母の膵臓癌日記

膵臓癌を宣告された母の毎日を綴る

リベンジ!河口湖一泊旅行

2009年10月30日 23時09分58秒 | 日記
10月28日~10月29日
前回は今月の3日~4日に行った河口湖一泊旅行
まだ一ヶ月もたたないうちにまた同じ場所、同じ旅館に来るとは思ってもみませんでした。
何故リベンジかというと前回、この旅館に泊まる醍醐味というべく窓からの富士山が
曇りでほとんど見えなかったからです。

母は「冬の、空気が澄んでいるときにもう一度来たい」と言い「お正月はどうか」と言っていました。
けれどもお正月に母が旅行できるほど元気を保っていられるかはわかりません。
それどころか悲しいことに実際にはこの世にいるかどうかもわからないのです。
兄も弟も仕事が多忙で前回のように旅行のためにゆっくり時間をとることはできないのですが
母が動けるうちはなるべく思い出をいっぱい残したいという子供たち3人のの気持ちで今回のリベンジとなりました。

だから今回は両親と私たち兄弟3人の計5人で一部屋になりました。
両親と私は、仕事をしてから来る兄と弟より早く2時ごろに旅館に到着、部屋に入るなり「わぁー!」と感嘆の声を上げました。



横に並んだ洋室と和室の湖側が全面ガラス張りで湖の全景がほぼ一望できるのです。
前回の部屋も良かったのですが今回のようなパノラマビューはありませんでした。
窓の外のベランダはデッキ状になっていて、手すりも視界をさえぎらないガラス。
部屋つき露天風呂がデッキの端にあって絶えずお湯が循環しています。
しかし残念なことに、朝は晴れていたというのにだんだん雲が出てきたそうで 
私達がついた頃には富士山はすべて雲の向こうに隠れていました。

仲居さんの入れてくれたお茶を飲んで少し休んでから大浴場へ。
湖側を見渡せるお風呂にゆっくり浸かっているうちに少しずつ目の前の雲が移動し
富士山の輪郭の一部が顔を出すようになりました。
お風呂の帰りに無料のマッサージ椅子で体をほぐそうと決めていましたが、
6台ある椅子(すべて湖側の窓に向いている)の5台が使用中。
空いている椅子に母を座らせ私は隣のラウンジでセルフサービスのコーヒーを入れて、
これまた窓に向いたソファーで優雅にお茶して待とうと思ったら
「Sちゃ~ん!」とラウンジの入り口で母が呼びます。
マッサージ椅子が空いたと呼んでいるらしいのはわかるのですが、何人かラウンジにいた他の客の目線が
いっせいに母と私の間を行ったり来たりするので恥ずかしくて、入れたばかりのコーヒーを持って急いでその場を去りました。
「大きい声が出るのね。病人と思えないわ。」
「だって早くしなきゃ他の人に取られちゃうでしょ。」と母は屈託なく笑います。
思春期の頃、外出先でも遠くから大きな声で私の名を呼ぶのが恥ずかしくて
母によく文句を言っていたことを懐かしく思い出しました。

マッサージをしている頃から富士山は全貌を現し始め
「ずいぶんゆっくりしてるな。もうT也(弟)が着いたぞ。」と父が呼びに来て部屋に戻ると眼前に雄大な富士山の全景。



くっきりはっきりのコントラストではありませんが迫力は充分で、ベランダに出てしばし富士山の優美な姿を堪能しました。
リベンジ達成。
兄もちょうどこの頃旅館に到着し念願の富士山との顔合わせを、企画者としてとても喜んでいました。



昔から富士山は霊山として信仰の対象にもなり、いまでもパワースポットとして元気になるために訪れる人も多いといいます。
母に少しでも長く元気に過ごせるパワーを分けてくださいと心の中で祈りました。



食事は兄が前もって母には流動食に近いごく柔らかい料理を、
父には量を控えめにそのぶん素材をグレードアップして、と注文してあり
固形物は飲み込めない母も美味しいと喜んで、出された料理をほとんど平らげました。
仲居さんの話によると「今日はいいお魚が入って板前さんが張り切って母のために細かくたたいてくれた」というお造りは
お刺身の好きな母にとって特に久しぶりのご馳走でした。



