「21年11月14日(土)
今朝5時に目がさめてしまいK(註・K療法)をかける
10時15分頃お腹がいたくなり1時間たってもなおらないのでオキノームを
10時15分と11時20分に飲む
その後痛くならないので風呂の掃除をして後Kをかける N也来る
21年11月15日(日)
昨夜はN也が来てくれてアパートの税金の事で色々やってくれたが私はつかれた
12時頃腹痛が来てオキノームを飲んで眠った
21年11月16日(月)
朝の目ざめは良かったが口の中はまずい
朝10時やはりお腹が痛くなりオキノームを飲む ロキソニンテープを貼る
今日Rさん達(近県に住む兄弟達)が見舞いに来てくれる
21年11月17日(火)
今朝はHさんの旅行の事で早くおこされ体の調子は良くなかった
腹がいつもうずいている
21年11月18日(水)
今日は耳鼻科とR(補聴器屋)に行った
耳のピーピーいうのはとれて良く聞こえる様になった
帰って来てから体調が悪くなり食事が摂れない
21年11月19日(木)
ゆうべはお腹が痛くて3回もオキノームをのんでしまった
今日午前中はいたくならない
21年11月20日(金)
先生が来てくれた 夜は良く眠れた
21年11月21日(土)
散歩が出来たが疲れた
今朝はお腹が痛くて座薬を使ったら後調子がよかった
21年11月22日(日)
オキシコンチンが3錠から4錠に2回飲むようになったためか
朝から眠ってばかりいた」
(経過帳はここで途切れ以下空白になっている)
母が亡くなった11月28日の2週間前からの日記だ。
この頃小康状態が急激に崩れ始め、痛みの増幅、食欲減退など悪化の症状が次々に母を襲う。
それでも母はこの週、補聴器屋に行ったり散歩に行ったりできていたし家の中でも簡単な家事は努めてするようにしていた。
しかし繰り返しくる痛みに応じて鎮痛剤を増やしたためか11月22日の日、初めて1日中ほとんどベッドの上で寝て過ごす。
この日を境に「この病気はガタガタッとくると早い」と言われてきた、その「ガタガタッ」が現実に起こる。
翌日23日の母は見るからにひどく具合が悪く、とても起きられる状況ではなかったのだがそれでも必死の抵抗を試みる。
午前に無理にホットミルクに口をつけ、戻してしまう。午後は天気が良いからと言って散歩に出るがすぐに息切れがして家に戻る。
戻ってすぐにベッドの横に崩れるようにひざをつき顔をベッドにうつ伏し
「もうっ!どうしてこんなになっちゃったんだろうっ」と目を潤ませた、その姿と悲痛な声が胸に突き刺さり忘れられない。
恐らくこのときに母は自分が長くはないことを悟ったのではないか。
そしてこの日から経過帳をつけるのをやめた。
体がつらくて書く気力がなくなったのかもしれないが、もうひとつのノート(体温、食事、薬などを時間ごとに記録したもの)は25日までわずかながらも書き入れているのを見ると
やはり意識的にやめたのだと思う。
ダイニングの椅子の背にかけたままになっていた母のいつも着けていた割烹着を、この日父は
「こんなものも、もう着けることはないんだな」と涙を落としながら畳んでかたづけた。
そして私は24日からの詳細な日記はつけられていない。
急激な悪化にともない、母に起こる変化を間近に見続けて
出来ることなら父のように涙を流したい、いや、わあわあ泣き叫んで母にすがりつきたい気持ちを必死に抑える。
現実的にこの先必要になる介護を考えいろいろな準備もしなければならない。
私自身いっぱいいっぱいだった最期の数日間の出来事を詳しく記憶できてはいないのだが
覚えている限りで記録しておかねば、と思う。
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今朝5時に目がさめてしまいK(註・K療法)をかける
10時15分頃お腹がいたくなり1時間たってもなおらないのでオキノームを
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その後痛くならないので風呂の掃除をして後Kをかける N也来る
21年11月15日(日)
昨夜はN也が来てくれてアパートの税金の事で色々やってくれたが私はつかれた
