。

10月19日(日)
カーテンが出来てきた。新しいときれい。

10月20日(月) (註・18~20日 曜日が誤ってずれている)
主人も悪いところなしで良かった(註・父は腹部超音波検査でも異常なしだった)

10月21日(水)
今日も朝から食事がとれないのでおかゆを飲みこむ 
昼、主人と20分位散歩したがつかれた
安定剤をのんで休み夜はT也が来てくれた
薬をのんだ後にお腹がいたくなってオキノームを飲む
しばらくぶりで痛みが出た。歩いたせいかとも思う

10月22日(木)
今日はインフルエンザの予防注射に行って来た
食事はつばが出ないので飲みこみにくく、食欲もない。早く食欲が出てほしい。
10:30頃オキノームを飲む 痛みはとまった。

10月23日(金)
今日は病院にてCTを撮り結果を聞く日でした
結果は良くありませんでした 
でも誰でもいつまで生きていられるわけでなし、いつかは死を迎える
遅いか早いかの違いだ
これから苦しいこと、いやな事、みんな抜かし楽しい事だけに頑張っていけば良い。

10月24日(土)
抗癌剤をやめる事になって1日目 痛みは午前中に来た。
皆、良くしてくれて嬉しい 1日でも長く生きていたいけど痛いのはいやだ
S子も本当によくやってくれるのでうれしい。
T也もN也も心配してくれ申し訳ない。
朝食、昼食も少したべられた。」




母は抗癌剤の副作用に苦しんでいたが、もともとの癌についてはまだ楽観視していた。
痛み以外のすべての症状―食欲不振、吐き気、だるさ、息苦しさなどを抗癌剤とその他の薬のせいと決め付け、
癌自体は自分のような歳ではそう早く進行するものではない、と信じていた。

10月23日はそんな母の見当違いがいっきに崩れた日だった。
この日、癌の様子を見るために撮ったCT映像は癌の急速な進行を如実に示すものだった。
私自身もこの時の衝撃は忘れられない。
インターネットなどで膵臓癌の情報を集めていたので、私は母のように楽観的ではないつもりだったが
やはり心のどこかで母に限ってそんなに早くどうかなってしまったりしない、と思いたい気持ちがあったと思う。
しかし現実は残酷だった。担当の女医は母の余命を「11月内かもしれない」と、私に告げた。

そして母自身に良くないことを知らせる了承を得て、
余命こそ言わなかったもののCT映像を見せながら、抗癌剤は効かなかったので中止することを説明した。
そのときの母の固まった表情を思い出すと胸がつぶれるように悲しい。

母は後にこの告知のことについて
「あの先生はずいぶんきついことを言うのね。
もう手の施しようがないようなこと、誰にでも言うのかしら。
きっと、医者の母親だから受け止められるだろうって思ったのね。」
と話していた。
いや、母は知らないが先生は事前に私と弟のT也に相談したのだ。
私は答えられなかったが弟が「本人に聞きたいかどうかを訊いて下さい」と言った。
そしてその後診察室で先生に訊かれ、母が「聞きたいです」と答えたのだ。
しかし、きっと先生の「良くない話」は母にとって予想を上回るものだったのだろう。

弟は告別式のとき、母の二つ上の姉に
「どうして治らない病気のことを本人に告げるの?残酷だと思うわ。」と責められ
「今はほとんどの病院でそうしている」と叔母たちに説明していた。

葬儀の後、私が
「そもそもT也が告知したわけじゃないのに。腸の検査結果を聞きにひとりでH病院に行ったときに
あっさり『膵臓に腫瘍があります、肝臓に転移してます』って言われたんじゃない。」
と弟に言うと
「うん、僕だったらいきなり本人に告知はしない。まず家族に話して相談すると思う。
でも母親はあいまいな説明では納得するような性格じゃなかったから、結果的には最初から告知して正解だったかもしれない。」と話し、
私もそう言われると確かにそのとおりだと思った。

告知されていても母は自分の辛い症状に「どうして?何故?」と常に問いかけて納得できる理由を探していたのに
告知されていなかったらとても受け入れられたものではない。パニックに陥るに違いない。


この日から母は「医者に見離された」と理解して半分死が近いことを覚悟し、もう半分でK療法という民間療法に一縷の望みをかける。




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母の病気経過帳より (8)