上は父のお造りです。水風船を使って作ったという氷の器が目に楽しいです。

翌日29日は早朝から窓の外はガスで真っ白、視界ゼロでした。
朝方は空気が澄んで富士山が綺麗に見えるのではと期待していたのですがこれにはがっかりです。
しかし母は視界ゼロなのをいいことにベランダの露天風呂をゆっくり楽しむことができました。
(カーテンを閉めてしまえば部屋からもベランダは見えません。)
母が露天風呂から上がった後徐々に靄が薄くなってきて富士山もうっすらシルエットを見せ始めました。
湖面も鏡のように山や木々や雲を映し出しています。



これはこれで幻想的な風景で、私はベランダで足湯をしながら静かな朝のひとときを楽しみました。

母も父も大満足のリベンジ・河口湖で良い思い出がひとつ増えました。企画してくれた兄に感謝です。
「次はお正月にね。」と母はニコニコして言いました。

行こうね。絶対に。


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在宅ケアとK療法

2009年10月29日 16時42分26秒 | 日記
10月25日(日)
今日から痛み対策のためオキシコンチンの量を増やし、
痛くなりそうな前兆-お腹の表面が突っ張る感じ-があったら早めにオキノームを飲んで徹底的に予防することにする。

水分の点滴をするために以前近くのT医院に行ったが、個人医院の簡易ベッドでは寝た状態で点滴を受けるのが母にとって辛く
ベッドに腰掛けた状態で受ける2時間半もしんどかった。
なので訪問看護として点滴を受けるように一昨日M先生がT医院あてに手紙を書いてくれた。
しかし、問い合わせたところT医院では先生が忙しいので訪問看護は行っていないということで
慌てて他の施設をさがすことになった。
幸運なことに歩いて10分ほどの所にごく最近24時間365日対応の在宅ケアクリニックができていて、
昨日そこに弟が打診し明日私が相談日の予約を電話で入れることになった。
そちらに繋がりをつけておけば母の病状が急変したとしても、たぶんすぐに家に来てもらえるので安心だ。

夜7時半ごろ兄が来、1時間後くらいに弟が来た。
母はそれに備えて昼間は安定剤と睡眠薬を同時に飲んで眠っていたので
夕方起きてきたときにはスッキリして顔色も良かった。
躁状態はまだ続いていて兄や弟にもお葬式やお墓の話をまくしたて、9時頃になると自分の部屋へ戻って寝る。
母が部屋へ戻ると父は母のことを「なんだか高揚してるな…」と言い弟もそうだね、高揚してるねとうなずく。
逆に父は元気なく、食欲がないと言って夕食もほとんどとらなかった。

10月26日(月)
台風が通過し1日雨と風が強かったが、母はとても穏やかに過ごせていた。
鎮痛剤のコントロールがいまくいき、痛みがなく、かといってそれほど眠気もひどくないようだ。
「いい方向に向いているような気がする。」と言ってニコニコしている。
食事も以前よりは食べられるようになった。夕飯で柔らかめのご飯をお茶碗に半分食べたと言って嬉しそうに報告する。
父は今日も食欲がない。母を失うことへの恐怖で精神的にまいってきているのだ。

10月27日(火)
今朝は電話があったりして忙しく、階下に顔を出さなかったらインターホンで
「どうして今朝は来ないの?」とちょっと叱るような口調で呼び出される。
伯母が今日、都内にあるK療法の本部に行って母の癌のことを話し、
対応する治療の仕方を教わってからうちに来て伝授してくれるという。
たぶん伯母が来るのは午後になるので茶菓を買ってきてくれないか。