12時頃腹痛が来てオキノームを飲んで眠った
21年11月16日(月)
朝の目ざめは良かったが口の中はまずい
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今日Rさん達(近県に住む兄弟達)が見舞いに来てくれる
21年11月17日(火)
今朝はHさんの旅行の事で早くおこされ体の調子は良くなかった
腹がいつもうずいている
21年11月18日(水)
今日は耳鼻科とR(補聴器屋)に行った
耳のピーピーいうのはとれて良く聞こえる様になった
帰って来てから体調が悪くなり食事が摂れない
21年11月19日(木)
ゆうべはお腹が痛くて3回もオキノームをのんでしまった
今日午前中はいたくならない
21年11月20日(金)
先生が来てくれた 夜は良く眠れた
21年11月21日(土)
散歩が出来たが疲れた
今朝はお腹が痛くて座薬を使ったら後調子がよかった
21年11月22日(日)
オキシコンチンが3錠から4錠に2回飲むようになったためか
朝から眠ってばかりいた」
(経過帳はここで途切れ以下空白になっている)
母が亡くなった11月28日の2週間前からの日記だ。
この頃小康状態が急激に崩れ始め、痛みの増幅、食欲減退など悪化の症状が次々に母を襲う。
それでも母はこの週、補聴器屋に行ったり散歩に行ったりできていたし家の中でも簡単な家事は努めてするようにしていた。
しかし繰り返しくる痛みに応じて鎮痛剤を増やしたためか11月22日の日、初めて1日中ほとんどベッドの上で寝て過ごす。
この日を境に「この病気はガタガタッとくると早い」と言われてきた、その「ガタガタッ」が現実に起こる。
翌日23日の母は見るからにひどく具合が悪く、とても起きられる状況ではなかったのだがそれでも必死の抵抗を試みる。
午前に無理にホットミルクに口をつけ、戻してしまう。午後は天気が良いからと言って散歩に出るがすぐに息切れがして家に戻る。
戻ってすぐにベッドの横に崩れるようにひざをつき顔をベッドにうつ伏し
「もうっ!どうしてこんなになっちゃったんだろうっ」と目を潤ませた、その姿と悲痛な声が胸に突き刺さり忘れられない。
恐らくこのときに母は自分が長くはないことを悟ったのではないか。
そしてこの日から経過帳をつけるのをやめた。
体がつらくて書く気力がなくなったのかもしれないが、もうひとつのノート(体温、食事、薬などを時間ごとに記録したもの)は25日までわずかながらも書き入れているのを見ると
やはり意識的にやめたのだと思う。
ダイニングの椅子の背にかけたままになっていた母のいつも着けていた割烹着を、この日父は
「こんなものも、もう着けることはないんだな」と涙を落としながら畳んでかたづけた。
そして私は24日からの詳細な日記はつけられていない。
急激な悪化にともない、母に起こる変化を間近に見続けて
出来ることなら父のように涙を流したい、いや、わあわあ泣き叫んで母にすがりつきたい気持ちを必死に抑える。
現実的にこの先必要になる介護を考えいろいろな準備もしなければならない。
私自身いっぱいいっぱいだった最期の数日間の出来事を詳しく記憶できてはいないのだが
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いつも応援ありがとうございます
今の私には辛すぎる内容ですが、敢えて現実を直視しようと読ませていただきました。
お母様もりりぃさんも…そしてご家族の皆さんも、本当に頑張られましたね。
しかも、まだ悲しみで満ち溢れておられるでしょうに、悲しいことを思い出されての日記…。頭が下がります。
私も、りりぃさんを見習って頑張ります。
お母様の一言「どうしてこんなになっちゃったんだろう」
この言葉に酷く胸が締め付けられました。
病気を患うご本人の”胸の内”とは、本当にこの”一言”につきるものなのだろう・・・と、何とも遣り切れない気持ちになりました。
お父様の仰ったお言葉も心中お察しすると、どれほどお辛いものだったことか・・・
そしてりりぃ。さんの、泣き叫びお母様にすがりつきたいと言うお気持ち・・・しかし、その先の事も考えなければ・と思うお気持ち。