2010年01月19日 10時12分46秒 | 日記
「21年10月10日(土)
朝の目ざめは最高によかったがオキシコンチンを5時ごろ飲まずに8時に飲んで
T医院にM先生の紹介状を出しにいったら背中が痛くなってきたので
11時30分頃にオキノームを飲んだが夕方5時近くなってもすっきり痛みがとれない。どうしたらいいのだろう
昨日は薬ばかり飲んだ どうしてあんなに腰やお腹が痛かったのだろう 抗癌剤が変わったのかしら
10時頃から腰とお腹が痛くなりオキノームを飲んでもだめ お昼にオキシコンチンを飲んでもダメ
腹がはってきたので下剤を飲むがきかない。夜の食事もとれず痛みは増すばかり
次にカンチョウ(イチジク)をしたけれど多くは出なかった。
しかたなく睡眠薬を飲んで寝たが1/2ではだめでまた1/2結構1錠飲んで寝たら朝はすっきり目がさめました
今はどうなるのだろう心配

21年10月11日(日)
今日は朝から気分が良くない
玉子焼の臭いで吐き気が来てしまった 嘔吐はなかった
1日食事がとれず眠く気分の悪い日だった
夕食前にオキシコンチンから食後の薬皆飲んでしまった 明日朝は早めにオキノームを飲む
4時30分ごろ大便が水のように出て失敗してしまった
みぞおちの所が少しつれるように痛む

21年10月13日(火)
今日1日吐き気と嘔吐になやまされた。
何も食べたくなく においで吐き気がしてくる
今日SS銀行・S銀行・Nさんが来た S(銀行)さんはもう少し考える事にして帰ってもらう
Nさんが来てガンでも抗癌剤をしないでも元気にしている人の話を聞いたが自分もそうしたいと思うが勇気がない。もう少し考える事にしよう。

21年10月14日(水)
垣根刈り屋さんくる G会の人達も来てはげましてくれた またやる気が出た

21年10月15日(木)
今日は最悪の日 朝から気分悪く午後出かけたが精神不安定になり胸がドキドキして1人で歩けなくなってしまった
家に帰り安定剤をのんだら落ち着いた

21年10月16日(金)
今日は抗癌剤を休み水分だけの点滴にしてもらって帰って来た

21年10月17日(土)
相変わらず食事はとれない」




抗癌剤の2クール1回目を終えた後副作用がさらに増し、体力気力の限界に来る。
実際には抗癌剤の副作用は処方してから4日間くらいで消えるはずであって、進行した癌から来る症状も悪化しているのだが
本人にはそのことを伝えていないので辛い症状をすべて抗癌剤のせいと決めこみ
抗癌剤を止めたい、でも止めると病気が悪くなる、のジレンマに苦しむ。

このころ、母が何度か口にした言葉が

「生きるのも大変だけれど、死ぬのも大変なのね」

私はこれとまったく同じような言葉を20年前に聞いたことがある。
それは父方の祖母が胃癌の末期で入院していたときだ。
祖母はお見舞いに行った私を「Sちゃん」と手招きして近くに呼び寄せ
「私はね、死ぬまでにこんなに大変だと思っていなかったの」と寂しそうな微笑を浮かべながら言った。

祖母も母も決して楽な人生を送ってきたわけでなく、戦争やその後の激動の時代を苦労して乗り越えたきたのに
人生の終りにまで予想もしない苦しみが待っていたとは。
母は自分の体に起こった不測の状態を受け止めきれずに「どうして、どうして」と最後まで自分に、周りに疑問を投げかけていた。

私もこのことを思うと「生きる」ことの意味を考えずにはいられない。



  近  況   

先日、以前勤めていた百貨店の同僚二人と久しぶりにランチを楽しんできました。
そのうちひとりの友達(Fさんアナタのことですw)は待ち合わせ場所で会うなり
「会ってみたら意外に爽やかでブログの感じと全然違う!」
「ブログを読んでいたらなんて言って良いかわからなくてコメントも書けなかった。」
と言われました。
そう言われてブログを読み返すと確かに、いつまでも母の死から立ち直れず重く暗い毎日を送っているように見えます。
記憶を整理しながらブログに記す作業の中では母の闘病中の悲しいことが蘇って胸が痛くなるのですが
その他は以前と同じ1ワンコと2にゃんこに振り回される私らしい日常を取り戻しています