先に家事を終わらせてから買い物に行こうと思い2階へ行こうとすると伯母から電話が入る。
最寄のJRの駅まで来ているとのことで、急いで母と2人で駅まで車を走らせ伯母と落ち合うと
3人でデパートの地下に行き昼食用の寿司と、お茶菓子におはぎを買って帰る。
伯母は電話で話を聞いて、かなり衰弱した母を想像していたらしい。
そんな母が迎えに来て一緒に買い物をすることなど思いもよらなかったのだろう。
「お義姉さん、元気そうで良かった。」と何度も言う。

家に帰ると正午近くなっていたが、父が補聴器の調整で外出しているためお茶を飲みながら父の帰りを待つことにした。
デパ地下で買った、1個が女性の握りこぶしほどもあるおはぎは甘党の伯母のためだ。
母は抗がん剤を始めたときから甘いものを受け付けなくなったので
私が菓子皿に取り分けるときも当然のように「私はいらないから2人で食べて」と言っていた。
しかし、伯母と私が美味しそうに食べているのを見て私に味見させてと言うので
半分に切って片割れを母に差し出す。
母は「そんなにいらないのよ、ほんのちょっと味見したいだけ」と言うが
3人であれこれ喋っているうちに切り分けた分を全部食べてしまった。
「全部食べられたわ。味がわかるようになって美味しく感じられたの。」
と、嬉しそうに言う。

今まで甘いもの以外でも美味いと感じて食べることはなく、生きるために必死で飲み込んでいたのだ。
ここにきておはぎのような甘味を楽しむことができるとは。
抗がん剤のダメージが徐々に抜けて味覚が戻ってきたのか。それとも弟が薦めたステロイド剤の効果なのか。
いずれにしろ母は生気を取り戻つつあるようで、私もそんな母を見ていると余命1ヶ月と言われたことなど忘れてしまいそうだ。

父が帰って来てからみんなで母の寝室に行き、伯母がK療法のやり方を母に教えるのを父と私もそばで見る。
K療法は見たところ機械で炭のような棒を燃焼させその光を集めて直接患部に照射するような民間療法で
一昨年亡くなった伯父もこれのおかげで多発性骨髄腫をもちながら長生きできたし、
自分も骨髄に良性腫瘍がありこれで大きくなるのを防いでいると伯母は言う。
しかしどのような原理なのかと私が訊くと伯母もあやふやではっきりした答えは返ってこない。
生前の伯父を見舞ったとき、弟がこの療法について伯父にいいと思うかと訊かれ
「科学的根拠はないけど、いいと信じることは精神的に良い効果がある」という意味のことを答え、伯父をがっかりさせたものだが
医者に見離されたと感じている今の母にとっては「藁をもすがる思い」で、真剣に伯母からやり方を教わっている。

2時ごろに家へ帰る伯母を私が駅まで送る。
車の中で伯母が「お母さんはあとどのくらいとか医者に言われているの?」と訊く。
「本人には知らせていないけれどこの11月かもしれないって…」
「まあ、そんな…」と伯母は言うがある程度予想していたのだろう。それほど驚いている様子でもない。
「お父さんはひとり残されたら大変だと思うわ。」
「私も心配してるんです。なにしろ今まで母に頼りきっていたから」
「そうよね。うちと正反対なのよ。うちのお父さんはなんでも自分からやってくれる人だったから私はついていけば良かったの。
でもSちゃんのお父さんは何でもお母さん任せだったものね。」

今日昼食のお寿司をみんなで食べたあと、母がトイレで席をはずしている間に父は伯母に
母がお茶碗に半分ご飯を食べると「ほら、こんなに食べられた」と言って
空になったお茶碗を嬉しそうに父に見せるのだと話し、ぽろぽろ涙を流した。
自分の実母や実弟の葬式でも涙を流さなかった父が人前で泣いているのを見て
かなり弱っていると伯母は感じたに違いない。
「Sちゃん、大変だと思うけどお母さんとお父さんをしっかりみてあげてね。」
と伯母は別れ際に言い、車を降りて駅へ向かった。