口では簡単に言い表せないほど、何ともお辛い思いでお母様のお傍に居られたのでは?と思います。
何とも身につまされる思いで、今回の日記を拝見させて頂きました。
唯でさえお辛いお気持ちを抱え、更に当時の一番お辛かった事を思い出されてのブログの更新は、きっと心中穏やかではない作業だと思われます。
どうぞ、ご無理される事ないよう・お身体もご慈愛なさって下さいねぇ。
癌患者は亡くなるまで結構元気なのだと、友人の病院関係者から聞いてはいましたが、亡くなる日が近づくと、りりぃちゃんの日記のように、ほんとうにがたがたっと崩れるように転がるように…悪化していくのだというのは身にしみてわかります。
兄もそうでした。
どんどん体調が悪くなっていくのは傍目で見ていてもわかってはいましたが、それでもまだ元気でした。自分でトイレにも何とか歩いていけていましたしね。でも、今考えると、亡くなる3日前に黄疸が顕著になり、会うのもつらくなったことを思い出します。
それからは本当に坂道から転げ落ちるようでした。崖からまっさかさま、って感じかもしれません。
わたしは兄が亡くなる日に、会社を休んで病院に行き、兄のベッドの傍に立っていたら、
「見てみ、yell。ほら、こんなに細くなっちゃった…」と右手で左腕をさすりながら私に見せてくれたことを忘れられません。
話すのも苦しくて単語しか発せられないくらいだったのに、苦しい息のなかで私に話しかけた兄。
ほんと、りりぃちゃんのお母様の「どうしてこんなになっちゃったんだろう!」ってのと〃ことを兄は心の中で叫んでいたのだと思います。
思い出すと辛いけど…うん、今も私は苦しく兄を思い出すのです。
周りは普通に日常を淡々と送っていると思っているかもしれないけど、新聞とかでがん患者の記事とか読むたびに、いつも涙ばかりですよ。
一人でお風呂に入っていたりしてもダメです。
こんなに兄思いの自分だったかなぁなんて、苦笑しちゃってますけどね。
りりぃちゃんもまだまだ傷は癒えてないと思います。我慢せずたまには泣いちゃってもいいよね?
お散歩に出たけど すぐに家に戻られたときも それでもお散歩に行けるぐらいだから 大丈夫、きっと大丈夫って勝手に思い込んでいました。りりぃさんの お母様に向かって、頑張って!頑張って!K療法も丸山ワクチンもあるから・・・・って 他人事と思えなくて ずっと応援していました。
お母様の 「どうしてこんなに・・・」この言葉 私自身にもズシリときました。
母も 亡くなる1ヶ月ほど前に同じことを言ってたからです。
結局何もしてあげることの出来なかった自分をずっと責めていた頃でした。
私も自分のブログにこの頃のこと しっかり書いてます。今でも絶対忘れちゃいけないと思い 辛くなりながらも時々読み返します。残された家族に もう2度と同じことを言わせないように 私自身が肝に銘じておかないといけないって思ってます。
母はここのところ、細かいことは色々あるけれど、わりと横ばい状態ですごせているのかな~と私も少し気楽になっていましたが、りりぃさんのお母様、そして皆さんのコメントを読むと、この先、どっと落ちる流れが待ち構えているのだろうな、、と暗いため息がでてしまいます。
年末には、折角テレビを大きくしたけど、オリンピックは家で見れないだろうと思っていたのに、明日は母が楽しみにしている女子フィギアです。「テレビをみる」という今まで当たり前にしていたことが、こんなに有難いなんて、、本当に感謝の気持ちです。
こんなふうに、母がこの病気になって気づかせてもらったことが沢山あります。時間があることの有難さ、人の温情、親子兄弟のつながり、、、そして自分がこんなにも母に甘えていたこと。これからは私がそんな母にならなくてはと衿を正したこと。
そんなことを考えては、やっぱり生きていてほしいと車の中で泣きながら実家に通っている毎日です。でも、辛いのはみなさん辛いんですよね。りりぃさんやみなさんに励まされて、私もしっかり看取っていこうとおもいます。
そしてまたお返事遅れてすみません。
ここのところ、なかなかまとまってPCに向かう時間がとれずにいます。
ミケさん
ミケさんのブログ拝見して、今の苦しい状況に胸がつまります。
どうか、病院にいらっしゃるお母様が穏かに過ごされて