父も、家族みんなに心配されていたように閉じこもることもなく
庭の手入れをしたり散歩に行ったりして父なりに健康的な生活を送っています。

心配してくださった皆さん、ありがとうございます。私は元気です。



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母の病気経過帳より (7)

2010年01月16日 00時05分13秒 | 日記
「21年10月1日(木)
早くも10月になってしまった
寒いくらいの朝 気分は上々 食事も思うようにたべた
買い物にも行ったが息が苦しかった どうして息苦しくなるのだろう
薬のせいかと思う
右側のお腹のつっぱりがあった
薬をのむほどでないので飲まないでおいた はげしい痛みはなかった
 
21年10月2日(金)
今日は一日雨 明日は旅行だ 天気にしたい
朝から気分は良いがOさん、昔婦長さんだった人(註・見舞いに来て)
色々聞いたが結局自分が強くならなければいけない ガンに負けない気持ちが大事
便も良く出てくれて気分が良くなったが夕方になると息が苦しくなる
一眠りすると良くなる

21年10月3日(土)
今日は朝から上気分 11時にN也が迎えに来てくれてS子の車で私は出かける
休みながら二時間位で河口湖に着く とても素晴らしい部屋で主人も大満足でした
私は夜に息が苦しく眠れなくなってしまった
リーゼの安定剤を飲んで眠ったら四時頃までぐっすり眠れた

21年10月4日(日)
今日帰る日 朝気分も良くて散歩に少し歩く
朝起きて眠気もあったのでオキシコンチンを一錠しか飲まなかった
痛くなったらオキノームを朝と昼1錠夜は2錠づつにしてみた
痛みがこなければ良いが
 
少し痛みが出たので夜7:30頃2錠飲む
安定剤リーゼを1錠飲んで寝る

21年10月5日(月)
今日は抗癌剤の副作用はないが痛み止めの副作用か朝から眠くて眠くて頭ぼんやりしている
食欲もなく一日息苦しく過ごした
夜T也から電話あり 薬は金曜日の診察までちゃんと飲むようにいわれた
そして枕を高くしてリーゼを飲んで眠るようにいわれ
そうして眠ったら よく眠れて気持ち良く眠れた

21年10月6日(火)
今朝気分良く昨日の苦しさは何だったのだろう?
抗癌剤の副作用がだんだんとれてきて痛み止めの副作用で眠気が出てきて
眠気が来ると食欲もなくなってしまう

21年10月7日(水)
朝から眠くてしょうがない 頭がぼーっとしている 何も考えられない
朝から色々な人が来て 話していると疲れる
Oさんからはフェスティバルの誘いあるがことわる KさんがNさんのおみやげを持ってきてくれた
電話も買い替えに行く

21年10月8日(木)
カーテンを買いに行きついでにコタツも買ってくる
気分はあまり良くなく店員さんとの話も苦痛だった
夜は明日の用意をして早めに寝るが中々眠れない
4時頃起きて朝食のしたくして家を出る予定だ

21年10月9日(金)
今日2週目(註・2クール目)第一回の抗癌剤の日だ
八時Kちゃんも一緒に行ってくれた。そして待たされ2時間後にS先生に診ていただく
腹のレントゲンを撮りはり具合を見てくれて薬を減らしてくれた
精神腫瘍科に行き、睡眠薬と安定剤をもらい抗癌剤の点滴を受けて薬をもらい八時頃家に着く」



抗癌剤の1クール3回が終わって1週休みが入る。
抗癌剤を休めば副作用もとれて元気が出るのでは、と私は期待するが思ったほどほど体調が戻ることはなく
母のがん自体がどんどん悪くなっているのではないか?と内心恐怖を感じていた頃。

オキシコンチンの副作用で絶えず眠気があり、表情に乏しく声にも張りがなかった
朝のうちは調子が良いことが多いが日中から夜に向かうにつれ見るからに衰弱した病人の様相になる。