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父の涙と母の躁状態

2009年10月27日 17時26分02秒 | 日記
10月24日(土)
朝階下に様子を見に行くと母が奥の部屋の押入れからダンボール箱を抱えてくる。
「海外旅行の写真がこんなにたまっちゃって…パパと一緒に見て思い出しながら整理しようと思って。」
ダンボールの中には「カナダ」「ドイツ」などマジックで書かれた紙袋がいくつか入っている。
父はあまり気乗りしなさそうに母が袋から写真を出すのを眺めている。
母が手にした写真をちらりと見ると両親がユングフラウをバックに並んで満面の笑みを浮かべている。
私は思わず目頭が熱くなって、洗濯物が途中だと言って2階に戻る。
あんな膨大な楽しい思い出を前に、父が気乗りしないのもわかる。涙が止まらなくなってしまいそうだから。

2階に戻って少したつとインターホンが鳴り、母が痛がっていると言って父に呼ばれる。
階下に行くと母が目をつぶってお腹を抑えている。昨日と同じようにかなり強い痛みがきはじめているようだ。
すでにオキノーム(鎮痛剤)は飲んだと言うので母の背中をさする。
両手で強めに上から下へとさすり、しばらくすると
「ありがとう。少し良くなってきたから。」と言い、もうさすらなくていいと言うが
さする手を休めるとお腹が痛くなってくるらしいのでまたさする。これを何回か繰り返すが一向にオキノームが効いてこない。
「こんなことが続くんじゃたまらないわ。T也に麻酔で眠らせてそのまま逝かせてもらえないかしら。」
「なに言ってるの!オキコンチンの量を減らしたからもたないだけよ。明日からもとの量に戻そう。」
オキシコンチン(モルヒネ)は眠気が強く出て頭がぼーっとすると言って、少し前に飲む量を減らしていたのだ。

電話がかかっている呼ばれ私が2階へ行く間は父が代わって背中をさすり、5分ほどして私がまた代わる。
通常30分で効いてくるといわれているオキノームが1時間経っても効かないのでもう一包飲み、
やっと痛みが治まってきたのは痛み出してから2時間後だった。痛みが治まると母は休みたいと言い安定剤を飲んで寝る。
「大変だったな。」と父がため息をつく。
「S子が2階に行ってる間さすってただけで肩がパンパンに張っちゃったよ。
本人も周りも地獄だな。」
父は2年前に腕の神経を痛めて一時両腕がまったく動かなかった。その後腕や手の力が極端に弱くなったので
力を入れてさするのは難儀だったのだろう。

夜、階下へ行くと母がちょっとそこに座ってと言う。
「今お葬式の話をしていたのよ。」
母は自分の望むお葬式やお墓の話をする。

私は賑やかなのが好きだからお葬式は盛大にしてね。
通夜振る舞いの料理は足りないとみみっちいから余るくらいにしてね。
お花が好きだからいっぱい飾ってほしい。写真は笑ってるのがいいわ。ううん、美人に写ってなくていいの。
私はいつもニコニコ笑ってるのがいいって言われるから笑ってる写真にしてね。
お墓はみんなが来てくれるように近くがいいわ。今ある田舎のお墓は遠くて、お墓参りが大変でしょう?そうするとだんだん誰も来なくなっちゃうのよ。
だからあそこは引き上げてこっちのお墓を買うわ。近くてこぎれいな墓地にしてね。
そうだ、今度一緒に見に行こうか…

母の話はどんどん膨らんでとどまるところを知らない。
私は自分の死んだ後のことはどうでもいい。残った人たちの好きなようにしてくれと思う方だが、
仕切り屋の母は死後のことまで自分で仕切りたいのかと可笑しくなる。
「わかった。全部ママさんの言うようにするからね。」

父は聞いていて耐えられなくなったらしく、急に立って洗面所へ走り目を赤くして戻る。
「どうしたの?」母はぽかんとしている。父の気持ちにまるで気づいていない。
「嫌な話ばかりで聞いてられなくなっちゃったんだ。」と父が言うと
「ごめんね。嫌な話しちゃって。」と母は言うがその口調にはあまり心がこもっていないように聞こえて、あれっと思う。
癌が発覚してすぐの頃母は一時的に躁状態になったが、今の母はその時と似ている。
明るくなってよく喋るのだが聞く側の気持ちをまるで気にせずまくしたてる。
しかしこれも精神不安定のひとつだ。注意したり責めてはいけないのだと思い、延々続く母の話に耳を傾ける。