ミケさんと一緒の充実した時間を過ごせることをお祈りしています。
みぃさん
いつもありがとうございます。
最近では母の元気だった頃の笑顔や楽しかったことを多く思い出すようになりました。
明るく、前向きだった母は私が見習うべきことが多くて
毎日お線香をあげながらお骨に向かって(まだ納骨してません^^;)
「今日も頑張るよ、見守ってね」と話しかけています。
最期のことを綴っているとやはり悲しい気持ちが蘇りますが
それも含めてすべて母のことを覚えていたいと思います。
yellちゃ
大切な人が崖からまっさかさまに落ちていくのを見ていてどうすることもできない
その胸のうちは言い尽くせないものがありますよね。
ついこの間まで健康で幸せに暮らしていたのに
急激にやせ細って自由が効かなくなる本人の悲しみを思うと可哀そうで可哀そうで
私もやはりがん患者やその家族の記事を読むと泣いてしまいます。
ときどき振り返って泣いちゃったっていいよね!いつも前を向いて歩いてるんだから。
もっくんさん
お母様の思い出いっぱいのコメントありがとうございます。
元気なときのお母様の様子が目に見えるようで
もっくんさんの愛情が伝わってきます。
入院中に補聴器を買ってもらったこと、きっとお母様はとてもうれしかったと思います。
華さん
見も知らない母のことをずっとそれほどに応援してくださっていたのですね。
本当にありがたくて胸が熱くなります。
当時書いたブログを読むと、私も再体験しているようにまざまざと思い出しますが
やはり書いておいて良かったとつくづく思います。
是非いつか華さんのブログを読ませてくださいね!
emuさん
うわ~!お母様、おうちでオリンピック観戦されてるんですね?
本当に良かった!
母もフィギュアは大好きだったのでさぞかし観たかったと思うと
emuさんのお母様が観られていることがとてもうれしいです。
病気の悪くなり方は個人差があると思います。
母と違ってemuさんのお母様はまだまだずっとお元気で穏かな日々を長く過ごせるよう
信じて祈っています。
私の父は8月中旬に肺がんと宣告されました。
ガンは膵臓、肝臓、リンパ節にも転移がありました。
9月に1回目の抗がん剤治療を受けました。
効果は見られましたが、副作用も酷く、抗がん剤治療は終わりにし、緩和ケアを進めていくことになりました。
そんな中、うつ病を患っていた母が父の心配、今後の不安等で自ら命を絶ってしまいました。
兄夫婦の協力もなかなか獲られないまま看病生活が続いています。
10月の中旬より1ヶ月退院できましたが、肝臓の腫瘍が破れてしまいまた入院生活に戻ってしまいました。
先日主治医より新年を迎えるのは厳しいと話がありました。
ステロイドを使ってみましょうと。
状態が落ち着いたら家に帰してあげたい気持ちと、子どもを抱えながら一人で看病しなければいけない不安とで頭がぐちゃぐちゃです。。。
平日は病院に居てもらって週末に外泊する方法がいいのかと思っています。
とにかく残された時間を大事にしなければと思っています。
りりぃさんのブログを読んでドキッとしたり勇気をもらったり。。。
りりぃさんのブログに出会えて良かったなと思っています。
ありがとうございました。
寒い日が続きます。
りりぃさんもお体大事にお過ごしください。
ただでさえお父様のご病気が深刻なうえ、お母様のことが重なり お兄様の協力もあまり得られないとのこと、ちぃさんはお独りでどんなにお辛いかと思います。
お気づきとは思いますが私の母がすい臓がんで亡くなったのは8年前のことで、その間には治療方法もだいぶ変わったのではないでしょうか。
そんな過去のブログ(しかも中途半端にやめてしまった)でも誰かのお役に立つことがあればと思い、削除せず残しています。
ちぃさんの「出会えて良かった」というお言葉はとても嬉しく思いました。
厳しい状況の中頑張っていらっしゃるちぃさんに心の中でエールを送ります。そしてお父様が穏やかな日々を送れるようお祈りします。
なにかお聞きになりたいことがあればできるだけ思い出しますので(汗)またお声をかけてくださいね。
どうぞご自分のお体も大切に。ちぃさんがまず健康でいることが基本ですから。
りりぃ