そんな中で、10月3日は兄が企画した2回の河口湖旅行のうち1回目。
この旅行は孫まで集まり母も比較的元気があって本来の笑顔も見ることが出来た。
帰りの車は私の運転で母と長女・次女の4人。
途中休憩がてらお昼を食べようとドライブインに寄るが、みんな旅館の朝食をめいっぱい食べてお腹がすいていない。
しかし母は何か食べてから薬を飲まなくてはいけないのでフードコートで1つだけラーメンを買って4人で回し食べする。
「1つのラーメンを4人で食べて、なんだかすごく貧乏な家族みたいだね」と長女が言い
みんなが笑う。
母も「ほんとにねぇ」と言って声を出して笑っていた。
河口湖で泊まった旅館はとてもいい宿で料理もどれも美味しかった。
それなのに、ブログにも書いていないこんなことがとても印象強く思い出に残っている自分が可笑しい。



                                                


今日は母の四十九日にあたります。
法要は1月11日(月)に自宅で行い、一段落終えて落ち着きました。
母のたっての願いで、田舎である栃木にある先祖代々の墓を引き払い近場の墓地に新たに墓を移すことになりますが
これから適当なお墓を探さなければならず、まだ納骨していません。
母の望みどおり月命日ごとに気軽にお参りできるような至近距離の、明るくてこぎれいな墓地を建てることが目下の課題です。



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母の病気経過帳より (6)

2010年01月08日 10時49分29秒 | 日記
21年9月24日
今日一日寝たり起きたりしていた パパはお彼岸で栃木まで墓参りに行く
私はSS銀行に手紙を出しに行った
疲れないせいか気分はとてもいい。
やはりダンスは無理か?
夜S子が食事を作ってくれたが中々食べられず翌朝おかゆにしてたべた

21年9月25日
抗癌剤の日 8時出発 12時半終了
T也が来てくれ食事ご馳走になる
帰り薬をもらいK神社見学して帰る
夜お雑煮にしてみんな食べられた 
来々週から先生変わる

21年9月26日(土)
今日は朝から気分が良く食事もすすんだので
T(最寄駅)の耳鼻科と銀行付け込みに
ほかメガネを直そうとメガネ屋さんに行ったら時間がかかりすぎて疲れてしまった
途中で帰って来てしまった。
家に帰りお腹が痛くなってきたのでオキノーム大をのんで眠る
後、胃が痛くなりムコスタ、アシノン1錠ずつのむ
疲れは絶対だめ。つくづく思う。

21年9月27日(日)
朝起きた時はとても気分が良くて用事を全部すませたが
朝食の時に蚊取り線香をつけた臭いが鼻について全然食事がとれなくなった
今日はNさん(註・近所の友達)の誕生会 でも行けなくなってしまった残念。

21年9月28日(月)
今日は主人の検査入院の日だ
私は全然気分が悪く食事がとれず水も飲めなくなり水分補給が出来ず
T医院にて点滴をしてもらったがなかなか良くならず
T也が来て水を飲むように言われ水をのみだしたら眠くなり
一眠りしたらだいぶ気分が良くなった
Oさん(註・友人)にも電話してしまった 水を多くのむように言われる

21年9月29日(火)
主人は今日大腸の検査だ S子が(付き添って)行く
胃も大腸も問題なくどこも悪いところがなく、よかった
S銀行が来て私の手続きをすませる
3:30歯医者に行く
夜の食事キャベツ巻きを作ってくれたが全然食べられなかった どうしてだろう

21年9月30日(水)今月も終り
今日はどこへも出かけず家でごろごろしていたせいかとても気分が良かった
食事も食べられた
パパが退院 いままでのところ異状なし よかった。
眠ることが良いみたい。今日は早く寝る



怒涛のように押し寄せる抗癌剤のさまざまな副作用に苦しんでいた頃。
いつも早朝に起きて、朝のうちは調子が良いのに日中だんだんに具合が悪くなり
夜には食欲が全くなくなることが多かった。
末期がんの患者はだいたいがそうなのだと後で知ったが、特に母の場合はもともとじっとしていられない性質なので
ちょっと体の調子が良いと用事をあれもこれもすませたくなりオーバーワークになってしまう。

この頃はまだ自分の病気の重さへの自覚が薄く、健康だったときの体力への自信が抜けていなかった。
だから疲れで具合が悪くなると(何故?どうして?)と納得がいかずパニックに陥るのだ。

9月28日はパニックが頂点に達する。
前日ほぼ一日食事が摂れなかったことで精神的にかなりきていたのが
朝になっても良くならず、水さえ飲めなくなったことでひどく切羽詰ってしまった。