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抗がん剤中止、緩和ケアへの移行

2009年10月26日 13時20分39秒 | 日記

10月23日(金) 
一週間前の診察では抗がん剤をお休みして「体力が復活したらまた続ける。」という母の意向だったが
抗がん剤後の2週目も食欲、体力とも戻ることはなく今日の診察日を迎えた。
腹部CTを撮って癌の状態を調べることになっているので母は朝食抜きで車に乗り病院までの道のりの途中でお腹が空いて気持ちが悪いと言う。

病院に着き待合室に入ると病院で知り合った60代の眼鏡の女性や、同じすい臓がんでも元気だ、と母がいつもうらやましがるおじさんが来ていた。
眼鏡の女性は待合室に置いてある血圧計で血圧を測り
「いやだわ。179もある!これじゃ今日抗がん剤ができなくなる。」と何度も測り直していた。
彼女は母がトイレに行っている間に私に話しかける。
「お母さん、見違えちゃって挨拶されるまでわからなかったのよ。だって、すごく綺麗にしてらっしゃったのに…」
そうだ。母がこの女性と初めて会ったときは2回目に抗がん剤を受けた日だ。
「今後治療が始まったらあまり行けなくなるかも知れない」といって1回目の直前に美容院に行った。
看護士さんにも「77歳には見えませんよ。60代かと思いました。」と言われたように抗がん剤治療を受ける前は若々しい母だった。
1回目の抗がん剤は副作用が軽かったので最初にこの女性が見た母はまだ容貌に変化がなかったのかもしれない。

この日が9月18日。たった1ヶ月と5日で母は別人のように老け込んでしまった。
頬がこけて皺が深くなり目がしょぼしょぼして力がない。
口は母曰く「締りが悪く」なり、話すテンポも遅い。久しぶりに見た人にとっては衝撃を受けるくらいの変わりようなのだろう。
もうひとりのおじさんの方も、私には母が言うほど元気そうに見えない。顔色も悪く痩せている。
母が話しかけて体調を訊くと「食べられるが食欲は全然ない」とか「すぐに疲れてしまう」と言っているのが聞こえてくる。
しかし会話している相手の声が小さかったり早かったりすると補聴器を着けていても母には聞き取れない。
聞き直すのが相手に失礼と思うときの母の癖で、聞こえているふりをして微笑みながらうなずいている。

母は「いつもニコニコしている」とか「Iさん(母)の笑顔に癒されるのよ」と友達から言われるというのが自慢だった。
病気前のふっくらしていた母の笑顔は確かに癒し系だったのかもしれないが今の母の愛想笑いはむしろ怖い顔になってしまう。
しかも笑うような話ではないのに聞こえないのをごまかして微笑を作ろうとするので余計に不気味に思われるのではないかとハラハラしてしまう。

診察室に呼ばれ担当の女医、M先生にどうですかと訊かれると、相変わらず食べられないですと答え、
今朝弟からパソコンにメールで送られプリントアウトしたM先生への手紙を手渡す。
手紙には母の1週間の様子、薬の効果などについて詳細に書かれている。その他にまた母の質問を箇条書きにびっしり書いたメモを先生のデスクに置く。
先生は忙しそうに弟の手紙を読み母のメモはちらりと見て
「『抗がん剤を止めたら、抗がん剤を始める前の体調に戻れるか』とありますが、
今の『食べられない』という症状は抗がん剤の副作用にしては長すぎるのでこれは薬ではなく癌本体の症状が強く出てきたのではないか、という気がします。
まずCTを撮って癌の今の状態を見てから、また今後のことを考えましょう。」と言い、すぐにCT検査に回るように促される。

CT検査室は混んでいて終わると1時を回ってしまった。
精神腫瘍科が1時半からの予約になっていたがそちらも混んでいるので結局水分点滴を先に受けることになった。
いつも点滴をする部屋は満員に近い状態だがこちは今日は何故かガラガラに空いていた。
これまで他に点滴の電動椅子のそばに付き添っているひとは見かけないので、点滴が始まると私はカフェに行って終わるまで待っていた。
しかし今日は私に椅子を持って来ようとした看護士さんに「始まったら他へ行きますから」と断ると
看護士さんは「でも、先生からお話があるかも知れないので…」とちょっと困ったような顔をする。
この看護士さんはM先生から母の話を聞いてやるようにと言われたらしく先週から点滴の際に担当として何かと声かけをしてくれている。
あっ、それならここにいます、と私は椅子に座って持ってきた文庫本を開く。

母は最初はテレビを見ていたが、お腹が痛いと言いだす。
痛いときに飲む鎮痛剤のオキノームを飲むが、すぐに効くわけでもないので痛みは徐々に増し目をぎゅっとつむってこらえている。
正座したほうが楽と言い、電動椅子の上に正座してお腹を自分でさする。
私は腰を両手でさする。オキオームが効いてくるといわれる30分以上たっても効いてくる気配がなくずっとさすり続ける。

看護士さんがベッドの方に移動させてくれてベッドに横になろうとするが、寝ると余計に痛くなると言ってまたベッドの上に正座する。
オキノームをもう1包飲み、私はまた腰をさする。
点滴を始めて2時間近くたった頃やっと痛みが治まりはじめ、ちょうどその頃さきほどの看護士さんが来て
「先生がご家族の方と先に話がしたいとおっしゃってるので診察室に行ってください。お母さんは私がみてますから。」と言う。

診察室に入ると先生はCTの映像を前回、今回とパソコンの画面に並べてみせる。
「右が前回、左が今回の映像です。」
私は大きく息を吸い込む。そのあとの言葉が出てこない。
写真は素人でも明らかにわかるほど癌の進行を映し出していた。
肝臓に水玉模様のように点々とあった腫瘍のひとつひとつの大きさが3倍以上になっていて水玉ではなくまだら模様のようになっている。
「すい臓はこちらなんですけど」先生は映像の場所を移動させる。
「これも大きくなっています。」確かにそれも前回の3分の4倍くらいに増長しているのがわかる。
「これは抗がん剤が効かなかった、ということです。
これ以上効かない治療をしてもデメリットしかありませんのでこれからは緩和ケアでなるべく痛みを取り除く治療に移りたいと思います。」
「わかりました。よろしくお願いします。」と言うのがやっとで、覚悟していたこととはいえ動揺がおさまらない。

ちょうどその時、その日は別の病院に出張していた弟が戻り診察室に顔を出した。
先生は弟に同じ写真を見せPDですね、と言う。
弟はあー、間違いなくPDですと言い、私はその専門用語は何のことだろうとぼんやり考える。
「これだと年内だな…」と弟が言うと先生は「年内というより11月もどうかな、という感じですね。」とすらっと答え、私はまた激しく動揺する。

11月内!?あと1ヶ月しかない?そんなばかな。
母は寝たきりでもないし、家では家事もしてそれなりに生活できているのに?
余命1ヶ月の癌患者と聞くと私が想像するイメージはベッドで動けず何本ものチューブにつながれて息も絶え絶えの人だ。
今の母が1ヵ月後にいなくなるなんてどうしても信じられない。

「この結果ををお母さんに告げますか?お母さんはしっかりした方だから知りたいんじゃないかと思うんですけど。」
先生が私の顔を見て訊くが私は自分の動揺もあり、こんな残酷な検査結果を本人に知らせるべきかどうか即答できず弟の顔を見る。
弟はうーん、と少し考え
「本人に知りたいかどうか訊いてみてください。本人はたぶん知りたいと言うと思うのでそうしたら話していいと思います。」
「写真を見せて説明してもいいですかねえ。」
「それも本人に訊いて下さい。きっと見たいと言うと思います。」
「わかりました。ではお母さんの点滴が終わり次第お話ししましょう。」