母の表情は怒りに満ちていた。誰にもぶつけることができない、自分を苦しめる病気への怒り。
かかりつけの開業医へ行き無理やり順番に割り込んで点滴をさせる。
受付の人も看護婦さんも、それまでのいつもにこやかな母とはまるで違う様子に驚いて断ることもできないようだった。

しかし医者の弟(T也)が細かい指示や助言をしてくれたことが、このころ母にとっても父や私、兄にとってもどんなにか心強かった。
母は毎日の弟の電話を心待ちにしていたし、私も精神的にずいぶん助けてもらった。
父にも母の病気の深刻さを知らせていなかったこの時、
弟の存在がなかったら母の苦悩をそばで見ていて受け止めきれただろうか。

弟は母が亡くなった後
「どんどん悪くなっていくことがわかっていて、どうすることも出来ないのが一番辛かった」と言った。
研修期間の1年を日本でもっとも歴史のあるホスピスを有する病院で過ごした経験もある弟には
新たに加わる症状のひとつひとつが死へ向かう過程として明確に理解できているから
素人にはわからない内面の辛さがあったと思う。




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今年もよろしくお願いします 

2010年01月05日 10時13分57秒 | 日記
穏かな良いお正月でしたね。

昨年中は拙ブログに沢山の皆様にご訪問いただきありがとうございました。
ご自身、またご家族が闘病中の皆様にも今年が良い年でありますよう
心からお祈り申し上げます。


母は生前何度か
「お正月が迎えられるかしら」と家族に問いかけました。
医者の弟は肯定も否定もせずはぐらかしていましたが
私は「何言ってるの、迎えられるに決まってるじゃない」と断言しました。
私自身、それを信じたかったのですが早すぎました。

毎年大晦日には母と一緒にいろんな種類の煮物をいっぱい作ったけど
今回は法要の準備やら役所の手続き関係やらで頭がいっぱいのまま押し詰まってしまい
黒豆と紫華豆を煮た以外ほとんど何もできませんでした。
次回からは母の味を思い出しながら娘と一緒に作らなくてはと思います。

母が秋にいっぱいのプランターに分けて増やしたサクラソウも
つぼみがいっぱい出てきてもうすぐ咲きそうです。
去年と同じように玄関の周りがピンクのサクラソウで賑やかになるのを
空から見て楽しんでくれるかな。


そうそう、ちょっと不思議なことがありました。
元日から2日にかけての夜中、
寝室のウォークインクローゼットの奥に紙袋に入れて置いてあった母の携帯が鳴り
先に寝ていた夫が目を覚まし見つけ出すと発信元は長女Y子の携帯でした。
でも、長女は家に来ていて居間で私や次女F子と一緒にいました。
長女の携帯はそばの絨毯の上に置いてあって、
履歴を見ると確かに母の携帯に発信しているんですけれど
全く携帯をいじった覚えがないと長女は言います。
もし無意識に置いてあるのを踏んだりしてボタンが押されてしまったとしても
母の携帯に発信するには何段階かの操作が必要です。

長女は元日の朝見た夢に母が出てきて
「Fちゃん(次女)とYちゃん(長女)は優しいねー。」と言っていたそうです。
母がなにかと心配して思い入れが強かった長女なので
携帯のことも母が何かを伝えたかったのかなという気もします。


2日には、葬儀以来ひさびさ子供と孫が家に集まり賑やかになりました。
正月にはは毎年恒例で家族麻雀をします。
今年も父を交えて卓を囲み久しぶりに父の心からの笑顔が見られました。
「麻雀は(悲しいことが)忘れられていいなあ。」と父がしみじみ言い
私たち子供も父が変わらずしっかり麻雀を打てているのを見て安心しました。

私の今年の抱負は

「感謝の念を忘れない」

です。
後にブログに記すつもりですが母は最後の日、自分が一番苦しいなかで
よく回らない口で「ありがとう」と何度も言いました。
そのことを思うと自分がいかに健康であることや恵まれた環境にあることが当たり前になってしまって
感謝することを忘れて不平不満ばかり言っていることかと反省させられます。

そういうわけで年も改まり、明るくて前向きだった母を見習って私も日々前向きにプラス思考で過ごすことが目標です。
どうぞ今後ともよろしくお願いします。

                           りりぃ。



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