 弟は「僕が一緒にいると先生はやりにくいと思うから」と自分の仕事場に戻る。
ベッドに戻ると点滴が終わり、母はベッドを直しているところだった。
「あら、どこへ行ってたの?」母は痛みがすっかり治まって少し元気を取り戻している。
私はうん、ちょっと…と言葉を濁して母を診察室に向かうように促す。
母が診察室に入り、椅子に座ると先生は言う。
「CT検査の結果ですが…良くないことでも聞きたいですか?」
母ははっ、としたように一瞬息を止めるが聞きたいですと答える。
先生は私たちに説明したのと同じようにCT写真を見せながら癌の進行と抗がん剤の中止を母に告げる。
母の表情は固まり、目はうつろに画面を見る。
「このことに対していま、どう感じられますか?」先生が問うと母は
「なんだか…がっかり…っていう感じ…なんですけど…」母の声は上ずりゆっくり途切れ途切れになっている。
「そう、ごめんね、辛いことを知らせて。でも自分の体のことをまず知っておかないとそこから先に進めないのよ。」先生が言うと
「ええ、そうです。もちろんです。」と母は微笑を浮かべる。

母は気を取り直したように先生に尋ねる。
「K療法、というのがあって義弟が骨髄腫だったのがその治療で9年生きたので義妹からそれを薦められているのですけどやってもいいですか?」
K療法というのはいわゆる民間療法で、光線を患部に当てると免疫力が上がり癌なら縮小するということらしい。
父の弟は多発性骨髄腫の患者にしては異例の余命を得られたのをその民間治療のおかげと信じ親戚や友達にも薦めていた。
腰痛や胃弱、何にでも効くということで伯父の死後いくつもあったその光線を出す機械のひとつをうちに分けてくれた。
「抗がん剤治療をやっているときはそれはできませんが、中止したのでもうなんでも試してみていいですよ。」と先生は言う。
次回は1週間後でも2週間後でもいいですがどうしますか、と先生に訊かれ
一週間後がいいです、先生の顔も見たいからと言う母はいつもの笑顔-愛想笑いではない-に戻っていた。

薬局を出て自宅へ向かう頃にはもう日はすっかり暮れていた。
初めてこの病院に来て教授から「手術はできない」と言い渡されたときの帰り道は
母は険しい表情をして無言で何かを思いつめ、話しかけても上の空だった。
けれど今日はむしろ吹っ切れたように病気以外のことをよく喋り、病気のことに関しても普通の調子で話す。
「もう辛いことや嫌なことはしなくていいのよね。」
「そうよ。これからは楽なことや楽しいことだけしてればいいのよ。」
そうよね、と言う母はおだやかな声だ。
車の中では二人とも前を向いていて車内は暗い。母に涙を見られないですむと思うと涙が止まらなくなる。                              



いつも拙ブログにご訪問くださる皆様、ありがとうございます。
このように個人的であまり明るい内容ではないブログに連日500人を超える方が見に来てくださり嬉しく思うとともに
きっと癌と何らかの形で闘っている方が世の中にはとても多いのだと気づかされます。
母の癌はとうとう余命1ヶ月と医者に言われるまでにきてしまいました。
(本人には余命については明言していません)
でも、私にはどうしても信じられないし信じたくない。世の中には1ヶ月と言われて半年、1年、それ以上生きている人もいます。
母ができるだけ長く今の状態を維持して楽しい思い出をより多く作ってくれるよう祈らずにはいられません。
見に来てくださった皆様にはどうか、祈りの念を少しだけ母に分けていただけたらとてもありがたいです。

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つかの間の元気

2009年10月24日 23時41分11秒 | 日記
10月22日(木)
午前中両親は二人で近くの医院にインフルエンザの接種に行き、帰って昼食をとってから母は自分の部屋で休む。
母が寝て父と私が居間で二人になったときに
「年内かもしれないっていうのは知っていたのか?」と父が私に訊く。
昨日弟が父に知らせた母の余命のことだ。私が黙ってうなずくと
「N也(兄)も?…そうか、知らなかったのは俺だけか。」と言い
「それでN也が旅行、旅行ってあせってたんだな。何をそんなに急いでいるんだと思ってたんだよ。」
10月の初めに兄が計画して家族で河口湖に一泊旅行をした。両親は母の病状がもう少し落ち着いてから、と希望したのだが
早く行かないと行けなくなると弟が兄に言い半ば無理やり連れて行ったのだ。
「先に逝かれるとは思わなかったな。俺のほうが先に逝きたいよ。」
「そんなこと…パパさんはどこも悪いところがないんだから、ママさんの分も元気で長生きしないと。」
父は何も答えずじっと何かを考えている。

最初に母の癌の深刻さを知ったとき、これを父に知らせるべきかどうか迷った。
いまどきインターネットで調べれば病気の詳しい情報が簡単に手に入るので、パソコンを使う人には余命も知れてしまうが
両親はもちろんパソコンなどいじったこともなく膵臓癌の予後の悪さはわかっていなかった。
母に身の回りの世話を頼りきっている父に母の余命を知らせたときのショックの強さを思うと、いきなりはどうかと思う。
「父のほうから訊いてきたら話そう。」と弟が言い、私も賛成した。
父が昨日弟に問う気になったのは、母の衰弱ぶりが目に余り、さすがに良くないほうに向かっていると感じたからだろう。
それでも「あと何年」と、年単位で尋ねたらしい。
しかし多少の覚悟はできていたからか、思ったより表面的には冷静に受け止めているように見えて安心した。

夕食には母の好きな鰤のあらと大根の煮物、わかめときゅうりの酢の物を作り階下に持っていく。
その後弟から電話があり、母がまだ日常生活ができるうちにもう一度親子で旅行をするという計画を相談する。

旅行の話をするために階下に下りると母は
「今日のおかずは私の大好きなものばかりだったのに食べられないの」と母が言う。
「もう固形物は飲み込めないのよ。お粥みたいに柔らかい物しかのどを通らないの。せっかく作ってくれたのにごめんね。」
好きなものならなんとか食べられるのでは、と願って鰤大根は圧力鍋でごく柔らかく煮たのだがそれもだめだった。
お粥、豆腐、ヨーグルト、アイスクリームのように離乳食のようなものしか食べられないのだ。

母に旅行の話を持ちかけてみると
「今はものが食べられないからとても旅行に行く気になれない。行っても楽しめないと思う。」と言う。
「そりゃ食べられないのは辛いと思うけど、食事の時間以外は痛みがあるわけじゃないんだから楽しいことをかんがえようよ。
悪いことばかり考えてるとそれがストレスになって免疫が落ちちゃうのよ。」
「それはそうねえ…。」母は素直にうなずく。
「じゃ、大正琴でもやろうかしら。ちょっと出してみる?」
えっいま?と私は思う。夜の8時を過ぎている。しかしせっかく母が何かをやる気になっているのでうん、やってみてと同意する。
「でもね、だいぶ忘れちゃってるのよ。指も動かないし。」
などと言いながら母はいそいそと大正琴を食卓のテーブルに置き、奏で始める。

何曲かをつっかえたり途中テンポが遅くなったりしながら弾く表情は久しぶりに見る生き生きした笑顔で
私も合わせて歌ったり、そこはこうじゃないの?と口をはさんだりしていっとき母が病気であることを忘れる。
ちょっと弾いてごらん。えー指がわからないよ。大丈夫よ私も間違えてるから。
私が代わって大正琴をいじると、弦のはじき方や楽譜の見方をそばで教える。

また母にもどって一曲弾き終えると、われに返ったように
「ちょっと疲れちゃったみたい。」と言う。
「いっぱい弾いたからね。そろそろ寝ようね。」と私が言うとうなずいて寝室へ向かう。
しかし思いがけなく見られた「病気でない母」が嬉しくて、私はしばらく大正琴の前に座って母の表情を思い出していた。